天皇機関説事件

  天皇機関説事件とは、一九三五年、「天皇は国家の機関である」とする美濃部達吉の学説が「国体」に反するとして攻撃され、その主要著書が出版禁止となり、美濃部が不敬罪などで告発され、起訴猶予(有罪ではあるが起訴はしない)と判断され、貴族院議員辞任に追い込まれ、暴漢に襲われ、政府が天皇機関説を「国体」に反するものと二度に亘って声明し、かつて機関説を説いたとされた一木喜徳郎(枢密院議長)・金森徳次郎(法制局長官)も辞任に追い込まれ、天皇機関説に代る正統学説を公定すべき学問統制諸措置がとられた(やがてそれが文部省公定の『国体の本義』(一九三七年)という書物として結実した)事件である。渡辺錠太郎陸軍大将・教育総監が翌一九三六年の二・二六事件で殺害されたのも、彼の機関説に対する容認的態度が関係していると言われる。

 

  国体」とは?

  国体」という言葉は、中国古典においては「国の様子」というような意味で用いられたが、江戸期の思想界で、水戸学・国学系統の思想家たちが、日本国家の尊厳、日本の守るべき伝統という意味に用い始め、攘夷論の脈絡では開国を否定するスローガンであった。孝徳天皇が攘夷論者であることが明らかになると、国体は「尊王攘夷」運動のスローガンとなり、天皇権威の上昇とともに、尊王こそ国体の中心要素と考えられるようになった。

  幕末の尊王攘夷派が開国派に変身した明治政府においては、国体は、第一次的には「王政復古」によってもたらされた、天皇が統治権を有する体制を意味した。即ち、国体概念は被治者の側の(下から上への)「尊王」から、天皇の(上から下への)支配権力へと重点を移行させたのである。しかしまた日露戦争で多大の戦死者を出したことから、国体論は「国のために死ぬ覚悟」という「死の思想」の性格を併せもつに至り、第二次大戦末期においては病的なまでにそれが強調された(長尾「軍隊教育」『歴史重箱隅つつき』九七−一〇二頁)。イスラムのテロリストたちが「天国」という楽園への約束を信じて身を棄てるということが事実であるとすれば、国体論の死の思想は「悠久の大義」に生き、靖国神社に祀られるという以上の約束をせず、一層純粋であるともいえる。また、新政府の欧化政策にも拘らず、国体概念は排外主義的主張の中で用いられ続け、遂には「新尊王攘夷期」ともいうべき昭和十年代に至る。

他方国体概念は、西洋国法学のform of stateStaatsformの訳語として公法学界に導入され、伝統的概念と輸入概念の間に複雑な連続関係と断絶関係が生じた。この点に関して重要な役割を果たしたのは、穂積八束(1860-1911)である。彼は一方で国学者を祖父にもつ「尊王家」であったが、若き日に英国憲法、やがてドイツ留学してドイツ国法学を学び、帰国して初代東大憲法教授となった。彼は国家における主権の所在によって君主国体と民主国体を分類し、主権発動の態様によって専制政体と立憲政体を分類することによって、憲法制定前の日本を君主国体・専制政体、制定後を君主国体・立憲政体と特色づけた。ここに国体概念の性格は、尊王攘夷という大衆運動のスローガンから、天皇(藩閥政権)の支配を正当化する権力イデオロギーへと転化した。穂積の国体・政体二元論は、一応西洋国法学の図式に従っているが、日本の国体は万世一系の天皇を主権者とする「天壌無窮」(永久不変)のものであるというような、尊王攘夷運動伝来の要素も盛り込まれている。

 

機関(Organ)という言葉

天皇機関説は、ドイツ国法学における君主機関説を日本に適用したものである。

「機関」(Organ)という言葉は、ギリシャ語organonに由来し、organonergon(仕事)という言葉とも結びつく「道具」という意味で、プラトンにおいても、武器・農具・医具・船具などの意味、またこれから派生して、「目は見る道具だ」(『国家』508bなど)という発想から、目・鼻・口などの身体器官の意味に用いられている。グリム兄弟の『ドイツ語辞典』によると、十八世紀ドイツには「牧師は神のOrganであり、メガフォンである」という言葉があったという。これは「裁判官は法の口だ」(モンテスキュー)という言い方と結びつき、「君主は頭脳、役人は手足」という有機体的比喩に連なっていくであろう。

近代西洋語においては、organismという言葉が示すように、organには、動植物などの「相互連関的・相互依存的なシステム」という意味が加わった。ホッブズは、目や耳をorganとよび(Leviathan, Chap.1)、王を魂、役人を関節に喩え、心臓をバネ、神経を紐であるとした(ibid., “Introduction”)。これは人体を時計に喩えたデカルト(Traité de l'homme)と同様、人間機械論的・非有機体説的であるが、システム論的ではある。これがやがて国家機関を「器官」としてとらえる国家有機体説へと発展する。

十九世紀半ばよりのドイツ国法学において、国家有機体説と非有機体説とが論争したが、何れにせよ国家そのものは不可視なもので、国家機関としての人間を通じて行動せざるを得ないと考える点ではほぼ一致していた。君主を国家機関と呼ぶことについても、拒否反応は殆どなかったように見える。この時代には既に「王の神聖性」という信仰が失われており、また有機体的比喩においても、君主が「頭脳」であるならば神聖冒涜とも感じられなかったのであろう

 

「機関」に対する拒否反応

ところが、日本においては、天皇を「機関」と呼ぶことには、少なくとも一部の人々に強烈な拒否反応を惹き起した。天皇機関説問題の相当部分は用語に対する拒否反応の問題である。

「第一天皇機関などと云う、其の言葉さえも、記者[]は之を口にすることを、日本臣民として謹慎すべきものと信じている」(徳富蘇峰(宮沢俊義『天皇機関説事件』一〇四頁)、以下同書引用は新仮名遣い)

「斯の如き用語を用いることすらが、我々の信念の上から心持好く感じないのであります」(林銑十郎陸軍大臣(宮沢、一二七頁))

「此言葉は・・・御上に対し奉り最大の不敬語であります」(井上清純貴族院議員(宮沢一三一頁))

「この天皇機関説という言葉そのものが、私共日本国民の情緒の上に、非常に空寒い感じを与えるところの、あり得べからざる言葉であります」(中谷武世(後に衆議院議員)(宮沢、二四八頁))

「天皇機関説のごときは・・・之を口にするだに恐に堪えざるところである」(大角岑生海軍大臣(宮沢、二九三頁))

「唯機関の文字適当ならず」(真崎甚三郎陸軍教育総監(宮沢、五〇四頁))

このように反発を買った「機関」とは、日本語として何なのか。『諸橋漢和辞典』によると、後漢の著書『漢書』に「技巧者習手足、便器械、積機関」、『論衡』に「機関備具」などの用例があって、道具を意味した。また『鬼谷子』(鬼谷子は戦国時代の人とされるが、この書物は後世の作品。隋以前ではある)の中に「口者機関也。所以関閉情意」という言葉があり、ギリシャ語のorganonと同様、道具の意味から身体器官の意味を派生させたようである。

不勉強で明治以降における「機関」という用語の発端については知らないのだが、明治五年に新橋―横浜間に汽車が開通した時、それに関連してこの語が用いられたことは間違いない。仮名垣魯文が「岡丈紀(おか・じょうき)」のペンネームで明治六年出版した書物の題名が「江湖機関西洋鑑」(うきよきかんせいようかがみ)で、「おか・じょうき」は即ち陸蒸気(蒸気機関車)に他ならない。工学系統で用いられた「機関」という言葉は、元来organではなくmachineの訳語であった可能性がある。穂積八束は、明治三三年の論文において、「団体ノ構成要素」という意味でのorganと「器具手段」の意味のmachineを同じく「機関」と訳しているところに「誤解」の淵源があると指摘している(「国家主権法人主権君主機関ノ三説ヲ短評ス」『穂積八束博士論文集』七三八頁)。

国家論や公法理論において「機関」の語を最初に用いたのが誰かも、不勉強で知らない。しかし天皇以外の国家権力担当者について「機関」の語を用いることには格別抵抗はなく、井上毅を中心に編纂され、伊藤博文の名で公刊された憲法の半公権的註釈書『憲法義解』の第四条註釈にも「憲法ハ各部機関ニ向テ適当ナル定分ヲ与ヘ」という言葉がある(七頁)。「人身ノ四支百骸アリテ而シテ精神ノ経絡ハ総テ皆其ノ本源ヲ首脳ニ取ルガ如キ」と天皇を頭脳に喩えているのは、有機体的「器官」説ということもできよう。

 

美濃部達吉の「天皇機関説」

美濃部達吉(1873-1948)は明治三〇年帝国大学法学部卒。憲法学を専攻することを希望はしたが、そこに君臨する穂積八束の学問に強く反発し、やむを得ず内務省に就職した。反発した理由は、穂積理論の非合理性と、政治的傾向の権力主義的性格の両面があり、ドイツ国法学の通説に忠実で、それほど政治的でない国法学教授一木喜徳郎に親炙した。一木は内務官僚で、末岡精一の死亡によって、余人をもって代え難いとして母校に招かれ、教授を兼任していた。美濃部はやはり向学の志を棄て難く、一木の斡旋によって、法史学の教授として大学に戻り、やがて行政法・国法学を担当した。

美濃部は、ゲオルク・イェリネックに代表される当時のドイツ国法学の理論体系を、いわば物理学者がニュートン物理学を自明の真理と考えるように、自明のものとして受け容れており、またOrganという言葉を「機関」と訳して天皇に適用することにも何の頓着も感じなかったから、「国家は法人であり」「法人は人間である機関を通じて行為する他なく」「君主もまたそのような機関(最高機関)であり」「従って日本の天皇も国家機関である」という説を自明のことのように説いた。この説は「法人−機関論」とよぶことができよう。

しかし彼はこの議論に、二つの独自の議論を付け加えた。その一つは、権利はその担い手の利益のためのもので、天皇が統治権の主体であれば、天皇は私益のために行動することになる、という議論である。この議論は、第一にドイツ法学の通説でもなく、そもそも「法理論」でもない。権利の利益説は比較的後にイェーリングによって唱えられたもので、賛否両論あるが、ケルゼンなどはまるで問題にする価値もない議論だと見なしている。先の「法人−機関論」によれば、私的動機から権力を行使する独裁者や腐敗官僚とて国家機関である。じっさい、ある国家機関が公益のために行動しているか私益(ある社会集団)のために行動しているかは、相当部分水かけ論である。歴代の天皇が公益のためにその権力を行使してきたか否かは事実問題であり、可能な限り公的動機から行動すべきであるという主張は道徳論であって、何れも法理論の問題ではない。この説は、天皇が公的動機のみから行動すべきだとする主張に着目して、「天皇公的人格論」とよぶこともできよう。

第二に美濃部は、憲法第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という「天皇無答責原則」は、天皇が自ら政治的決断をしないことの反面であり、法律の内容は議会が決定し、勅令その他の国家行為の内容は内閣の輔弼によるもので、天皇は自らの価値判断によって国家行為を左右しないからこそ、その責任を負わないという趣旨だ説いた。これは天皇が法律の不裁可権を行使せず、内閣の輔弼(助言)のままに行動することを意味する。これは「天皇虚位論」「天皇ロボット論」とよぶことができよう。「公的人格論」によれば、天皇は公的動機に基づいて権力を行使するが、この説によれば天皇は実質的権力を全く行使しないのである。

美濃部は、穂積の「国体−政体二元論」を批判し、いかなる国家においても統治権は国家に在るから、主権の所在によって国体を区別することはできない、存在するのは国家機関の編成による「政体」の分類のみであると説いた。彼によれば、日本は立憲君主政体で、国体とは非法的・文化的概念である。その上で彼は、彼の理論こそ日本の誇るべき伝統という意味での国体に適うものだとした。なぜなら「民の富めるは即ち朕の富めるなり」というのが歴代の天皇統治の精神であり(『憲法講話』六七頁)、また天皇が自ら国政の衝に当らなかったからこそ、天皇の尊厳が傷つかず、万邦無比の尊厳が保てたのだという(九六頁)。

 

美濃部・上杉論争

明治四四年夏、美濃部は文部省に招かれて、中等学校教員のために憲法に関する連続講義を行なった。文部省といえば、その直前に穂積が、歴史教科書について南朝正統の歴史観(北朝天皇の「院」への格下げ)を山縣有朋の権威を背景に強引に通した場である。この講演において美濃部は穂積憲法学を「名を国体に藉りてひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑へて其の絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想(ママ)の下にその実は専制政治を行はんとする」「変装的専制政治の主張」として正面から攻撃した。この講義は翌四五年『憲法講話』の題の下で公刊された。穂積は激怒したが、健康を害していた最晩年の穂積に代って、美濃部に反撃を試みたのが穂積の講座承継者上杉慎吉であった。こうして数か月にわたる美濃部・上杉論争が起る。

上杉は穂積の助言の下で、天皇は統治権者でないという美濃部の主張が国体に反するという点をもっぱら攻撃した。美濃部によれば、国家は国民の団体であり、機関とは使用人に他ならないから、天皇は国民の使用人で、日本は国民主権の民主国ということになる、これは、大日本帝国は万世一系の天皇が統治すると定める憲法第一条に反するという。それに対し美濃部は、国家は団体・法人格であって、その最高統治権がその国家に存することは、欧米諸国学界殆ど定説である、日本に関しては、天皇は国家という有機体の頭脳に相当するもの、天皇という頭脳(最高機関)をもつ体制は即ち君主制であって、上杉は故意に曲解していると反論した。

京大教授市村光恵はこの論争を論評し、上杉は知性において美濃部に劣り、「国体」という秋水(日本刀)をもって美濃部を脅迫する態度は反学問的であると批判した。知識人世界の大勢は美濃部を支持したといわれる。論争進行中に明治天皇が死去し、桂太郎など藩閥勢力が大正天皇を自らの権力意志の道具として使うような印象を与える事件が起ったことなどから、「天皇虚位説」が裏付けられたようにも見えた。

やがて美濃部憲法学は学界に君臨し、大正八年からは憲法講座も担当し、高等文官試験委員を含む多くの政府委員も務め、大正期立憲主義の憲法学上の代表者としてオピニオン・リーダーともなった。しかし文部省は以後美濃部を遠ざけ、初等中等教育には穂積流の「国体」論が採用され、また陸海軍大学校などにおける軍隊教育からも美濃部憲法学は排除された。久野収はこの状態を「密教」と「顕教」の使い分けと呼んでいるが、前者は国家体制を権利義務の体系として描き出すのに対し、後者は天皇の命令の下で生命を初めあらゆる権利を喜んで棄てるという「死の思想」である。

 

逆流

第一次大戦において、日本は日英同盟に基づいてドイツに宣戦し、戦勝国として戦後処理に加わり、国際連盟理事国ともなった。二十世紀は英米流自由民主主義と市場経済、それに戦争末期ウィルソン米大統領が唱えた「民族自決」原則が支配する時代で、日本の未来をその潮流の中に見ようとするのが、幣原喜重郎など戦後の代表的政治家の時代認識であった。清浦奎吾官僚内閣を倒した第二次護憲運動後に成立した加藤高明内閣は、憲政会・政友会という衆議院の二大政党を中心とする政党内閣で、この内閣の下で男子普通選挙制が導入された。悪名高い治安維持法も、政府原案は「国体」「政体」「私有財産制」の三者を変更しようとする運動を規制の対象とし、「政体」とは立憲政体、具体的には衆議院を中心とする議会制を意味した。天皇制・議会制・資本主義が、当時の政党指導者たちにとっての体制の三つの柱であった(貴族院廃止論が治安維持法違反となる恐れがあるという議会での批判に対応して「政体」を除いたところから、構成要件に「国体」と「私有財産制」という木に竹を接いだようなものが並んだのである)。「幣原外交」は英米的世界秩序である「ワシントン体制」の中に日本を位置づけ、その秩序に従って軍縮を受け容れ、また中国国民党の民族主義に協力する姿勢を示した。

しかし、既に第一次大戦直後から、この体制は動揺の萌芽を示していた。大正七年に起った米騒動は、その前年のロシア革命を連想させた。大正八年にはウィルソンの民族自決宣言に触発され、植民地朝鮮で大きな独立運動が起った。同年五月四日、北京で日本帝国主義を糾弾する学生運動が起り、全国に波及した。かつて主として西洋帝国主義への抵抗運動であった中国ナショナリズムは、「二十一カ条要求」以後日本を主敵とすることになった。米国も日本を危険な帝国主義国として意識し始め、日英同盟を解体させ、軍縮体制への取り込みを図った。

幣原外交は、中国ナショナリズムを不可避なものとして受け容れつつも、大陸の既得権を当面可能な限り維持するという消極的政策を採用した。昭和初期においてこの政策を支えたのは、政党では民政党、そして天皇及び重臣層であった。しかし他方には、英米的秩序からの独立と対中国ナショナリズム武力対決政策をとる勢力が台頭し、田中義一内閣以後の政友会がその潮流に棹さすとともに、陸軍、海軍の相当部分、そして右翼諸団体がそれを推進した。これは国際的孤立を辞さず、諸外国よりの非難に対して軍事的対決を選ぶ道である。この対立の過程において、後者を有利にする、前者にとって不幸な事件が続発した。

昭和四年から六年まで政権を担当した浜口・若槻民政党内閣において、井上準之助蔵相の主導の下で遂行された金解禁(円切り上げ)の直前にウォール街暴落事件が起った。これによって不況が悪化し、国民の不満を招いた。また、英米的世界秩序への協調を意味するロンドン海軍軍縮条約について海軍軍令部があくまで反対し、国論が分裂した。この反対運動は、国際的孤立に軍事的に対処しようとする方向を示唆している。そして満州問題に関して、中国国民政府との話し合い解決という幣原外相の政策は、重光・王正廷会談の決裂(昭和六年)によって失敗した。関東軍が独断で兵を動かした(ように見える)満州事変の軍事的成功、それに伴う国際連盟脱退は、一層その方向を推進した。

 

「昭和維新」と天皇の超法性

昭和十年の天皇機関説事件は、爆発直前の火山の頂上でのダンスとも見ることもできる。

恐らくはロシア革命の影響もあって、権力中枢を物理的に抹殺するという革命ロマンが一部の青年層を捕えた。彼らは、四分五裂状態でもあったが、国際的には英米的世界秩序からの離脱、中国ナショナリズムとも武力対決、そのための総力戦への準備、国内的には「腐敗した」政党政治との訣別、多かれ少なかれ国家社会主義的な経済政策などが共通の志向であった。それを阻害するものとして政党・重臣などが敵視され、その物理的抹殺が唱道された。民政党内閣における野党であった政友会(の相当部分)は、この潮流に棹さした。

「革新」とよばれ「昭和維新」とよばれたこのような運動は、プロパガンダに挑発された在野の暗殺者たちを輩出させたが、昭和六年に至ると、組織的物理力の担い手である軍の中から、その武力を用いて「革新」を実現しようとする勢力が登場した。三月事件・十月事件とよばれるクーデタ計画は未遂に終ったが、翌七年の五・一五事件は首相の暗殺となって現出した。この彼らの「超法的」行動を正当化する標語として持ち出されたのが国体論である。そしてその核心をなす主題が、「天皇の超法性」であった。

憲法上諭に「朕及朕カ子孫ハ将来此ノ憲法ノ条章ニ循ヒ之ヲ行フコトヲ愆ラサルヘシ」とあるように、憲法制定によって天皇は、いわば「自己拘束的」に法秩序の下に立つことになった、というのが常識的な理解で、美濃部達吉も「天皇は憲法の上に超然として、憲法を破壊し、憲法を無視したまふことの自由を有したまふのではなく、憲法の下に立ち、憲法の拘束を受けたまふのである」と言っている(『憲法精義』五七頁)。しかし山縣有朋は「議会が八釜しく言ふなら憲法を中止しても遣らねばならぬ」、それは「陛下が伊勢の大廟に行幸あらせられ、一時憲法の中止を御奏告」すればできると言っている(『松本剛吉政治日誌』六三頁)。「天皇大権ノ発動」によって憲法を停止し、革命を遂行するという北一輝『日本改造法案大綱』(一九一九年)は、天皇の超憲法性を前提しており、これが昭和「革新」運動に一つの指針を提供した。

「昭和維新」運動の非合法行動の根拠として持ち出されたのがこの「天皇の超法性」という教義であったが、天皇機関説事件の年昭和一〇年という時点においては、陸軍青年将校を中核とする「皇道派」が、天皇を神化することにより叛乱を正当化した。昭和一〇年八月永田鉄山陸軍軍務局長を惨殺した相沢三郎も、超法的正当性の故に罰せられないと考えていたらしく、皇道派系統の雑誌は「国体護持の行為は一切の法律に超越する」として彼の行為を正当化した(松本清張『昭和史発掘』(八)七一頁)。

 

蓑田胸喜(1894-1946)

蓑田胸喜によれば、王政復古の明治維新は、民主政の廃止であり否定である(『国家と大学』「序」四頁)。それなのに帝国大学法文学部は、「明治以来の拝外学風」の故に「民主」「共産」主義思想をもたらしており、「現日本国家社会生活の万悪の根源」である(『学術維新原理日本』七〇六頁)。「世の中の乱るるたねは帝大を出でにし官吏によりてまかれつつあり」とは随分字余りであるが、蓑田胸喜の「同志」の詠んだ歌だそうである(六九七頁)。民主で悪である以上、「民政党」などという政党はもっての外である。「大君をおしこめまつり国民(くにたみ)におごりたかぶる『民政』のやから」「赤化乱倫の跡たたむには『民政』の名を改めしむるぞもとゐなりける」(六四四頁)。

蓑田は東大法学部で上杉慎吉に親炙し、文学部に移って紀平正美に接近、卒業後偏執的に自由主義的・左翼的アカデミズムを攻撃した。代表的学者の学説の「反国体性」を口汚く攻撃する刊行物を、諸官庁・著名人に配り、学者たちの処罰や著書の出版禁止を要求した。右派系有力者の間より徐々にそれへの同調者も出て、京大教授瀧川幸辰の論説をマルクス主義的であるとして非難、昭和八年鳩山一郎文相は滝川を罷免するに至った。

美濃部達吉に対しては、民意の推移によって成文法が改正手続きを経ずに変遷するという(イェリネックに由来する)議論を、天皇主権の帝国憲法が実質上民主主義になるという思想であると見て、「思ふもおぞましく、また憤ろしい」「大権干犯憲法破壊」だという(三八五・六頁)。また統帥権の独立を制限的に解釈し、その廃止を展望し、軍部大臣文官制を唱える美濃部を「軍人勅諭」無視する「『乱臣賊子』的凶逆思想」であるとする(四〇一頁)。また彼の治安維持法批判の故に、彼も「赤化帝大諸教授」の一人であり、「不逞悪逆曲学阿世の徒」で、「処置」が必要である、と斎藤実首相に書簡を送っている(三五五―三七〇頁)。

彼は同郷の菊池武夫貴族院議員(陸軍中将・男爵)にもこの趣旨を説得した。菊池は陸軍時代上原勇作元帥の薫陶を受けたが、美濃部の論敵上杉慎吉が、大正一〇年代に上原首相を実現するために随分奔走した。その上原から天皇機関説が怪しからぬという話を聞いており、その糾弾に立ち上ったのである。

 

貴族院にて

非合法な武力行使に始まった満州事変が一応成功し、元老重臣・政党もこれに追随したこと、それがもたらした国際的孤立を連盟脱退という「逆張り」によって対応したこと、ドイツのナチ政権成立が、英米流自由民主主義の影響力を大きく減退させたように見えたこと、などから、昭和六・七年には社会的雰囲気が激変していた。思想や理論を西洋輸入のものであると決めつければ、それで正当性が否認されるという思想的状況が形成されてきた。そこに天皇機関説糾弾が提起された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和一〇年三月二三日鈴木喜三郎政友会総裁(明治二四年東大仏法科首席卒業)は、衆議院で、「天皇ありて国家あり、国家ありて天皇あるのではありませぬ」と演説している(宮沢、一七三頁)。