小杉健治『緋の庭』
「検察官、反対尋問はありますか」
「いえ、意外な展開になりましたので、すぐには対応ができません」
医療過誤でフィアンセを奪われた女性が、医師に復讐を誓い、民事訴訟を考慮する。だが、死んだ男の両親の許さぬ、当人たちが言い交わしただけの彼女に、当事者適格が認められるか否か、弁護士に冷たくあしらわれ、被害者の兄に、「医師を相手に裁判なんかすると、病気になった時こわい」などと言われる。相手が控訴したら5年はかかるとか。
金目当てでない彼女は、刑事訴追もしてみるが、不起訴処分。検察審査会でもそれが支持される。ついに彼女は、その医師にもてあそばれて棄てられた看護婦と共謀し、復讐の直接行動に出た・・・・・・と見えたが、「復讐の鬼」と化したかに思われた彼女の心の奥底には、別の情念が渦巻いていた。こうして法廷でのドラマチックな逆転劇の後、冒頭に引用した問答となる。本書中の最長編「真実の川」の幕切れである。
強姦殺人犯人Mについて、「被害者が売春目的で被告人を誘ったものの、金銭面での交渉過程でトラブルになり、殺害した」ので、殺意はなかった、という架空の筋書きを裁判所に認めさせたのが、「人間派弁護士」と自称するKである。Mが5年という軽い判決の刑期を終えて出獄してくるところから、「偽りの川」は始まる。Kはこうして刑を軽くした犯罪者のその後の人生を見守り、二度と犯罪に走らなければ、弁護の意義があるという信念の持ち主だという。Kは寄るべのないMを、職が見つかるまでということで自宅に引き取る。そこへ起こる二つの殺人事件は、Mの人間的悲劇と、Kの裏面を垣間見させる。
本書は他に、母一人子一人の少女が成人し、かつて「芸者の子」などといじめられるといつも助けてくれた男の子、今や前科者になったその男の殺害に関わる「すみだ川」、登校拒否少年が遭遇する主婦殺人事件の「季節のない川」。保険金殺人事件の「罪の川」と、全5編の法廷短編小説集で、全体は桐生賢太郎検事ないし水木邦夫弁護士の関係する事件として統一されている。いずれも殺人がらみで、世の暗黒面を扱っているが、二人の真摯なヒューマニズムが基調となっている。
捜査における検察と警察の微妙な関係、逮捕状を出すか出さないかの迷い、少年法は成人に近い悪質な少年を甘やかしているか否か、検察側が確信の持てない被疑者には警察の留置場を利用しない傾向、弁護士自身が被告に疑いをもつ場合の迷い、拘留中の被疑者との接見をめぐる弁護士と検察官とのやりとり、接見に検察官の発する「指定書」が要求されること、投げやりな気持ちで無実の罪を自白してしまう危険、政治家の汚職事件をめぐる検察特捜部内の派閥対立、それに検察官や弁護士の職業意識のはしばしなどを知り得て、生きた刑事司法入門の書としても有益である。(『法学セミナー』1994年7月号)