天皇機関説事件

天皇          「自分の位は別なりとするも、肉体的には武官長等と何等変る所なき筈なり」

      本庄繁武官長「軍に於ては天皇は現人神と信仰しあり、之を機関説により人間並に扱ふが如きは、軍隊教育上及び統帥上困難なり」(『本庄日記』pp.203-4

 

天皇機関説問題とは、天皇を法治国家における一機関としてとらえる国法学説と、天皇を神として崇拝する明治国家の国家宗教(「國體」)の衝突をめぐる思想的・政治的問題群で、天皇機関説事件とは、1935年、「天皇は国家の機関である」とする美濃部達吉の学説が國體に反するとして禁止された事件である。これによって、「少数者には理性、多数者には魔術」(ヤーコプ・ブルクハルト)という「顕教」と「密教」の棲み分けが崩れ、治安維持法において共産主義を抑圧の対象とした國體の観念は、学問・思想一般の自由抑圧者の地位を確立し、知的雰囲気が激変した。

 

國體とは何か

國體という言葉は江戸時代の水戸学に起源があり、中国文化に従属しない日本の尊厳性を示す標語として用いられ、幕末には西洋への開国を拒否する攘夷の標語となった。孝明天皇が攘夷論者であることが明らかになると、國體は「尊王攘夷」を意味するようになり、やがて平田篤胤の系統の国学者たちも國體概念を用いるようになって、この概念に宗教的色彩が加わった。明治新政府は攘夷主義を放棄したから、國體の語は主として尊皇思想と関連して用いられることになる(儒者たちは「王者」と「覇者」を区別する孟子的思想の下で、天皇を王者、幕府を覇者と性格づけたから、「尊王論」という言葉を使ったが、幕末以後「尊皇論」という言葉も用いられ、昭和期には後者の方が一般化した)。

1868年から1945年に至る「明治国家」においては、國體概念は西洋的概念の影響も受けて複合化し、次の三つの意味をもつに至る。

(1)  国民の服従倫理。『教育勅語』は、忠孝を基軸とし、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉」ずるという倫理を「國體ノ精華」とよんでいる。多くの戦死者を出した日露戦争以後は、国家の危急において国のために死ぬという「死の思想」が國體の本質的要素として強調され、天皇や国家のために生命を投げ出した楠正成から乃木希典に至る國體の聖者たちが、国民の理想像として教育上強調される。西洋から導入された法秩序が保障する自由や権利は、この國體の前には無と化する。

(2)  天皇及び日本国家を神とする国家宗教。天皇が実権をもたなかった幕末には、「尊皇」という国民の側の態度が強調されたが、「王政復古」の明治以後は、天皇の権力に重点が移る。憲法4条の、天皇は「此ノ憲法ノ条規ニ依リテ」統治権を行なうという規定にも拘らず、國體概念には超憲法性という性格がつきまとう。天皇機関説事件進行中の19358月、永田鉄山陸軍軍務局長を惨殺した相沢三郎も、超法的正当性の故に処罰されないと考えており、「國體護持の行為は一切の法律に超越する」とする議論が主張された(松本清張『昭和史発掘』(八)p.71)。

(3)  國體概念はまた、西洋国家論のform of stateStaatsformの訳語として用いられた。19世紀末から20世紀初頭のドイツ国法学においては、「国家は法人で、法人の意思や行為は人間である機関を通じて発現する。機関は法の定める権限の範囲でのみ国家行為を行ない得るもので、全能の統治者という意味での主権者は近代国家には存在し得ない。君主もまたそのような機関である」というのが最有力説であった。

  (2)(3)の結合を試みたのが、東大最初の憲法教授穂積八束(1860-1912)ある。彼は国学者の祖父をもつ「尊皇家」で、ドイツ国法学の手法を参照しつつ、主権の所在を示す國體と主権発動の形式を示す政体を区別し、前者は絶対不変、後者は相対可変なものとした。

この説を批判したのが美濃部達吉(1873-1948)である。学生時代より憲法学研究を希望しながら、穂積の弟子になることを避けて内務省に就職、しかし向学の念已み難く、恩師一木喜徳郎(1867-1944)(内務省と兼任の国法学教授)の斡旋によって、法制史・国法学・行政法の担当者として東大に戻った。

彼は穂積学説に対して、統治権は法人としての国家にあり、天皇を含めてすべての国家機関は法の定める権限をもつのみであるとし、國體概念は非法学的・文化的概念であって、国家の分類としては国家機関の構成に関する政体の区分があるのみだとした。

美濃部は更に、「法人本質論」から導かれる以上の議論に加えて、二つの議論を唱えた。その一つは、権利は権利者の利益のためにあるという「権利利益説」から導かれる議論で、それによれば、天皇統治権者説によれば、天皇が統治権を私的利益のために行使することになる。国家主権説=天皇機関説こそ、天皇の公的性格を基礎づけ、「民の富めるは即ち朕の富めるなり」という天皇統治の伝統に適合するのだという。美濃部は、こう信ずるからこそ、自分の思想も忠君愛国で、「右」からの批判に充分答え得ると信じたのである(実際には「権利利益説」は、せいぜいドイツのそれほど有力でない一学説で、ケルゼンなどは理論的に問題にする価値もないものと見なしている)。

美濃部のもう一つの議論は、福澤諭吉「帝室論」に連なるいわゆる「天皇超政論」で、露骨にいえば「天皇ロボット論」である。即ち、憲法第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という「天皇無答責原則」は、天皇が自ら政治的決断をしないことの反面であり、法律の内容は議会が決定し、勅令その他の国家行為の内容は内閣の輔弼によるもので、天皇は自らの決断によって国家行為を左右しないからこそ、その責任を負わないという趣旨だと説いた。従って法律に対する批判は議会批判であり、勅令に対する批判は内閣批判であって、自由な討論の対象となる。この思想は立憲制下において当然のことのように見えて、明治国家体制の重大なタブーであった。何より藩閥政府そのものが天皇をロボットとして操縦していたからである。しかし国民教育においては、「神である天皇の命令であるからこそ、徴兵に応じて生命を捧げる、臣民である議員や閣僚の命令に過ぎないものの命令なら死ぬ気になれない」という民衆像が教え込まれており、美濃部の議論はそれを破壊する危険思想ということになる。

 

「顕教」と「密教」

1911年夏、美濃部は文部省に招かれ、中等学校教員のために憲法に関する連続講義を行なった。文部省といえば、その直前に穂積が、歴史教科書について南朝正統の歴史観(北朝天皇の「院」への格下げ)を、山縣有朋の権威を背景に強引に通した場である(長尾編『穂積八束集』pp.392-7)。この講演において美濃部は、穂積憲法学を「名を國體藉りてひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑へて其の絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想(ママ)の下にその実は専制政治を行はんとする」「変装的専制政治の主張」として正面から攻撃した。この講義は翌年春『憲法講話』の題の下で公刊された。穂積は激怒したが、健康を害していた最晩年の穂積に代って反撃を試みたのが講座承継者上杉慎吉(1878-1929)であった。こうして数か月にわたる論争が起る。

上杉は穂積の助言の下で、「天皇は統治権者でない」という美濃部の主張が國體に反するという点をもっぱら攻撃した。それに対し美濃部は、上述の議論で反論し、知識人世界の大勢は美濃部を支持したといわれる。京大教授市村光恵(1875-1928)はこの論争を論評し、國體という秋水(日本刀)をもって美濃部を脅迫する態度は反学問的であると批判した(星島『最近憲法論』p.102。時は第一次憲政擁護運動の時期、「大正デモクラシー」の発足期で、論争進行中に明治天皇が死去し、ほどなく桂太郎などの藩閥勢力が大正天皇を自らの権力意志の道具とする印象を与える事件が起ったことなどから、「天皇ロボット説」が裏づけられたようにも見えた。やがて美濃部憲法学は学界に君臨し、美濃部は1919年からは東大の憲法講義を担当、高等文官試験委員を含む多くの政府委員も務め、「大正デモクラシー」の憲法学上の代表者としてオピニオン・リーダーともなった。

しかし文部省は以後美濃部を遠ざけ、また陸海軍大学校などにおける軍隊教育からも美濃部憲法学は排除された。久野収はこの状態を「密教」と「顕教」の棲み分けと呼んでいる(『現代日本の思想』pp.130-2)。西洋文明の導入者としてのエリート層と、東洋的服従倫理に従って国家を底辺で支える民衆との二重構造である。この棲み分けが昭和初期に音を立てて崩れ、「顕教」の支配下で「密教」が沈黙を余儀なくされたのが1935年の「天皇機関説事件」であった。なぜこのようなことが起ったのか、それには様々な要因がある。一つには教育普及に伴う大衆社会現象であるが、もっと具体的な諸要因が考えられる。

第一次大戦は、日英同盟に従って英米側に参戦し、戦勝国として国際連盟理事国となり、戦後秩序の中の大国としての地位を築いたように見えた日本ではあるが、その地位を危うくする危機が進行している、と感じた人々があった。その予感が自己実現的予言として、実際その地位を破壊したのである。自己実現的予言とは、新婚後しばらくして「どうもこの結婚は失敗だったのではないか」と予感すると、その予感そのものが結婚を失敗に終わらせるとか、日銀総裁が「これから円は上がるだろう」と予測すると、その予測によって円が買われ、実際円が上昇するというような現象である。

第一次大戦中の1915年、上杉慎吉は「白人ヲ挙ケテ我ニ肉薄シ来ラントス」と予感し、相手の言いなりになっていれば細々と生きることができるかも知れないが、「忠実勇武」な日本人がそれを許さない、と述べた(『國體憲法及憲政』p.544)。北一輝は1919年、五・四運動渦中の上海で、日本人が「雲霞怒濤の如き排日の群衆に包囲されて」いるのを目撃しつつ、それに対応し得る「革命大帝国」を築こうとして『日本改造法案大綱』を著作した。欧米と中国ナショナリズムを敵としてやがて戦わねばならぬというこの予感が自己実現していく過程が昭和前期史だということができよう。

もう一つの重要な自己実現的予言は「総力戦」である。第一次大戦は過去の戦争とは桁違いの規模のものとなり、、国民の精神力・経済力の総力を動員して戦う戦争となった。「次の戦争も総力戦である」とは、日本のみならず諸大国が何れも予感したところで、各国はそれへの体制作りに励み、結果として更に大きな第二次大戦をもたらした。これらの予見・予感に基づいてそれに対応し得る国家革新・「昭和維新」を実現しようとするグループが、特に若手軍人層に広がった。彼らの唱える「国民精神総動員」という要請が、國體概念に新たな活力を与えた。総動員であるから、もはや知的エリート層もその圏外に置くことはできない、ということになる。

1931年満洲事変によって中国ナショナリズムと武力対決政策に踏み切り、それに対する国際世論の批判に対して国際連盟脱退(1932)をもって応じた日本は、イデオロギー上の敵であるロシアとの戦争も視野の内に入って来て、まさしく孤立して世界を相手に戦うという予感が自己実現に向って歩み始めた。精神界もまた国際的孤立に向い、君主機関説のような外来学説に対する嫌悪感が理屈抜きの説得力をもつに至った。国際孤立のもたらす危機感は、世界恐慌のもたらした経済的破局感と相まって、青年層の一部に終末論的切迫感を与え、翌1936226日の暴発に導いた。1935年の天皇機関説問題の展開は、爆発寸前の休火山上でのダンスであった。

もとより支配層の相当部分は、このような予感を危険視し、それを抑え込もうとしていた。天皇・重臣・財界主流・民政党主流、そして齊藤・岡田内閣の主要閣僚などは、国際協調外交、中国との話し合い路線を追求しており、「昭和維新」勢力をその妨害者と見た。この勢力は、天皇を攻撃することができないため、彼らを「君側の奸」として敵視し、暗殺の対象とした。1930年まではプロパガンダに刺激された青年層が主たる暗殺者供給群であったが、1931年からは正規軍に属する将校たちがその担い手となった。彼らは、首都にあって、警察力も及ばない物理力の保有者であるから、その物理力を行使し始めれば、当面手のつけようがなく、そのことが彼らに「革命」成功への期待を与えた。

 

言論テロル

天皇機関説に対する攻撃は言論テロリストによって点火された。かつて市村光恵が國體概念を秋水(日本刀)に喩えたが、まさしくこの秋水をもって学問で切り込む論客が登場した。

蓑田胸喜(1894-1946)は東京大学法学部で上杉慎吉に師事し、そこで美濃部など西洋的知識人が主流を占め、上杉などの國體論者が軽視されている状況に憤激し、やがて帝国大学教授たちの反國體性を糾弾する活動を始めた。彼によれば、帝大法・文学部は、「明治以来の拝外学風」の故に「民主」「共産」主義思想の場となり、「現日本国家社会生活の万悪の根源」である(『学術維新原理日本』1933年、p.706)。彼は帝大教授たちを糾弾するパンフレット的文書を内務省の検閲官たち、検察庁の思想担当者たち、それに政府・政党・軍の高官たちに配布し、その発禁・処罰を主張し続けた。徐々に同調者を見出し、1933年京大教授瀧川幸辰を罷免に追い込んだ。

蓑田によれば、王政復古の明治維新は、民主政の廃止であり否定である(『国家と大学』「序」四頁)。天皇以外の者は「民」であるから、幕府の支配も「民主政」なのであろう。「民政党」などという政党はもっての外の邪悪なもので、「大君をおしこめまつり国民(くにたみ)におごりたかぶる『民政』のやから」「赤化乱倫の跡たたむには『民政』の名を改めしむるぞもとゐなりける」と歌う(p.644)。

美濃部達吉に対しては、民意の推移によって成文法が改正手続きを経ずに変遷するという(イェリネックの「事実の規範力説」に由来する)議論を、天皇主権の帝国憲法がやがて実質上民主政に移るという思想であると見て、「思ふもおぞましく、また憤ろしい」「大権干犯憲法破壊」だという(pp.385-6)。また美濃部の、統帥権独立を制限的に解釈し、その廃止を展望し、軍部大臣文官制を唱える議論を、「軍人勅諭」を無視する「『乱臣賊子』的凶逆思想」であるとする(p.401)。また彼は治安維持法を批判する「赤化帝大諸教授」の一人であり、「不逞悪逆曲学阿世の徒」で、「処置」が必要である、と斎藤実首相に書簡を送っている(pp.355-370)。

彼は同郷熊本の菊池武夫貴族院議員(陸軍中将・男爵)にもこの趣旨を説得した。菊池は陸軍時代上原勇作元帥の薫陶を受けたが、その上原は美濃部の論敵上杉慎吉の政治的盟友で、その上原から天皇機関説が「危険な説」だという話を聞いており(宮沢、p.125)、その糾弾に立ち上ったのである。

 

1935

1935218日、菊池は貴族院本会議で、統治権の主体が天皇にないという美濃部の説を国体破壊であると非難、高等文官試験委員の更迭、更に帝国大学廃止まで要求した。何れも蓑田の議論の受け売りである。一週間後の225日、美濃部は弁明に立ち、天皇統治権者説は統治権を天皇の私物化する議論であり、国家主権説=天皇機関説こそ公的な天皇とおいう日本の伝統に適うものだという持論を展開したが、却って火に油を注ぐ結果となった。衆議院でも並行して、政友会を中心に機関説非難が推進された。この間「機関」という言葉が神聖冒涜であるという議論が重要な役割を果たした。井上清純貴族院議員はそれを「最大の不敬語」だと言い、答弁に立った大角岑生海軍大臣も「口にするだに恐に堪えない」と言った(宮澤、pp.13,293)

岡田啓介首相など政府は最初、個人としては機関説に賛成しないが、学者の議論に委せるべき問題だという線で収拾しようとした。しかし彼らも國體という国家宗教の正当性を基本的に受け容れており、答弁も逃げ腰の態度に終始した。従って非難者たちの、「機関」という言葉そのものが不敬で、天皇を会社社長並みに扱うものだ、美濃部の著書中の詔勅批判の肯定、統帥権独立への消極的態度などが非国家的であるなどの議論によって後退を余儀なくされ、結局機関説を政府として不適当とみなし、それへの適当な措置を考慮する、という答弁に追い込まれた。貴族院は3月20日、衆議院は23日に、「國體の本義を明徴にし」、それと相容れない言説に「断乎たる措置」を取るべき旨の決議を採択した。民政党も、消極的ではあるが、これに結局追随した。

325日に議会が閉会されると、政府は「措置」を取る必要に迫られる。内務省所管の出版禁止問題、司法省所管の告訴への対応、そして文部省所管の教育における機関説の規制問題である。政府は、かつて天皇機関説に近い見解を公けにしていた一木喜徳郎枢密院議長や金森徳次郎法制局長官に累が及ばず、内閣の存続を維持することを第一義に考え、美濃部が自発的に問題の著書の出版を停止し、貴族院議員を辞職するのが無難な解決であるとして、美濃部に圧力をかけた。政府にとって学問の自由の重要性は、二次的・三次的なものであった。

美濃部は48日、教科書『憲法撮要』と逐条解説書『憲法精義』を改版しないという意思を表明したが、内務省は残部が店頭に残ることを問題とし、49日、出版法19条の「安寧秩序ヲ妨害」する「文書図画」の出版に当るとして、両著に加えて『日本憲法の基本主義』をも発売頒布を禁止した。しかし美濃部は記者会見して「学説は断じて曲げるわけにはいかぬ」と表明、貴族院議員辞任の意思も否定した。

司法省は衆議院議員江藤源九郎の不敬罪告発を受けて検討し、美濃部に不敬の故意がないことから不敬罪は不成立であるが、天皇機関説を説いた著書が「皇室ノ尊厳ヲ冒涜」した出版に該当するものとして出版法26条違反(2年以下の禁錮ないし罰金)であると認定した。ただ起訴するか否かの決定は9月まで持ち越され、結局実際上美濃部の貴族院議員辞任と引き換えの形で918日起訴猶予が決定された。美濃部はその後、「天誅」と書いた「斬奸状」を携えた暴漢に襲撃された。

政府は83日、1015日と二度に亘って「國體明徴ニ関スル政府声明」を発表、第二次声明においては「漫リニ外国ノ事例学説ヲ援イテ我國體ニ擬シ統治権ノ主体ハ天皇ニ在サズシテ国家ナリトシ天皇ハ国家ノ機関ナリトナスガ如キ所謂天皇機関説ハ神聖ナル我國體ニ悖リ其本義ヲ愆ルノ甚シキモノニニテ、厳ニ之ヲ芟除セザルベカラズ」と宣言した。これを受けて文部省に「教学刷新評議会」が設置され、1937年には文部省の名で正統教義統一の書『國體の本義』が刊行された。その冒頭に「大日本帝国は万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の國體である」とある。

高等文官試験委員や各大学の憲法講座担当者からの機関説論者が排除され、学問は國體論に従属することとなった。

 

総括

(1)     天皇機関説問題は、理性対理性の学問的論争ではなく、國體という政治宗教が理性にしかけた闘争であり、特に1935年の天皇機関説事件において活躍したのはもっぱら信仰と情念と権力意志の担い手たちであった。天皇機関説事件は宗教と政治による学問抑圧事件である。

国家という目に見えない存在が現実界に姿を現すのは、機関である人間を通じてであることは自明のことで、これ以外の帰結はあるはずがないから、検閲官たちが戦後、憲法学者の著作を調べてみたら皆機関説だったというのは当り前のことである。統治権者とて国家意思を具現する人間であるから、機関であるに相違ない。

ただ機関(organ)という言葉は、語源のギリシャ語organonが「道具」を意味し、「目が見る道具」だというような意味から生物の器官の意味をもった。『諸橋漢和辞典』によれば、後漢時代の文献に道具の意味で機関の語を用いる用例があり、三国時代ないし五胡十六国時代とおぼしき時代の『鬼谷子』に「口者機関也」という言葉があるから、西洋のorganと並行している。道具では神聖冒涜になると感ずる者も出てくるであろう。

明治以降の日本では、機関という言葉はmachineの訳語として工学系統から用いられ始めたらしい。汽車開通に関する仮名垣魯文の戯作に「江湖機関西洋鑑」(1873年)というものがある。国家論や公法理論においてはorganの訳語として「機関」の語が用いられた。井上毅を中心に編纂され、伊藤博文の名で公刊された憲法の半公権的註釈書『憲法義解』の第四条註釈にも「憲法ハ各部機関ニ向テ適当ナル定分ヲ与ヘ」という言葉があり、天皇以外には「機関」の語を用いている。穂積八束も、「『オルガン』ト『マシイン』ヲ分タス同シク機関ノ字ヲ使用」するところに問題があり、国家を「団体ナリト解シ機関ト謂フ語ヲ団体ノ構成要素(『オルガン』)ノ意義ニ用ユル時ハ君位ヲ以テ国家ノ機関ト為ス観念ト之ヲ統治主権ノ所在ト為ス観念トハ何ノ矛盾スル所アルヲ見ス君位カ主権ノ所在タルハ即チ其国家機関タル所以」であると言っている(「国家主権法人主権君主機関ノ三説ヲ短評ス」(1905)『穂積八束博士論文集』(1913)p.738)。

(2)        昭和天皇自身は、「国家統治の主体と云へば、即ち国家を法人と認めて其国家を組成せる或部分ということに帰着す」「理論を究むれば結局、天皇主権説も天皇機関説も帰する所同一」でで、「只機関の文字適当ならず」と言っている。他方機関説の「天皇ロボット説」的意味に言及しつつ「軍部にては機関説を排撃しつつ、而も此の如き自分の意思に反する事を勝手に為すは即ち、朕を機関説扱と為すものにあらざるはなき乎」と言っているのは、皮肉であって、機関説を「天皇ロボット説」的に解しているという訳ではないであろう。現に「226事件」に際しては極めて非ロボット的に行動した。天皇の理論的立脚点はあくまで「法人−機関論」で、労働条約や債権問題に言及しているように、国家法人説を理論的に支持し、機関説的理論構成を実質的に支持しているのである(『本庄日記』pp.204-8)

(3)    君主機関説が「国家機関は法の定めた権限内でのみ国家行為を行い得る」という命題と結びつくと、「君主も法の下に立つ」という法治国思想となる。これは天皇の超法性という國體信仰と抵触する。既に山縣有朋は「議会が八釜しく言ふなら憲法を中止しても遣らねばならぬ」、それは「陛下が伊勢の大廟に行幸あらせられ、一時憲法の中止を御奏告」すればできると言っている(『松本剛吉政治日誌』六三頁)。北一輝『日本改造法案大綱』のシナリオは、天皇大権によって憲法を停止する所から出発し、その思想は「昭和維新」の闘士たちに承継された。政友会総裁鈴木喜三郎は衆議院で「天皇ありて国家あり、国家ありて天皇あるのではありませぬ」と演説した(宮沢、p.172)。皇祖皇宗を神に、天皇をキリストになぞらえた國體神学者筧克彦は機関の語を避けて天皇を「表現人」と呼んでいる。これはローマ教皇が神の表現者(Repräsentant)であるというカール・シュミットの議論と関連するであろう。

(4)    國體論とは宗教的教義の体系というよりも、自分の図式に都合のいい事実だけを見て、それに不都合な思想や理論に暴力を行使するという心的態度を日本国家に適用したものであおる。「國體の擁護開顕」のために蜂起した二・二六の青年将校たちが、天皇も自分たちに賛同し、全国の軍も国民も自分たちを支持して蜂起するであろうという主観的事実認識をもって、そう思わない人々を殺戮したのも、このような精神形態の表われである。

彼らを弾圧した陸軍「統制派」は、彼らよりは冷静で現実主義的であったように見えるが、その後十年間に日本を破局に導いた彼らの行動は、青年将校たちと瓜二つで、その拡大再生産である。英米の実力や中国ナショナリズムを過小評価、ナチの成功を過大評価し、虚偽に満ちた大本営発表により自らをも欺き、それを受け容れない者に対する暴力、最後には神風待望と、これはやはり、大正期に美濃部憲法学のような知性的議論を排して、國體論で軍のエリート教育を行なったことのツケといえよう。陸海軍大学校というエリート養成機関で「ブレーキなきアクセル」へと駆り立てる教育が行なわれたのである。

                       

戦後世代の人々は知らないだろうが、次のような光景は戦争中頻繁に見られ、当時の人々の多くが目撃・体験したものである。

「おい、おまえたち、精神がなっとらんぞ。叩き直してやる。そこの眼鏡かけたの出て来い。眼鏡をはずせ」

あとは往復ビンタ。眼鏡は知性の象徴で、眼鏡をはずさせるのが、権力者の示す度量と余裕のつもりである。打たれた者が鼻血を出すことがしばしばあり、「おい、血を拭いてやれ」などと周りの者に命ずると、温情主義の自己満足は一層高まるのであった。國體の反知性主義・暴力性・擬似温情主義の象徴である。

参考文献:宮澤俊義『天皇機関説事件』(上・下)有斐閣、1970年。

               星島二郎編『上杉博士対美濃部博士最近憲法論』実業之日本社、1913年。

               本庄繁『本庄日記』原書房、1967年。

               久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』岩波新書、1956年。

                家永三郎『美濃部達吉の思想史的研究』岩波書店、1964年。

                松本清張『昭和史発掘』(6)文春文庫、1968年。

                立花隆『天皇と東大:大日本帝国の生と死』文芸春秋社、2005年。

 Walter A.Skya, Japan's Holy War: The Ideology of Radical Shinto Ultranationalism, Duke University Press, 2009

               長尾龍一『日本憲法思想史』講談社学術文庫、1996年。

                  長尾龍一編『穂積八束集』信山社、2001年。