大田雅夫編著『家永豊吉と明治憲政史論』
明治憲法の性格や歴史的役割について、冷静で中庸を得た評価を下すには、私たちがそれに対して抱いている先入観の再検討が必要であろう。その先入観とは、占領下以来の新憲法宣伝の反面としての、反旧憲法宣伝によって与えられた、権力的で抑圧的な、ほとんど理屈抜きの暗いイメージである。本書の与える明治憲法イメージは、対照的に明るく、先入観に対する一種の解毒剤となりうる。
家永豊吉(1862-1936)は、熊本洋学校・同志社英学校で学んだ後、1884(明治17)年渡米、オベリン、ジョンズ・ホプキンズ大学に学んでPhD取得、90(明治23)年帰国し、後の早稲田・慶応・一橋に相当する各大学で教鞭をとった後、外務省に勤務した。1901(明治34)年再渡米、シカゴ大学「特任教授」として極東・日本問題を講じ、やがて巡回講演者として活躍したという。
著者(太田氏)によって発掘された、この独自の人物の生涯全体も興味深いが、本書には、ちょうど憲法制定時に執筆された博士論文『日本における立憲政治の発達―1853-1881年』及び1889年4月の講演「大日本帝国憲法への道程」の現代語訳が収録されており、これによって当時の知識人の憲法観を窺うことができる。
家永が強調するのは、明治政府指導者の大部分が低い身分の出身者で、封建時代から開化された明治期まで、下層身分の苦しみや獄中生活など、「社会のほとんど全ての局面を見てきた」人々であることである(p.198)。既に幕末に彼らが各藩の実権を握っていたため、廃藩置県のようなラディカルな改革に際して、各藩が自発的に領土を差し出すようなことが可能となった。
彼らは階級制度を打破し、武士の特権の象徴である帯刀を廃止し、教育を民衆に開放した。自主・独立という福沢諭吉が唱えたスローガンは、政治指導者たちの共有した目標で、岩倉具視でさえ、英国の繁栄は「自由で活気あふれる精神の所産」だと言っている。
「議会での討論と熱気に不慣れな議員を何百人も集めて、国家運営に参加させることは、大きな危険を伴うから、まず帝国議会の準備段階として府県会を招集したが、これは「民主政治のための良き訓練場」となり、最初の選挙で選ばれた衆議院議員の多くは府県会議員の経験者であった。
「もし日本がこの代議制政府の実験に成功すれば、東洋での自由の獲得」は確実になるが、今後の見通しはどうか。「私は、日本国民の良識、誠実さ、常識に、また現日本政府の能力と分別に、硬い信念を持っている」という。
実際日本国民は、それから三十数年後には、普通選挙と衆議院多数党による内閣、即ち民意による政治を実現した。最初の普通選挙が行なわれた1928(昭和3)年の直後から、この制度が音をたてて崩れた理由は、憲法のせいばかりではないであろう。(『法学ゼミナー』1996年8月号)