司馬遼太郎『歳月』

   蝉は幾年も地下にいて、地上に生まれ出づるや、暫く鳴いて死ぬ。極貧の中に育ち、幕末5年に亘って謹慎刑を受け、明治維新とともに赦されて、6年余り権力中枢で活躍した後、刑場の露と消えた江藤新平(1834-1874)の生涯は、まさしく蝉のようである。だがその僅かな期間に、彼は法体系をヨーロッパ大陸法をモデルとして構築する方向へと、日本近代法史の基本路線を始動させたのである。

   現存最大の作家の一人が、この個性豊かな悲劇の人物を、徹底的資料研究を基礎とし、激動期の歴史を背景として描き出したのがこの作品である。一世代近く前の作品であるが、不勉強にも未読であった。最近佐木隆三『司法卿江藤新平』(文芸春秋社)を読もうとしたところ、友人から「まず司馬さんの江藤伝を読まなきゃ駄目だ」と叱られて慌てて読み、本書が日本近代法史研究の必読書であることを痛感した。怠慢を恥じるとともに、私のような読者のために、内容の一端を紹介したい。

   文久2(1862)年、28歳の江藤は脱藩して京都に出て、姉小路公知、三條実美、木戸孝允、伊藤博文らに会い、詳細な見聞録を携えて帰国する。脱藩は先例上死刑であったが、「この男のどこかにうまれつきの狂気が宿っているせいか、常人が怖れるはずのそれを少しも危念」しなかった(p.29)。藩主鍋島閑は、彼を死刑でなく「永蟄居」に処した。

   「時勢が奇跡をうむ」(p.38)。江藤は大政奉還の報を聞くや、藩主に面会を求めて献策、時代の変化を感じた藩主は彼を赦免し、藩代表として京都に派遣する。彼は佐賀藩の実力を背景に、一挙に維新政府の中枢に立ち、西郷隆盛などの信任を得て、新政府の実務官僚となる。

   「わしがこの世にうまれてきた意義は、日本に法治国たる基礎を建設することにある」(p.131)と語った江藤が司法卿になったのは明治5(1872)年4月、岩倉・大久保らが米欧旅行中の留守政府においてで、司法の行政権からの独立、フランス流民法典の制定など、重要な法制度改革を、持前の性急さで推進した。

   それとともに彼は、井上馨、山縣有朋など、長州閥の有力者たちと政商との癒着を果敢に追及した。当時の参議は三條、西郷、板垣、大隈、後藤、大木、江藤で、佐賀藩出身が3人、土佐が2人、薩摩が1人、長州出身者はいなかった。だが、この追及が成功しかかった時、岩倉使節団が帰国し、「征韓論」が政争の中心主題となる。ギリギリのつばぜりあいの段階で三條太政大臣が緊張に堪えかねて倒れ、反征韓派の岩倉が代理となって、「征韓派」が敗れ、下野する。その後は周知のように、江藤も西郷も、反政府反乱の首領として、非業の死を遂げることになる。

   本書が示すのは、西洋学の素養をもたなかった江藤が、西洋近代法の精神をよく理解し、単なる法治主義の域を超えた「人権派」であったことである。征韓論に熱中して、法制改革の事業を中断したのは、もったいないと感ずる。(『法学セミナー』1995年9月号)