第二部 民主制と宗教
正義の問題としての民主制
これまで民主制の哲学的基礎づけについて検討してきたが、以上の議論は民主制という政治形態を絶対的に正当化しようとするものではなく、そもそもそのようなことは不可能である。また民主制が最善の政体であることを立証しようとするものでもないし、そんなこともできるはずもない。これまでの論述は、社会現象の科学的な、即ち客観的な分析であって、特定の社会的価値を無条件に正当なものとし、民主制はその価値の実現であることを証明するというような価値判断ではない。政治学は特定の社会的価値を承認し、他を排斥するようなものではない。政治学の観点からすれば、そのような正当化は不可能であって、政治学のなし得ることは、社会の現実において相互に異なり、矛盾する諸価値が存在することを認識し、それらの実現にはどのような手段が適当であるかを検討することである。手段と目的の関係は原因と結果の関係であって、原因と結果の関係は科学的認識の対象である。それに対し窮極的価値としての目的、これ以上上位の目的の手段でない目的を認識することは、科学的認識の彼岸にある。従って民主制の科学的理論は、民主政体は個人の自由と平等を実現しようとするものであることを認識し、また仮にこれらの価値が実現さるべきであるならば民主制はそのための適当な手段であることを認識するに留まる。ということは、共同体を構成する個人の自由と平等以外の社会的価値(例えば国家の富強)が実現さるべきであるならば、民主制は必ずしも最適の政体ではないかもしれないことを含意している。こういうものを正当化とよびうるとすれば、それは条件付きの民主制正当化論であって、形而上学や宗教でなく、科学を基礎とする相対主義哲学が与え得る正当化とは、このような正当化以外にない。社会的価値の実現は、政治的現実の中で行動する個人に委ねられる。科学は個人にこの深刻は責任の肩代わりしてやることはしないし、またできないのである。
このことこそが相対主義価値哲学がこれほどまでに情熱的な抵抗に出遭う窮極的な理由である。多くの人々は、実現さるべき社会的価値に関する決断の責任を引き受ける能力ないし意志をもたない。特にその決断が自分の人生に決定的な帰結をもたらすような状況において、そうである。それ故彼らは、その責任を自分自身の良心から、何が正で何が邪であるか、何が正義であるかを答えてくれる外的権威に転嫁するのである。彼らは自分の良心を慰撫してくれる無条件的正当化を求めているのだ。そして彼らはその権威を宗教に見出すのである。現代という政治的緊張度の高い時代において、合理主義的実証主義や相対主義に反対し、宗教的形而上学や自然法に向かおうとする精神運動がいよいよ盛んになっている理由もここにある。この運動の嚮導者であるキリスト教神学は、民主制を条件付きでしか正当化しない、不充分な法的・政治的実証主義の科学的議論よりも、遥かに効果的な民主制正当化論を提供すると称している。キリスト教神学の立場からすれば、民主制の問題は、神的正義、すなわち絶対的正義の問題であり、あるいは(結局は同じことなのだが)キリスト教的自然法の問題である。民主制に関する神学の近年のもっとも重要な作品は、スイス人エミール・ブルンナーの『正義:社会秩序の基本法則に関する一理論』(1)と米国のラインホルド・ニーバーの『光の子と闇の子:民主制を正当化し従来の擁護論を批判する』(2)の二著であろう。また現代におけるカトリック政治哲学の個性的代表者、フランス人ジャック・マリタンの『キリスト教と民主制』(3)も民主制と宗教の間に本質的結びつきがあることをカトリックの立場から証明しようと試みている。以下において私は、これらの著者たちの主要な思想に批判的分析を加えたいと思う。それは、キリスト教の民主制正当化論も結局は相対的にしか民主制を正当化できていないことを示すこともさることながら、何よりも、民主制とキリスト教が本質的な結びつきをもつということを示すことによって民主制を基礎づけるという試みの成否を検討しようとするものである。
ブルンナーもニーバーも、相対主義的実証主義、ニーバーが「懐疑的世俗主義」と呼ぶものに対する十字軍を、「こういう精神的態度が全体主義、特にナチスの責任者である」という非難から出発させている。この種の議論は、反相対主義運動において重要な役割を演じており、宗教的立場に立つ神学者たちのみならず、特定の歴史的宗教には結びつかないが、形而上学的思弁の立場に立つ思想家たちにも用いられているから、注意深く検討する必要がある。
相対主義的実証主義は全体主義に責任を負うか?
ブルンナーは言う、「全世界は正義を求めて叫んでいる」(4)「正義こそが人類史の恒常的要素である」(5)、各人は漠然と正不正の感覚を有しているが、それは明確な観念、正義の原則に変形されなければならない。この正義の原則とは「キリスト教的自然法の概念、永遠の、超自然的な、絶対的正当性をもつ概念である」(6)。「それは二千年に亘って西洋の正義概念であった」。ところがそれが最近解体してしまった。十九世紀の実証主義は、形而上的なもの、超人間的なものを否定し、すべての正義観念は相対的であると唱えることによって、正義の観念を解体した。正義の観念はその神的尊厳の一切を剥奪され、法は人間意志の気紛れに委ねられてしまった、と(7)。そしてブルンナーは言う、
[この正義観念解体の結果として]、やがては宗教的なものの一切を棄てて顧みない権力が登場し、正義の伝統的観念の最後の最後の痕跡を消去し、権力者の意志が法に関する唯一の典拠であると宣言するに至るであろうことは見易いことである。全体主義国家とは、政治的実践における法実証主義以外のなにものでもない。それは古典的・キリスト教的な神的「自然法」の観念を、目に見える形で消去するものである。神的正義の基準のないところでは、国家の制定する法秩序の是非を判定する何の基準もない。国家を超える正義が存在しないならば、国家は好むところのなにものをも法と宣言することができる。国家の恣意を制限するものとしては、その意志を貫徹するに足る実力の有無のみである。権力者がその意志を論理的整合性をもって制定するならば、法形式主義が求める合法性の唯一の条件は既に充たされている。全体主義国家は、西洋世界における正義観念の緩慢な解体過程の不可避の帰結である(8)。
更に彼は言う、「不正義の化け物」(9)である全体主義国家は、派手に振舞っている一握りのごろつきが発明したものではなく」「信仰を欠き、形而上学と神学に敵対的な実証主義の不可避の帰結」であり、人類が神の法、永遠の正義に対する信仰を喪失したことの必然的結果である」。「われわれの前にあるのは、二者択一、万人の上位に立つ拘束的規準、我々による(by us)ものではなく、我々に(to us)突き付けられた挑戦、すべての国家と法体系を拘束する正義の基準に従うか、正義など存在せず、存在するのは、何らかの仕方で法を名乗ってはいるが、実は組織された実力に過ぎないものだと信ずるかという二者択一である」、と(10)。要するに絶対的正義が存在しないなら、正義なるものは存在し得ない、正義とは本性上絶対的価値だというのである。絶対的価値があるとすれば、それは神が制定したものであろう。
この思想を一貫すれば、相対主義的実証主義とは反対に、正義はただ一つ、絶対的で神的なものがあるのみで、それと並立する単に相対的な正義は存在しない、ということである。もし正義がその本性上絶対的で神的な価値であるならば、相対的正義などというものは形容矛盾である。神学がこの帰結を受け容れる場合にのみ、一般的に相対主義的実証主義を、そして特殊的には民主主義の相対主義的理論を否定することができる。ところがブルンナーは、絶対的・神的な正義の他に、相対的正義、実定法の人間的正義をも承認する。即ち「我々人間が形成するあらゆる社会体制は、相対的にのみ正しいということを認めなければならない」と言う(11)。なぜなら正しくあろうとする実定法の試みは、決してその目標に到達しないからである。
人定法の最善のものが試みる絶対的正義は、決してその目標に到達し得ない。すべて人間的な体制は永遠の擾乱の中にあるのである。しかしいかなる人間的体制もこの正義の法則を完全に表現できないとしても、だからといって正義とは相対的なものだと主張するのは愚かで誤った態度で、それはちょうど人間が正確な直線を描くことができないからといって、直線の概念が相対的だと主張するようなものである。我々が「誰も直線を描いたことがない」と言い得るのは、まさしく我々が厳密な直線の観念をもっているからである。それと同様に、我々が絶対的正義の法を知っているからこそ、「すべての人間の法は真の正義の近似に過ぎない」と述べ得るのである(12)。
ということは、この神学によれば、絶対的で神的な正義と相対的で人間的な正義という二種類の正義があることになる。
相対主義哲学が全体主義国家を可能にしたとか、「法実証主義が正しければ不正義の怪物である全体主義国家と闘うことが不可能だ」(13)とかという議論は政治論であって、仮にそれが正しくても、認識論上の立場である相対主義の反証には全然ならない。「人間的認識は相対的価値にしか接近できない」という命題は、「世界に悪、社会的悪が存在する」という命題によって反証することは不可能である。ここで「悪」とは、ある種の人々が悪として非難するものであるが、全体主義国家の場合などでは、それが善だ、否高次の正義の実現だと讃えた人々がいた。真なる命題は、それが真であるからこそある人々が悪とみなす帰結をもたらすこともあり、偽なる命題を信ずることがある種の人々が善とみなす結果を招くこともある。プラトンが「有益な嘘」という説を唱えたのがそれである。更に「相対主義が全体主義国家に責任がある」というブルンナーの主張は、(先に述べたように)全体主義国家を古典的に正当化した思想は、相対主義に敵対的で、絶対的価値の超越的存在の主張者であったという否定しようのない事実に明らかに矛盾している。プラトンはイデア論を基礎として理想国の国制を描いたが、それはあらゆる点から見て全体主義的専国家である。全体主義のイデオローグたちは、常にプラトンの哲学的絶対主義を援用し、彼の国家構想を自分たちの政治的綱領のモデルとしてきた。この点に関してブルンナーは必ずしも一貫していない。別の個所で彼は教会が全体主義国家に責任があると言っている。
現在教会は、全体主義国家の下で受けている抑圧に対し、抗議しているし、それは正しいことである。しかし自由意志からのみ湧き出るはずのもの[信仰]を非宗教的手段・実力によって保持しようとして、宗教的非寛容という悪しき先例を最初に国家に示したのは、まさに教会であったということは忘れない方がよいであろう。教会は、殆どあらゆる点において、全体主義国家の最初の教師であったということを、羞恥とともに再考すべきである(14)。
教会は、国家を用いて内面生活に介入することにより、全体主義国家に模範を示した。異端審問、道徳警察、プロパガンダの独占、反対者の迫害、強制による画一化などがそれである(15)。
その通りだ。そして「殆どあらゆる点において、全体主義国家の最初の教師であった」のは、教会が「信仰を欠き、形而上学と神学に敵対的」だったからではない。正しく正反対に、絶対的正義への信仰を教えたからである。
ブルンナーは「いかなる人間的体制も正義の法則を完全に表現できないとしても、だからといって正義とは相対的なものだと主張するのは愚かで誤った態度で、それはちょうど人間が正確な直線を描くことができないからといって、直線の概念が相対的だと主張するようなものである」と述べたが、この議論は類比し得ないものを類比した誤りであり、絶対的正義と直線、実定法の相対的正義と手書きの直線とは類比できない。なぜなら絶対的正義は価値の観念であるのに対し、直線は幾何学という科学の観念、事実認識上の観念だからである。直線の観念は、その定義に正確に適合するような図形は描けないにせよ、理性的・厳密に考察し、定義し得るが、神の本質である絶対的正義の観念は、人間的認識の彼岸にあり、考察も理性的定義も不可能なものである。ブルンナーは、自分は絶対的正義を認識したと標榜しているが、実際にはそれを定義していない。彼は自分が認識した絶対的正義だと標榜しているものが、本当に神の意志の内容であるということを証明することはできない。彼が「これが絶対的正義の認識だ」として示すものは矛盾に満ちたもので、彼が標榜する「明晰な思惟」とはほど遠い。彼は民衆が有している漠然たる正義の観念を明晰な思考に変形ささると標榜しているのであるが・・・。彼は相対主義的実証主義を誤解し、「実定法は絶対的正義に完全に適合しないので、その正しさは相対的だ」と主張するものだと解釈している。それは絶対的正義が存在するという前提に立っているであろうが、そうではなくて、相対主義的実証主義は、絶対的正義が不可知であると想定する故に、実定法の正当性は相対的に過ぎないと考えるのである。即ち宗教的には絶対者、即ち神を信ずるかも知れないが、それを理解することはできないと考えるのである。絶対者はその本性上人間的認識の彼岸にあり、科学の対象とはなり得ない。科学は一般的に絶対者と、具体的には絶対的正義と無関係である。
3. ブルンナーの正義神学
仮に絶対的正義なるものが存在するとすれば、それはたった一つしか存在しないはずである。正義が二つ存在すれば、両方とも絶対的ではあり得ない。ところがブルンナーは、絶対的正義と相対的正義を区別するのみならず、絶対的正義にも二つのものがあるという。その一方は「地上の」「現世の」正義、「正しく各人に彼のものを与える」(suum cuique)正義、、善には善を、悪には悪を報いる正義、即ち応報の正義、「この世の制度の正義」「社会体系の正義」「政体(polity)の正義」であり、他方は「天上の正義」「神の義」「聖書の正義」「信仰の正義」で、それは悪にも善をもって報い、罪人を七十七回赦す神の愛の原則[マタイ伝18:22]である。ここで彼は、本書では地上の正義のみを論じ、天上の正義は論じない、と宣言する。本書の主題は「この世の制度の正義」であるが、「我々が究明しようとしているのは、この正義の根源と本質であり、正当な分配と不正な分配、正当な批判と不当な批判、適正な賃金と不当な賃金、正しい政体と不正な政体を区別する原則とは何かである」(16)。民主制の問題が正義の問題であるとすれば、「民主制は正しい社会体制か、不正な社会体制か」という問いへの解答を決するものは、天上の正義でなく地上の正義である。しかし天上の正義と取り組まずに地上の正義と取り組むことがどうして可能なのか?天上の正義の正不正の区別を基礎とせずに社会秩序の正不正を区別することがどうして可能なのか?ここに言う天上の正義とは神の正義に他ならないのであるが、ブルンナーは、この神の永遠の正義の神聖な規範のみが諸制度の善悪を測る尺度であり、これから建てようとする柱を真っ直ぐにする物差しだと強調しているではないか(17)。彼は「神的法への信仰の喪失」の結果、「信仰なく」、形而上学と宗教に敵対的な実証主義の結果として正義が解体したと言っている。その彼が、本書では地上の正義のみを論じ、天上の正義は論じないなどとどうして言えるのか?「地上の」正義、「この世の制度の正義」と呼ばれるものが「天上の正義」「信仰の正義」と区別さるべきであるならば、それは、天上の神によって樹立される神の秩序とは対立する、地上的な人間が樹立する社会秩序の正義であるはずである。「この世」の正義という以上は、現世的な、この世の事物を対象とするもの、特に人間によって樹立された社会秩序を対象とするものであろう。それ故、現世的・地上的正義のみの認識は、相対的正義の認識以外のものではあり得ない。これこそまさしく、天上の正義と関わらず、地上の事物のみを認識の対象とする相対主義的実証主義の立場である。相対主義的実証主義は、人間的社会秩序には相対的正義しかあり得ないと考えるが、それはまさしくここでのブルンナーの立場ではないか。
ところが実は、よく検討してみると、ブルンナーが「天上の正義」「信仰の正義」「神の義」に対立するものであるとする「この世の」「地上の」正義も、実は彼によれば超自然的・神的な正義なのである。「正義の観念と正義の神法という概念は同一物である」(18)と彼は言っている。この世の制度の正義は神的正義である。なぜならこの世界は神によって創造されたものであり、現世の秩序は自然の秩序であるが、それは神の意志の顕われである。彼は言う、
聖書の啓示に示された神を信ずる者にとって、自然の秩序は神意の被造物である。それは神が存在へと「呼び出した」ままに、またそれ故に存在するのである。「神が『在れ』と命じたからそれはあるのだ」。「神言い賜いければ」、また「神命じ賜いければ」その通りになったのである。神は世界に内在する世界ロゴスではなく、世界の立法者である。世界の法則は神の創造的意志の顕われであり、正義の法則は神意の法則である。「各人に彼のものを」(suum cuique)という原則の基礎にあるものは創造の秩序であり、各人にそれにふさわしいものを定めた創造者の意志である。この法則は「創造の秩序」であり、人間が正義に思いをめぐらす時、知らず知らずのうちにも訴えかける始原的秩序である。常人・万人のもつ正義感覚が漠然とでも感じ取るもの、それが創造者の被造物である神の啓示である(19)。
「各人に彼のものを与える」という正義、応報の正義は彼によれば「地上の正義」なのであるが、それがここでは「神的な正義の法」とされ、この正義こそ「始原的分配」であって、「各人が自らにふさわしいものを与えられる創造の行為」なのである、と。この「創造の秩序」の中に創造主の意志が顕示される。ブルンナーによれば、これが「キリスト教的自然法」(20)であり、ここに「自然と神の意志とが連結され、それは創造への信仰のうちに深く根差し、キリスト教神学者たちやキリスト教的法学者たちに、自然法(lex naturae)と自然的正義(ius naturae)を理解させる」と言う(21)。ということは、ブルンナーによれば、絶対的・神的正義は一つでなく二つあることを意味する。その一つは「悪にも善をもって報いる」もので、もう一つは応報の正義、「各人に彼のものを与える」正義、「善には善を、悪には悪を報いる」正義である。どうしてこの一方が「天上の」ものと呼ばれ、もう一方が「地上の」ものと呼ばれるのか、理解困難である。両方とも神に発するもので、「天上のもの」、超越的領域のものではないか。両者とも超越的な神の意志の顕われではないか。ブルンナー自身、彼が「天上の」正義と対比される「地上の」正義、神的創造の秩序と呼んでいるものについて、「この始原的秩序は、その本性上超人間的・超自然的で永遠のものである」(22)と言っている。なぜこの「地上の」正義が「地上の」すべてのものを超越しているのか?「地上の」ものは人間的で自然的で時間内のものではないか。神学の門外漢からすれば、「罪人は罰されず、恕さるべきだ」という愛の原則が絶対的正義だと言われているのに、「罪人は罰すべし」という応報の原則もまたなぜ絶対的原則と考えられるのか、この相矛盾する二原則が同一の絶対的権威の意志であり得るのか、到底理解しがたい(23)。それに、民主制の問題は、この二つの絶対的正義のうちの、地上の正義の方の領域にしか属さないのだから「天上の正義」と「地上の正義」との関係という難問など、考える必要はないのではないか。我々がここで関心をもつのは、ブルンナーが、絶対的・神的正義と呼ぶもののうちの「地上的な」方と、人間が設定する社会秩序の相対的正義、具体的には実定法との関係である。民主制とは人間が人間のために設定する社会秩序であり、民主制の法秩序は実定法だからである。
キリスト教自然法論
「絶対的正義が存在する」という以上は、その正義が可知であることが前提されているであろう。それが不可知であるなら、その存在を主張できないはずだからである。ブルンナーは明らかに、始原的創造の秩序の絶対的・神的正義、キリスト教的自然法は可知であることを前提としており、彼の著作はそれを示そうとするものである。そうだとすると、なぜこの地上の正義が地上で実現されないのか、人間はこの絶対的正義を知っている、少なくとも知り得るにも拘らず、相対的正義しか地上に実現できないのか、という疑問が生じてくる。人間界の制度が相対的正義でしかあり得ない理由が、絶対的正義が知られていない、不可知であることではないとすると、唯一可能な解答は、「絶対的正義は社会的現実に適用不可能だからだ、社会的現実はその本性上絶対的正義の規制を免れるようになっているからだ」というものであろう。この解答に対しては、社会的現実に適用できないような命令は、この現実の中で生きている人間たちが希求している正義ではあり得ないのではないか、という反問が待っていよう。ところがブルンナーの社会神学の解答はまさしくそれなのである。彼は言う、
絶対的・神的な正義の法則に依拠する自然法論・正義論は、その本性上静的なものである。神の法は不変のもので、このような意味での正義は、確乎として永遠不変である。しかし歴史は変遷してやまないものであるから、この不動性とある種の対立関係にたつ。変遷してやまない具体的な人間的現実に思いを致す者は、いかなる自然法も、いかなる不変の正義の定式も、人生の現実にとって的外れのものと感ずる。昨日正義であったものが、今日は途方もない不正義となるかも知れない。・・・生活が変われば正義も変わる(24)。
こう述べたブルンナーは、こう考えると「正義は相対的だという主張に一定の正当性を認めざるを得なくなるように見える」という(25)。しかし上に述べたことは「一定の」正当性を認めるどころか、相対主義の完全な正当化ではないか。ブルンナーは更に、「実定法と自然法との間には、対立とまでは行かなくとも、相違が存在せざるを得ない。従って正義の観念も国家実定法に具体化される場合には、一定の修正を蒙る。この修正をここでは当面、現実への適応のための緩和(mitigation)と呼んでおきたい。ここに相対的正義が登場するのである」(26)とまで主張している。しかし静的秩序、永続性を前提とし、不変なものにのみ適用されるはずの秩序が、いかにして恒常的変化の状態に適応できるのか?相対的正義は決して「社会的現実に適応した絶対的正義」というようなものではあり得ない。それは相対的正義をもって適用不可能な絶対的正義に置き換えたことを意味するのである。ブルンナーは次のように述べているが、全く正確である。
所与の現実の下での国法体系としては、絶対的正義は正義ではなく、不正となることもあるだろう。絶対的正義は、正義が仕えるべき目的、即ち神の(life?)法に対する服従という目的に役立たず、否その逆の結果を招くこともあるだろう。実定法体系の中では、相対的正義が絶対的正義に優越する。なぜなら、そもそも絶対的正義は実生活においては擬制で虚偽でピント外れのものとされるからである(27)。
ということは、人間の見地から、自分たちの社会関係を規制しようとする人間的努力の見地からすれば、正義と標榜してはいるが「擬制で虚偽でピント外れ」なものなど、そもそも正義でも何でもない。「人間が創造するあらゆる社会体制は相対的にのみ正義である」とするならば、そのような相対的にのみ正義であるような体制は、「絶対的正義の観念に導かれてのみ可能である」とか、「神的正義の水準器に従って作図しなければ不可能である」(28)とかとはいえないはずである。なぜなら我々は「擬制で虚偽でピント外れなもの」に追随することはできず、それを基準にして作図することもできないからである。結局ブルンナー社会神学の絶対的正義と相対的正義との関係に関する議論は、相対主義的実証主義の主張と全く同一に帰する。即ちそのような絶対的正義は存在せず、存在するものは効力をもつ実定法、即ち相対的正義のみだということである。
ブルンナーは、 神的自然法と国家的実定法の関係について、十七・八世紀のプロテスタント指導者やその追随者たちに依拠しつつ、「実定法が自然法に反した不正なものであったとしても、実定法に従うなという結論とはならない」と言う。曰く、「国家法というものは、第二の法体系として登場するこの種の競合を許容しない。現実を支配する国家法は、法的拘束力を独占することが必要である。国家の法的安定を動揺させるべきでないとすれば、自然法自体は法的拘束力を主張し得ない」と(29)。それでは拘束力をもたない自然法はいかなる役割を果たすのか?「判定基準としての役割を」とブルンナーは答える。しかしキリスト教自然法の絶対的正義は変化のない状態を対象とするというのだから、恒常的に変化しつつある社会的現実に適用さるべき動的秩序の判定基準に、それが役に立つことはできないであろう。この社会神学は、あれほど情熱的に相対主義的実証主義を否定しておきながら、それとの相違を示すことに失敗したのである。
ブルンナーはキリスト教自然法が静的性格のものであることを強調し、この静的性格から、それと実定法との相違を導き出す。実定法はこの相違の故に、相対的にのみ正しい法であるとされる。ところが実際には、彼がキリスト教的自然法として示すものは、決して静的なものでも、必ずしも実定法と対立するものでもなく、実定法において実現可能で、実際に相当程度実現されているものである。彼が挙げている原則とは、信教の自由、生命権(しかし国家は死刑の権利と兵役命令権を留保する)、私有財産権、労働により生活物資を得る権利、適切に成長する子供の権利等(30)。ブルンナーは、こういう権利が(神の被造物たる自然の秩序、絶対的に正しい神の意志の顕れとされる)「創造の秩序」であるという。ということは、ブルンナーは、合理主義的自然法論に反対を表明しながら、合理主義的自然法論者たちと同様に、自然から正しい社会秩序の原理を導き出そうとしているのである。
このキリスト教神学が、聖書の中から神の絶対的正義を見出そうとしていないのは、意外という他ない。啓示というものが存在するとすれば、まさしく聖書こそが神の正義を啓示しているはずではないか。もっと意外なのは、ブルンナーが聖書を無視することを正当化するために持ち出す論拠である(31)。もっとも彼が持ち出しているその論拠は、ここでの議論とは関係がない。神学門外漢の見地からすれば、現代的正義論の根拠として聖書を用いないことは何ら不思議でない。旧約聖書が神の正義として示しているのは、現代キリスト教道徳が受け容れない「眼には眼を、歯には歯を」という原始的原則であり、それは罪人にも愛をというキリストの教えにも明らかに矛盾している。そしてこのキリストの教えの方は、現実社会には適用困難である。政治的正義に関しては、モーセやキリストを通じて示された神の意志は、歴史において現実化したダヴィデの王国にせよ、未来に現出する地上の神の国にせよ、疑いもなく神権政治である。現在では、神学者たちでさえ、それが最善の政治形態であるとは唱えないであろう。
仮に聖書の啓示が神の正義とは何かという問いへの解答を与えないとすれば、それを知る手がかりとなるのは「自然における神意の啓示」以外にあり得ないであろう。しかしいかにして自然の中に神の意志を見出すのか?もう少し正確に定式化すれば、(ありのままの自然、人間が知り得るままの自然は神の被造物であり、神に支配されているというのが、ブルンナー自身の定式化によれば、「神は世界の立法者である」というのがキリスト教神学の基本想定であるが(32))、そこから我々はどういう結論を導き出し得るのか?このキリスト教神学の基本想定から、正義の問題に関して何らかの結論が導き出されるとすれば、その結論は消極的なものでしかあり得ない。仮に神の世界支配が理想の政治形態であるとすれば(しばしば彼らはそう言うが)、民主制は正しい政体ではあり得ない(33)。被治者としての人間はその創造に参与しないからである。ところが現実には専制政府のみならず民主政府も存在するから、民主制もまた神の意志によって存在するに相違ない。そうであるとすれば、神学は民主制を支持しないという結論も説得的でない。要するに、社会制度の正不正については何の結論も存在し得ないのである。キリスト教の基本想定からすれば、存在するものはすべて神の意志によって存在するのであって、神の意志なしで、あるいは神の意志に反しては、何ものも存在し得ないはずであり、社会現象の正邪の判別基準である正義の理論の根拠を提供し得ないはずである。正邪の区別の基礎は、「基本想定」からではなく、聖書の啓示、「創世記」における堕罪物語、即ち神的世界に悪が介在した次第を説く神話に求めざるを得ない。これが即ち「自然には堕罪前自然(prelapsarian nature)と堕罪後自然(postlapsarian nature)との二つがある」という教義である。この教義はあらゆる倫理神学に不可欠の前提であって、当然ブルンナー神学の前提でもある。曰く
正義の支配対象である世俗的世界は、単に神の創造した世界であるばかりでなく、創造の秩序から堕落した世界でもある。我々すべてが知っている人間性は、神に創造された自然であるばかりでなく、その核心において神から堕落した自然である。それ故キリスト教教義における自然の概念は、二重のものである。即ち原初的秩序としての自然と、堕落し原初的自然を汚した自然との・・・(34)。
しかし神に創造されたものでない自然とか世界とかいうものは、神の世界創造・自然創造という基本前提に反する。その論拠としては、自然における神意の啓示というこの基本前提ではなく、聖書の啓示でのみがあり得る。従って神学的正義論の基礎は聖書の啓示に、モーセとイエスの教えに依拠せざるを得ない。「創造の秩序」から神的正義の原則を導き出そうとする試みは、「あること」(is)から「あるべきこと」(ought)または「あるべからざること」(ought not)を導き出そうとする論理的誤謬を犯している。自然から導き出されたと標榜される正義の客観的諸原則なるものは、自然に投射された高度に主観的な価値判断であり、自然を神の意志として解釈する解釈者が、自分の主観的価値判断を天地創造者である神の意志であると勝手に称しているものに過ぎない。このことはすべての自然法論に当てはまるが、特にブルンナーのキリスト教的自然法神学に当てはまる。ブルンナーは、プロテスタント神学者として、西洋世界に樹立されている経済制度・政治制度の肯定者であるから、それを神の創造の秩序の中に見出したと称する。また彼は共産主義の反対者であるから、「神はそれを欲していない」と決めつける。それはともあれ、彼はこの正義の神学を民主制の問題にどのように適用したであろうか?
プロテスタント神学における自由と平等
民主制の観念は、平等と結びついた自由の観念であるから、キリスト教神学がこの自由と平等について何と言っているかを知る必要がある。諸政体の思想的基礎に関する上述の分析から明らかになったことは、民主制の構成要素として自由が第一義的で、平等は第二義的であるということである。それ故ブルンナーの社会神学が「キリスト教的人間観においては、最も重要なことは自由ではなく、人間の神との関係、神の主権である」(35)と言っていることは重要である。人間の神との関係といえば、神の主権に対する人間の従属、人間の無条件的服従義務であろう。神に従属する人間にそもそも自由なるものが存在し得ることをまず示すべきであると思うが、そしてまた彼は信仰の自由と信仰以外の(キリスト教的正義の認める)自由という問題について論じてはいるが(この点は後述)、ともかく彼は平等原則を自由の原則より重要であるとしている。彼が人間の「単に形式的な平等」(法の下の平等、法の前の平等)(36)と処遇の平等(「人は平等に処遇さるべきである」という原則)を区別しているがこれは正当である(37)。しかし彼も人間が実際には平等でないことを知っていて、「人間は決して平等でない。平等は現実の不平等をさておいて、これを重要でないとして度外視することによって、またその限りでのみ可能である」と言う(38)。そうであるとすれば、処遇の平等にとっての重要な問題は、どの不平等が権利義務の割り当てにおいて無視して構わないほど重要でないか、どの不平等が社会秩序樹立において考慮されなければならないか、という点にある。ブルンナーはこの点に関して、宗教のみがそれに答え得ると強調する。曰く、
「人間の本質的なものは平等である」という命題が知覚に根拠を有していると信ずるのは誤謬である。単なる知覚は本質・非本質について何も教えない。知覚が教えるのは、人間は平等であり、かつ不平等である」ということのみである。いかなる経験も万人において平等なものが本質的である(即ち事物の分配においてそれのみが考慮の対象となり、それを考慮した平等待遇が正当な待遇である)、ということを教えない。それを教えるものは経験でなく、信仰の信念である(39)。
ということは、この問題には神の創造の秩序に依拠してしか答えられないということである。しかしまず指摘さるべきは、「どのような場合には不平等を無視することが正当化され、どのような場合にはされないかを論ずる」と言いながら、ブルンナーはそれを全然論じていないことである。彼はただ「無視し得るということ、正しい配分であるという充分な自覚をもって無視し得るということは、人間が原初的秩序(primal order)(人間その他一切のものに対して力をもつところに秩序、各人の「自分のもの」(due)を予め定めている秩序)の一部とみなされるという事実のみから導き出される」と言うのみである(40)。この主張には何の根拠もない。創造の秩序はただ人間間に相違が存在するということを示すのみで、この相違の存在から本質的なものと非本質的なものの区別を推論することは全然できない。ブルンナーは「経験的観察は、人間が平等でも不平等でもあるということを教えるのみで、果たしてまたどこまでその不平等が本質的かを教えることはできない」と繰り返すが(41)、この創造の秩序について我々が知るのは、「経験的観察」による他なく、経験的観察が教える以上のことをこの種の啓示が教えるということはあり得ない。確かに聖書に示された啓示は、神の創造した自然を観察することによって我々に示されたものではないが、その啓示もこの問題への解答を含んではいない。人間は「神の似姿」として創造された、と聖書は教えるが、この教義の示すのも、「法の前の平等」と同様の形式的平等に過ぎない。自然法を構成する「創造の秩序」は、すべての被造物は、その相違にも拘らず平等に自然法に服すると教えるが、これも同様の形式的平等である。ブルンナーは、「平等の根拠」と題する章において、「創造の原初的秩序における平等と不平等の間の正しい関係とは何か」という問いに対し、この秩序は「各人に彼にふさわしい(due)ものを与える」のであるから、そこに答えがある、と述べている(42)。しかしこの章の末尾において、次のように告げられる、曰く、「『各人に彼のものを』(suum cuique)とは、各人に同一のものを与えよという意味であろうか?そうでないことは既に見た通りで、人間の平等のみならず、不平等も尊重されなければならないのである」と(43)。そして続く「不平等の根拠」と題する章においては、「キリスト教的正義観の秘密は平等ではなく、平等と不平等の混合(blend)である。この混合の起源は、キリスト教的平等観と全く同一のものである」と言う(44)。しかし問題は、キリスト教的正義観において、平等と不平等がどのように混合しているかである。ブルンナーは、問題の「物的」側面を「霊的」側面に代置することによって解答に近づき得ると考えている。ここで考慮の対象になるのは、物的人間ではなく、霊的人間である。否霊的人間ではなく、人間の中の霊的原理である」と言う(45)。
ストア学派は、万物に遍在する精神(nous)や理性(logos)、万人が実体的に参与する世界理性という非人格的な精神的原理に依拠するが、キリスト教は神の人格的意志に依拠する。人格の尊厳というキリスト教の原則は、無条件的に人格的なものである。人格としての、個人としての人間を創造したものは人格神であり、その神が、人間の未来を神との交わりの内に示すのである。・・・個体であることは常に本質的なことであり、それが万人にとって共通な人間存在の本質的要素である。神の愛は人間一般を対象とするのではなく、神は各個人を、自らが創造したその本性において愛するのである。・・・神は規格(schemes)でなく、人間を創造する。一人の人間を指して「汝」と呼びかけ、その人物にまぎれもない特性・個性を与える。この個性から不平等が生れる。この不平等も、万人共通なものと同様に、神が創造し意志したものである(46)。
それ故、精神的人格・精神的個人としての人間たちも、物理的存在としての人間たちと同様に多様だということになる。そこでブルンナーの神学は「平等と同様不平等もまた神の意志である。即ち各個人・各個体の個性(species)は各々独特の性格をもつのである」という結論に到達する(47)。これはもとより、どの不平等が本質的で、どれがそうでないかという問いへの解答にはなっていない。ブルンナーは、この問いに答える代りに、個人と共同体の関係という一般的な問題に話題を変える。「共同体は相違のあるところにのみ存在する。相違がなければ一体性はあっても共同体は存在し得ない。共同体は相互的ギヴ・アンド・テークを前提とする。共同体とは相互的な交換と補完である」(48)。そこでは諸個人は相互依存関係にある。「キリスト教においては、この相互依存こそ創造の目的であり、それこそが連帯という最高の宿命の証拠であるとともに、それへの準備でもある。各人は自己完結的でないということこそ、キリスト教の信仰箇条である」と言う(49)。こういう洞察はキリスト教神学の独創的帰結でもないし、平等問題に何らの解決をもたらすものでもないが、ブルンナーはこれが「正義の新概念」の帰結であると考えている。曰く、「『各人に彼のものを』は『万人に同一物を』と解釈されてはならない。万人は共通の運命と同一の尊厳を有する故に、また各人が神に対し責任を負うという点で平等である。それ故万人は人格として承認されるという同一の権利をもつのである」(50)。「万人の尊厳の平等」なるものは、国法の前の万人の平等や自然法上の平等と同様の形式的平等であって、最重要問題への解答になっていない。ブルンナーは、人格としての人間の平等について、「しかしこの尊厳の平等は性質や役割の相違と結びついており、この相違は重大でないとか本質的でないなどとは到底言えない。この相違もまた同一の運命の一要素である。従って各人にとって平等と不平等はともに『彼のもの』(due)なのである。各人には、現実の事実として、他人のものでない、まぎれもなく彼自身のものを与えられなければならない」と言う(51)。こういう言い方は、答えにならない答えの典型であり、平等と不平等の間の正しい関係は何かという問いは答えられないままである。続いて「それ故キリスト教的正義観念においては、万人の平等と平等権が第一義的なもので、連帯において各人に帰さるべきものの相違は、非本質的なものではないが、二次的なものである」と言い(52)、最終的結論として「キリスト教こそ人間の平等と不平等を等しく強調する唯一の宗教であり、神の意志に基づいた個人の独立と社会全体への従属とをともに承認する唯一の宗教である。一面的個人主義と一面的団体主義の双方の要求から人間を護り得るのはキリスト教のみである」と言うが(53)、先の問いに対して付け加えられているものはない。このような空疎な一般論に到達するために、「神的創造の秩序」などに言及する必要は全然ない。そもそもこんな空虚な定式が「神的創造の秩序」から導かれるはずのものでもない。
先に指摘したように、この社会神学において自由の観念は重視されていない。なぜならそこでは神の主権こそ関心の対象であり、人間は本質的に自由ではない神の意志への服従者とされているからである。しかし他方で、人間が自由でなければ、即ち外的原因や外的権威によってその行動が決定されているのであれば、道徳的責任の主体となり得ないとされているから、何とかして神の全能の意志への人間の従属と人間の自由意志とを両立させなければならない。この両立の試みに内在する自己矛盾は、「人間は神に愛された被造物であって、神の意志に自由意志に従って服従する。人間が神の意志を実践するのは自由においてのみである」(54)というブルンナーの言葉に表れている。神の意志に従属した人間の自由は「キリスト者の自由」(libertas christiana)とよばれ、その自由は服従の内にあるとされる。これはもとより自由でもなんでもなく、それを「神秘な自由」とか「信仰における自由」とかと言い替えてみても同じである。しかしこの問題は、ブルンナーのいうところによれば「正義論の領域には属さない」(55)のであるから、ここではこれ以上論じない。他方正義の原則としての政治的自由は、「その起源を被造界秩序の構造の内に有している」(56)と彼は言う。しかし神の主権、万象を決定する全能の意志から「キリスト者の自由」を導き出すことができないのと全く同様に、創造の秩序から政治的自由を導き出すことも不可能である。創造の秩序は厳格な法則性、自然科学者の言う因果律によって決定されているものであるから。この創造の秩序についてブルンナーは言う、「あらゆる被造物は、神が『かく在れ』として創造したところのものでしかあり得ない(must)。そして自由が与えられている被造物、即ち創造の法則の実現自体でないもののすべては、創造主の設立した創造の秩序を尊重するしかない(must)。私は他のすべての被造物を神に創造され、意志されたものとして尊重せざるを得ない(must)」と(57)。確かにブルンナーが一連の自由権・人権を列記していることは先に見たが(58)、しかしこれらを創造の秩序から導き出すことは不可能であり、実際導き出してはいない。それは十七・十八世紀の自然法論者たちができなかったのと同様である。ブルンナーも彼らも、これらのことを創造の秩序に投射したに過ぎない。神の創造の秩序から導き出されたと称されている諸々の自由は、いずれも政府を制約する消極的自由である。宗教活動の自由然り、生命権然り、所有権然り、性的機能行使の自由然り。もっとも一見政府の積極的活動を含意するように見えるものが二つ挙げられている。地球から生活資材を自らの手で獲得する権利(一般化して言えば労働権)と健全に成長する子供の権利がそれである。しかしブルンナーは前者に関して、それが「憲法上労働権を国家が保障することを意味するものではない」と明言している(59)。後者に関しても、「子供の心身の健全な発達」(60)を阻害することの禁止であると強調している。
重要なのは、この社会神学が神の意志によって創造の秩序の内に直接的に樹立されたとしている諸々の自由の中に、民主制の自由、国家統治に参加する権利という積極的自由について何の言及もないことである。この社会神学は、私的所有権などは神の意志として正当化するが、民主制を正当化していないのである。ブルンナーは、民主制の問題は政治権力分配の問題」であり、その正義は法の正義に依存すると述べて、曰く、
国家内における法の正義についてまず述べらるべきことは、その正義は誰がその法を発するか、誰がその執行に責任をもつかとは独立した問題だということである。絶対君主とて正しい法を制定し、正しく統治することができる。その逆もまた真で、共和制や民主制においても、多数の意志によって、制定さるべき法が制定されず、不正な法が創造されることがある。法の正当性の問題は、さし当って国家内における権力分配の問題から独立しているのである。そればかりか、共和制的ないし民主的憲法がそれ自体として法の正しさを保障すると考えるのは、近代の致命的誤りである。この考えの誤りを示す古典的事例がペリクレス以後の時期におけるアテナイ民主主義である。決定的に重要なことは、誰が国権を行使するかではなく、現実の主権者が正義の知識と意図に導かれるか否かである(61)。
ということは、民主制も専制支配も同様に良くもなれば悪くもなるということで、政治への参与という意味での政治的自由にはこの理論において何の固有の価値も与えられていないということである。この神学の関心対象は、もっぱら自由主義の消極的自由と私有財産権である。ブルンナーは、この自由が神の天地創造によって樹立された所有権なしには不可能であることが繰り返し強調されている(62)。
キリスト教の見地からすれば、民主制の基本問題である政治的自由の問題に無関心であることは、当然のことともいえる。キリスト教の利害を保護するか侵害するかは政体に関わらないからである。むしろ専制政府の方が民主政府よりもキリスト教思想に好意的であるともいえよう。それにキリスト教神学の自由への中心的関心は、何より信教の自由を国家から守ることで、国家に参与することではない。しかしそれにしても首を傾げたくなるのは、この神学の経済的自由弁護論であり、特に私有財産権を神の永遠の創造の秩序によって基礎づけようとしていることには唖然とさせられる(この点は後に論ずる)。
ブルンナーが、忠実なスイス国民として、「誤解されないために言っておくが、必要な条件下では、民主制はすべての政体の中で最も正義に適ったものである。なぜならそれは政治権力の行使に当って全国民に責任を分担させるものだからである」と言っている(63)のは理解できるが、彼は直ちに次のように付け加える。曰く、
この言葉自身が、民主制があらゆる場合に正義に最善の保障を与える最善の政治秩序ではないということを含意している。民主制は特定の状況において善なのである。我々スイス人は、地上のあらゆる国民より長く民主制下に生きてきたために、民主制が善であることを自明の前提と考えがちであるけれども・・・。民主制は最悪の政治形態となることもある。民衆が未熟であるとか、社会が混乱し、国家に潜在ないし顕在するアナキーを抑制するために強力な中心的意志、「剛腕」(strong hand)を必要とする場合など(64)。
これは民主体制を倒した独裁者たちが常に用いた議論である。ブルンナー唱える社会哲学が仮に民主制の正当化をもたらすものであるとしても、それは極めて相対的な正当化であり、相対主義的実証主義にまさる正当化論だとは到底言えない。しかしこの神学が民主制を相対的にでも民主制を正当化するものであるかも疑わしい。真の民主制が、普遍的で平等な選挙権を基礎として権力を選出することであるとすれば・・・。彼は「普遍的で平等な選挙権の存在は正義の要請であろうか」と問い、「第一義的にはそうではない。それは、等しくないという事実が重要である主題に関して等しくない者を等しく扱うことであるから。各人が国家に平等の発言権をもつことは正義の要請ではない。人間は正義の認識能力、及びそれを実践に移す能力と意志において平等ではないのである」と答える(65)。この解答は、この政治的自由を軽視するこの社会神学の基調と一致している。上の命題は、まさしく国民の多数が統治に参加することを保障する現実の民主制を不正だと評価している。ブルンナーは、人民に選出された機関が人民の意志を執行すべきだという原則、もう少し正確に定式化すれば、政府は人民に選出された議会の決定を執行すべきだという原則、即ち代表制の原則を否定している。曰く、
いわゆる国民代表は、選挙人たちの欲することでなく、正しいことを決定すべきである。これこそが、真に民主的な国民がその代表に期待することである。議会についても同様なことが言える。重要なのは国民の願望ではなく正義である。現実問題として言えば、議会が欲することではなく、正義を、正しいことを行なうべきなのだ。真の民主制においては、責任ある政府は、民衆の意志ではなく、民衆の福祉(weal)、即ち正義ををまず考えるべきである。政府が第一義的に正義でなく民衆の意志を考慮するようになれば、国家の正義は災難に見舞われる。そのような政府はその本性上真の「統治者」ではない。民衆は民意の執行者ではなく、正義に従った統治者として政府を選ぶのである(66)。
これこそソ連流の「真の」民主制である。民主制は元来「民衆による統治」を意味するが、ブルンナーの「代表」概念批判は、結局政府は民衆の意志を執行する必要がなく、全国民の普遍的で平等な選挙によって選ばれる必要もない、政府が国民の福祉を考慮し、国民の利益のために行動すればよいということに帰着する。そう言う政府こそが真の民主的政府だというのである。こういう政治理論が正しいか正しくないかは我々の問題ではない。我々は政治的価値判断をしようとしているのではない。ブルンナーの理論が彼の真摯な正義への信仰に基づいていることは疑い得ないことである。我々が問題としたいのは、神学的考察の結果として提出されたこの議論が、民主制に理論的基礎を与えるものでも、それを政治的に正当化するものでもなく、反民主的傾向に奉仕するものだということである。
「宗教こそ民主制必須の基礎である」(ニーバー)
スイスの神学者ブルンナーと同様、米国の神学者ラインホルド・ニーバーも、非宗教的・実証主義的哲学に全体主義の責任を帰そうとする。ニーバーは、物的・精神的利害関心の対立によって分離した社会の中で、「伝統的歴史的宗教を否定しつつ」「文化的統一を実現しようとする非宗教主義(secularism)」(67)、その更に洗練された形態としての「一切の人間的視野の相対性を自覚する一種の懐疑主義」を検討の俎上に載せる。後者は「道徳的ニヒリズムの深淵の上に立ち、全人間生活を無意味感をもって脅かし、悪魔的諸宗教がつけ込む精神的空白を作り出す」という(68)。ここで「悪魔的諸宗教」とは、何よりもナチスその他の過剰なナショナリズムを意味する(69)。「人間の正義への能力に対する一貫した悲観論は、絶対主義的政治論へと導かれる。このような政治理論は、圧倒的な実力のみが、団体のもつ多様な諸活力を実効的調和へと強制するとの信念をもたらす」(70)と言っているのも同じ趣旨である。更に言う、「暴君的支配に対する最も有効な敵対者は、過去においても現代においても、『人でなく神に従うべきだ』[使徒行伝5:29]と語り得る人々である。このような決意が可能となるのは、このように信ずる者のみが、悪魔的カエサルたち(demonic Caesars)の自己主張をそのままに受け容れることを拒否する拠点を有するからである(71)。彼らはこの拠点から、現存の政府の中に体現されている悪しき力を拒否することができるのである」と言う。このニーバーの主張が、キリスト教神学が過去も現在も常に暴君的支配に抵抗してきたと主張するものであるとすれば、首を傾げざるを得ない。「人でなく神に従うべきだ」という言葉の出典は、また「すべての権力は神にその力を与えられている」[ロマ書13:1]という言葉を含んでおり、聖パウロによって定式化されたこの議論は、まさしく悪魔的カエサル[ネロ]のために用いられた。そしてこの言葉はそれ以後繰り返し、ロシアのイワン雷帝、フランスのルイ十四世、プロイセンのフリートリヒ二世などの暴君的支配者を正当化するために用いられてきた。ムソリーニやヒトラーでさえも、その支配を正当化してくれるキリスト教神学者をもっていた。キリスト教神学は、特定の政治体制の弁護論とはならない。それはあらゆるあい対立する体制を正当化し得るし、現にしてきた。ニーバーの著書の「共同体と財産権」はすばらしい章(72)で、そこで彼は財産の共有と私有について賛否両論を展開しているが、政治体制についてもそれと同様である。ニーバーは、「国民共同体に対する偶像崇拝に対する反対論の窮極的支えは、諸個人が部分的・個別的国民共同体を超えた道徳的洞察力をもち、その能力によって普遍的法則を認識するところに求められねばならない」(73)と言い、彼によれば、宗教こそこの洞察の源泉である。「宗教思想や宗教的伝統は、直接に社会の組織化に携わるものではないが、政治的諸原則の淵源としての道徳的基準の窮極的根拠である。いかなる文化的構築物も、その基礎をなし、またその頂点をなすのは宗教的なものである。なぜなら、いかなる価値体系も、それを窮極的に決定するものは、人生の意味についての窮極的な問いに対して与えられる窮極的な解答だからである」(74)。現代民主制もまた宗教的基礎づけを必要とし(75)、キリスト教神学は懐疑的世俗主義よりも有効に民主的政治体制を基礎づけることができる、なぜなら、懐疑的世俗主義は、宗教を否定し、人間には正義の能力が欠けていると考えるからであると言う。
ニーバーは、「我々の文化の一貫した性善説の故に、現代の民主社会は、一方で自由の危険性を正確に測定することを妨げ、他方で民主制を不正と抑圧に対する唯一の代替可能性であることへの洞察を妨げた」と言う(85)。それ故彼は、民主制が不正に対する唯一の代替案であることを示そうとする。ということは民主制を絶対的正義の現実態であることを示そうとするのである。なぜなら民主制が単に相対的な正義であるならば、不正に対する「唯一の」代替案ではあり得ないはずだからである。絶対的正義は他の正義の可能性を排除するが、相対的正義は排除しない。これが両者の相違である。ある規範や制度が相対的に正しいということは、それがある条件の下でのみ正しいということであり、別の条件下ではそれでなく別の、相反する規範や制度が正しいかも知れない。あるものが絶対的に、あらゆる条件下で正しいという判断のみが、そのような可能性を認めない。しかしニーバーの「宗教的・神学的信念」(86)に基づいた政治哲学は、それが絶対的正義であることを立証しないばかりか、それを立証する責務があることを自覚すらしない。彼の政治哲学は、実は疑いもない政治的相対主義の一形態であって、その宗教的・神学的基礎と本質的に矛盾しているのである。
ニーバーの宗教的相対主義
一見すると、ニーバーは、その宗教的・神学的信念からして、相対主義を排撃しているように見える。支配者や団体の「制約的権力の行使」は、「共同体内における生の正しき秩序(right order of life)を明確に示す一般的な正義の原則なしには、純粋に恣意的なものとなるだろう」と述べ、この「正義の一般原則」とは「自然法」であると明言している。彼は「歴史的法を超える正義の観念をもたない人間社会は存在しない。この観念に従って立法の正しさを測るのである」と述べ、遺憾ながら「自由民主主義思想の現状においては、他の諸世紀と異なり、倫理学が相対主義化してしまい、自然法概念への訴えかけが説得力をもたなくなってしまった。自然法こそが相対的法に体現されている以上の不易にして純粋な正義の原則を前提しているのに」と言う(87)。彼は「民主的で自由な社会の主張者が直面する窮極的な問題は、社会がその自由をこの正義の原則を懐疑の対象とするところまで拡大すべきか否かである」と問題を設定し、「正義の原則は批判や修正を超越するものではないか?この原則自身が民主的手続に服し、その社会、その時代の気分や気紛れに依存することになれば、正義や秩序の窮極的な判断基準、個人的衝動や集団的衝動において逸脱的なものを防ぐ基準を放棄することになるのではないか?」と問う(88)。これは「そうだ」と肯定するための設問である。実際正義や自然法の原則が批判の対象となり、民主的手続に服することとなれば、何が正しいかについて多様で相互に矛盾しさえする思想が可能となり、正義の「窮極的」基準は犠牲となるであろう。従ってそうしないためには正義の原則には批判的知性の立ち入りを禁止し、宗教的信仰のみをその淵源として許容するということにならざるを得ない。まさしくニーバーはこう主張しているように見える。彼は言う、「いかなる社会も、実定法の判断基準であり、抑制の体系であるところの実効的な正義の原則を必要としている。この原則はその最も深い層において超理性的なものであり、存在の意味に関する宗教的観念に根差している」と(89)。即ちニーバーは実定法を裁く正義の判別基準として自然法の存在を信じ、この自然法の淵源を宗教に求めているのである。彼にとっては宗教とはキリスト教に他ならないから、正義の原則の淵源としての宗教とは絶対的な正義の神(absolutely just God)への信仰である。従ってキリスト教を根拠とする自然法は、絶対的正義を標榜することとならざるを得ない。実定法の正邪を判別する基準としてニーバーの念頭にあるものはそのような絶対的正義である。そのような基準であるためには、自然法は実定法とは違ったものでなければならず、しかもその相違は、実定法が相対的にのみ正しいのに対し、自然法は絶対的に正しいものであるところにあるはずである。実定法が相対的にのみ正しいとは、特定の条件下、その実定法が実現しようとする社会的価値の前提下でのみ正しいということで、その他の価値と衝突する場合にも、この価値のみが実現さるべき絶対至高な唯一のものだとは主張しない。もし自然法もまた相対的にのみ正しく、一つの自然法体系が唯一可能なものだと主張できないのなら、また自然法にも色々あり、相対立する自然法もまた存在するのだなどというのなら、そのうちのどの自然法が実定法の是非を判断する基準かが問題となるであろう。そして相対主義的自然法論はこの問いに答えることができないであろう。そうなれば自然法は実定法に対し何の優越性も持たないことになる。そうなれば自然法と称する規範体系と実定法の規範体系との相違は、二つの実定法の間の相違と同じこととなる。それでは何れを選ぶかの理由がなくなり、「法が実現すべき至高の価値とは何か」という問いは未決着ということになる。「相対的自然法」なるものは概念矛盾である。
ニーバーは絶対的正義という言葉を用いることを慎重に避け、実定法の正義と対比した場合の自然法の正義についても最上級の形容詞を用いていない。彼はただ、「明らかに相対的な」実定法に内在する原則に対して、自然法の原則は「より不変でより純粋」であると述べるのみである。しかし自然法が実定法「より」不変だということは、可変だということである。即ち絶対的に不変ではなく、相対的に不変だということである。自然法が実定法と同様に可変的であるとすれば、両者の何れがより可変的で不純かという問題が生ずるが、ニーバーの説く相対主義哲学によっては答えられない。もし人間の知り得る自然法や正義の原則、社会に適用可能なその原則が「歴史的命題」においてしか表明され得ず、その命題は誤謬と罪を免れ得ないために修正の対象とならざるを得ないとすれば、それは絶対的正義でなく相対的正義でのみあり得る。そうなればニーバーの正義論と(彼が実定法を裁く基準としての自然法をもたないことを理由に排斥する)相対主義的倫理学との間に相違はなくなる。なぜなら、相対主義倫理学はニーバーと全く同様に「人間が抱く正義の観念は絶対的なものでなく、相対的なものに過ぎない」と説くものであるから。ニーバーは言う、
理性から絶対的拘束力をもつ道徳原則・政治原則を導き出す自然法の諸理論は、常にその原則の定義に論理的必然でない実際的適用のための附随原理を附加するのが常である(92)。
政治道徳の諸原則は、純粋な道徳原則に比べて相対的なものであるから、相対的で論理的必然でない要因を導入せずに主張することができないものである(93)。
ある自然法論が、絶対的平等が社会の可能態であると主張する場合、それは、あらゆる社会において基本的不平等が必然であることを認識しない叛乱集団のイデオロギーとなる。他方実際上不可避の不平等が正確に定義されると、その定義は現実の文化的支配階級の有する特権をいかがわしくも正当化することにならざるを得ない。こうして定義自体がいかがわしいものになる危険が生ずる(94)。
自然法概念は、それが特定の階級や民族のイデオロギー的汚染を蒙っていないとしても、特定の時代のもつ想像力の限界内でしか表現されず、未来の歴史的可能性を考慮に入れ得ない。民主的社会の窮極的自由は、このことのみによっても正当化される。そこでは、自らの依拠する道徳的前提でさえも、恒常的な吟味・再審査の対象となることを免れないのであるから。そのような自由によってこそ、歴史における新たな生命力の芽を尚早に摘み取るという過ちが避けられるのである(95)。
窮極原理の批判を禁止する社会においては、この窮極的正義を専有する歴史的勢力による濫用にどう対処するかという難題に直面することになる(96)。
宗教的基礎の上の寛容論
ニーバーは、民主制の本質的要素の一つが寛容であると述べているが、それは全く正しい。彼は更に、寛容が相対主義を前提としていることを無視しておらず、「民主制は個人間・集団間における寛容ある協力の精神を前提とする。・・・民主制は外からの挑戦を受けるかも知れないが、・・・内部的危険も存在する。その危険とは、自分の理想が完全無欠だという信念をもつ人々、相対立する学派に属し、相対立する理想を抱く人々の間の対立である」(98)と言う。ある理想が完全無欠だということは、その理想が絶対的価値だということである。民主制に関連して彼は「すべての政治的目的は相対的なものであり、相対的政治目的に絶対的に献身することは団体の平和にとって危険である」(99)と言っている。ということは、民主制は相対主義を前提としているということである。ところで彼は、この政治的相対主義を宗教によって基礎づけ得るという幻想を抱いている(神学者としてそうせざるを得ないのであろうが)。だが宗教はその本質上絶対的価値への信仰、完全無欠な理念への信仰である。なぜならその信ずる神は完全性を人格化したもの、端的に絶対的なものだからである。信仰の対象が絶対的価値でなく相対的価値で、その真理が絶対的真理でなく相対的真理で、他の神、他の価値、他の真理が存在し得るし、寛容の対象となり得るということを容認する宗教などというものは概念矛盾である。ニーバーの相対主義的神学はこの矛盾の上に成立している。
ニーバーは、宗教的・文化的多様性の中で社会的調和、即ち自由と平和を維持することが重要な課題であると正しく認識し、この課題の解決には「高度の宗教的献身が必要である」と述べている。「即ち、各宗教、あるいは一宗教内の各教派は、一方でその立場を主張しつつも、他方ですべての信仰上の立場は歴史的偶然性と相対性を免れないことの、謙虚で反省的な自覚を保つ必要がある。このような自覚が寛容の精神を生み出し、いかなる宗教運動・文化運動も、自己流の宗教の公権的拘束力を標榜すること、自派の礼拝を公権的に独占することを躊躇するようになる」(100)と言う。しかし彼は、宗教的信仰の価値や真理が相対的なものであると主張するところまでは徹底せず、相対性を信仰の表明(expression)に限定する。彼は「神の至高の権威と人間の被造物性、神の企図の無条件性と人間的企図の条件性」を対比するが(101)、この神の「無条件性」こそが神の絶対性であり、宗教的信仰の対象に他ならない。ニーバーは、「条件的」、即ち相対的であるのは人間による信仰の「表明」のみであるとするが、本来神への信仰の表明とは絶対的真理ないし絶対的価値の表明に他ならないはずである。観念の表現としての記号が絶対的であるか相対的であるかは、その記号の意味に依存している。その性格が絶対的であったり相対的であったりするのは、観念を表現する心理的行為ではなく、その行為の意味である。この表現の意味が絶対的真理ないし絶対的価値であるならば、その観念の表現は絶対的であり、相対的真理・相対的価値に過ぎないならば、それは相対的である。ある表現の言及対象が絶対的であるとされるならば(宗教的信仰が言及する対象が絶対者、即ち神であるならば)、その表現が相対的だということはあり得ない。ニーバーは「宗教的信仰は、人々が生得的に有している自尊心を緩和させ、最も窮極的な真理についてさえ、それについての自分の判断の相対性をいさぎよく自覚するように仕向けなければならない」と言っている(102)。彼の言う「窮極的な真理」とは明らかに「人生の意味についてほ窮極的な問いに対して与えられる窮極的解答」、「価値の仕組み」(scheme of values)を窮極的に規定するもの(104)であろうが、人生の意味についての窮極的問いに対する窮極的解答は絶対的真理以外のものではあり得ない。しかし宗教的真理についての言明が相対的なものに過ぎないと認めることは、その言明の対象である真理が窮極的・絶対的でないと認めることであり、従ってその真理は固有の意味において宗教的真理ではないことを意味する。ニーバーは、宗教的信仰は人間に「最も崇高な真理の言明にも忍び入る誤謬と罪、有限性と偶然性の要素を認識した上でなお最も確実な真理を教えるべきである」と言う(104)。ある言明が確実に真理だが、間違いでもあり得るというのは、矛盾ではあるまいか。人の抱く信仰内容が、他者述べた言明や表現を基礎とするもので、信仰に関する人間の表現の真理性が常に相対的なものであるとすれば、いかなる信仰も絶対的真理性を標榜し得ない。ということは、本来の意味での宗教的信仰は存在し得ないということになる。なぜなら宗教的信仰と世俗の意見との区別は、まさに絶対性の標榜にあるからである。あるキリスト者が、自分の信仰は啓示、即ち神ないし神の子の言葉に基礎を置くものであると信じているならば、その言葉に「誤謬と罪、有限性と偶然性の要素」が忍び込んでいるはずがない。ニーバーによる絶対的である宗教的信仰と、人間的である故に単に相対的な信仰表現の区別が意味をもつのは、絶対的真理であり絶対的価値である神が余りに超越的なので、人間の理性的認識も非合理な信仰も神に到達することができず、従って信仰として表現されるものは、可謬的で相対的真理性しか主張できないということになる。絶対者としての神には人間は接近し得ないというこの想定の必然的帰結は、神の性質や働きや意図について人間は何も語れないということである。そのような超越神の神学は、何の社会的影響力をも持ち得ない。人間にとって絶対的に不可知であるような神の意志は、人間界に適用不可能だからである。
ニーバーの根本的誤謬は、相対主義を人間の宗教的恭謙(humility)いによって基礎づけ得ると考えたところにある。彼は「民主制と深遠な宗教との間の真の接点は、恭謙の精神である。民主制もそれを求め、宗教もそれをもたらす」(105)「キリスト教に従えば、人間的営みが条件付きで有限のものであることを蔽い隠そうとする誇り(pride)こそが罪の核心である」(106)と言うが、キリスト教のそれ自体としての意味は、人間の営みでなく、神の行為である。キリスト教は神によって啓示され、神によって人間の心に植え込まれたのである。人がこの宗教をいかに誇ろうと罪にはならないし、なり得ない。なぜならこの誇りは人間的営みが条件付きで有限のものであることを隠そうとするものではなく、絶対的・神的真理を確信する者が当然に抱く誇りだからである。この絶対的真理に対する無条件の服従として表われる恭謙は、この誇りと両立する。この誇りは恭謙の補償だからである。宗教的恭謙は二義的なもので、民主制か専制支配かを決する基礎にはなり得ない。
寛容は、主張する真理ないし実現を求める価値の相対性を前提としている。そして真理ないし価値の相対性は、それに対立する真理や価値がまったく不可能ではないという思想と結びついている。これこそが対立する真理の公表や反対の価値の宣伝を抑圧してはならないことの理由である。政府の一員としての資格で特定の宗教的信仰をもつ人々が、他の諸宗教に対する寛容の政策を採用するとすれば、その態度をとらせたのは、絶対者に対する宗教的・非合理的信仰ではなく、団体内における平和と自由を維持しようとする極めて合理的な願望であり、宗教的立場と政治的立場との葛藤の中で後者を選んだ結果である。彼らが自分の宗教に対立する宗教に寛容の態度をとること、即ち絶対主義を前提とする信仰をもちながら相対主義を前提とする政策をとることは、首尾一貫しない。ニーバーは「寛容とは何も信じない人々の徳だ」というチェスタートンの言葉(107)を引用しているが、この言葉は明らかに誇張である。そうではなくて、寛容は、自分の宗教的信仰が政治的志向を抑え込むほど強烈でない人々、他の宗教的信条の可能性と正当性を認容するという矛盾を敢えて犯す用意のある人々の徳である。宗教者の民主主義とは、まさしくこのような矛盾の基礎の上に成り立っている。確かに最も論理一貫したイデオロギーが最も有効なイデオロギーとは限らないことは否定できないが。
ニーバーは、キリスト教神学者であるから、合理主義的・反形而上学的・非宗教的・懐疑論的哲学に拠って立つ相対主義を受け容れることはできないはずであるが、他方で相対主義を前提とする民主制を支持するから、「宗教的相対主義」という自己矛盾的理論構成をとらざるを得なくなる。先に引用したように、彼は相対主義の基礎をなすそのような哲学を、「伝統的歴史的宗教を否定しつつ文化的統一を実現しようとする非宗教主義」(108)と呼び、その更に洗練された形態を「一切の人間的視野の相対性を自覚する一種の懐疑主義」(109)と性格づけた。しかしニーバー自身、すべての人間的営みは相対的だと主張するのであるから、その宗教的相対主義は、「洗練された懐疑主義」と大差がないように見える。しかしニーバーによれば、両者の相違は、後者が「道徳的ニヒリズムの深淵の上に立ち、全人間生活を無意味感をもって脅かし、悪魔的諸宗教につけ込む精神的空白を作り出す」ところにあるという。ここで「悪魔的諸宗教」とは、何よりもナチスを意味することは先に指摘した。しかし宗教的信仰が相対主義と両立すると考えるほど相対主義的社会観に深入りしたニーバーのような思想kが、教条主義的形而上学者たちが従来抱いてきた実証主義哲学に対する誤解に陥るはずがない。懐疑主義は認識不可能論ではない。すべての認識が相対的であるという主張は、真理が存在しないという主張ではなく、すべての道徳的価値が相対的だということは道徳的価値が存在しないということではない。他者が人生について自分と異なる意味を与えていると認める者にとって、人生は無意味ではない。合理主義哲学は、人間的経験を超えた領域を、人間の願望や恐怖によって培われた観念によって充たそうとする態度を拒否するものであるが、この哲学が悪魔的諸宗教に責任を有するなどということはあり得ない。そのような悪魔的宗教の登場を阻止することは、あらゆる宗教から超然としている実証主義哲学の任務ではなく、「真の宗教」であると標榜する宗教の任務である。「悪魔的宗教」が充たそうとする精神的空白は、超越的領域における空白であり、実証主義哲学はそのような領域を認めない。その領域とはまさしくキリスト教が独壇場とする領域である。ナチ宗教が入り込んだ精神的空白とは、まさしくキリスト教が明け渡した空白ではないか。なぜキリスト教が、ナチが精神的空白を埋めることを阻止しなかったかを問わずに、その責任を実証主義哲学に求めるのは、許しがたい責任転嫁である。仮に相対主義がこの質問に答えるべきであるとしても、その相対主義とは[哲学的相対主義ではなく]、ニーバーが唱えるような宗教的相対主義であるはずである。この宗教的相対主義こそが、悪魔主義という絶対主義の幻想を唱えたもう一つの宗教の勝利に対し責任を負うべきであろう。しかし実際には、ナチ宗教は、経済的・政治的現実に原因をもつ社会の動態のイデオロギー的上部構造に過ぎず、哲学体系や宗教体系の欠陥の故に生じたものではない。そしてナチ運動は、より良き哲学yより良き宗教によって終止符を打たれたのではなく、苛酷な現実によってであった。
民主制とキリスト教を結びつけようとする最も注目すべき試みをなしたのは、カトリック哲学者ジャック・マリタンの著書『基督教と民主制』である。彼によれば、民主制理念の起源は福音の霊感、即ち福音書の教えの中にある(110)。福音の酵母が世俗の意識の中に作り出したものが民主制の諸原則だというのである(111)。彼は更に、現在未だ民主制は実現されていないとさえ言う。ブルジョワ民主制、即ち無神論的民主制は真の民主制ではない、なぜならそれは福音を否定し、そこでは民主制の原則とキリスト教の原則が分離しているからである。民主制が「真の」民主制となるためには、それが完全に人間的なものにならねばならず、そうなることはキリスト教的になることに他ならない。即ち民主制の本質は、キリスト教的になることによって実現されるというのである(112)。
このアイディアはソ連の民主制論と多少似たところがある。彼らも「単なるブルジョワ民主制でない『真の』民主制になるためには、単に形式的なブルジョワ民主制は完全に人間的なものにならなければならない」と言う。もっとも「完全に人間的になる」とは、マリタンにおいてはキリスト教的になることであったが、ソ連においては社会主義的になることである。
マリタンは一方で民主制の本質はキリスト教だと強調するが、他方では宗教的信仰としてのキリスト教は政治に無関与的(indifferent)であるという。曰く、
キリスト教・キリスト教信仰はいかなる政治体制にも従属しないことは明らかで、政治体制としての民主制にも人生哲学・政治哲学である民主主義にも従属しない。このことはキリストによる「カエサルのもの」と「神のもの」の基本的区別の帰結である。・・・単に人間的な起源に発する教説や意見は、それがいかに真実であろうとも、キリスト教の魂によって抱懐される信仰を左右することはできない。キリスト教徒としてある政治体制のための闘いの内に救済を求めるということはあり得るが、それは自然法・神法を侵害しないという条件の下においてのみ許される。キリスト教となって、民主的政治哲学以外の哲学を擁護することを通じて救済を求めるということもあり得る。ローマ帝国時代においては、キリスト教徒は奴隷制を受け容れたし、十七世紀においては絶対君主制を支持した(113)。
民主制の本質がキリスト教でありながら、宗教としてのキリスト教は、キリストによる政治と宗教の区別に従って政治体制に無関与的である、そして民主主義者でなく、専制思想を抱きつつ良きキリスト者であり得るというのは理解し難いところである。マリタンもカトリック教会が(民主化運動が成功する以前は)民主制に敵対して専制体制を擁護したことを否定することはできない。彼は正直に「キリスト教徒たちを導いた勢力が宗教の名において民主的願望に敵対した世紀があった」(114)「フランスにおいて人権・国民権を宣言したのは、カトリック教義に忠実な信者ではなく、理性主義者たちであった」(115)「ロックもルソーも百科全書派の人々もキリスト教的伝承を忠実に維持しようとした思想家とは考えられない」(116)と認めている。このことについてマリタンは、キリスト教を、永遠の生命への道としての宗教的信仰、教会が維持し宣布する神的真理の宝物庫と、民衆の社会的・政治的生活の酵母、人類の現世的希望の担い手、現世において働く歴史的力とに分け、民主制と本質的結びつきをもつのは前者でなく後者である、キリスト教が現実に作用する、即ち民主制の本質的要素となり、「真の」民主制を形成するのは、神学の高み(heights)ではなく、世俗の良心、世俗の実存の深み(depths)においてである、と言う(117)。しかしキリスト教は宗教的信仰であることを本質としており、それが現世の政治の酵母となり、歴史を動かす力となるのは、その宗教的信条、神的真理、永遠の生への希望が現世内で働く歴史的力となり、政治活動の酵母となるからではないか。宗教的信仰としてのキリスト教が政治に無関与的であるならば、政治活動の酵母とも、現世において働く歴史的力ともなり得ないのではないか。従ってキリスト教と何らかの政治体制との間の本質的結びつきなど存在し得ないのではないか。マリタンは「世俗化されたキリスト教」(secularized Christianity)(118)という言葉を用いるが、それは形容矛盾ではないか。
もっとも「キリスト教が民衆の間で支配的宗教である方が、他の宗教が支配的であったり、どの宗教も支配的でない状態よりも、民主制はよりよく機能し得る」というような主張は可能かも知れない。ちょうど「民主制は社会主義経済体制下より資本主義経済体制下でよりよく機能する」という主張とか、またはその逆の主張とかの場合と同様に。しかしそれを証明することは不可能である。マリタンがこの著書を書いたのは第二次大戦中であるが、彼は「キリスト教的霊感と民主的霊感が相互に承認し合い、和解する時」にのみ、西側民主主義国は戦勝後に平和を獲得することができる、と言っている(119)。あるいはそうかも知れないが、仮にそうであっても、そのことによって民主制とキリスト教の本質的結びつきが証明される訳ではない。民主制の本質の問題と、民主制が有効に機能するか否かの問題は混同さるべきではない。本論文第三部において、私は民主制と特定の経済体制の本質的結びつきを証明することは不可能で、せいぜいある経済体制の下でよりよく機能し得るということを示し得るに過ぎないことを示すつもりであるが、それと同様のことが民主制と宗教の関係についても言い得る。ある宗教が他の諸宗教より民主政治を一層有効に機能させるからといって、民主制とある宗教が本質的な結びつきを有するとはいえない。古代の民主制は、キリスト教徒は全く異なった宗教の下で成立した。キリスト教以外の宗教を信ずる人々が真の民主制を樹立し得ないなどと想定する理由は存在しない。実際現代世界において、イスラム教・ユダヤ教・ヒンドゥー教のような非キリスト教国にも民主制は存在している。実際にマリタンが示そうとしているのは、正確には民主制とキリスト教の結びつきではなく、民主制と(彼が自然法だと想定している)道徳的・政治的諸原則との結びつきである。彼は、特殊キリスト教的道徳としての「福音の法」(loi évangélique)(120)とそれらの道徳的・政治的諸原則とを同一のものだと説き(それに充分な理由があるとは思えない)、少なくとも両者は調和的だと説いている。しかし、キリストが強調し、他のいかなる宗教も支持しない、それ故特殊キリスト教的な道徳原則が一つある。それは「応報を棄てよ、善には善を、悪には悪を報いるのではなく、悪にも善をもって報い、隣人のみならず敵をも愛せ」という原則、「罪人を罰さずに赦せ」という原則である。これはキリスト教がもたらした新たな正義であり、愛の原則である。しかしこの原則は政治的現実には適用できない。それは法違反者に強制を加える秩序としての国家と両立不可能である。それ以外のキリスト教の道徳原則は、他の道徳体系も唱え、福音書以前から唱えられていた道徳体系で、民主制に限らず、あらゆる社会に適用可能なものである。
民主制は福音的性格のものであるという主張を確証するものとして、マリタンはフランスの哲学者アンリ・ベルグソンの「民主制は本性上福音的なもので、その動力は愛である」(121)という言葉を引用する。本当に民主制の動力が愛、キリストの愛であるならば、その場合にのみ民主制はキリスト教と本質的に結びついていると言えるであろう。しかしそうでないこと、そうであり得ないことは明らかである。私は本論文の第一部で、「民主制は攻撃的でなく、平和愛好的な人格と結びつく」と述べたが、ベルグソンはそのことを誇張して表現しているに過ぎない。政治社会における平和への愛は、福音の愛とは全く異なったもので、民主制が平和愛好的人格と親和的であるということは、決して民主制の諸原則が、キリストの説いた神の愛を基礎としてのみ実現し得る平和への愛から導き出されるということを意味しない。
「民主制理念の起源は福音の教えにある。民主制は福音の酵母によって世俗の良心に生みつけられた。民主制は福音の霊感の地上的顕現である」ということを、マリタンはどのようにして証明するのであろうか?彼は、福音の神秘な霊感によって、人々の良心は政治権力は「被治者の合意によってのみ行使され得る」(122)こと、政府は民衆の「代理人ないし代表者」としてのみ行動し得ることを理解した、と言う(123)。確かにこれは民主制の最も重要な原則であるが、それを福音書から導き出すことなどできそうもない。キリストの教えはいかなる政治体制にも言及していない。キリストの言葉からは、彼がいかなる政府も支持していなかったこと、政府の正当化などは彼の念頭になかったことしか知り得ない。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」[マタイ22:21]というキリストの言葉の伝統的解釈を受け容れるとすれば、彼は神の国の到来する以前の「時」(aeon)については、絶対君主の権力の正当性を否定しなかった。彼は神の国の到来は切迫しており、それが到来すれば地上の権力のすべては終ると考えていて、その関心は神の国に集中していた。従って地上の権力のどの形態が正当かなどという問題は、彼の眼中になかったのである。他方聖パウロは、キリスト者の地上の権力との関係に非常な関心をもっていたが、彼の教えは、マリタンが福音の霊感の教えだと言うこととは正反対である。聖パウロは、「政府はその権力を被治者の合意ある時にのみ行使され得る、従ってキリスト教徒は専制政府は不正不法なものであるから、その権威を無視すべきだ」などとは全然説かず、キリスト者はいかなる既存の権力も神の制定したものだと考えよと教えた。その権力には当然被治者の合意のない権力も含まれるであろう。こうして彼は、既存のあらゆる政治形態をも正当化したのである。
この聖パウロの教えに忠実に、(カトリック・プロテスタントとも)キリスト教会は、専制支配であれ民主制であれ、あらゆる既存の権力を支持した。もっとも、当然のことながら、カトリック教会もプロテスタント教会も、民主制よりも専制支配に好意をもち、「君主は神の恩寵によって権威をもつ。世俗の事象については君主は、民衆の代理人・代表者ではなく、神の代理人・代表者である」という教義によって、絶対君主制に強力なイデオロギーを賦与した。確かに民主政体が確立すると、カトリック教会もプロテスタント教会もその政府を支持したが、それはキリスト教の活動を阻害し制約しないという条件の下である。しかしそのことは、教会が宗教的寛容を要求したことを意味しない。カトリック教会は政府によるプロテスタント迫害に反対しなかったし、プロテスタント教会もカトリック迫害に反対しなかった。イスラム教に対する十字軍は、イスラム教徒を含蓄深いことに「不信者」(infidels)と呼び、教会の主導下で遂行された。彼らは、宗教集団や政治集団の自治とか寛容とかいう民主的原則には眼もくれず、その行動を福音の霊感によって易々と正当化した。
マリタンは「人間と社会についての民主制の哲学の最も重要な特徴は、奴隷の哲学(philosophie esclavagiste)に対する徹底的な反対に見ることができる」と言っている(127)。しかしこの主張は正確ではない。古代民主主義においては奴隷制が法制度として支配していたし、米国民主制において奴隷制が廃止されたのは独立宣言よりずっと後のことであった。もとより、人民の支配という意味では民主制であるが、奴隷制を認める国家よりも、人民が支配し、奴隷制を認めない国家の方が民主制の度合いにおいてまさっていることは事実である。女性に政治的権利を認めない国家は民主的でないが、しかし女性に選挙権を認めないスイスは、[度合いは低いが一応]民主国と呼ばれている。それはともかく、奴隷制の否定は、福音の霊感から導かれるものではない。キリストは奴隷制を否定しなかったし、聖パウロは次のように述べて、それを断乎正当化している。曰く、
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけ仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神のみ心を行い、人でなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であったても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。(エペソ六:五-八)
軛の下にある奴隷の身分の人は皆、自分の主人を十分尊敬すべきものと考えなければなりません。それは、神の御名とわたしたちの教えが冒涜されないようにするためです。主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。(テモテ六:一-二) [『新共同訳聖書』日本聖書協会、一九九三年]
奴隷として仕えることが神の意志を履行することであり、福音的兄弟性は奴隷制と完全に両立するのである。福音の霊感の教えるところは、反奴隷制ではなく、このことである。
(1) Emil Brunner, Gerechtigkeit: Eine Lehre von den Grundgesetzen der Gesellschaftsordnung (Zürich: Zwingli Verlag, 1943). 英訳はJustice and the Social Order, trans. Mary Hottinger (London and Redhill: Lutterworth Press; New York: Harper & Bros., 1945).
(2)Reinhold Niebuhr, The Children of Light and the Children of Darkness: A Vindication of Democracy and a Critique of Its Traditional Defense (New York: Charles Scribner's Sons, 1950).
(3) Jacques Maritain, Christianisme et démocratie (Paris: P. Hartmann, 1943).
(4) Brunner, op.cit., p.13.
(5) Ibid., p.14.
(6) Ibid., p.15.
(7) Loc.cit.
(8) Ibid., pp.15f.
(9) Ibid., p.17.
(10) Ibid., p.16.
(11) Ibid., p.17.
(12) Ibid., pp.27ff.
(13) Ibid., p.17.
(14) Ibid., p.57.
(15) Ibid., p.235.
(16) Ibid., p.20.
(17) Ibid., pp.16f.
(18) Ibid., p.47.
(19) Ibid., pp.48f.
(20) Ibid., pp.80ff.
(21) Ibid., p.84.
(22) Ibid., p.35.訳者はドイツ語のüberzeitlich[超時間的]をeternal[永遠の]と訳しているが、正確でない。
(23) Cf. Kelsen, "Die Idee der Gerechtigkeit nach den Lehren der christlichen Theologie," Studia Philosophica: Jahrbuch für Schweizerischen Philosophischen Gesellschaft, XIII (1953), pp.157ff.
(24) Brunner, op.cit., p.90.
(25) Loc.cit.
(26) Ibid., p.93.
(27) Ibid., pp.93f.
(28) Ibid., p.17.
(29) Ibid., p.87.
(30) Ibid., pp.57ff.
(31) Cf. Kelsen, "Die Idee der Gerechtigkeit nach den Lehren der christlichen Theologie," op.cit., pp.180ff.
(32) Brunner, op.cit., p.48.
(33) シドニー・フックは前掲論文「民主制の哲学的前提」(Sidney Hook, "The Philosophical Presuppositions of Democracy, " Ethics, LII (1942), p.281)において、「『超自然的宗教的真理が否定されれば民主制も否定される』というような形で、民主制は宗教に依存しているのであろうか。そういう言説は最近の流行である。しかしこの議論にとって歴史が有意味であるとすれば、制度化された大宗教は(一部のプロテスタンティズムはそうでない可能性もあるが)、神権制を支持する傾向があることは、異論の余地のないことである。神の王国が地上の王国の霊感のモデルであるとしても何ら不思議でない。民主的組織をもった天国などというものを聞いたことがあるか?天上のウォルト・ホイットマンは悪魔(Lucifer)と同じ運命に遭遇するであろうが、そうなる理由は別々である。民主的に組織された天国などという観念が神聖冒涜であるように、階層的に組織された教会を民主化しようとすれば破門されるであろう。教会の『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に』という格言によって聖化された現実の行動を見るならば、歴史上の制度宗教は常に、その存在を容認するいかなる政府にも社会にも適合してきたことが知られる。・・・他方神学的信条を否定すると民主制が否定されるというような仕方で、民主制と神学とは結びついているであろうか。この議論のために、私は自然神学上の二つの重要箇条、『神は存在する』という命題と『人間は不滅の魂をもっている』とを取り上げよう。『神の存在と霊魂不滅も根拠がない』という主張は、『民主制支持論には根拠がない』という主張成立の必要条件であろうか。否。前者は後者の必要条件でも十分条件でもない、と私は主張する」と言っている。
(34) Brunner, op.cit., p.48.
(35) Ibid., p.55.
(36) Ibid., p.29.
(37) Ibid., p.37.
(38) Ibid., p.30.
(39) Ibid., p.36.
(40) Ibid., pp.35f.
(41) Ibid., p.40.
(42) Ibid., p.35.
(43) Ibid., p.39.
(44) Ibid., p.41.
(45) Loc.cit.
(46) Ibid., p.42.
(47) Ibid., p.43.
(48) Loc.cit.
(49) Ibid., p.44.
(50) Ibid., pp.44f.
(51) Ibid., p.45.
(52) Loc.cit.
(53) Ibid., p.46.
(54) Ibid., p.55.
(55) Loc.cit..
(56) Ibid., p.56.
(57) Ibid., p.49.
(58) Cf. supra, p.47.
(59) Brunner, op.cit., p.60.
(60) Loc.cit.
(61) Ibid., p.177.
(62) Ibid., pp.77,126,133.
(63) Ibid., p.177.
(64) Loc.cit.
(65) Ibid., pp.190ff.
(66) Ibid., p.191.
(67) Niebuhr, op.cit., p.126.
(68) Ibid., p.133.
(69) Ibid., p.134.
(70) Ibid., pp.xf..
(71) Ibid., p.82.
(72) Ibid., pp.86ff.
(73) Ibid., p.82.
(74) Ibid., p.39.
(75) Ibid., p.125.
(76) Ibid., p.x.
(77) Ibid., p.189.
(78) Ibid., p.x.
(79) Ibid., p.39.
(80) Wilhelm von Humboldt, "Ideen zu einer Versuch die Gränzen der Wirksamkeit des Staats zu bestimmen," Gesammelte Werke, B.VII (Berlin: Georg Reimer, 1852).
(81) Niebuhr, op.cit., p.28.
(82) Ibid., p.39.
(83) Ibid., pp.39f.
(84) Ibid., pp.xiii.
(85) Ibid., p.xii.
(86) Loc.cit..
(87) Ibid., pp.67f.
(88) Ibid., p.68.
(89) Ibid., p.71.
(90) Ibid., pp.70f.
(91) Ibid., p.71.
(92) Ibid., p.72.
(93) Ibid., p.73.
(94) Ibid., p.74.
(95) Loc.cit.
(96) Ibid., p.75.
(97) Ibid., pp.74f.
(98) Ibid., pp.151f.
(99) Ibid., p.151.
(100) Ibid., pp.134f.
(101) Ibid., p.135.
(102) Loc.cit.
(103) Ibid., p.125.
(104) Ibid., p.135.
(105) Ibid., p.151.
(106) Ibid., p.135.
(107) Ibid., p130.
(108) Ibid., p.126.
(109) Ibid., p.133.
(110) Jacques Maritain, op.cit., p.33.
(111) Ibid., p.65.
(112) Ibid., pp.31ff., 36.
(113) Ibid., pp.42ff.
(114) Ibid., p.33.
(115) Ibid., p.44.
(116) Ibid., p.47.
(117) Ibid., pp.43f.
(118) Ibid., p.49.
(119) Ibid., p.35.
(120) 「政治生活は自然法に適合すべきであり、またその時々の状況に従いつつも、福音の法自体に従うべきである」(Ibid., p.60)
(121) Henri Bergson, Les deux sources de la morale et de la religion (Paris: F.Alcan, 1932), p.304; Maritain, op.cit., p.78.
(122) Maritain, op.cit., p.57.
(123) Ibid., p.58.
(124) Ibid., p.51.
(125) Cf. supra, p.18.
(126) Maritain, op.cit., p.54.
(127) Ibid., p.76.