ハムレット父子の幽霊

 

長尾龍一

 

煉獄

 

 『ハムレット』第一幕第五場、ハムレット王の亡霊が現われて、次のようにいう。

   私はお前の父の霊(spirit)である。夜はこの世を歩き回り、昼は閉じ込められて火の中で餓えることを、一定期間(for a certain term)運命づけられている。それは私がこの世でなした罪が焼き浄められる(burnt and purg’d away)まで続くのだ。

 そしてその霊は、夜明けになると、「硫黄の炎の責め苦」に苦しむ牢獄(prison-house)に戻らなければならない。この牢獄が即ち「煉獄」(purgatory)である。

 「天国と地獄の中間に、ある程度の罪を犯した者を収容する煉獄があり、そこで地獄の責め苦に準ずる苦痛を受け、罪を浄められて後天国に送られる」という思想は、インドやペルシャにまで遡るらしいが、その場所に「煉獄」という名がついて、教会の教義となったのは十二世紀末以後のことであるという。

 死後の世界が「天国」「地獄」「煉獄」に三分されるとすれば、大部分の人間は、問題なく天国に行けるほど完全無欠ではなく、善悪様々なことをした後に生涯を閉じるものであるから、一旦は煉獄に送られると考えられる。そうなると、煉獄でどのような責め苦が待っているか、どのくらいの期間そこに閉じ込められるのか、どうすれば責め苦を軽減し、期間を短縮できるか、というようなことに関心が集まるのは当然である。

 そこで責め苦については、仏教説話の「針の山」「血の池」「焦熱地獄」などに類するおどろおどろしい風景が描かれ、期間については、二千年とか、一万一千年とか、七万四千年とかという数字がでている(Stephen Greenblatt, Hamlet in Purgatory, 2001, p.70)。

 教会は信者たちに対し、自分自身の死後の運命を改善するために、また(目蓮尊者が母を「血の池」から救い出すために盆の供養を始めたのと同様)親や配偶者などを煉獄から早く救い出すために、「供養」を推奨する。俗人の祈りは効験が小さく、祈祷はやはり専門家の聖職者に依頼せねばならず、それには金銭的な謝礼が必要だということになって、「カネで天国を買わせる」という教会の腐敗と結びつくこととなる。その行き着く先が「免罪符」(indulgentia)である。

 この煉獄信仰には三つの敵が存在した。第一は「聖書に煉獄の存在を基礎づける根拠がなく、教会が説いているのは勝手な空想に過ぎない」と主張する神学者たち、第二は「天国が買えない」貧者、第三は土地などの教会への寄進によって税収が減る世俗の権力者である。これらが力を合わせて煉獄信仰とその制度に敵対したのが、宗教改革ということになる。それ故プロテスタント諸派は、基本的に煉獄の存在を否定する。「大部分の人間が中間的存在である現実の中で、聖職者の腐敗という理由だけで煉獄の存在を否定することは行き過ぎではないか」という疑問は残るが・・・。

 

煉獄と幽霊

 

 ところで、キリスト教の教義によれば、幽霊などあり得ないはずである。死者の魂は直ちに天国か、地獄か、(カトリックの場合は)煉獄かに移る。天国の霊魂は至福の状態で、この世に出てくる必要はないし、地獄の霊魂は永遠の責め苦を受け、出ていく自由などない。煉獄も贖罪が終るまでは準地獄であるから、勝手にこの世に出てくることはできないはずであろう。

 ところが「死者の霊魂が生者の前に姿を現わす」という信仰は根絶しがたいものであるらしく、「幽霊を見た」という者はいつの世にも存在する。聖書でもサムエルの霊がサウルに臨んで予言し(サムエル上二十八章)、ロンドン塔にはそこで死んだ政治犯たちの霊が幾度も現われた。正統教義は「幽霊は天国・地獄・煉獄から出てきた死者の魂ではなく、天使や悪魔が死者の姿をとって現われたものだ」と教えるらしいが、「自分が会ったのは本ものの親(妻・恋人等)であった」として、その教義に満足できない人たちもいる。

 神学者たちも俗信に妥協して、あるいは自らも俗信を信じて、(悪魔の化身でなく)死者の霊魂そのものが幽霊として現われることを承認することがある。その時に着眼するのが、多少融通がききそうな煉獄で、シェークスピアが夜を煉獄の自由行動時間とする着想をもったのも、「一番鶏が鳴くと幽霊が逃げる」という俗信からであろう。

 ホレーシオは(かつてルターが教鞭を執った)ウィッテンベルク大学に留学したプロテスタントで、煉獄も幽霊も信じない人物であったから、衛兵たちの話を聞いても、それを妄想(fantasy)だとして信じようとせず、王の幽霊に対しても、まずは悪魔の化身だという想定でそれに話しかけた。しかしやがて幽霊の再度の出現により兜を脱ぐが(第一幕第一場)、これはシェークスピアがプロテスタントの煉獄・幽霊否定論を否定したことを意味するのか(彼が「隠れカトリック」であったのかどうか)は分からない。

 

能『ハムレット』

 

 去る二〇〇四年十二月二日、上田邦義先生のご好意で、観世流能楽『ハムレット』を鑑賞させて頂いた。予期したのとはだいぶ違い、ハムレット王の亡霊が現われて息子に復讐を命じたりする場面はなく、関係者が全員死んだ悲劇から三十年後、ハムレットの最後を看取った親友ホレーシオがオフェリアの墓所を詣で、そこにハムレットとオフェリアの霊が現われて舞を舞い、やがて共に天国に行くという筋書きである。能で言えば『井筒』などと共通する設定で、極楽浄土が天国に変っただけのようにも見える。

 仏教では、死者の霊魂は普通三途の川を渡って西方十万億土に赴くが、この世に怨みや未練を残した者や供養されなかった者は「成仏」できず、幽霊となって生者の前に姿を現わす。怨みを抱いて死んだ『四谷怪談』のお岩は復讐に現われ、小泉八雲『怪談』のおそのは恋文の残った箪笥の前に出没し、落語「へっつい幽霊」の留吉は残した小判に未練があって戻ってくる。何れも最後には供養されて煩悩が浄められ、三途の川の彼方に去ることになる。

 仏教的脈絡から見れば、ハムレットもオフェリアも、この世に未練があって成仏できず、三十年間娑婆に留まっていたということであろう。両者の霊魂が、ともに此岸にいて、別々に未練を抱きつつ連絡しないままであったというのも不思議であるが、ともあれ「生前不毛に終った恋が、霊と霊の結びつきによって成就し、未練を断って極楽往生した」という物語と解釈できよう。肉体のない幽霊同士だと、恋も煩悩ではなくなるのかも知れない。

 本来幽霊信仰の「本拠地」は前キリスト教的・前仏教的信仰にある。ギリシャにおいて、ハデス(冥土)は、善人も悪人も行くところで、そこから出てくることは困難ではなく、エウリピデス『ヘカベ』において、ポリュドーロスの霊は、「冥土の門を後にして」母の夢に現われた。日本でも、柳田國男によれば、死者は集落に近い山腹の墓地に居て子孫を見守り、時に集落に姿を現わす。即ち幽霊はもっと出やすいものであった。キリスト教や仏教が、死後の霊魂の行方を遠くし過ぎたために、幽霊の出方について説明が困難になり、上記のような無理な構成をとるに至ったものとも考えられよう。

 

自殺は罪か?

 

 キリスト教的脈絡から見ると、二人の霊は煉獄から出てきたに相違ない。オフェリアは純情可憐で、格別悪いことをした痕跡も見えないから、彼女が煉獄で贖罪させられているとすれば、それは自殺の罪の故であろう。

 キリスト教上自殺は罪か?サムソンは「我はぺリシテ人と共に死なん」と叫んで柱を倒し、大勢の敵を道連れにして死んだ(士師記一六・三〇)。イエスは「我は善き牧者なり。善き牧者は羊のために生命を棄つ」と言い、それを実行した(ヨハネ伝一〇・一一)。聖書は自殺を禁止してはいない。十戒の「殺すなかれ」(出エジプトニ〇・一三)が自殺禁止の根拠だという説もあるが、ヘブライ語からの直訳は「殺人罪を犯すなかれ」で、最近のユダヤ教英訳聖書(Tanakh: A New Translation of the Holy Scriptures, 1985 )では、You shall not murder.となっている。

 キリスト教が自殺を禁止しているというドグマは、神学者の創作物である。「人間は神の所有物だから、自分の生命を勝手に処分できないのだ」とも説かれるが、これは奴隷に自殺されては経済的打撃を受ける奴隷主の利己的発想である。各宗教が最高度に称揚する殉教者は、自ら生命を犠牲にしており、殉教者になるほど崇高でない我々も、不摂生や冒険によって、勝手に寿命を縮めている。

 

ハムレットの罪と赦し

 

 オフェリアは、ハムレットの態度の急変によって錯乱し、自殺した。しかし三十年ぶりに彼の霊と邂逅して、赦せる心境になったのかもしれない。なぜ赦せたのか?問題はハムレットの罪の実体である。

 ハムレットは知性ばかり発達して行動力が伴わない青年だという観方があるが、危険を伴う(悪魔かも知れない)父の幽霊との一対一対面を躊躇せず、絨緞の背後の男を(叔父と信じて)殺害し、英国行きの途上で海賊と対決し、ローゼンクランツ等を死に追いやり、レアティーズとの決闘に応じて実質的に勝利した。行動力不足とは到底いえない。

 ハムレットには、父の殺害に対する仇討ちと母の淫乱(と彼に思えたもの)という二つの問題があったが、亡父には前者の方が、彼には後者の方が重要であった。父を殺して母と結婚したいというオイディプス的欲望の実現を叔父に横取りされた彼にとって、叔父は自分自身の潜在的願望の実現者であり、叔父を非難することは、自己の潜在的願望を非難することになる。他の点では行動力豊かな彼が、叔父に対する復讐という一点において優柔不断であったのは、この叔父に対するアムビヴァレントな関係だ、というのがアーネスト・ジョーンズの解釈である(『ハムレットとオイディプス』栗原裕訳)。

 そこで彼は、叔父よりも、叔父の欲望を実現させた母の方を憎み、またオフェリアを母と同一視し、彼女を娼婦よばわりして虐待した。全く異なったタイプの女性である二人をこのように同一視したのは、彼が両者に同じ欲望を感じ、そしてその欲望を自己嫌悪したからに他ならない。

 人間はその生涯において、幼児体験の世界(両親と自分との三角関係)と「大人の世界」(自分と配偶者と子の世界)という二重の世界に属する。前者によって与えられた心理的トラウマを、後者によって克服することが、「人間的成長」というものであろう。後者への一歩を踏み出そうとしたハムレットが、幼児体験の図式をそのまま恋人に適用したのは、成長し損ねた人間の振る舞いである。

 ハムレットの罪は人間的未成熟の罪であり、墓地のオフェリアは、人間的幼さ故の責任能力不足(法学的に言えば「限定責任能力」)ということでハムレットを赦し、その赦しによって彼は煉獄を脱却しえたのである。「煉獄からの救出に最も効き目があるのは聖職者の祈祷で、そのためには教会に寄進せねばならぬ」とは、それこそ腐敗した聖職者の創造した作り話で、真に有効なのは被害者の赦しであるに相違ない。