あとがき

   二十一世紀は、テロリストによる世界貿易センターの襲撃とともに始まった。それはホッブズが描いた自然状態のイメージを、劇的な仕方で再現した。

  通俗の思想史記述によれば、ホッブズの創始した社会契約説は、実力の支配する自然状態から、法の支配する国家状態への移行の理論である。しかし実際には、契約後も自然状態は残存している。契約に参加しなかった者、契約から脱退した者と国家との関係は自然状態である。自然状態は、更に個人の心の中の権力意志に、そして法秩序の正統性を否認する革命集団に、そして国際世界に残存している。

  ホッブズは、契約によって成立した国家を、旧約聖書に「地上に並び立つ者がない」者として描かれた海の巨獣Leviathanに喩え、それに反抗する革命集団を同じく「地上に並び立つ者のない」ものとして描かれた陸の巨獣Behemothに喩えた。彼によれば、LeviathanLeviathanが角逐し、時に死闘を演ずる国際世界も自然状態であるが、国家対革命集団、LeviathanBehemothの関係も自然状態である。革命的状況においては、LeviathanBehemothは対等の存在になる。

  ドイツ刑法学の中から、現代のテロリズムをホッブズの自然状態論と関連づける理論が登場した。彼らによれば、法秩序の中の犯罪、法秩序の正統性を前提した上での犯罪は、「市民刑法」(Bürgerstrafrecht)の対象であるが、その正統性を否認する者によって遂行される犯罪は、自然状態的な敵対関係の支配する「敵対刑法」(Feindstrafrecht)の対象である。前者の犯罪者には諸々の人道的処遇が与えられるが、後者の犯罪者は社会の敵であり、そのような処遇は無用である。そこから、グァンタナモにおける法律外の拘禁・拷問、ビン・ラーディンらの法外的殺害も行なわれる。

  ホッブズにおいては国家がLeviathan、革命集団がBehemothであったが、第二次大戦期のシュミットにおいては、Leviathanは英国のような「海の国家」、Behemothはブルボン王朝のフランス、当時のナチ・ドイツのような「陸の国家」として描かれる。彼によれば、ホッブズは合理主義的過ぎて神話への感受性に欠けており、Leviathanをただ最高権力という属性のみで捉えている。ホッブズの描いた国家は、公海自由の原則に従って世界に雄飛する海洋国家英国ではなく、ブルボン朝のフランスのような陸の国家である。従って彼の主著の題名はLeviathanでなくBehemothとすべきであった(“Staatliche Souvernitt und freies Meer,” Das Reich und Europa, 1941, p.98)。二度の世界大戦における英国とドイツの死闘は、こうして二頭の巨獣の死闘として描かれる。

  現代史に即して言えば、海兵隊を世界に派遣する米国はLeviathanであり、大陸国家中国はBehemothに相当するであろう。数年前まで私は、中国を「茶碗屋の象」に喩え、「悪げはなく、ただちょっと動くだけでまわりは大迷惑だ」と言っていたが、今や強烈な権力意志と敵対性の担い手となり、「悪げがない」どころではなく、大海支配に乗り出して、BehemothLeviathanを兼ねようとしている。海洋を分割しようとする ところにBehemothの本能が顕われている。

  ヘドリー・ブルは、国際世界を自然状態と捉えるホッブズの恐るべき未来的意義を指摘している。小国も核ミサイルで武装し、大国を攻撃し得るとすれば、個人と個人が素手かせいぜい小さな武器で戦ったホッブズの自然状態と異なり、未来の自然状態は、小国が全世界を巻き込んで壊滅的破壊をもたらす可能性を秘めている。現に貧困小国家が米国を核ミサイルで攻撃する可能性が生じている。

  現代世界の権力闘争を分析するすぐれた道具立てを提供したホッブズとシュミットに比べると、ケルゼンは力に対する「法の支配」の使徒である。オーストリアにおいて、政治を法に服せしめる憲法裁判所制度を導入し、後には国際司法裁判所の管轄権の拡大による国際平和という構想を述べた。

  しかしケルゼンの「規範主義」は仮説的な根本規範の下で成立するものであり、規範のカテゴリーの承認を拒否し、実定法の根本規範を拒否する者に、理論的に対抗することはできない。彼の存在と当為の二元論において、「存在」の世界は力関係の因果法則が支配する世界であり、この世界に法の支配、民主主義の支配を実現し得る「力」は人間の努力以外にない。人々がその努力を放棄するならば、ワイマール末期のように、船とともに海底に沈みゆく他ない(『著作集Ip.113)。「存在」の因果的世界について彼は言う。

      人間の外的行動は動物たちと大して違わない。動物界においても人間界においても大魚は小魚を飲む。ただ本能に駆られて小魚を飲んだ人間魚は、「自分の行動は正しかった」という観念によって良心を慰めるために、自分に対し、また世間に対し、その行動を正当化しようとするのである(What Is Justice? p.8)

  「存在」の認識者としての彼もリアリストであるが、「悲観的リアリスト」である

                                        

本書は、過去約二十年余の間に執筆した西洋思想研究の小品を集めたものである。

  ケルゼンについては、『ケルゼン研究II』の続編で、この間著作集六巻を出版したので、それと並行して考えたこと、調べたことをまとめた小論を収めた。ソ連圏が崩壊し、父方のウクライナ、母方のチェコの資料が公開されたので、伝記研究が促進されており、本書もその成果の紹介を含んでいる。

  シュミットについては、最初『リヴァイアサン』と題した彼のホッブズ論の翻訳を再版することを意図し、その解説を書いて見たりしたが(本書「ホッブズとシュミット」)、いっそ、かつて訳した全部を論集にまとめようと考え直した。本書のシュミットに関する小論は、その副産物である。ケルゼンについても、シュミットについても、興味を感じられる読者は、『著作集』に付された解説を参照されたい。

  シュトラウスについては、(ユダヤ人問題・ギリシャ哲学論・ホッブズ研究・スピノザ研究から「ネオコン」問題などに至る)様々な関心が競合して、多少著書を蒐集し、眼を通したが、彼の中世イスラム学・ユダヤ学の業績には歯が立たない。研究というよりも、中途半端に知識を得た者の、何も知らない読者に対する紹介という性格のものである。

  ウェーバーについては、かつて私はその信奉者といっても差し支えないほどであったが、段々批判的になり、たまたまシンポジウムで報告の機会を与えられたので、批判点の一つについて一言した。

  ホッブズは、研究者として入門して以来の研究対象である。しかしケルゼン、シュミット研究の副業という性格もあり、専門家の評価に堪え得るとも思えないが、法や政治の問題を考える手懸りとして重要なので、私の「ホッブズ応用」のありようを、読者に紹介する趣旨である。

  それはそうとして、私は、子供の頃天文学に憧れて以来、「宇宙論」こそ哲学の中心領域であると考えており、大学定年退職後は、及ばずながら、理論物理学・天文学、それに認識論の基礎としての脳科学などの入門的書物を読み漁っている。それとともに、認識主観の問題を哲学の中心主題と考える哲学の潮流に批判を深めてきた。それはケルゼン理論の一つの哲学的基礎である新カント主義批判に連なるものである。本書の巻頭に掲げた幾つかの小論は、そのような志向を示している。

  本来は、そのような志向の産物を体系化し、ケルゼンの哲学的前提への根本的批判に繋ぐことを考えていたのであるが、学ぶべきこと、考えるべきことが余りに多く、正面切ってそれを論ずることはできなかった。残り少ない余生において、それが可能になるかどうか、疑わしいが、なお努力は重ねてみるつもりである。

  なお、ドイツ語のWを「ワ」行にするか、「ヴァ」行にするかについては、日本語で「ワ」行で通用しているものは「ワ」行にし(ウィーン、ワイマール、ウェーバー)、そうでないものは「ヴァ」行とした。「意思」と「意志」はどうしようもなく、法学的内容のものは前者、そうでないものは後者と、不統一である。「四一」にするか「四十一」にするかも不統一である。何れに徹底してもawkwardな事例が出てくる。「日本におけるケルゼン」に関しては、戦前の文章の引用は、原典の引用でなく、英語の原文からの重訳とした。読者の負担、訳文としての雰囲気の統一性を考慮したものである。

  シュミットが、ケルゼンは「厚かましくも」「仲間の文献のみを引用し、他の見解を無視する」とシュミットが言っている(p.227)のに対し、ロットロイトナーは「シュミットの言い草はナンセンスである。私はケルゼンほど徹底的に他人の論説を引用し、論評する法理論家を知らない」と言っている(「ケルゼン・シュミット・ナチス」『法律学的対話におけるドイツと日本』p.33)。この論文は、本書と内容的関連性が強く、かつ高い水準のものである。

  本書の成立に当っては、いつものように、村岡侖衛氏に、全面的にお世話になった。深く感謝の意を表したい。

  二〇一三年三月二十二日                            横浜にて

                                                                        長尾龍一