萩原金美『裁判法の考え方』

   物事の本質をグサリと衝く、短刀のような鋭いウィットの持ち主として、法曹界で畏れられている著者の小論集である。

   「最近の司法部の動向をみていると、最高裁と現場の裁判所(官)との間の一体感の喪失およびこれに伴う現場の裁判官の疎外感の拡大が、日ましに顕著になってゆきつつあるように思われてならない。けだしそれは、最高裁の現場軽視の司法行政と、弁護士側の訴訟運営に対する非協力の谷間で、山積する事件を処理せねばならぬという、現場の裁判官の一種の悲壮な限界的状況に根差している、と推測されるからである」(p.2)。

   これが本書冒頭の言葉である。「壮麗な法の殿堂」としての最高裁の建物、下級裁の「長官室や所長室は呆れかえるほど豪華なのに、裁判官室は旧態依然として大部屋雑居房式のものがほとんど」である(p.8)。戦前の地方裁判所・区裁判所制度に代えて、戦後地裁の下に簡易裁判所が設置され、地裁が区裁の仕事を引き継いだが、人的・物的施設は改善されず、過重負担となり、簡裁に地裁的事件が押しつけられ、難件といわれる執行関係訴訟まで簡裁が処理している(pp.12-3)。離婚訴訟の調停前置主義は、離婚する夫婦に、調停委員の前で夫婦の秘事を暴露し合い、根掘り葉掘り質問を受け、説教までされる義務を課しているが、「教会さえも手を引いている」問題に国家権力がこういう仕方で干渉することが許されるのか(pp.24-6)など、鋭い批判精神は、多様な領域に亘って仮借ない。

   法学界について、「マルクスもウェーバーも焼いてしまえ」と、日本社会科学の輸入学問的性格を批判した増田義郎氏の言葉を引用しつつ、「ドイツ民訴法学の文献には通暁していても、自国の民事法廷を、第一回口頭弁論期日から判決言渡期日まで傍聴した経験をもたぬ民訴法学者」を批判し、「ローゼンベルクその他のドイツ民訴法学の文献を焼いてしまったら」と言う(p.16)。何でも「外国では・・・」と言う「出羽(でわ)の守」はもう卒業の時期で(p.40)、「民事訴訟法理論は実務家にとって有用か」と問う(p.27)。

   他にも、裁判官の大学出講を厳禁する最高裁への批判(p.184)、法学者−法実務家関係を神学者−牧師関係に類比した分析(p.68)、「学者的裁判官の判決はあまり良くない」というが、松田二郎、田辺公二などもいるという指摘(p.218)、債務者に知られぬように執行官到着を待つ弁護士の苦労は「坊ちゃん法学」には分からぬ(p.146)など、興味深い指摘に満ちている。15年の裁判官生活の後、「日本の法と社会の現実に対する懐疑ないし幻滅」から、退職金をはたいてスウェーデンに留学した自伝的回想(p.302)は感銘深い。(『法学セミナー』1994年11月号)