▽高爾泰(1935-) 江蘇省出身。江蘇師範学院卒。甘粛省蘭州の中学で美術教師として勤務中の1957年2月、『新建設』誌上に論文「論美」(美を論ず)を発表。これが反右派闘争の標的となり、同年冬免職。甘粛省酒泉の夾邊溝農場で「労働改造」をさせられる。59年甘粛省博物館で「大慶」の宣伝画製作。62年労働改造を免除され、敦煌文物研究所勤務。66年文化大革命で再び非難され、「五七幹校」(毛沢東の「五七指示」を実践する農場)で労働。1977年解除。78年蘭州大学・84年四川師範大学、南開大学・南京大学等で教鞭を執る。87年蒲小雨と結婚。89年「六四事件」で「反革命宣伝煽動罪」として逮捕され、90年釈放。92年7月香港に逃れ、93年米国入国、New Jersey、Las
Vegasに住む。2004年自伝『尋找家園』を広州の出版社から刊行 [中国語版Wikipedia]。
▽Er Tai Gao, In Search of my Homeland: A Memoir of a Chinese Labor Camp, Translated by Robert Dorsett & David Pollard:
「これが最悪だ」と言っている内はまだ最悪でないのだ」(Shakespeare, King Lear, IV-1)
20世紀は恐怖の世紀であった。HolocaustやGulag[ソ連の収容所]については随分書かれているが、「毛沢東の中国」の恐怖についてはそれほど知られていない。
ナイーヴな絵画教師であった21歳の著者が「美について」という論説を発表し、唯物論的美学を批判して芸術における主観性・自由の重要性を唱えた時、非常な注目を集めたが、間もなく「右派」として弾劾され、夾邊溝農場で強制労働に服することとなった。「一瞬の名声が20年間の不遇に転化した」のである。囚人たちは溝掘りを命じられたが、それは無意味な作業で、ほどなくその土地は砂漠の一部に戻った。労働は毎日毎日で、暑かろうと寒かろうと、砂嵐が来ようと、下痢をしようと、虱に喰われようと、拷問を受けようと、飢餓状態になろうと、休めなかった。
肉体的苦痛のみならず心理的苦痛も厳しいものであった。日没後集められて、自己批判会に出席しなければならない。そこでは各人が自分の誤りを告白させられ、その再教育の成果を示すために「頬笑む」ことが要求された。これは非常に辛く、笑顔のつもりが泣き顔になった。
個人は孤立し、頭は空っぽになる。毎日毎日が同じことの繰り返しである。以前歴史家であった先輩は、「誰も助けてはくれない。頼れるのは自分だけだ。なぜまだ生きているのか、それを自分で探さなければならない」と言った。彼は将来の学者のために、この収容所の記録となるものを蒐集することに生き甲斐を見出していた。「長征」に参加した軍人は、軍服をきちんと着ることに自尊心の満足を求めた。馬車馬のように働くことに生き甲斐を見出している者もいた。彼は最初に起き、休み時間が終ると最初に仕事場に駆けつけた。だがこれが一番うまい生き残り戦術だという訳ではなかった。彼は過労である日コロンと死んでしまったのだ。
著者の戦術は「書く」ことであった。どんな紙切れでも集めてそれに感想や思想を書いた。これは危険なことであったが、見つからずに済んだ。「私にとって、書くことが生きることであった」。本書はその時書きとめたものを活字にしたもので、断片的で反復も多く、支離滅裂で、「もっと整理したものを出せばいいのに」という苦情もあり得るであろう。彼は後に結婚して娘がいたが、それについては殆ど触れていない。妻は後に強制労働所に送られ、死んだのだが。
1959年彼は蘭州に移され、宣伝画を書かされたが、また別の労働campに移された。62年釈放された時は無一物で、四世紀にまで遡る遺品のある莫高窟の研究班に加わった。ところがまた文化大革命の嵐に巻き込まれ、逮捕され、糾弾され、侮辱され、投獄され、殴打された。それでも彼のその前の上司よりはましであった。上司は暴力によって歯をすべて失い、背骨を損傷して立てなくなった。72年釈放された後のことは、簡単に触れられているに過ぎない。
本書を精神力によって苦難を乗り切った成功物語として読むことが可能か。著者は自分が生き延びたことについて、それは偶然の所産だと述べている。「生死の境は気紛れだ」と。AuschwitzやKolyma [Siberia強制収容所、50万人が死亡したという]の場合と同様、夾邊溝においても、生死の分岐は盲目で愚かな偶然(blind, stupid luck)に依存していた、と(Barry Gewen)(Herald Tribune, Dec.23, 2009)。