第三部 民主制と経済
民主制との関連における資本主義と社会主義
民主制と経済という問題は、基本的には、民主制と呼ばれる政治体制と資本主義と社会主義という、近代文明において角逐している二つの経済体制の何れかとの間に、本質的関連があるか否かという問題である。資本主義という言葉も社会主義という言葉も甚だ多義的であるから、以下の論述においてこの二つの言葉をどのように用いるかを明確にしておく必要があろう。ここでの資本主義とは、生産手段の私有、企業の自由、競争によって特色づけられ、その前提としては経済的自由、即ち政府が経済生活に直接干渉しない体制を意味する。それに対し社会主義とは、生産・分配の手段と過程を国有化し、公的に統制することを特徴とする経済体制である。それは経済的拘束、経済生活の積極的規制を帰結する。
この問題に関しては、現代において対極的な議論が唱えられている。民主制は資本主義の下でしかあり得ないという説と、民主制、少なくとも真の民主制は社会主義のもとでしか存在し得ないという説である。前者によれば、民主制は資本主義経済体制とのみ親和的な体制であり、本質上専制政体を要求する社会主義とは両立し得ない。後者によれば、資本主義の下では単に「形式的な」ごまかしの民主制しか存立しえない。
それに対し、以下に私が試みる分析は、「資本主義も社会主義も、本質上、即ちの本質的性格においては、特定の政治体制と結びつきをもたない。両体制とも民主制下でも専制支配下でも存立し得る。政治体制とは統治の形式であり、何よりも社会秩序創造・適用の手続ないし方法であって、社会秩序の内容をなす経済体制との間に必然的な結びつきはない。社会秩序を創造し適用する方法が民主的であれ専制的であれ、その秩序が特定の経済的内容と両立しないということはあり得ない。資本主義も社会主義も、特定の政治的手続を帰結するものではなく、両者とも、原理上は、民主制とも専制支配とも両立し得る」という結論に傾くものである。もっとも特定の経済体制が特定の政治体制下での方が一層効率的に運用できるかどうかは、また別の問題である。民主制が社会主義より資本主義にとって好適な基盤であり、専制支配が資本主義より社会主義にとって好適な基盤だ、というようなことはあり得るかも知れない。こういう問題への解答は、歴史的経験に即してのみ与えられるもので、実際の経験に徴しても、未だ科学的根拠をもって答えられる段階でない、というのが私の考えである。この点についての従来の議論は、政治的立場によって、意識的・無意識的に歪曲されている。
マルクス主義:「社会主義体制下でのみ民主制は可能である」
「民主制は社会主義体制下でのみ可能である」といういのがマルクス主義イデオロギーの本質的要素であり、この主張は反資本主義プロパガンダにおいて重要な役割を果たしている。この議論は「人民による人民のための統治」という通常の民主制定義において、「人民による」という部分を軽んじ、「人民のための」という点に重点を移す歪曲を暗黙の前提としている。即ち社会主義こそが人民の「真の」利益を実現し得るものであるから、人民の「真の」意志の実現者であるという独断的信念を前提としているが、そういう前提に立てば、「社会主義下でのみ民主制は可能である」という主張は無内容な同義反復である。
「民主制は最善の政体であり、それは最善の経済体制である社会主義の下でのみ可能である」というマルクス主義の主張は、「国家や法のような政治現象は、生産関係によって構成される経済的現実の上に聳え立つイデオロギー的上部構造に過ぎない」という経済的社会解釈を適用したものである。それによれば経済は政治に優越するのである。資本主義社会においては、少数者であるブルジョワジーが生産手段を所有し、経済的支配集団となっているのであるから、したがってその集団は当然政治的支配集団である。それは当然「多数者のための多数者の支配」という民主制の観念と両立しない。この前提からすれば、多数者が経済的支配集団となることによってのみ、その多数者が政治的支配集団となり得るのである。ところがこの思想の前提からすれば、多数者が経済的支配階級となるのは、生産手段の国有化による他ない。こうして多数者が政治的支配集団となることによってのみ、民主制が実現されるのである、という。ところが、資本主義体制から社会主義体制への移行期という決定的な状況において、この経済的社会解釈、経済の政治に対する優位の原則は明白に破綻する。というのは、プロレタリアが経済的支配階級になるためには、即ち社会主義経済体制を樹立するためには、まず政治的支配階級にならなければならないからである。そうなるための手段もまた政治的手段以外ではあり得ない。即ち平和的に議会で多数を獲得するか、実力によるかである。このことの歴史上最も重要な先例はロシアであるが、そこでは社会主義体制は、政治的革命を通じて実現された。これはマルクス主義理論に添ったものである。マルクス主義は、マルクス社会主義を実現する唯一の方法はプロレタリア独裁を革命的に樹立することによってであると強調しているが、この行動が政治行動でないとはいえまい。しかしプロレタリアやプロレタリア政党が特殊政治的方法に訴えざるを得ない理由は、プロレタリアを経済的支配階級にするためばかりではない。一旦経済的支配階級となったこの階級の地位を維持することのためにも高度に政治的な手段を用いざるを得ない。即ち公然・非公然の警察と軍隊である。社会主義の樹立と維持の過程において政治が経済に優越することは明々白々たる事実である。マルクス主義は、自分たちだけが民主的だという主張を唯物史観に基礎づけたが、実際にはその根拠になっていないのである。しかもマルクス主義の最終目標は、民主制の樹立ではなく、民主制の除去である。マルクス主義によれば、社会主義が共産主義と呼ばれる完成段階に達すると、国家は死滅し、国家形態の一種である民主制も死滅する。レーニンは「通俗の国家論は常に誤っていて、エンゲルスがそれに警告している。即ち『国家の死滅は民主制の死滅を意味する』ということが常に忘れられているのである」と言う(1)。マルクス主義的社会主義は、民主主義ではなくアナキズムである。ユートピア的夢想の行き着く先は、根源への回帰、即ち没政治的無国家社会を求めた19世紀の過激自由主義への回帰である(2)。仮に我々がマルクス主義を受け容れるとすれば(そんなことはするはずもないが)、「窮極において民主制と両立しない経済体制があるとすれば、それは[マルクス主義的]社会主義である」と言えよう。
資本主義と政治思想
「社会主義政権は、(少なくとも社会主義から完全な共産主義に移行する過渡期においては)、その本性上『真に』民主的な政府である。なぜならそれは民衆の経済的利益を実現する政権であり、民衆の真の意志は経済的利益を求めるものだから、社会主義政権のみが民衆を代表するのだ」という議論は、心理的見地から見ても、甚だ問題である。この議論は人間の最大の欲求は経済的必要の充足だという前提に立っているが、経験の示すところによると、人は経済的必要が最低限満足を得ると、他の欲求が強くなってくるものである。現に経済的条件が極めて逼迫していた時期に、大衆は宗教的・民族主義的理想の実現のために、熱狂的・狂信的な献身を示したではないか。社会主義体制が資本主義体制以上に大衆の経済的福祉を保障しているか否かも、簡単には断定できず、ソ連の経験も疑いを容れる余地がある。しかし仮に圧倒的多数の民衆の利益という見地から社会主義が資本主義よりまさっているということが証明されたとしても、普遍的で平等な秘密投票制度の下で選ばれた政府の下で、即ち彼らの言う「形式的」民主制の下で資本主義体制が存立しているのであるから、そこで資本主義体制が民衆の意志抜きで、あるいは民衆の意志に反して存立しているとは主張できないであろう。即ちそこで成立している政治体制は「真の」民主制でないとは言えないであろう。マルクス主義者たちは、自由選挙の下で成立している資本主義体制は民衆の意志と無関係な、あるいはそれに反したものだと主張するが、そのために持ち出す彼らの論拠は誤っている。「生産手段の所有者である資本家は、経済過程を支配しているから、政治的イデオロギーをも支配している」という主張は、端的に誤りである。確かにプロパガンダ手段、特に新聞が資本主義の敵でなく資本家のいいなりになっていることは否定できないが、彼らのいう「形式的」民主制が維持されている限り、資本家支持のプロパガンダが独占的支配力をもつことはない。プロパガンダ機構の背後にある巨大な経済力も、それに相応した政治的影響力は保障されていない。米国一九三六年大統領選挙において、ルーズヴェルト支持の新聞の方が反ルーズヴェルトの新聞よりも発行部数が多かったが、ルーズヴェルトが勝利を博した(3)。「人間の経済的欲求を支配する者が人間の心、特に政治的意見を支配する」と考えるのは不条理な誇張である。もとより経済的事実と政治的イデオロギーの間には一定の関係が存在しない訳ではないが、資本主義体制下の民主制において社会主義政党が大いに発展していることを見れば、経済勢力の政治支配を阻止しているのはまさしく「形式的」民主制であることが分るであろう。
このことは資本主義と社会主義の関係という問題に関する、民主制と専制支配の間の重要な相違を如実に示している。専制支配の下で資本主義なり社会主義なりが支配しているとすれば、その体制を変更しようとする試みは抑圧されるであろう。それに対し民主制の下では、そういう抑圧は存在し得ず、平和的、特に漸次的変遷が可能となる。こう言ったからといって、既存の経済体制を暴力で他の体制に置き換えようとする試みを実力で阻止する権利をもたないというわけではもとよりない。仮に少数者が、資本主義的経済体制を社会主義的体制に、あるいはその逆を、民主制を覆す革命によって成就したとすれば、そのような政治行動は専制支配の樹立なしにはあり得ない。それは民主政体が、現存の経済体制を平和的に他の政治体制に変更しようとする試みを抑圧すれば、専制支配へと変質するのと同様である。
民主制の「再定義」[E.H.カー批判]
マルクス主義者のみならず、資本主義から社会主義への移行を革命によってでなく平和的に遂行しようとする社会主義者も、伝統的意味での民主主義は資本主義と両立しないと説いている。彼らも、確かに十九世紀においては資本主義国家が民主的性格を有していたことを否定しないが、過去五十年間の経済的発展はその両立をいよいよ不可能にし、遂には資本主義体制下において民主制を実現することが不可能になった、と言う。この発展が「民主制の危機」を招いたというのである。彼らが言うには「一部の最も進歩した民主国においてさえ、民主的形式や政治的諸権利は、圧倒的な経済権力によって、徐々にその意義が空洞化してきた」、もはや民主的手続きによっては「実際の権力」は賦与されなくなった。組織された経済権力が支配する時、十九世紀的な自由主義的民主主義の基盤が崩壊したのである。そして、国家的現実の最重要問題の決定は政治的権利によってなされるものではないから、政治的権利は無意味に見えてきた(4)。そこでこの危機的事態に対処するものとして唱えられるのが「新民主主義」に樹立である。新民主主義は、民主制の基本観念である「平等」と「自由」に、経済的観点そ基調とする概念によって再解釈を加え、政治的権利を経済的支配権力に対する実効的支配者としなければならない。そしてその社会の構成員に民主主義を実効的ならしめるための共通の責任感を培養しなければならない、と[E.H.カー](5)。
この議論は、経済的権力と政治的権利との間に相剋があるという観念を前提としており、この相剋こそが現代民主制の危機の実体だというのである。しかし、西洋民主制の現実において、そのような相剋が果して存在するのか否か、疑問である。もう少し正確に言えば、現在明らかに存在する相剋を、このように定式化するのが正しいか否かが問題である。権力とは他者に影響力を及ぼす能力である。他者に対して権力を有するとは、自分の意志に従って他者を行動させる能力である。従って権力それ自体は政治的でも経済的でもない。政治的であったり経済的であったりするのは、他者をそのように行動させる手段である。「経済的」と呼ばれる権力行使に特有の手段といえば、生産物の生産・分配過程であろう。経済権力と呼ばれるものはこの過程を支配する者の手の中にあり、彼らは生産手段を意のままになし得る故に、この過程を支配しているのである。ところで法秩序によって構成される政治組織、即ち国家の中では、生産手段の支配は法的形式をとらざるを得ない、即ち所有権という形式を。生産手段が私人の財産だということこそ、資本主義体制の本質的要素であり、そのことによって生産手段が人口中の少数者の手に掌握されているのである。この場合経済的生産物の分配は契約という法的形式をとる。それに対し生産手段を政府が掌握する体制、生産手段が国有化された体制が社会主義体制である。この場合生産物の分配は、政府が直接間接に国民に割り当てるという法的形態をとる。何れの場合とも経済生活は立法過程と法適用過程によって規制されている。社会主義の場合には、生産手段の処理を国家の手に収め、経済的生産と分配の過程を、計画経済を樹立することによって統制する規定によって積極的に組織される。資本主義の場合も、経済生活は法の領域外にあるのではなく、一般的に所有権の取得、具体的には生産手段と生産物の所有権の取得を契約に委ねる。契約こそが自由経済の本質である。しかしこの経済的自由は法的自由、法によって保障された自由である。生産手段の私的所有者は、立法によって私有財産制と契約の自由が確立されていなければ、そして所有権が法適用過程において実効的に保護されていなければ、経済権力を行使することができない。このことは特に、生産手段の国有化を主張する強力な社会主義運動が存在する現代国家では明らかである。この経済体制の廃止を綱領とする勢力に対して、生産手段の私的所有者がもつ経済権力は、立法過程と法適用過程によってのみ維持される。
政治的権利は、その保有者に政府、即ち立法と法適用に影響力を与えるものであるはずである。経済権力はこの過程によって保障されるものであるから、経済権力と政治的権利の間に矛盾など存在するはずがない。経済権力はつまるところ政治権力の保有者、即ち特定の経済権力を作り出している経済体制を維持するか廃止するかを決する権力に依存している。
この見解に対して、社会主義者たちは、そのような観方は社会的現実についての「形式的」解釈に過ぎないとして、次のように言う。「資本主義的経済体制において、特に二十世紀の資本主義国家においては、政府は生産手段の私的所有者たちの決定的的な影響下にあり、政府が立法過程や法適用過程を支配しているように見えるのは外見上に過ぎない。実際には政府は、私益のために行動する少数の経済権力の支配下にあるのだ。近代民主制におけるように、経済権力の保有者と政治的権利の保有者とが同一でない場合には、政治的権利は無意味である。なぜなら、政府が資本家の影響下で、政治権力を政治的権利の保有者の意志に従ってでなく、それゆえ選挙民の利益のためでなく、生産手段の私的所有者たちの意志と利益に沿って行使するのであるから。政治的権利が有意味なものとなるのは、生産手段の所有という経済権力が、政府に移され、それが政治的権利の保有者多数の意志に従って、その利益、ということは全人民の利益のために行使される場合のみである」と。
この議論は、「少数者である生産手段の私的所有者が国民の多数によって選ばれた政府に対して決定的な影響力を持っている」という前提、及び「国民の多数は政府の支持する資本主義体制に反対で、社会主義を支持している」という前提と運命を共にする。
国民意志を認識する唯一の方法は、普遍的で平等で自由で秘密投票の選挙による民主的手続きのはずである。どこでも生ずるようなある種の弊害を過大に強調するのでなければ、西洋民主制諸国における議会選挙や首長選挙はこれらの条件を充たしていることは否定できないであろう。このようにして選ばれた政府が資本主義経済体制を保持しているのであれば、この体制が民意に反するものであるとか、(もう少し厳密に言えば)諸政党へと組織された選挙民の多数の意図に反するものであるとかと主張する充分な根拠は存在しないであろう。社会主義経済体制を支持する者が、選挙民の少数であったり、仮に多数を取ってもそれが一時的なものに過ぎなかったりしている場合、「社会主義体制が樹立されないなら選挙制度は無意味だ」などという主張を正当化する充分な理由は存在しないであろう。
生産手段の所有者の政府に対する影響は、選挙民という経路を経てのみ行使され得る。社会主義政党が選挙民多数の安定した支持を得られない場合に、それが生産手段私有のせいであるとは、証明できるはずがない。上述したような民主制の要件を充たしている社会において、生産手段を少数の私的所有者が掌握している場合、そのことによって強力な社会主義政党が成立することを妨げることはできないし、またその政党が多数を掌握して政権に就き、社会主義的経済体制を樹立することを妨げることもできない。確かに、どの政党を支持することが自分の政治的利益であるかについて、主体的に判断できない有権者もいるだろう。政治宣伝によって真の自分の利益を誤って判断する者もいないではない。政治宣伝に従って投じられた票が、投票者の真の意志の表現でないということもあるだろう。しかし社会主義的選挙民と反社会主義的選挙民で、主体的に判断して投票する者とそうでない者の比率が違うと想定する理由はない。また社会主義的投票者の方がそうでない者より民衆の真意を表現していると想定する根拠も薄弱であろう。「反社会的宣伝の方が社会主義的宣伝より経済力に恵まれているから有効だ」とは必ずしもいえないことは先に述べた(6)。ある貧困な人物が、神を信じ、教会の聖職者の「社会党に投票するな」という助言を、反宗教的宣伝者の宣伝より信頼するというようなことはあり得る。また貧困だが民族意識が強く、社会改革を唱える政党より、軍拡を唱える政党に投票するというような人物もいる。だが宗教や民族主義の存在をもっぱら資本主義のせいにするのは馬鹿げたことだ。ソ連のような社会主義国家にも宗教も民族主義も存在するではないか。宗教の方は、国家による反宗教プロパガンダにも拘らず根強く存続しているし、民族主義の方は政策実現の有効な道具として社会主義政府が利用している。
それ故、「民主国においても経済権力は政治権力を常に圧倒し去ることができる」とか、「民主的手続きは決して現実的権力を樹立できない」とか、「政治的権利は国民生活における決定的に重要な問題について決定権を賦与し得ない」とかという主張は端的に誤りである。 「近代民主主義の危機」という誤解招来的な名の下で唱えられている事象は、ただ民主的手続きをとっても社会主義政党が安定した政権を樹立し得なかったということを言っているに過ぎない。社会主義の論客たちが、民主的手続きは単に「形式的」なもので重要でないと言うのは、ただこういうことなのだ。彼らは民主制の「危機」を喋々し、「新たな」「真の」民主制を樹立することを唱えるが、暴力でそれを実現しようとするマルクス主義者でない者は、自由・平等という民主制の原則を、経済的に再解釈しよう、と唱える。その再解釈なるものは「国民による政治」から「国民のための政治」へと重点を移そうとするものである。
確かに危機は存在する。しかしそれは民主制の危機ではなく、現存の資本主義経済体制の危機である。それを救うためには、改革や革命が必要かもしれず、更には不可避かもしれない。しかしその改革や革命は、民主制の本質を変更するものではなく、現在の経済体制を廃止しようとするものである。社会主義経済体制を樹立し、生産手段と生産過程を国家化すれば、大衆の平均的経済水準は向上するかも知れない。しかしそれは民主制の「再活性化」などではなく、民主制を破壊しかねないものである。「政治的権利がもう一度重要性を回復する」(7)ことには到底ならない。もし各人に必須の経済的必要を保障する経済体制が成立すれば、政治への関心はむしろ減退するであろう。特にその社会主義経済体制が、実効的な集団安全保障をもたらす外交政策と結びついている場合には。人間が、飢餓と戦争という二大脅威から解放されれば、政府活動は個人の余り大きな関心の対象でなくなるであろう。政府の経済や外交に関する決定が個人にとって死活の問題であるような場合と比べて、個人の政治への関心は切実でなくなるであろう。非マルクス主義的社会主義者たちは、民主制を「政治的権利が経済権力に対して実際に支配力をもつ政治体制」と再定義することを求めている(8)。即ち民主主義と社会主義を結合せよという主張である。私個人もこの政治綱領に反対でないし、民主制と社会主義は両立すると信じている。しかし私は、この綱領を実現するために民主主義概念の再定義が必要だという主張には反対である。資本主義的民主制を社会主義的民主制に置き換えるために、本書で定義したような、そして現在の資本主義的民主制において既に実現しているような民主制の概念を変更する必要は存在しない。ソ連の理論が示すように、民主制の再定義は危険な試みである。なぜなら、そのようなことをすれば、反民主的政治運動にイデオロギー的手段を賦与する可能性があるるからである。可能性どころか、ソ連においては実際にそのようになっている。
「社会主義と民主制は両立し得ない」という説
上述の議論から、「民主制は社会主義経済体制においてのみ実現される」というマルクス主義の主張が誤りであることが明らかになった。しかしだからといって、「社会主義体制では民主制は実現できない」とか、「社会主義と民主制は両立不可能だ」とかという結論が導き出される訳ではない。広く受け容れられている資本主義論によれば、「社会主義は必然的に自由の抑圧であり、そこでは、被治者の統治への参加という積極的自由も、統治からの自由、経済的・精神的自由という消極的自由も抑圧される」「民主制は資本主義的経済体制においてのみ可能だ」というのだが・・・。
本論文で定義したような民主制が資本主義社会において可能であることは、論を俟たない。社会主義者たちも、資本主義的民主制は「真の」民主制でないというのだが、「真」でない通常の意味の民主制が可能なことは否定していない。従って問題として取り上げるべきは、「民主制は社会主義と両立不可能で、資本主義経済においてのみ可能だ」という主張の成否である。
この問題は通常社会主義の核心である計画経済との関連で論じられる。この経済体制の反対者たちは、「経済活動は高度に複雑なものであり、それは民主的に統制する訳にはいかない。即ち利害の対立する諸政党によって短い任期で選ばれる多様な構成の人々の多数決では経済活動は遂行し得ない。経済活動というものは、実際上無限定の権限をもつ独裁者に率いられた専門家集団によってのみ運営され得るものである」と主張する(9)。そこで計画経済は民主制の本質的要素である自由を抑圧せざるを得ないというのである(10)。しかし先に述べたように、民主制的自由といっても二種類のものがある。即ち積極的自由と消極的自由である。前者は政治的自由とも呼ばれ、自律、被治者の統治への参加、即ち強制秩序の創造と適用への被治者の参加を意味し、後者は精神的自由とも呼ばれ、統治や強制からの自由が憲法の人権規定によって保障されることを意味する。「計画経済は当然に政治的自由の抑圧を随伴する、従って社会主義と民衆的手続きとは両立しない」、という論点に関して言えば、考慮に入れるべきは、民主的であると一般に考えられている資本主義社会においても、民主的原則が実現されている度合は立法・行政・司法で異なるということである。法創造、即ち立法の方が、法適用、即ち行政・司法よりも民主制の原則は高度に実現されており、法創造機能の民主化と法適用機能の民主化とが必然的に随伴する訳ではない。国家を地域的に分割して地方行政機関を設置することが必要な場合、その機関が地域住民の選挙によって選出されている場合には、高度の民主制が実現されている。しかし地方行政機関の統治構造は必ずしも中央の立法機関の構造と同一ではない。中央政府において少数派野党である政党が地方では多数党である場合、地方政府は中央政府の制定した法(比喩的に言えば「全国民の意志」)を良心的に適用しないこともあり、その場合部分の民主制が全体の民主制を阻害することにもなる。中央政府の首長が地方政府の首長を任命し、後者の行政の適法性について前者に責任を負うようにすれば、民主的という点では劣るが、中央政府が採択したいわゆる「国民の意志」を実施するという点では遥かに効率が良い。政治体制全体の民主制という点から見て、最高の立法機関の民主化は、法適用機関(行政機関や司法機関)の民主的組織よりずっと重要である。 全体の民主制のために行政・司法における民主的原則を限縮することは、法適用機能の合法性の要請によるものであるが、そればかりではない。
行政の効率という要請もまた同じ方向に作用する。行政が非効率的であると民主的国家の存立が危うくなるとか、民主性の程度を下げることが行政の効率を引き上げることになるとかという考慮から、全体の民主制を擁護するために非民主的行政組織が選ばれることもある。近代民主諸国すべてにおいて、行政権の首長の選任は議会選挙よりもずっと非民主的な方法で行なわれるのはそのためである。間接選挙で選ばれ、議会に責任を負わない米合衆国大統領はその例である。司法官は行政権の首長によって選任されるから、民主性という点で程度が低い。職業訓練を受けた法律専門家のみが司法官となり得るという原則、特に裁判官はその任命者・選任者から独立であるべきだという原則、更に裁判官は罷免不可能だという原則などは、非民主的だといえば非民主的に相違ない。しかし我々は、裁判官は行政権の主張が選任し、独立で罷免不可能だと定めた憲法をもつ国家を民主国と呼ぶことに問題を感じない。なぜならこのような司法行政の型は、それ以外の型より民主的国家にとって有益だと考えるからである。民主制の模範と考えられている資本主義国家においても、行政権の首長は軍事や外交の関しては広範囲の裁量権を有しており、また例えば衛生行政のような、純粋に技術的な領域に関しては、政府活動に専門家が大きな発言力をもつ。行政が技術的であればあるほど、また目的達成のために適当な集団が科学的専門性に左右される領域であればあるほど、その領域を民主的手続きから解放することが、国家全体の民主制にとって却って重要なのである。現代国家において行政はいよいよ官僚化しているが、その官僚化が技術的領域に限られている限りは、民主制にとって深刻な危険ではない。
社会主義的経済体制が、普遍・平等・自由・秘密選挙によって選ばれた議会の多数によって採用され、維持されている限りは、その行政は概して技術的な性格のものである。そこでの行政が多少とも非民主的に組織されているとしても、その社会主義国家が民主的でなくなる訳ではないのは、西洋資本主義国家において官僚や専門家の発言力が大きいからそれが民主国でないとはいえないのと同様である。確かに計画経済における行政部は、それが充分に機能するためには、国家最高機関の民主的性格と両立しないほどの裁量権を要求し、立法権を縮減するという可能性はある。しかしそうなるかどうかを判定するには、我々の経験はまだ不足しており、過去の経験は、社会主義は不可避的に独裁をもたらすとは教えていない。ロシアの経験は、一大国といくつかの小衛星国の、僅か一世代のものであり、未だ何ものも証明しない。特に、我々が問うているのは、「社会主義は民主制と原理的に両立可能か否か」であって、「民主政体の下で社会主義がどの程度まで実現され得るのか」ではない。少なくとも当面の問題として、両立不可能であるとはいえない。
社会主義は「法の支配」と両立しないというハイエクの主張
「社会主義は民主制と両立し得ない、民主制と資本主義は必然的に結びつく」という議論においてしばしば持ち出されるのは、「いわゆる『法の支配』は資本主義経済体制においてのみ可能で、社会主義体制においては維持され得ない。そして法の支配は民主制の本質的要素であり、法の支配こそが自由の保障者である」という議論である(11)。
この論者は言う「法の支配」とは、国家の行政活動や司法活動が可能な限り一般法規範によって決定さるべきだという原則であり、それに従えば行政機関や司法機関は最小限の裁量権しか認められず、恣意的統治が避けられ、自由が保障される、と言う。彼らは、計画経済においては、事前に規定された一般規範によって行政を規制することができないから、恣意的統治が不可避であり、自由は失われる、と主張する。しかしこの議論が正確なものかというとそうでもない。まず、いわゆる「法の支配」は一般規範を制定する立法権を拘束するものではなく、人間行動が一般規範によって制約される限度が定まっていない[議会が沢山法律を作れば、自由はいくらでも制約される]。従って法の支配が保障するのは個人の自由ではなく、個人の予見可能性である。しかも個人がその行動を適合させるべきその予見可能性も、法適用機関、即ち行政機関・司法機関の行動に関する限りである。「法の支配」の原則は、個人の他者との関係が微細な点に至るまで一般的規範によって決定し尽くされていて、行動の自由がほとんど存在しない場合にも支配している。そもそも「法の支配」の原則は、政府に服従する個人の自由を保障するものではない。それは政府と個人の間の関係ではなく、政府内部における立法機関と法適用機関の間の関係を規律する原則、後者を前者に従わせようとする原則である。従って「法の支配」の行なわれるところ、統治活動(即ち法創造過程と法適用過程)が合理化される。その目的とするところは自由ではなく安定性、法の領域に関していえば(ドイツ法学で言う)法的安定性(Rechtssicherheit)である。もし民主制と経済体制の問題が合理化や安定性という見地から論じられるのであれば、生産の無政府性を本質とし、経済的安定性の保障からほど遠い資本主義に反対して、計画経済による経済過程の合理化と安定こそ社会主義の目標である。こういう[不安定な]資本主義経済のありようを、資本主義下の民主国において、「法の支配」によって阻止しようとすることは不可能である。なぜならそこでは経済活動は直接法によって規制されていないからである。社会民主主義のもとでは、「法の支配」の原則は経済活動の法的規制に適用されないかも知れないが、経済過程の合理化と経済的安定が実現される。
統治の恣意性に関して言えば、「法の支配」によってそれが阻止されるという想定は、以下の二つの要因によって阻害されることを忘れてはならない。第一に、一般的法規範によって法適用機関の行動の自由を制約するといっても、法創造機関と法適用機関の間に存在する関係の本質によって、即ち一般規範と個別規範の間の関係によって、その可能性は限定される。特定個人に一般規範を適用するという場合、即ち権限を有する機関が具体的事例について行政行為ないし司法行為を発する場合、その行為は個別規範である。行政庁や裁判官は、「〇〇をなせ」あるいは「〇〇をなすな」と命ずるが、この命令の意味は、特定個人が特定の行動をとることを命ずる規範である。「法の支配」の原則は、行政機関や司法機関が発する個別規範の内容を可能な限り一般規範によって限定しようとする。しかし個別規範の内容を一般規範によって完全に決定し尽くすことは決してできない。それが可能であるならば、個別規範を発することなど無用のことであろう。一般規範を適用する任務をもつ機関には、常に一定の裁量権限が容認されている。一般規範は、個別規範がその中で創造を許される「枠」であり、個別規範は必ず一般規範に含まれていない新たなものを含んでいる。法の適用は必然的に法の創造でもあって、そこには一定限度の恣意性が必然的に随伴している。行政機関や司法機関が発する個別規範も、立法規範の発する一般規範に劣らず法規範である。もっとも立法機関のもつ裁量権、その「恣意性」は実際上無限であり、議会は主権者である。そしてこの議会主権とは、代表制民主主義における国民主権に他ならない。
第二に、権力の恣意性に関連してもう一つ忘れてはならないことがある。即ち行政の技術性の問題である。即ちある行政目的を達成するためにどの手段が適当かという問題は、科学的経験によって決定され、専門家が直接間接に行政に参加する。また一般法規範が定めていないからその下での個別法規範の内容がが当然に恣意的だともいえない。例えばスイスのような国で、政府が民選議院の制定した法に基づいて鉄道を運営するというような場合、一般法規範によって機関車製作の方法やレールの敷設の方法を定めるのは馬鹿げており、それを法律で定めていないから政府は恣意的に行動しているとは考えられないであろう。技術的決定が専門家に委ねられているから「恣意的」だとは簡単に言えないのである。
法の支配を阻害しかねない第二の要素はもっと深刻である。解釈なき適用は不可能であり、法の適用は常に法の解釈を随伴する。行政機関や司法機関が適用する一般規範は、当然人間の言葉で表現されており、人間の言葉というものは必ず多かれ少なかれ多義的なもので、一般規範には、相異なる、時には背反する解釈が可能である。それ故、行政機関や司法機関の決定が、あらかじめ一般規範によって細かく規定されているとしても、その適用を受ける者の予見可能性は、「法の支配」論者たちの思っているほど高くない。絶対的法的安定性なるものは幻想に過ぎない。伝統的法学が、「自分の解釈以外の解釈は不可能で、法学は常に唯一の正しい解釈を示すものだ」と唱えてきたのは、法を求める公衆に対してこの幻想を維持しているように見せかけているものである。法的観点からすれば、本当は諸解釈は何れも同等に正しいのである。
慣習法は、一般法規範を成文化していないから、多様な解釈の可能性が一層大きい。その点で、代表的な米国の法学者ハーヴァード・ロースクールのグレイ教授(12)が、「すべての法は裁判官によって作られる」と唱えて、民主国家内での「法の支配」の原則を完全に否定してしまったのは、極めて興味深いことである。コモン・ローは根本的に慣習法であるから、一般法規範の拘束力は極めて小さいのである。
行政機関や司法機関が一般規範を様々に解釈し得ることは、上訴制度の存在根拠の一つである。しかし上訴もどこかで終らざるを得ないから、最終審の決定は、一般規範に適合していようといまいと法の効力をもつ。最高の行政機関ないし司法機関の裁量権を制約する方法は実際上存在しない。その決定は法の効力を持つのである。この制度は、徹底した民主国を含めたあらゆる法体制が採用しているところで、民主国におけるように、最高行政機関や司法機関が最高立法機関と一致しない場合、即ち権力分立制が採用されている場合には、「法の支配」の原則に重大な侵害を加える可能性がある。
「法の支配」の原則は、実現可能な限度では、民主制に付属する制度であるが、資本主義的民主制においては、経済領域が直接的な法的規制の外にあるから、経済領域には適用されないことは、先に述べた。他方計画経済において「法の支配」の原則が経済運営に適用できない、あるいは実効的適用が困難であるという事実を認めても、だからといって民主的性格をもった社会主義国家の他の領域が「法の支配」の原則の適用外となるという訳ではない。
専制支配の典型的な型においては、確かに権力活動を合理化しようとしないであろうから、「法の支配」の原則は好まれないかも知れないが、専制政府も実際にはある程度まで法の支配の原則を採用せざるを得ない。なぜなら、専制支配者とてあらゆる行政的・司法的決定を自分で下す訳にはいかず、代理機関・下位機関を任命せざるを得ないからである。専制支配者も必然的に、行政機構や司法機構を設置するか、前任者から承継することになるから、それらの機関に自分の意志や意図を可能な限り実現させようとするならば、行政機関や司法機関の決定を制約しようと試みざるを得ない。これらの機関は支配者の名において、一般規範に従って決断することになる。その一般規範は、支配者が自分自身で定めるか、最高立法者としての支配者の統制下に置かれる専門家が起草する。その場合でも、民主体制と専制体制との間には重要な相違がある。一般法規範の変更や、具体的事例における原則に対する例外の導入は、民主制の場合、専制支配の場合よりずっと困難である。
前者においては複雑な議会手続きを経ざるを得ないが、後者においては、支配者の意志が法であるから、一人で決断すればよい(13)。しかしこの点に関して資本主義国家と社会主義国家の間で本質的な相違があると考える理由はない。即ち計画経済体制をとる国家における立法機関と行政機関の関係が、必然的に最高行政機関の専制になるはずだ、その機関が当然に一般規範の例外を設ける無限定の権限をもつはずだ、とはいえない。
民主制と経済的自由[ハイエク批判の続き]
以上の分析の結論は、「被治者の統治への参加という意味での積極的・政治的自由(民主制)に関する限り、それは資本主義経済体制とも社会主義経済体制とも両立し得る」というものであった。それでは消極的自由、即ち被治者の強制秩序創造・適用への参加ではなく、強制からの自由、憲法上の人権規定による特定の自由の保障という点ではどうだろうか。経済的自由主義としての資本主義がそのような自由を要請することは当然のことで、歴史的事実でもある。他方経済的自由主義に対立する計画経済体制としての社会主義が経済的自由と両立しないこともまた当然である。社会主義はその本質上経済関係への強制秩序の拡張だからである。しかし「民主制の本質的要素をなす自由は社会主義と両立するか」という問題に関しては、経済的自由は決定的重要性をもつ主題ではない。第一に留意さるべきことは、十九世紀の古典的自由主義においてさえ、経済的自由は完全なものではなかったことである。そこでも「国家の強制秩序は経済問題に一切干渉してはならない」とは要求されなかった。自由主義的資本主義の基礎をなすものは私有財産と契約の自由であるが、それとて当然法的制度であって、資本主義的民法の主要な役割は私有財産を護り、契約の履行を強制するところにあり、窃盗・詐欺・横領のような経済犯罪に刑罰を結びつけることは、資本主義的刑法の基本的役割である。近代国家発展の特徴は、経済的事象に対する法的規制の増大傾向であり、労働法や独占禁止法は国内政策の不可欠な要素となっていて、これらは明らかに経済的自由の制約である。この傾向が西洋諸国を民主的でなくしたとはいえないであろう。現代世界から民主制が消えてなくなった言うのならともかく、そうでなければ経済的自由の原則を民主制の定義に取り込むことはできない。民主制にとって本質的なのは、経済的自由ではなく、精神的自由、信教の自由、学問の自由、報道の自由などである。そこで中心問題は、「計画経済によって経済的自由を廃止した政治体制において、精神的自由が存立し得るか」にある。この問題は「経済領域の集権化は他の領域の集権化を必然的にもたらすか」という形で定式化され、代表的経済学者の一部は「イエス」と答えている。彼らは「集権化は経済には限定できない。経済的自由が抑圧されれば、精神的自由も維持できなくなる。経済生活を統制する集団主義は、必然的に精神生活も統制することになる」と主張する。社会主義に対する資本主義擁護論の最も重要なものはこの議論である。しかし、逆説的に見えるかもしれないが、この議論は、マルクス主義と、全く同一ではないが、非常に似ている。即ちマルクス主義は経済的下部構造がイデオロギー(精神的・法的・政治的上部構造)を決定すると言うが、この主張も政治的全体主義が特定の経済体制の結果としてもたらされるというのであるから、これも一種の社会現象の経済的決定論である。
この議論は、自由主義的資本主義の個人主義に対して、社会主義は団体主義であるという想定と、団体主義と全体主義は同一であるという想定の上に成立している(14)。しかし両者は同一ではない。団体不義は社会的現実の中で様々な段階のものが存在するのに対し、全体主義は団体主義の極限形態だからである。規範によって規律された個人間の相互関係の秩序は一つの集合体をなすから、それは一種の団体主義である。しかし規範的秩序は、それが規律の対象とする効力領域、即ち規律対象となる人間関係の範囲についても、集権性の度合いについても、多種多様である。徹底的に分権的で、殺人と近親相姦の禁止のような最低限の規制のみをもつ原始的な社会秩序とて、集権化のある段階である。それに比べれば、近代国家はかなりの範囲の規制対象をもち、はるかに集権度が高いが、全体主義とはいえない。確かに社会主義は、経済生活の集権化であるから、団体主義ではあるが、経済の集団化が人間生活全体の集団化を必然的にもたらすものかどうかがまさしく問題である。「経済生活の集権化は必然的に人間生活全体の集権化をもたらす」と考える人々は、次のように説く(16)、「経済生活と他の人間生活とを分離することはできない。なぜなら、経済以外の目的を実現するためにも、経済的手段が不可欠だからである。経済はあくまで目的のための手段であって、窮極目的は経済的なものではない。例えば宗教的信仰を共有する人々が、その信仰箇条の求める共同の礼拝を行なおうとすれば、その場としての建物が必要となる。即ち精神的必要を実現するための経済的手段が必要となる。そこで経済的手段が中央権力の統制下に置かれている社会主義社会においては、目的の実現はこの権力の決断に依存する。即ち権力は非経済的目的をも統制することになるのである。従って国民はこの目的実現を自由に実現する訳にいかなくなる」、と。それはその通りであるが、資本主義社会において、状況がこれと異なっているであろうか?計画経済でなければ、非経済的必要の実現は自由に探求され得るものであろうか?先の例でいえば、信者たちに礼拝のための建物を買う金がなければ、銀行の融資を求めるかも知れないが、銀行の方でもっと確実で有利な投資先があれば、融資を断るであろう。もちろん資本主義社会では銀行間に競争があり、彼らは別の銀行に融資を求めることもできる。しかしこれとてうまくいくとは限らない。融資してくれる銀行が見つからなければ、資本主義社会においても、宗教的欲求を経済的手段を用いて実現することは、社会主義社会の場合と同様に、自由ではないこととなる。仮に憲法が信教の自由を保障していてもである。ハイエクは、資本主義社会においては、「困難は、誰かが我々の目的に反対するからではなく、誰かが同一の手段を需要するから生ずる」のだと言う。しかし非経済的目的のための経済的手段を「誰かが需要すれば」、自由ではないではないか。礼拝のために建物を必要とする者の立場から見て、その必要な経済的手段を与えることを拒否する者が銀行であろうと、国家であろうと違いはない。また「社会主義経済体制においては、仕事を選ぶ自由がなくなる」という主張もある。それはその通りだが、資本主義経済体制においても、その自由を享受するのは特権的な少数者である。職業選択の自由を立法的・行政的・司法的に制約することは禁止されているにも拘らず。
「資本主義社会において非経済的欲求を充足する自由をもつのは、富者であって貧者ではない」(17)とは社会主義者の言い草であるが、この言葉にも相当の真理が含まれている。また「社会主義経済体制において、衣食住という基本的経済的欲求が充足されると、人々はそのためにあくせくせざるを得ない状態から解放され、資本主義社会において標準的な人間の選択の自由を狭めている恒常的圧力から解放される」という議論にも真実が含まれている。ここで実現される自由とは、経済的自由ではなく、統治からの自由、国家という強制秩序からの自由ではなく、自由主義経済体制のもたらす強制からの自由である。経済的必要を充足するためにしなければならないことからの解放が、この経済的欲求充足の自由の抑制によって達成されるということは、一見逆説的に見えるが、そうではない。強制からの解放は、その本質上相対的自由であり、ある者にとっての自由は他の者にとっての隷従である。従って一者の自由の抑圧によって他者の自由が保障され、その逆も真なのである。
我々の非経済的欲求を経済的手段によって実現するという主題に関して言えば、そのような自由が社会主義において可能か、資本主義において可能か、というような問題設定は誤っている。なぜなら何れの体制においてもその充足は一定限度可能だからである。あくまで一定限度ではあるが。正しい問題設定は、「両体制において、自由実現の度合いに大きな違いがあるか否か」である。この問いは歴史的経験をもとにしてのみ解答し得るもので、現在まだ経験が不充分である。
しかし仮にこの問題への解答が、何れかの経済体制の方が自由を保障するというものであったとしても、そのことは「民主制は社会主義と両立し得るか、資本主義のみとしか両立し得ないか」という問題とは何の関係もない。なぜなら問題は、経済的手段によって非経済的目的を実現する自由にはないからである。近代民主制の本質的要素をなす消極的自由は、信教・学問・芸術活動、出版等による表現や結社などを立法・行政・司法行為によって制約することを憲法上禁止することであって、民主憲法が保障する自由や権利は、統治権力を制約することの反映である。ところが、先に示したように、これらの精神的自由の憲法上の保障は、その精神的欲求を実際に充足することを保障するものではない。それに必要な経済的手段の存在は保障されていないからである。それ故、民主的憲法によって保障される人間的自由は、単に「形式的」「法的」自由に過ぎない。資本主義的民主主義が保障するのは、そのような形式的・法的自由である。他方「社会主義社会においてそのような形式的・法的自由を保障することができない」とか「政府が直接経済的手段を統制し、間接にその手段によって達成される非経済的・文化的目的を統制する場合に、資本主義的民主主義で行なわれているような、憲法による立法的・行政的・司法的自由侵害行為の制約は不可能である」とかと考えることには、歴史的経験に支えられた充分な根拠がない。「政府が印刷機と紙の生産・分配を政府が統制すれば、政府の政策に反対する雑誌や書籍の刊行を許容しないだろう」と言われる。それはあり得ることで、現にソ連ではそうなっている。しかしそれは可能ではあるが、必然ではない。生産手段の国有化がその本質上当然に出版の自由を保障する法制度を不可能にするとはいえない。そこでの法的保障も資本主義的民主主義における保障と同様の実効性を有し得る。
「民主制は競争的権力樹立である」というシュムペーターの議論
資本主義経済体制の特徴の一つは、自由競争の原則である。社会主義経済体制はそれを排除する。シュムペーターは、民主的過程を「人民の投票を獲得するための競争を通じて権力保有者を決定する制度」と定義し、社会主義と民主制が両立不可能だとまでは主張しないが、資本主義は社会主義より民主制に親近性をもっているということを示そうとする(18)。「民衆による支配」という民主制の定義は「競争による権力樹立」という定義に代置されるのである。
しかし民衆の投票をめぐって競争するのは、選挙の結果であって、目的ではない。直接民主制においては、選挙など存在しないではないか。民主制かそうでないかの第一の判別基準は、統治権力が民衆のもとにあるか否かである。民衆がこの権力を直接行使し得ないか、することを欲しない場合には、自由な選挙によって代表者にこの権力を授権し、自ら統治する代りに、政府を樹立する。そうなれば自由な選挙と言うことになるが、民衆の投票をめぐる競争は、こうして第二次的に生ずる判別基準である。この二つの基準の順序を逆転させ、自由な選挙による政府の創造を第一の基準とすることによって、民主制は「競争によって樹立された政府」と定義されるのである。このような順序の入れ替えは、民主制の本質と矛盾するばかりか、選挙によって政府を樹立する制度においても、最も民主的な制度は、民衆の投票獲得をめぐって競争する過程を消去ないし極小化する比例代表制であるという事実に反している。比例代表制においては、選挙における多数−少数の関係は意味をもたない。政治集団は、過半数の票を得なくても選出され、少数派集団でもその得票数に比例した代表者を送ることができるからである。選挙に参加する集団となるためには、最低の員数が要求され、その数が少ないほど議員数が多くなる。数学的な極限においては、一人いれば選挙に参加でき、代議員数と投票者数とが同じになる。これが即ち直接民主制である。そのような民主制は、代表制・間接民主制よりも、「民衆による支配」である度合いが高い。比例代表制が志向する方向はこれである。
「比例代表制は実効的統治を保障せず、多数代表制の方が好ましい」という主張がある。それは一応その通りであろう。しかし多数代表制論者たちは、比例代表制の欠点を過大に言い立てている。それはともかく、比例代表制が非能率であるということは、それが民主的か否かという問題とは無関係である。直接民主制が間接民主制より非能率であっても、前者は後者より民主的である。ここでの主題は能率ではなく、民主制の本質である。この観点からすると、すべての政治集団が代表されている集団は、多数党のみ、あるいは多数党と一少数党のみが代表される集団より民衆の意志をよく表現することは明らかである。そして比例代表制の最大の利点のひとつは、諸政党の候補者たちの間での競争が不必要であることである。多数代表制においては、各議員は一集団(多数派)の投票によって選ばれ、少数派の得票は蹂躙される。それに対し、比例代表制においては、少数派の得票も蹂躙されない。比例代表制は、代表民主制の中では自律の理想に最も近いもので、民衆の投票をめぐって争うことを必要としないからこそ、最も民主的な選挙制度なのである。
資本主義と寛容[シュムペーター批判の続き]
資本主義は社会主義より民主制にとって適合的な経済体制であることを論証しようとして展開される議論の一つに、近代民主制の本質的要素である寛容の原則の保障において、社会主義より資本主義の方がまさっている、という議論がある。シュンペーターは言う、
本性上国家依存的に生きることを建前とする階級と、国家から放置されることを求める階級とでは、後者の方が民主的自制を実践することが容易である。その関心事がよほど脅威にさらされない限り、たいてい私的関心事に埋没しているブルジョワジーは、他の人間類型よりも、異なった政治的立場に寛容で、自分と異なった意見を尊重する可能性が強い。ましてこのブルジョワ的規範が一般的になった社会では、このような態度は他の諸階級にも拡大するであろう(19)。
資本主義社会において、ブルジョワの私的関心事、私有財産制と営業の自由が保持され、「よほど脅威にさらされない」限り、彼らが寛容なのは当然で、その点で社会主義と非常に違うとはいえない。誰でも、自分の主要関心事が確保され、自分にとって重要な価値が他者にその実現を妨害されない限り、自分にとって二次的重要性しかもたないと思っている価値について、他人がそれを実現しようとするのを妨げはしない。社会主義政府とて、その経済体制の基本原則が脅威にさらされない限り、寛容な態度をとるであろう。近時の経験によれば、資本主義体制が内外の反資本主義勢力によって脅威に曝された時、第一に放棄されたのは寛容の原則ではなかったか。恐らくは社会主義体制においても同じことが起こるであろう。多数派と少数派の対立が妥協不可能なまでに激しくなり、「少数派は多数派の意志に服すべきである」という政治ゲームのルールが受け容れられなくなった時、そして政府が力による転覆を恐れるようになった時(その恐れが正当なものか否かは別問題である)、民主制が機能しなくなることは否定できない事実である。このことは資本主義的民主制にも社会主義的民主制にも等しく当てはまることで、経済体制の如何を問わないのである。ただ民主制の専制支配に対する特色は、反政府的精神運動を力で抑圧する場合、民主制はその本質的要素の一つを失い、民主制でなくなることである。専制支配の方は、そうすることが当然で、失うものはないのだが。
ジョン・ロック自然法論における私有財産と自由
個人の自由が民主制の基本原則で、個人的所有権が資本主義の基礎であるとすれば、民主制と資本主義が不可分の関係にあることを論証するためには、所有権と自由との間に不可分の結び付きがあることを示さなければならないはずである。そのような結びつきの証明を最初に企てたのは、近代民主制のイデオロギーの骨格を形成した人物ジョン・ロックの自然法論で、後にヘーゲル哲学においてもその結びつけが試みられた。ヘーゲル哲学は、現代政治思想においてなお重要な役割を果たし続けている。
ロックの倫理的・政治的推論において、自明のものとして前提されている至高価値は、自由の観念である。彼は「地上における上位の権力からの解放」を意味する「自然的自由」と「権力の下での自由」とを区別する。後者は、「(立法権によって設定され、万人に平等に適用される)規範の命じていないことについて自分の意志に従う自由、他者の不安定・不確定・不可知で恣意的な意志に服さない」状態を意味する(20)。言いかえれば、人間が自由であるとは、人間が「自己の主人」であることである(21)。
ロックにとって、所有権の問題は、聖書によれば、神は「大地を人類共通のものとして与えたのに[詩篇一一五・一六]、誰かがある物に所有権を持つようになることが、どうして可能になったのか」という難問である(22)。即ち彼にとって所有権の問題は、最初から個人的・私的所有権の正当性の問題であった。この個人的・私的所有権の正当性と言う問題には、聖書の啓示を根拠とすることはできない。そこで彼は、「神が全人類に共同物とした与えたもののある部分について、全員の明示的な合意がないのに、誰かが所有権をもつということがどうして許されるのか」というという問題(23)に解答を与えようと試みる。ロックは、自分で自分に課したこの問題について、聖書の啓示以外の根拠から、個人所有権の正当性を導き出そうとする。神は人類に、共有物である大地を利用するに当って、「生活の最大の利益と便宜に役立てる」ことができるように、理性を与えた。大地のもたらす果実や動物は共有物であるが、誰かがそれを利用し、便益を得るには、それを「自分のものにする」(appropriate)することが必要である。
そうなれば、それらは「他者がそれらへの権利をもたない自分のもの、自分の一部となり、それを生活のために利用するのである」と言う(24)。しかしこの議論は、生存のための直接的必要物である食物への個人所有権を基礎づけ得るのみである。なぜなら個人の排他的処分が不可欠なのは食物のみだからである。ところがロックの意図は、個人的所有権一般を正当化するところにあり、この議論では行き止まりとなるので、この論法を更に推進することはしない。彼は食物を自分のものにする場合のみならず、他の諸物をも自分のものにする場合の方法に関心を向ける。その方法とは労働のことである。曰く、
大地や諸々の下等動物は万人の共有物であるが、各人は自分自身の身体(person)を所有しており、これについてはいかなる他者も権利をもたない。だが彼の肉体の労働や、彼の手が創りだしたものは、彼の所有物である。自然が与えた状態、自然がそこに残してくれたものについて、それを自然から取り除き、それと彼の労働とを混ぜ合わせ、彼自身のものと合体させれば、それは彼の所有物となる。自然がそこに置いた共有状態から、彼はそれを取除いた。この労働によって、他者の共通の権利を排除する何物かがそれに付け加えられたのである。この労働が、労働した者の所有物であることは明らかであるから、それと合体した物に対する権利は、彼のみが有するのである。少なくとも他者たちに、量的に充分で質的にもそれに劣らない物が残されている限りは(25)。
このロックの議論が十八・十九世紀の社会理論に与えた影響は、いくら強調しても強調しすぎることはない。それ故この議論を丹念に検討してみることは、無駄でない。
ロックが個人所有権の正当性の根拠としている根本命題は、「人間は自分自身の身体について所有権を有しており、自分以外の何人も自分の身体に権利をもたない」という命題である。身体についての「所有権」なるものは人体の自由のことである。即ち自然状態において人間が地上の上位の力から自由で、他者の恣意的意志に従属しないことを意味する。この自由、個人のもつこの排他的自己処分権は、所有権、即ち物の処分に関して他者を排除する権利とは、明らかに異なったものである。自分の身体の排他的処分権が、自分の身体のもつ労働力を行使する権利、自分の手を自分の意志に従って働かせる権利を含むならば、その者のもつ自由とは労働し勤労する権利を意味するが、それはあくまで自由概念に関わるもので、所有権概念に関わるものではなく、自分の労働が自分の所有物であることを意味するものではない。もっとも所有権は自由を至高価値とする道徳体系・政治体系において正当化されるもので、自由によってのみ正当化され得るものであるから、所有権と自由とは無関係ではない。それ故、「自由とは人間の自己自身について持つ所有権である」という議論が出てくるのである。そして労働は人格の働きであるから、労働を所有物と呼ぶことにもなるのである。
人間が労働において有する所有権とは自由のことであるならば、この所有権を他の物に拡大することは自由の拡大である。人がある物に自分の労働を混入することによってそれを自分の所有物にするのは、自由の行使として正当化される。ロックが所有権を、人間の持つ自律という自由の理念によって正当化できると考えていたことは、「自然の事物は人類に共有さるべきものとして与えられているが、人は自らの主人であり、自己の身体の所有者であり、身体の行動・労働の所有者であるから、やはり所有の根拠を自らの内に有しているのである」(26)という彼の言葉から明らかである。自由こそが所有権の基礎である。ところが、ロックはやがて自由の観念を後景に退かせ、所有権の概念を前景に押し出してくる。彼は「人間は、他の人々と平等に、完全な自由への権原、即ち自然法の与えるあらゆる権利と特権を制約されずに享有する権原をもって生れた。人間は、自然から、自己の所有(生命・自由・財産)を他者の侵害や襲撃から守る力を与えられているばかりか、自然法違反行為を裁き罰する力を与えられている」(27)と言うが、ここで自由概念を所有概念に含めていることに注目すべきである。それ故ロックが「所有の維持」を「国家社会」(civil society)の主要目的と考えている(28)のは驚くに当らない。彼によれば、国家には「立法権」のみならず、「外国人が国民の誰かに加えた侵害を処罰する力、即ち和戦の権力が賦与された」が、「それは全国民の所有を可能な限り守るためである」(29)。国家の目的が所有の維持にあるならば、国家が所有権を廃止することはできない。彼は言う、
最高権力といえども、何人からもその同意なしに所有物の一部といえども奪ってはならない。なぜなら政府の目的は所有物の維持にあり、人間が社会に加入するのはそのためなのであるから、人々が所有権をもつということが、必然的前提であり、要件である。所有権がなければ、そもそも人々が社会に加入する目的が失われのであり、そのようなことをすることは、人間にとって自己矛盾の背理である。人は社会内において所有権をもち、団体の法が自分の物と定めた財貨に対する権利を有するのであるから、何人もその者の同意なしにその全部ないし一部を奪う権利をもたない。これなしには所有権などというものはあり得ない。他者が私の意志に反して好きな物を奪い得るならば、私の所有権など存在しないではないか。それ故、国家の最高権力・立法権が欲するままに行動し得て、国民の財産の全部または一部を恣意的に処分し得ると考えるのは誤りである。・・・絶対的権力が必要な場合もあるが、絶対的であるからといって恣意的である訳ではない。その権力はやはり上述の理由によって制約される。即ち権力は絶対権力を必要とした目的の限度を越えることはできない。そのことを理解するためには一般的な軍隊の規律を見ればよい。軍隊を存続させ、それによって全国家を存立させるためには、上官の命令への絶対服従が必要で、その命令が兵士に最大の危険をもたらすものであったり、不条理なものであったとしても、それへの不服従や反抗は死罪となる。しかし、兵士を敵の大砲の砲口の前に進軍するように命じ、死ぬ他ないような塹壕の守備を命ずることのできる下士官でも、その兵士に一ペンスの銭を渡すことを命ずることもできない。まして、持ち場を放棄した者や生存可能性の乏しい命令への不服従者に死刑を命ずる権利をもった将軍でも、その生死の決定権をもってしても、兵士の財布から一銭を取ることも、その持ち物から一品を奪うこともできない。何でも命令でき、ほんの僅かの不服従に対して死刑を科し得るにも拘らずである。なぜかといえば、指揮官の権力の目的は、共同体の他の部分の存続を図るためであり、そのためには盲目的服従も必要とされるのであって、兵士の財産を処分することはそれと無関係だからである(30)。
個人は生命には絶対的権利をもたず、他者による生命放棄命令には反抗できないが、所有物の処分命令には反抗できるというのである。なぜかと言えば、命を棄てることは自由だが、財産権は自由権より上位にあるからである。こうして所有権を自由によって正当化しようとしたロックの試みは、まさしくその基礎をなす「自由は最高の価値である」という思想を放棄する結果を招いたのである。
自然法論と共産制
ロックによれば、自由権と私有財産権との間には本質的な結びつきがあり、その根拠は自然法にあって、両者ともにこの自然法から導き出されるのであるが、ロックは自然法論特有の方法を用いてその帰結に到達した。自然法論は近年政治思想・法思想の有力な潮流となり、一部の権威者たちはそれを共産主義の専制支配に対して民主制を擁護する強力な堡塁であると唱えている。しかしそれはどうか・・・。というのは、自然法とその特有の方法を基礎として、「私有財産制こそ反自然的で、諸悪の根源である」ということを証明した者もいるのであるから。彼らによれば、社会的害悪を根絶するためには、私有財産制を廃止し、共産主義体制を樹立する他ない、共産主義こそが自然の命ずる経済体制である。一七五五年にパリで匿名の著者により刊行された『自然の法典:自然法の真の精神』という題の書物(31)はまさしくそれを主張している。その著者はモレリーとかいう人物であるが、 彼の正体はよくわからない。この著書が最初著名な百科全書派の思想家ディドロのものだと推測されたのは興味深いことである。それはやがて「十八世紀社会主義の重要文献」(32)となり、フランス革命期の共産主義運動の指導者バブーフは、しばしば『自然の法典』を引用している。同書は後にフーリエなどの共産主義者たちが展開した諸思想の先駆をなしている(33)。『自然の法典』は、その題名が示すように、自然法論の嫡出子で、「自然は明確な意図をもっており、その意図は理性によって知り得るものである。すなわちそれは人類の幸福を意図しており、正義は我々の社会制度を自然の意図に適合させることによってのみ実現される」という前提から出発している。モレリーは、「自然は統一的で恒常不変のものであり」、自然法は「平和に向かう性質を持つ生物の内に」内在している、「このような穏和な性情から逸脱するものは反自然的である」と言う(34)。これを見ても分かるように、モレリーは、多くの自然法論者と同様に、人間性は本質的に善であると考えており、「理性的存在は生得の純真さ(probité naturelle)」をもち(35)、「自然の第一法則」は「社会性」の法則であると言う(36)。この社会性の法則について彼は言う、
自然は個人間に異なった割合で人間的能力を配分したが、生産手段の所有(la propriété du champs producteur de ses dons[自然の贈り物のうち生産力ある領分の所有])は不可分の形で万人に残し、誰もがそれを自由に用いることができるようにした。世界はすべての客に充分な料理を用意している食卓であり、誰もがどの料理を食べてもいいのだ。客は皆空腹で、料理は皆の物である。但し、他の皆が満腹したら、まだ満腹していない者のものとなるが。それ故、誰も排他的所有者(maître)ではなく、またそうであると主張することは誰にも許されない」(37)。
従って彼によれば、私有財産は反自然的なもので、私有財産制を制定する実定法の立法者たちは「自然の産物を不自然に(monstrueux)分割する者である。彼らは、自然に従えば一体であるべきもの、何かの偶然により分割されてもまた一体に復帰すべきものを分割している」。かの立法者たちは「すべての社会性破壊の促進者・幇助者」で(38)、「自然の理法(raison de la Nature)に反して行動して」おり、(39)、私有財産制を制定することによって私利を承認し、最悪の悪徳、諸悪の根源である貪欲(avarice)が幅を利かす社会状況を作り出したのである。「私利、この蔓延する疫病、遅行性の熱病、全社会を衰弱させる病いは、それに滋養や酵素を与えるものがなければ存在し得ないであろう。従って所有権さえ存在しなければ、こんなひどい結果は生じないのだ」(40)。我々が「自然の叡智に富んだ意図」を認識し、「人間が人生において可能な限り幸福で生き甲斐ある状態」(41)を創造しようとするならば、我々は「所有権根性(l'esprit
de propriété)という怪物を打倒せねばならぬ」(42)。そして何物も私有財産として個人に属さないような社会を樹立しなければならない、と(但し必要品、娯楽、日々の仕事のためのものはその限りでないとされる)。そこでは、全国民が社会によって傭われ、養われる公務員で、各人は力、特技、年齢に応じて公共に貢献する義務がある(43)。これが共産主義の本質であり、この共産主義が自然法なのである。
モレリーにとって、中心問題は所有権問題であるから、政体の問題は二義的重要性しかもたず、私有財産が廃止され、集団所有、即ち共産制が実現されればよいのである。自然法が実施されれば、人民の福祉は保障されるのであるから(44)。従って、政府は当然「人民のための政府」であって、民主制であるか、貴族制であるか、君主制であるかを問わないことになる。
人々が、これまで論じてきたような自然法(即ち共産主義の原則――ケルゼン)のみに従うことを全員一致で合意し、従って家父長たちの指揮下で行動するとすれば、それは民主制であろう。また人々が神聖な自然法を厳格に敬虔に遵守し、整然と迅速にそれを実施しようとして、権力を一定数の賢者の手に委ねるならば、・・・その統治は貴族制である。また国家の活動を、一層正確で正当で規律正しく遂行させるために、唯一者が権力を担当するとすれば、その国家は君主制である。その国家は、所有権が導入されない限り、決して堕落することはないだろう(45)。
即ち、君主制、現代風にいえば独裁制は、自然法、即ち共産主義を実現する最善のやりかたでさえある、というのである。ということは人民の幸福を実現する最善のやり方だと言うことである。これはまさしくレーニンが言ったことである(46)。君主・独裁者は人民代表と考えられる。「ある国民が、自然法に従おうとして、仲間の一人を首長に選んだ場合、国民はその人物に対して、『私たちは貴方に、締結した合意に私たちを従わせる責任を負わせる。・・・貴方は、理性が私たちにに命じたその自然法を、私たちが常に忘れないようにさせて欲しい。私たちは、私たち一人一人を支配するこの自然法と理性の権力と権威を貴方に譲渡する。こうすることによって貴方は私たちの機関となり使者となるのだ』と言う権利を持つだろう」とモレリーは言う(47)。こうして「人民のための統治」である共産主義者の独裁が、「人民による統治」と擬制されるのである。最近モレリー『自然の法典』のロシア語訳がソ連で出版されたのは、不思議でない(48)。
ヘーゲル哲学における私有財産と自由
所有権と自由との間に本質的関係があるとする思想傾向は、ヘーゲル法哲学において頂点に達する。「法とはそもそも理念としての自由である」(49)(§29)と彼は言う。彼によれば、自由意志は人格の本質的要素である。しかし「人格は理念として存立するためには、自由を外的領域に転化しなければならない」(50)(§41)。「自由意志が抽象的なままであるべきでないとすれば、それは何より第一に物化しなければならない。物化によって感覚的知覚の対象となるのはまず『物』、即ち我々の外に在る対象である。自由のこの第一次的態様は、我々が『所有権』として出逢うものに他ならない。・・・ここで我々が有する自由は『人格』と呼ばれるもので、自由なる主体である。それは自らの視点からも自由であり、それが事物の内に物化するのである」(51)(§53附論)。この「外的領域への転化」とか「意志の意志外の対象への物化」とか呼ばれているものは、自由即所有という議論の決定的論拠であるが、人が物を所有するに至る過程の比喩的表現に他ならない(彼は自由意志というが、そうかどうかは別問題である)。実際には自由が物に転化したり、意志が物に物化したりすることはなく、こういう比喩を事実と考えるのは、質・関係・価値などの非物体的なものを実体化する未開人の心性の特徴である。ヘーゲルは所有と自由の間に本質的関係が存在することを示そうとするが、そのような想定は、「所有権は自由の物化である」という比喩を額面通り受け取る必要がある。しかしこの命題を比喩でなく、額面通りのことと受け取るならば、無意味な言葉である。自由と所有権の間には何の関係もない。人間が自由かどうかはともかく、存在するのは人間と物との関係のみである。そしてその関係の本質は、所有物の処分に当って他者を排除し得るということのみである。ヘーゲルは、充分な根拠もなしに、「人格は自己の意志を物の中に置き、そうすることによってその物を私の物とする」(52)(§44)と言っている。ちょうどロックが、人が労働を物と混合し、それによって人格の一部を物と結びつけることによってそれを自分の所有物とすると説いたように、ヘーゲルも人格の自由意志を物の中に置くことによって、物を自分の所有物とする、と解釈している。これが外的領域への自由の物化なのである。「人間は自由意志であり、それ故絶対者である。それに対しそれに立ち向かってくるもの(=物(ケルゼン))はその性質を欠いている。それ故あらゆる物は所有物となり得る」「物を取得することによって、人はそれに直接的にはそれが有するものでない意図を賦与する。ある生き物が私の所有物となると、私はそれに、それが以前から有していたのとは別の魂を与える。私はそれに私の魂を与えるのだ」(53)(§44附論)。これはまさしく未開人の所有観念である。未開人は、ある物を所有することによって、彼の人格の実体の一部をその物に移転する、即ち「魂」の一部を移転し、そうすることによってその物を自己の一部とすると考える。未開人は人と物との関係である所有関係を、物の実体が人間の実体の一部となると考えるのである。このように性質を実体化すると、実体は接触によって感染するものと考えられる。この接触感染によって、人間は自分の自由を物化するのである。即ち自分の魂の一部を物に感染させ、その物を自分の人格の一部とするのである。ヘーゲルはこの魂の部分を自由と呼んでいる。「自由意志としての我は占有において自らを対象化し、それによって初めて現実の意志となる。この側面が、所有における真にして正当な要素である所有権の概念規定となるのである」(54)、と(§45)。ヘーゲルは、所有権は人間の欲求充足の手段ではない、と明言する。「自由の見地からすれば、所有権は、自由が最初に具現するところのものであり、本質的目的それ自体であるとするのが正当な立場である」(55)(§45)。「所有における合理的なるものは、欲求の満足にではなく、人格の主観性を廃棄するところにある。人格は、所有において初めて理性として存立する」(56)(§41)。こうして所有権は自由と理性の具現として正当化される。ヘーゲルは更に、「人格は自己を自己自身から区別することによって他の人格と関わりをもつ。二つの人格は所有者としてのみ相互的に実在するのである」(§40)とまで言う(57)。
ヘーゲルが自由と理性を同一視する際にどのような種類の所有権を念頭に置いているかは、一目瞭然である。彼は「人格の意志としての私の意志は個人の意志であり、それは所有において私にとって客観的なものとなるから、所有は私的所有という性格をもつ」と言うが(58)(§46)、所有は個人の自由が物化したもの、個人の自由が物に転移したものであるから、彼のいう所有とは、もっぱら個人的・私的所有に他ならない。即ち彼は「私の意志は所有において人格の意志となる。ところが人格は統一体であり、従って所有はこの統一的意志の人格となる」と言っている。ヘーゲルは、所有の個人的性格を強調するために、所有は人格であると説いて、人格と物の区別を消去してしまう。「所有は私が意志に形を与える媒体であるから、所有は『これ』『私の』という性質をもたざるを得ない。これは私的所有の必然性を示す重要な理論である」(59)(§46附論)。この所有哲学が向う窮極の目標が何であるかは、以下の言葉によって明らかになる。
プラトン国家の理念(支配階級成員間の共産主義――ケルゼン)は、私有財産を不可能にするという不法を一般原則として含んでいる。「財産を共有する人々の敬虔で友好的で強制的でさえある結合」「私的所有原則の禁止」という思想は、精神の自由の本質と法の本質を誤解し、その基本を理解しないような心情の持ち主が陥りやすい発想である。(60)(§46)
ヘーゲルの、自由の物化という馬鹿々々しい実体化によって行なった所有権解釈は、反共産主義という、まぎれもない政治的意図の産物だったのである。平等原則の否定もそこから帰結される。「外的諸物との関連においては、私が物を所有するということが理性的なことである。・・・それ故私が何をどれくらい所有するかは法的な偶然に過ぎない」(61)(§49)。確かに人間は平等であるが、それは人格に関する限りで、即ち所有の淵源に関する限りでのことである。そこから万人は財産を持つべきだという帰結が導かれる。「平等を論ずるならば、念頭に置くべきはこの平等である。この平等は特定分量の確定、私の所有する分量というようなこととは無関係である。この見地からすれば、正義が要求するのは各人が自分の所有物をもつということのみで、各人の所有を均等にするというようなことは正義の要請ではない。個別性こそが不平等の支配する領域であり、そこでは平等は誤謬である」(62)(§49附論)。面白いのは、ヘーゲルは、各人の財産が均等であるべきだという平等原則を否定する時は、「所有は自由の物化である」「所有は即ち人格である」という比喩を放棄していることである。なぜなら、もし人間が人格として平等で、人格は自由で、人間は平等に自由で、財産はこの自由の物化したものであるならば、人格である財産もまた平等でなければならないであろう。そこでヘーゲルは、注意深く、そして正確に、所有の源泉としての人格と所有そのものとを区別する。彼が所有の平等を論ずる段階となると、所有はこれまでその中に化体されていた自由や魂を喪失して、人格ではなくなり、単なる財産と化してしまうのである。
エミール・ブルンナーの神学における個人所有と自由
現今カトリック神学者にもプロテスタント神学者にも、所有権こそが自由の不可欠の条件、否「真の基礎」である(63)、と説く者がいる。エミール・ブルンナーは、宗教改革者たち、特に「私有財産制は神の意志に適う」と説いたカルヴァンの権威を援用しつつ、所有権を神の創造の秩序の定めた制度として正当化しようと試みている。自由は財産なしには不可能であるから、創造の秩序は人間に自由と並んで所有権をも賦与したというのである(64)。曰く、
神の創造は人間に身体四肢を自由に行使する力を賦与したが、それのみならず「所有権」をも賦与した。自由に処分する物をもたない者は、自由に行動することができず、その一挙手一投足を他者に頼らなければならない。他者の意向によっては、彼は具体的行動を何もとれなくなる。所有権のないところ、自由な個人生活も行動の可能性も存在しない。一挙手一投足を他者の土地の上で、他者の財産に触れつつなさねばならぬ者は、自由な人間ではない。「所有権」という言葉は、文字どおりには「自分のもの」、現代風にいえば私有財産を意味する。私有財産なしには自由はない。
共産主義の本質である財産の共有は隷従であり、真の民主制とは両立しない、と彼は言う(65)。
集団所有は、自由に関しては、私有財産の価値にとって代ることはできない。処分権のないところ自由な空間はない。会社であれ、組合であれ、国家であれ、自分以外の者が集団財産の処分権をもつならば、自由な空間は存在し得ないのだ。私が一国民として国有財産について何万分の一の持ち分をもっても、国家の一般意志がもたらす拘束に比べれば問題にならない。国家の奴隷となることは、一個人の奴隷となることとは大差がない。国家が権力を独占しているところでは、仮にその国家が完全な民主制であったとしても、私は無一物で、国家の奴隷である。私の意志が発動する空間を与えない国家の一般意志の奴隷である(66)。
社会主義国家のように、私有財産が廃止されたところでは、「個人は自由の真の基礎を喪失し、手も足も縛られて、唯一の雇い主である国家に引き渡されたのだ。平等主義的個人主義の帰結として、自由や平等がいかに説かれようと、個人に残されたものは何もない。一般意志(volonté générale)が集団の中に個人を吸収してしまったのである。自由の幻想は、擬似民主的国家機構によって維持されるかもしれないが、早晩幻想の仮面は剥ぎ取られる。しかしその時はもう遅いのだ」(67)。私有財産廃止、集団所有によって破壊される「行動の自由」は、「自由意志の帰結であり」「創造の秩序の内にある」(68)とブルンナーは明言する。
仮にブルンナーが念頭に置いているような行動の自由が、因果律の支配を受けないという形而上学的な意志の自由の帰結であるとすれば、そのような自由の有無は経済体制の如何とは無関係である。もし人間に自由意志があり、原因に決定されない意志によって行動を定め得るという意味で人間が自由であるとすれば、この行動の自由は、私有財産制下でも集団所有下でも同様に存在する。そうでないとすれば、ブルンナーが私有財産制の上に基礎づけようとしている自由とは、既存の経済体制によって行動選択が制約されない状況を意味するものでしかあり得ない。ところで私有財産制は、当然企業活動の自由、自由契約による財産獲得の可能性を含んでおり、その必然的結果として、資本主義社会の特徴である有産者と無産者の分離を帰結するであろう。ブルンナーも、自由の基礎は私有財産であるという主張との関連で、プロレタリアにも言及している。曰く、「私有財産の欠如の大きな責任は、プロレタリアを非人格的大衆へと堕させてしまったところにある」と(69)。この大衆は、ブルンナーの自由論からしても、自由ではない。そしてプロレタリアは集団所有制の結果生じたものではない。社会主義が集団所有制を樹立しようとする目的は、まさしくプロレタリアを無くし、そのような階級の存在を不可能にするためである。そこでブルンナーは言う、
集団所有制がもち得る意味といえば、ある領域、集団所有のある領域において、各個人に一定の争うべからざる権利を賦与するということに尽きるのであるが、しかし実際には個人に現実の財産処分権を与えるのではない。自由な処分権がないところに自由は存在しない。そのことは、衣服とか家財道具のような、直接必要な私有財産の例を考えてみれば直ちに理解できることである。自分の着物が着られず、自分のベッドで寝られず、自分の食卓で食事ができない者は自由ではない(70)。
しかし基本的必要を充足するに必要な事物の「自由処分権」こそが、集団所有原則を基礎とする経済体制が保障するものではないか。私有財産制と集団所有制の論議において、ブルンナーは明らかに、資本主義と社会主義の対立という現代の大問題について、キリスト教神学の立場を位置づけようとしているのである。しかし資本主義が集団所有を完全に排除することができないのと同様に、社会主義も私有財産を完全に排除することはできない。社会主義が集団所有を唱え、資本主義がそれに反対しているのは生産手段に関してである。先に述べたように、両体制において、行動の自由がどのくらい存在し得るかは程度問題であって、何れが保障する自由がより大きいかは、経験上まだ明確な解答が出ていない。
以上述べたところを総括すると、「自由と所有権の間に本質的結びつきがある」という主張、「社会主義より資本主義の方が民主制と密接な結びつきをもつ」という主張、まして「資本主義のみが民主制と結びつき得る」という主張を立証しようとする試みは、何れも失敗したということである。そこで本論文の結論は、「政治体制としての民主制は、特定の経済体制と必然的な結びつきをもたない」というところにある。
(1)
Lenin, “State and Revolution,” in Selected Works, ed. J. Fineburg (New
York: International Publishers, 1935-1938), VII, p.75.
(2)
Cf. Kelsen, Sozialismus und Staat (2nd
ed.: Leipzig: C.L. Hirschfeld, 1923), pp.50ff.
(3)
Cf. Alf Ross, Why Democracy? (Cambridge: Harvard University Press, 1952), p.172.
(4)
Edward Hallett Carr, Conditions of Peace (New York: Macmillan Co., 1942), p.28.
(5)
Ibid., p.30.
(6)
Cf. supra, p.70.
(7)
Carr, op.cit., p.34.
(8)
Loc.cit.
(9)
Cf. Friedrich A.Hayek, The Road to Serfdom
(Chicago: University of Chicago Press, 1944), pp.88ff.
(10) Ibid., p.70.
(11)
Cf. ibid.,
pp.72ff. 「自由な社会と恣意的支配の行なわれている社会との明確な相違は、前者において『法の支配』という原則が守られていることである」。計画経済体制の下ではこの原則が守られない、というのが、「社会主義は隷従である」というハイエクの主張の主要な論拠の一つである。
(12)
John Chipman Gray, The Nature and Sources of Law (2d ed.;
New York: Macmillan Co., 1927), pp.121ff.
(13)
Cf. supra, p.29. 「法の支配」という言葉は、一定の内容の法が支配していなければ「法」は存在しないのだ、という意味で用いられることが多い。しかし専制支配者が一般的規範に例外を設ける無制約の権力をもっているような体制、政治的には専制的な専断政府・暴君支配の体制とて、それが法的性格をもたないものだとはいえない。法は様々な仕方で創造され、民主的方法もその一つに過ぎず、民主的方法で法が創造されないから、法秩序がないとはいえない。法は一般規範の形でのみならず、司法機関や行政機関の発する個別規範という形でも創造されるし、最高の立法・司法・行政機関を一身に兼任した専制支配者によっても創造される。「法とは民主的法である」と考えるのも、自然法論の典型的な誤謬である。こういう論法からすると、「法とは専制的法である」という命題も成り立つであろう。具体的な場合々々によって法をどんどん変えていくようなやり方も、いわゆる法秩序の弾力性というような長所をもたないでもない。弾力性をもたせようとすれば、法適用機関に、既存の字義通りに解釈された一般規範の適用を、個々の場合に不適当だと認めれば排除し、一般規範の例外としてその事例に則した新法を創造する権限を与えることもできる。アングロ−サクソン法は弾力性を格別に尊重している。
以上述べたところは、かつて『一般国家学』(Kelsen, Allgemeine Staatslehre (1925),pp.335f.)で述べた実証主義的法理論の帰結に過ぎない。レオ・シュトラウスは、その著『自然権と歴史』(Leo Strauss, Natural Right and History (1953), p.4)の中で、上述のことを述べた「示唆的一文」をなぜその英訳『法と国家の一般理論』(Kelsen, General Theory of Law and State (1945))で除去したのか想像がつかない、と言っている。それへの私の解答は単純である。即ち『法と国家の一般理論』は『一般国家学』の英訳ではないので、「除去」などという問題は存在しないのである。シュトラウスが、私が何か特別な考慮から、前著で述べた意見を後著で撤回したと考えているとすれば、それは間違いである。シュトラウスが「示唆的だ」と述べた文章の背景をなす一般原則は、『法と国家の一般理論』でも明確に述べられている。即ち民主制と専制支配は何れも紛れもない国家形態であり、国家は民主国であれ専制国家であれ、法秩序である、と。
(14) 従って例えばハイエク(op.cit., p.56)は、「計画と民主制」という標題の下で以下のように言う。曰く、「集団主義にも共産主義とかファシズムとか色々あり、社会を導いて向かわせようとする目的で相互に対立しているが、社会全体を組織しようと欲すること、社会の全資源をこの単一の目的のために組織しようと欲すること、個人の抱く目的が至高であるような自律的領域の承認を拒否するところが自由主義・個人主義と異なっている。一言にして言えば、彼らは、この新語の真の意味において全体主義者なのである。我々は理論上集団主義と呼ばるべきものの、思いがけないがしかし不可分の表われを表現するために、全体主義という言葉を用いたのである」と。
(15) Ibid., pp.88ff.
(16) Ibid., pp.93f.
(17) ハイエク(ibid., p.89)は資本主義社会を擁護して次のように言う。曰く「貨幣は人間が発明したものの中で最も偉大な自由の道具である。現在の社会において、貨幣こそが、貧しき者に驚くべき選択の範囲を開いた。現在貧者が有している選択範囲は、数世代前に富者に開かれていた範囲より大きい」と。しかしそれは貧民が貨幣を有していればの話である。しかし「カネ持ちの貧民」とは形容矛盾ではないか。
(18)
Joseph A. Schumpeter, Capitalism, Socialism and Democracy (New York and
London: Harper & Bros., 1942), p.269. Cf. also F.A. Hermens, Demokratie und Kapitalismus (Munich and
Leipzig: Duncker & Humblot, 1931). ヘルメンスは「民主制以外の政体は充分発達した資本主義と両立し得ない」ことを示そうとしている(p.iii)。だが彼は民主制を「民衆による統治」と定義することを明示的に拒否する。曰く、「民主制は古い意味での人民による政治(Volksherrschaft)ではなく、政治的リーダーシップの働きによって民衆を行動へと統合する政治形態である」(p.21)「民主制の実践によってリーダーシップが育成されていくことは、自由競争の要素を含んでいる」(p.10)、と。
(19) Ibid.,
pp.297f.
(20) John Locke, Second Essay on Civil Government,
chap.iv, sec.22.
(21) Ibid.,
chap.v, sec 44.
(22) Ibid., sec.25.
(23)
Loc.cit.
(24) Ibid., sec.26.
(25) Ibid., sec.27.
(26) Ibid., sec.44.
(27) Ibid., chap.
vii, sec.87.
(28) Ibid., sec.85.
(29) Ibid., sec.88.
(30) Ibid., chap.xi,
secs.138-139.
(31) Morelly, Code de la nature ou la veritable esprit de se loix, Republished in Collection
des economistes et des réformateurs sociaux de la France, ed. E. Dolléans
(Paris: P. Guethner, 1910).
(32) A. Lichtenberger, Le socialisme au
XVIIIe siècle (Paris: F. Alcan, 1895), p.114.
(33) Cf. Dolléans, op.cit.,
pp.5ff., and Kingsley Martin, French
Liberal Thought in the Eighteenth Century (London: E. Benn, 1929), p.243.
(34) Code de la nature, op.cit., p.23.
(35) Ibid., p.17.
(36) Ibid., p.36.
(37) Ibid., p.13.
(38) Ibid., p.37.
(39) Ibid., p.39.
(40) Ibid., p.16.
(41) Ibid., p.84.
(42)
Loc.cit.
(43) Ibid., pp.85ff.
(44) Ibid., pp.51f.
(45) Ibid., p.51.
(46) Cf. Supra, p.6.
(47) Code de la nature, op.cit., p.54.
(48) Moscow, 1947.
(49) Hegel, „Grundlinien der Philosophie des Rechts,“ Sämtliche Werke, Herausgegeben von Georg Lasson (Leipzig: Verlag
von Felix Meiner, 1911), Bd.VI, Par.29. 英訳はT.M.Knox,
Hegel’s Philosophy of Right (Oxford:
Oxford University Press, 1942)。ドイツ語のRechtは、ヘーゲルの標題においても、主観的権利ではなく社会秩序を意味するもので、英訳はrightでなくlawとすべきである。
(50) Ibid., Sec.41.
(51) Ibid., Sec.53附記。
(52) Ibid., Sec.44.
(53) Ibid., Sec.44.
(54) Ibid., Sec.45.
(55) Loc.cit.
(56) Ibid., Sec.41附記。
(57) Ibid., Sec.40.
(58) Ibid., Sec.46.
(59) Ibid., Sec.46附記。
(60) Ibid., Sec.46.
(61) Ibid., Sec.49.
(62) Ibid., Sec.49附記。
(63) Emil Brunner, Justice and the Social Order, trans. by
Mary Hottinger (London and Redhill: Lutterworth Press, 1945), p.77.
(64) Ibid., pp.58,237.
(65) Ibid., p.58.
(66) Loc.cit.
(67) Ibid., p.77.
(68) Ibid., p.58.
(69) Ibid., p.59.
(70) Loc.cit.