『ガリヴァー旅行記』の政治思想

 

1714年アン女王が他界すると、次の国王として、トーリー党はフランス亡命中のジェームズ・エドワード(名誉革命で逐われたジェームズ二世の子)を、ホィッグ党はドイツ・ハノーヴァー公ゲオルクを推し、結局後者がジョージ一世として即位した。ロバート・ウォルポール率いるホィッグ新政権下で、旧トーリー政権の要人たちは、新王の反対者として投獄・亡命・蟄居を強いられた。ジョナサン・スウィフト(1667-1745)もこうして失脚した政論家の一人で、『ガリヴァー旅行記』(1726年初版)は自らと友人たちの不遇に対し、憤懣やるかたなき心境の中で書かれたものである。

第一部リリパット(小人)国のモデルは当時の英国で、王はジョージ一世、王宮の火事の放尿による消火に怒る女王陛下はアン王女、フリムナップ首相はウォルポール、そしてガリヴァー自身は、訴追されてフランスに亡命した、スウィフトの親友ボリングブルック元首相がモデルであるという。ハイヒール党はトーリー、ローヒール党はホィッグ、片足の踵は高く、もう一方は低くして歩いている皇太子は、(トーリー寄りに軌道修正した)後のジョージ二世、卵の割り方の論争は当時のキリスト教界を分断した聖餐論争、反対派の亡命先ブレフスク国はフランスで、隣国への「軟弱外交」を主張したとしてガリヴァーが失脚したのは、スペイン王位継承戦争(1701-13)において対仏柔軟路線でユトレヒト和議を成立させたトーリー政権の運命を象徴しているという。

第二のブロディンナグ(巨人)国は、多神教でアルファベットが22であるなど、スウィフトの讃美する古代、特にスパルタやローマのイメージを反映しているといわれるが、基本的には12分の1のサイズの人間の眼を通して見た人間界についての空想物語的色彩が濃い。特に女性の体臭、肌の醜さ、巨大な乳首のグロテスクさなど、スウィフトの嫌女症ぶりが発揮されている。

第三のラピュータ(浮島)国は、1710年スウィフトが見学したロイヤル・ソサイエティーの印象(何の訳に立つか分からない研究に従事する科学者たち)の戯画化を一動機とし、高度技術によって操縦される浮島の権力者たちの、文字通り手の届かない上空からの地上の民に対する権力支配は、英国のアイルランド支配を示唆している。一時ダブリンにいたスウィフトは、英国統治キャンペインを展開中であった。アラン・ブルームは更に、科学技術による圧政という、20世紀全体主義の予徴をこの章に見ている(Allan Bloom, “Giants and Dwarfs: An Outline of Gulliver’s Travels (1964), Giants and Dwarfs, 1990)

第四部フイヌム(馬)国は、自然的理性ないし理性的自然に従って生きるフイヌム(馬)たちと、欲望と情念のみあって理性と徳性を欠いたヤフーによって構成された国で、ブルームはこのフイヌム社会を、プラトンの理想国を模したものだと言っている。しかしフイヌムたちは、ヤフーを殺すか、牡を去勢して絶滅させることを決議し、多少理性ありげに見えるガリヴァーをも追放するのであるから、理性人たる哲人王が情念人たる大衆を「支配する」のみのプラトンの国家とは多少違う。ともあれ、ここに「理性の支配する」フイヌム国は、スウィフトやブルームの主観的意図はともあれ、非人間的な階級国家・抑圧体ではないか、という問題が露頭を顕わすこととなる。

カール・ポパーは第二次大戦中の著書『開いた世界とその敵』の中で、プラトンの理想国を、スターリンやヒトラーの支配の古典的先駆として描いたが、ナチスの「劣等民族」・精神病者・精神薄弱者絶滅政策は、フイヌム国のヤフー政策に通ずる。アインシュタインなどは、多少ましなヤフーと看做されたガリヴァーのように、殺されずに追放されたのである。

ガリヴァーは主人(主馬)との別離の際、跪いてその蹄に接吻しようとし、主人が「卑しいヤフーのためにわざわざ脚を上げて下さった」と感激し、醜いヤフーの世界に戻ることに堪えられず自殺を図り、帰宅して妻が抱きついてくると卒倒する。この嫌人症を晩年の精神障害と関連づけるスウィフト論は多いが、色々な徴候から見て、1720年代のスウィフトの精神はまだ健全で、嫌人症にかかったガリヴァーを半ば憐み、半ば滑稽がっている作家スウィフトの眼が行間に感じられないでもない。

ブルームのガリヴァー旅行記論は、一方で宗教的狂信と非合理主義に反対し、他方で技術的知性の支配を危惧し、ソクラテス、プラトン、アリストテレスからストア哲学を経て近代自然法論に至る「理性によってよき社会秩序を基礎づけようとする伝統」に連なろうとする彼の政治哲学と結びついている。それゆえ、理性の支配するフイヌム国をもっぱらユートピアとして捉え、その危険性に着眼しない。

私のような、一方でフロイトやポパーの影響を受け、他方で親鸞や本居宣長に親しんできた者が、多少それと観方を異にするのもやむを得ないであろう。私には、幾何学的に万事を割り切ろうとするラピュータ国こそ、幾何学を発想の原点とするイデア論哲学の支配、哲学者がイデア的天上界から絶対主義的に支配するプラトン的国家に見え、フイヌム国は、「卑しき情念(煩悩)」を理性の名においてもっぱら抑圧の対象とする非人間的哲学の帰結のように見える。私がフイヌム国物語を書くならば、中間的存在としてのガリヴァーが、フイヌムとヤフーを和解させ、また超遺伝学によって両者を交配して、理性と情念を兼ね有する存在を創造するであろう。そうなれば、この国は、幾世代かの後には、ガリヴァーの祖国英国社会と余り違わなくなるのではあるまいか。       

   (『歴史重箱隅つつき』(2000)1990年頃のものに多少手を入れた)