★「プロレタリア独裁が真の民主制だ」というマルクス主義者の教説を受け容れれば、「全体主義的民主制」という概念に到達するであろう。タルモンは「自由主義的型の民主主義と並行して、同一の前提から十八世紀に全体主義的民主主義と呼ぶことを我々が提案する潮流が登場した」「両者間の緊張は近代史の重要な一章を構成するもので、今や現代における死活の問題となっている」ことを示そうとする。彼によれば、自由民主主義は「自発性・無強制」という観念によって特色づけられ、全体主義的民主制は「自由は絶対的集団目的の追求と達成においてのみ実現される」という信念を基礎としているという。彼によれば、自由民主主義の窮極目的は「消極的に捉えられ、その実現のために実力を行使することは悪と考えられている」。それに対し全体主義的民主主義は、最大限の社会的正義と安定を目指し、その「目的」は「人間の真の利益の完全な充足、そして人間的自由の保障にある」。「近代の全体主義的民主主義は大衆の熱狂に基礎を置く独裁制であり、神権的君主や簒奪的僭主の行使する絶対的権力とは根本的に異なっている」と言う。しかし「大衆の熱狂」が普遍・平等・自由・秘密投票という選挙制度を通じて表明されるものでなければ、そんなものが存在するか否か、甚だ疑わしい。その存在は客観的に確認できないし、最も専制的な権力を含むあらゆる権力が自らのイデオロギー的正当化のために用い得るし、実際用いてきたものである。「神権的君主」たちは常に民衆に愛されていることを権力正当化の根拠として主張してきた。民衆の「愛」と「熱狂」との間には本質的な相違はない。民衆の熱狂の存否が民主制の判断基準であるとすれば、ナチ党の独裁も共産党の独裁も同様に民主制である。また民主制が独裁制であり得るなら、民主制概念はその独自の意味を喪失し、民主制と独裁制の区別は消失する。タルモンが自由主義的民主制と全体主義的民主制の対立と呼んでいるものは、実は民主主義の二つの型ではなく、民主制と社会主義の対立である。確かに政府の権力を限定する民主制と限定しない民主制という二つの民主制の型は区別される。後者の方が時代的に古く、原初的型である。タルモンがそれを十八世紀に登場したというのならば誤りで、既に古代に存在している。両者に共通なのは、制限的であれ否であれ、それが民主制であるためには、政治権力が直接国民集会によるか、普通、自由、平等、秘密投票によって占拠された代表によるかという点を基準として判断されることである。タルモンは、ソ連の理論と同様、この基本的な点を無視することによって、独裁制を民主制だと唱えているのである。

★ジョン・ハローウェルは「民主政体に要求されることは、多数であるからということで多数の意志に従うのではなく、多数の考え抜かれた判断(reasoned judgment)に従うべきことである」「多数決原理は質的観点を棄てて量的観点に帰依するというものではない」という。もしそうだとすれば、誰が多数のある意志が「考え抜かれた」ものであるか否かを判断するのか、という問題が起こる。その判断者は当然多数決に拘束される人物であろう。そうなれば各個人がそれを判断して服従するか否かを決することになる。それは民主制ではなく、アナキーである。

★価値相対主義哲学は妥協を可能にする。しかし妥協は民主制の本質ではないし、ハローウェルが言うような、民主制に「活力を賦与する原則」(animating principle)でもない。民主制の本質・「活力を賦与する原則」は、平等と結合した自由である。

★この説を典型的な仕方で唱えたのは、ナチのイデオローグとして一時的に成功を博したカール・シュミットである。彼はその著『憲法論』の中で、民主制と独裁の相違を消去しようと試みた。彼はロシアのソヴィエトやイタリアのファシストの支配が独裁であることを認め、独裁の特質は「独裁者の権限が一般的規範によってこまかく規定されず、自らの権限の範囲と内容を自ら判断するところにある」と言い、また多数決原理は民主制の特質でなく自由主義の特質であると主張する。彼によれば「国民の意志」は「秘密投票や多数の統計的確認などとは無関係」で、「圧倒的な喝采と有無を言わさぬ公論」において表明される。「『圧倒的な喝采と有無を言わさぬ公論』が表明された後で秘密投票をしてみたところで、おのずからにして噴出した国民意志の表明と同じ結果が出るとは限らない。公論というものは通常積極的な政治的関心をもつ少数者によって形成されるものであり、有権者の圧倒的多数は必ずしも政治的関心の持ち主ではない。政治的意志をもたない人々が、それをもつ人々の意志を蹂躙するなどということは、奇妙な政治原則であって、民主的でもなんでもない」。それ故シュミットは、民主制の基礎の上でのみ独裁は可能である」と主張するのである。

★アリストテレスの政治理論は一貫していない。彼は他方で、中産階級が富者階級と貧者階級より強力であって、所有権が没収から守られている穏健な民主主義を容認している。

★トマス・アクィナス『神学大全』の中に寛容についてのきわめて興味深い主張がある。「人間的統治は神の統治に由来するものであり、それに倣うべきものである。ところで全能にして至善なる神は、時に世界に悪が行われる事を許容する。神はそれを抑止しようと思えばできるのだが。それを抑止すると、より大いなる善が破壊されたり、より大いなる悪が生じたりするからである。人間界の統治においても同様に、支配者はある善が破壊されたり、より大きな悪が代りに生じたりすることがないように、ある種の悪を正当に許容することがある。・・・それ故不信者がその儀礼によって罪を犯しても、それによって何らかの善が引き出されるとか、何らかの悪が避けられるとかという理由で寛大に扱わるべき場合がある。ユダヤ教徒が行っている儀礼は、我々[キリスト教徒]が堅持している真の信仰に先行する古き儀礼であるから、そこから、敵から得られる信仰の証し、我々の信仰の象徴的具現という有益なものを得ることができる。それ故彼らはその儀礼を容認されているのである。しかし他の不信者たちの儀礼には真理も効用もないから、全く容認さるべきではない。但しそれを抑圧することから生ずる躓きや不和を避けるとか、抑圧することが、寛容によって改宗する可能性をもつ者の救済の妨げになるとかという場合はその限りではない。教会は、こういう理由で、時に異端者や異教徒の儀礼に寛容をもって臨んできた。特に不信の徒が多数である場合には」と。

  フェーゲリンは、「破壊的」実証主義やその没価値的社会記述に依存すべきではなく、プラトンやアリストテレスが用いたような「形而上学的思弁」やトマス・アクィナスが示した「神学的象徴化」の方法に依拠すべきである、と提案している。この提案は、これらの権威たちの政治哲学のもたらした結果を考慮に入れずに受け容れる訳にはいかないだろう。

★たとえばハロウェルのように、相対主義の価値相対主義は、価値なるものは存在せず、「道徳法則や道徳秩序も存在せず」、民主制は「擬制」に過ぎず、従って専制支配・圧政と闘う闘争は「無意味で空しいもので」、「不可避なものには屈伏するのが一番だ」と考えている、とするのは甚だしい誤解である。実証主義的相対主義も、価値判断なしには人間の行動は不可能だと考えるが、一般に価値判断、具体的には民主制が善き政体、最善の政体であるということを、合理的・科学的認識によって絶対的善であると証明することはできない、他の価値判断の可能性を否定できない、と考えるのである。実際に民主制が実現されるなら、それは相対主義的価値理論の見地からも、相対的価値ではあっても一つの価値の実現であり、単なる擬制でない一つの現実である。ある人物が、自由は自分にとって最高の価値だと考えて専制制より民主制を選ぶとすれば、その人物にとって民主制のために専制制と闘うこと、即ちその人物や志を共有する人々が最善と考える社会状態を創り出すことほど重要なことはない。民主主義者があ多数となり、その闘争は「空しい」どころか、大成功を博し得るであろう。従って彼らが専制制が「不可避」だなどと諦める理由は全然ないのである。相対主義的価値理論特有の帰結といえば、他の政体を選ぶ人々に民主制を押し付けないこと、闘いながらも相手もまた理想のために闘っているかも知れないという自覚を保ち続けること、闘いを寛容の精神をもって遂行することである。

   相対主義価値理論は道徳秩序の存在を否定しないし、屡々誤解されるような、道徳的ないし法的責任と両立しない立場ではない。ただ唯一正当な、普遍的に受容さるべき道徳秩序が存在するということを否定するのである。相対主義的価値理論は、相互に大きく異なる道徳体系が存在すること、それ故選択あなされなければならないことを主張する。相対主義は「何が正しく、何が不正か」を判断するという困難な任務を各人に負わせる。もとよりそれは極めて重大な責任であり、人間がとりうる最も重大な道徳的責任である。実証主義的相対主義は、道徳的自律の立場である。

   「絶対的価値が存在し、その価値は合理的認識によって事実から導き出される」という思想は、「価値が事実に内在している」という見解を前提としている。ハロウェルはこの思想を「古典的リアリズム」とよび、その原則を「存在と善は一つの世界に共存している。我々が何であるかの認識によって我々が何をなすべきかを知ることができる」と定式化している。この原則は論理的誤謬のの上に成り立っており、自然法論の誤謬の典型である。存在から当為を合理的に推論することはできない。善があれば当然悪もある。存在と善のみならず存在と悪もひとつの世界に共存している。存在それ自体は善と悪を区別できないから(善も悪も同様に存在であるから)、「我々がこうある」という認識から「我々がこうあるべきだ」という結論を導き出すことはできない。我々は善き「存在」でもあり、悪しき「存在」でもあるのだから。「人間は過去に戦争してきたし、現在もしている。それ故戦争は人間の本性の一部ではないか」という認識から、「戦争はあるべきd」という帰結も「戦争はあるべきでない」という帰結も導き出されない。ハロウェルは、存在一般、そして具体的には人間の在りようから、「人間特有の完成に向かって我々の個人生活・社会生活を導く普遍的に適用可能な原則」(即ち絶対的価値を構成する道徳原則)を導き出すと称するが、そのようなことは不可能である。実際「我々は何であるか」、即ち人間性から導き出されたと称して、極端に対立する諸原則が主張されてきたではないか。

   「存在と善は一つの世界に共存している。我々が何であるかの認識によって我々が何をなすべきかを知ることができる」という主張は、宗教的基礎の上に、即ち「現世は神に創造され、従って神の絶対的善意志の具現である」という信仰の上にのみ成立する。人間は神の似姿として創造され、従って人間的理性は何らかの仕方で神の理性と結びついている、という信仰である。ハロウェルは以下のように述べて、まさしくこの信仰を一貫して説いている。曰く「人間の理性は神の似姿の反射であり、人間はそのような独自の存在だという信仰を、我々は回復しなければならず、また自然法への信仰が依拠している神学的基礎を回復しなければならない」と。科学の領域を放棄して、この信仰や自然法の神学的基礎づけを回復するとすれば、その帰結として成立する道徳的・宗教的な民主制の基礎づけなるものは甚だ怪しげなものである。まさしく神学的自然法論を基礎として、ロバート・フィルマーは、民主制を人間の本性に反し、神の意志にも反するとして排斥したではないか。なお民主制と宗教の関係については、本書第二部で論ずる。

★ストックス派言う、「政治における民主的理想の優位と科学その他における方法的経験論が行なわれていることとの間には密接な関係がある。・・・これまで思想界において経験的志向が根強く主張されている諸国は、民主制が深く根を下ろした国である。ヨーロッパの大国の中で、仏英両国が最も民主的であり、世界観が経験論的であるが、ドイツは非民主主義的で形而上学的体系を好むのは偶然ではあるまい。シドニー・フックは、その論文「民主制の哲学的前提」において、「存在や生成の理論と倫理学・政治学の特定の理論との間に必然的・論理的結びつきはない。もう少し正確に言えば、形而上学の体系が倫理学・政治学の体系を規定するということは証明できないと思う」「しかしある時代の社会的運動とその形而上学的教説との間に明確な歴史的結びつきがあることは枚挙に遑のないほどの事例が示している。更に、観念論的形而上学の諸体系は、その文化の中で果たす半公権的役割の故に、経験論的・唯物論的形而上学体系よりも、反民主的社会運動を推進するために援用されてきたことは、歴史的事実であると主張するに吝かでない。経験論があらゆる事実的・価値的主張を経験によってテストしようとする哲学的態度の総称であっるとすれば、それは反民主的社会より民主的社会に適合的である。なぜならその態度は、道徳的価値や社会制度の基礎をなす利害関係を白日のもとに曝すからである」と言っている。フックは形而上学を存在と生成の理論であるとし、それを「観念論的」なものと「経験的・唯物論的」なものとに分類し、観念論的形而上学は超自然的・宗教的真理に対する信仰と手を携えている、と言う。私は「形而上学」という言葉を後者の意味のみに用いるのだが。ともあれ私も、民主制と経験的相対主義との間、専制制と形而上学的絶対主義との間に「論理必然的な」結びつきがあるとは主張していない。両政治体系と両哲学体系との間の関係は、「気が合う」(congenia)と性格づけるのが適当であろう。ただフックは、『観念論的』形而上学と専制制、経験論と民主制の結びつきを指摘するのみで、それと密接に関連する哲学的絶対主義と哲学的相対主義の対比という問題に立ち入っていない。私にはこの対比こそ重要に思えるのだが。

★シドニー・フックは前掲論文「民主制の哲学的前提」において、「『超自然的宗教的真理が否定されれば民主制も否定される』というような形で、民主制は宗教に依存しているのであろうか。そういう言説は最近の流行である。しかしこの議論にとって歴史が有意味であるとすれば、制度化された大宗教は(一部のプロテスタンティズムはそうでない可能性もあるが)、神権制を支持する傾向があることは、異論の余地のないことである。神の王国が地上の王国の霊感のモデルであるとしても何ら不思議でない。民衆的組織をもった天国などというものを聞いたことがあるか?天上のウォルト・ホイットマンは悪魔(Lucifer)と同じ運命に遭遇するであろうが、そうなる理由は別々である。民衆的に組織された天国などという観念が神聖冒涜であるように、階層的に組織された教会を民主化しようとすれば破門されるであろう。教会の『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に』という格言によって聖化された現実の行動を見るならば、歴史上の制度宗教は常に、その存在を容認するいかなる政府にも社会にも適合してきたことが知られる。・・・他方神学的信条を否定すると民主制が否定されるというような仕方で、民主制と神学とは結びついているであろうか。この議論のために、私は自然神学上の二つの重要箇条、『神は存在する』という命題と『人間は不滅の魂をもっている』とを取り上げよう。『神の存在と霊魂不滅も根拠がない』という主張は、『民主制支持論には根拠がない』という主張成立の必要条件であろうか。否。前者は後者の必要条件でも十分条件でもない、と私は主張する」と言っている。

★「政治生活は自然法に適合すべきであり、またその時々の状況に従いつつも、福音の法自体に従うべきである」

★「自由な社会を恣意的支配の行なわれている社会との明確な相違は、前者において『法の支配』という原則が守られていることである」。計画経済体制の下ではこの原則は守られない、というのが、「社会主義は隷従である」というハイエクの主張の主要な論拠の一つである。

★「法の支配」という言葉は、一定の内容の法が支配していなければ「法」は存在しないのだ、という意味で用いられることが多い。しかし専制支配者が一般的規範に例外を設ける無制約の権力をもっているような体制、政治的には専制的な専制政府・暴君支配の体制とて、それが法的性格をもたないものだとはいえない。法は様々な仕方で創造され、民主的方法もその一つに過ぎず、民主的方法で法が創造されないから、法秩序がないとはいえない。法は一般規範の形でのみならず、司法機関や行政機関の発する個別規範という形でも創造されるし、最高の立法・司法・行政機関を一身に兼任した専制支配者によっても創造される。「法とは民主的法である」と考えるのも、自然法論の典型的な誤謬である。こういう論法からすると、「法とは専制的法である」という命題も成り立つであろう。具体的な場合場合によって法をどんどん変えていくようなやり方も、いわゆる法秩序の弾力性というような長所をもたないでもない。弾力性をもたせようとすれば、法適用機関に、既存の字義通りに解釈された一般規範の適用を、個々の場合に不適当だと認めれば排除し、一般規範の例外としてその事例に則した新法を創造する権限を与えることもできる。アングロ−サクソン法は弾力性を格別に尊重している。

   以上述べたところは、かつて『一般国家学』で述べた実証主義的法理論の帰結に過ぎない。レオ・シュトラウスは、その著『自然権と歴史』の中で、上述のことを述べた「示唆的一文」をなぜその英訳『法と国家の一般理論』で除去したのか想像がつかない、と言っている。それへの私の解答は単純である。即ち『法と国家の一般理論』は『一般国家学』の英訳ではないので、「除去」などという問題は存在しないのである。シュトラウスが、私が何か特別な考慮から、前著で述べた意見を後著で撤回したと考えているとすれば、それは間違いである。シュトラウスが「示唆的だ」と述べた文章の背景をなす一般原則は、『法と国家の一般理論』でも明確に述べられている。即ち民主制と専制制は何れも紛れもない国家形態であり、国家は民主国であれ専制国家であれ、法秩序である、と。

★従ってたとえばハイエクは、「計画と民主制」という標題の下で以下のように言う。曰く、「集団主義にも共産主義とかファシズムとか色々あり、社会を導いて向かわせようとする目的で相互に対立しているが、社会全体を組織しようと欲すること、社会の全資源をこの単一の目的のために組織しようと欲すること、個人の抱く目的が至高であるような自律的領域の承認を拒否するところが自由主義・個人主義と異なっている。一言にして言えば、彼らは、この新語の真の意味において全体主義者なのである。我々は理論上集団主義と呼ばるべきものの、思いがけないがしかし不可分の表われを表現するために、全体主義という言葉を用いたのである」と。

★ハイエクは資本主義社会を擁護して次のように言う。曰く「貨幣は人間が発明したものの中で最も偉大な自由の道具である。現在の社会において、貨幣こそが、貧しき者に驚くべき選択の範囲を開いた。現在貧者が有している選択範囲は、数世代前に富者に開かれていた範囲より大きい」と。しかしそれは貧民が貨幣を有していればの話である。しかし「カネ持ちの貧民」とは形容矛盾ではないか。

★ヘルメンスは「民主制以外の政体は充分発達した資本主義と両立し得ない」ことを示そうとしている。だが彼は民主制を「民衆による統治」と定義することを明示的に拒否する。曰く、「民主制は古い意味での人民による政治(Volksherrschaft)ではなく、政治的リーダーシップの働きによって行動を目的のために民衆を行動へと統合する政治形態である」「民主制の実践によってリーダーシップが育成されていくことは、自由競争の要素を含んでいる」、と。