藤田覚『幕末の天皇』

   江戸時代の天皇は「初めは処女の如く、終りは脱兎の如し」であったといえよう。幕府は「禁中竝公家諸法度」を定め、天皇の地位を徹底的に非政治化し、外部政治勢力との接触を禁じ、2・3万石、他の諸収入を入れても10万石そこそこの小名の待遇を与えた。その天皇が、幕末には外交を左右し、幕府の権力が天皇の「委任」であることを承認させ、最後には幕府にその権力を「奉還」させ、更には追討令を発して、武力的に幕府を滅ぼしたのである。本書は、いわばその「処女」と「脱兎」を繋ぐ点と線を描いたものである。

   「田沼の悪政」への天罰の如くにして起こった浅間山の大噴火は、天明の飢饉を惹き起こし、江戸などの大都市には「打ち壊し」が頻発する。このような幕府の威信低下の中で、天明7(1787)年夏、京都御所の周りを巡って飢餓からの解放を祈願する民衆の群が忽然と登場し、最高時には7万人に及んだ。「お伊勢参り」に類似した現象で、天皇を神仏のように信ずる民衆信仰の発現である。

   時の天皇は若き光格天皇(1771-1841、在位1780-1817)。君主としての強い自意識をもち、古き皇室の栄光の復活を夢見て、その後の長い生涯を通じてその実現に力を尽くした。この光格天皇の夢は僅かしか実現しなかったが、その孫の孝明天皇(1831-66、在位1846-66)が、幕末の外交的危機の中で、無謀なまでの攘夷論を固守することによって、尊王攘夷運動の核となり、祖父の夢を、過剰達成する形で実現した。ただし孝明天皇自身は、倒幕にまでは踏み切れず、晩年は歴史に乗り越えられた。

   本書の第一の功績は、光格天皇という人物を忘却の中から発掘してきたところにあろう。それとともに、実質的決定権をもたない天皇の、名目的な権威・権力が、幕府の正統性にとって潜在的な脅威であり、幕政の危機や失政を契機として、その脅威が現実化してくる過程の叙述には精彩がある。安政の日米和親条約の署名が阿部伊勢守などとなっているように、幕閣の老中たちも、名目的であれ、古代的な天皇の官職叙任権によって自己を位置づけていた。日本を「神州」「本朝」とよぶ国家意識も天皇崇拝と無縁ではない。天皇と将軍の間の書翰の形式は、「暑中御見舞ひとして進ぜられ候」などと対等者間の書式であったが、幕末に天皇優位に改められたなど、興味深い指摘もある。

   幕臣であった福地源一郎は、幕閣の官僚たちも、皇室を侮るどころか、非常な畏怖の念を抱いていたというが(『幕府衰亡論』)、「大政奉還」の過程も、将軍慶喜の「朝敵」とよばれることへの恐怖の念を抜きにしては理解できない。新世代の歴史家たちは、最近とみに武士たちの天皇制意識に関心を注いでいるようで、今谷明氏の研究や、若き鬼才小野将氏の「近世後期の林家と朝幕関係」(『史学雑誌』102編6号)などはその代表的なものであろう。    (『法学セミナー』1995年4月号)