『万葉』巻一額田王の超難解歌「莫囂円隣之大相七兄爪謁気吾瀬子之射立為兼五可新何本」(9)について、『毎日』(大阪版)(2/20)で佐々木泰造氏が「その解読に私は成功した」として、その新解釈を発表し、東京版(『毎日』4/28/10)はそれを転載した。

   まず「莫囂」は騒ぎが止んだという意味で「やむ」と読む。「円は「まと」だから「莫囂円」で「やまと」。「隣之」は「やまとの隣」だから、「莫囂円隣之」全体で「木国(紀の国)」である(この歌は紀国の温泉に行った時(「幸于紀温泉之時」)のものである)。「大相(おほあふ)」は「おふ」、「七兄」は「なに」で、ここまでで「木の国の負ふ名に」となる。「謁気」は「つけ」で、「爪つけ」とは「木」の字に爪(横棒)をつけて「本」にすることを意味する。下の句は通説と同様「わが背子がい立たせりけむ厳橿が本」と読み、上の句全体が最後の「本」への掛け言葉で、「木の国の温泉に行くのだから、木の字に横棒を付けた橿の木の(「木」の字に横棒を付けた)「本」で待ってて下さるのでしょう」という意味だ、と。才女の駄洒落という訳である[額田王自身が万葉仮名で表記したということはまず考えられず、誰の駄洒落かという問題がある]。 

   一つの問題は、「ヤマト」の「ト」は乙類なのに、「円」は甲類であるところにある。だが佐々木氏は、松本克己氏の説に従って、大正時代橋本進吉が古代日本語史に革命を起した「甲類・乙類母音調和説」「日本語ウラル・アルタイ語説」を否定する。松本氏は、「イ」「エ」「オ」に二種類あるように見えるのは、「前に来る音の変化を受けた微妙な音変化の反映」に過ぎず、それを『万葉』の書記者が「律儀に書き分けた」のだという。「学界では今も八母音説から五母音説まで諸説が対立している」というから、画期的発見にも逆流が訪れているらしい。大野晋なども、原日本語に対して朝鮮半島から渡来した言語の影響は表面的で、平安時代には甲類・乙類の区別は消失したと言っているから、佐々木氏の言う通りかもしれない

   ところで、「莫囂円隣之」を「紀の国」と読んだのは賀茂真淵である(「万葉考」『全集』巻一、p.11)。その論拠は、『神武紀』に「中洲之地無風塵」(うちつくにはやすらけし)とあるが、この「無風塵」と「莫囂」は同義で、大和を意味するから、その隣国は「紀の国」だというにある。真淵は、それに続く「大相七兄爪謁気」の部分は「大相古兄?湯氣」という写本に従って「やまこえてゆけ」と読んでいる。もっともこれは真淵の独創ではなく、「荷田[春満]大人のひめ哥」だという。鹿持雅澄は「こは紀ノ国の御幸なるに、紀ノ国の山超て行ケと云むこといかに、紀ノ国の山を超て何処に行とすべけむや」と辛辣に批評している(『万葉集古義』第一巻三二二頁)。斎藤茂吉は一応真淵訓を踏襲しているが、「紀の国の山越えてゆけ」は「調子の弱いのは残念」と評している(『万葉秀歌』(上)p.13)。

▼本心をいうと、茂吉が、下の句だけでも味わい深く、『秀歌』に取り入れる価値ありとしたこの歌に、こんなふざけた解釈をするのは許せない。遅れてくる恋人を待っている男の心情に対する思いやりのような内容がふさわしいと思うが。

▽万葉超難解歌「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新何本」について、佐々木泰造氏は、「木国(きのくに)の負ふ名に爪付けわが背子がい立たせりけむ厳橿が本」と読み、「木国(紀伊国)が名前に持っている『木』に爪(横棒)を付け、わが君がお立ちになったという神聖な橿の木の本(根源)だ」と解したが、更に「謎解き」を進めている。長いが、引用してみよう。「『大相』の『相』を分解して、『木』に人が人に寄り添っている「从 」(つまり配偶者)を付けると『大相』は『大來目』になる。『相』と『伴』はパートナーという意味で通じているから、『大相』は『大伴』に等しい。『从は『従』に同じ。つまり、大伴に従ったのが『大來』となる。これは、大伴氏の祖先が大來目を率いたと日本書紀が記しているのに合う。一方古事記は大來目を大久米と記し、大伴氏と対等の立場で描いている。次の『七兄』は神武天皇が妻にした伊須気余理比売(いすけよりひめ)が七人の乙女の年長者(兄)だったことを指している。神武天皇に彼女をめあわせたのが大久米だ。ところがこの伝承は古事記にしか記されていない。日本書紀には全くなく、皇后は別の名前になっている。これらの事実から次のことが言える。658年の時点で額田王らが目にしていた歴史書には、大伴氏が大來目を従え、神武天皇が七人の乙女の年長者を妻にしたと記されていた。それが歴史の常識となっていた。それから半世紀余りたって成立した古事記では大來目は大久米とおめでたい表記に変わり、大伴氏と対等の地位に引き上げられた。大久米が神武天皇に伊須気余理比売をめあわせなければ、代々の天皇は存在しなかったわけで、大久米は天皇家の大恩人という位置づけになる。これに対し、八年後に成立した日本書紀では、大久米は元の大來目の表記に戻って、再び大伴氏の従者の地位に転落し、神武天皇の仲人をしたくだりがばっさり落とされた。神武天皇の大和平定の物語について、古事記は大久米の子孫とされる久米氏寄り、日本書紀は大伴氏寄りの編集方針をとっていたのである。万葉集の編者と目される大伴家持は、大來目または大久米が出てくる歌を二首作った。そのうち一首では大伴氏の祖先は大來目だと言っている」(毎日(6/23/01))[これだと「わが背子」とは神武天皇のことのようであるが、そんな慣れ慣れしい言い方をするものかどうか。この漢字表記を誰がしたのか。額田王は歌を詠んだだけで、漢字遊びをした別人が、読書として歌を読む読者を対象として書いたものであろう。その人物は、「負ふ名に爪つけ」という発音とは別に、大伴氏と伊須気余理比売に言及したということになる。その人物が「大伴寄り」であったならば、「七兄」に言及するはずはなく、「來目寄り」であったならば「大相」に言及しないように思われるが。私個人は、「遅れてくる私を彼は待っていてくれるだろう、嬉しい、ないし済まない」というような素直で単純な歌だと思うのだが]。

▼考え直してみれば、「詠み手」と漢字への「書き手」とは別々で、詠み手がromanticな額田王で書き手がまるでun-romanticな人物であっても少しも差し支えない。私の歌の解釈と、佐々木氏の文字の解釈とは両立するのであろう。この「書き手たち」は何時頃のどういう人たちなのか、何を読んだらそれが分かるのか?野口恵子先生にお訊きしてみるか。

▼そういえば永宮勉という方より、こういう御手紙を頂戴していた。その通りだったらグーの音も出ないだろう。

   結論を申しますと、佐々木泰造記者の想像二点、いずれも間違いです。 想像1.木の字に横棒を付けた橿の木の(「木」の字に横棒を付けた)「本」万葉集の原文に「本」という字体はありません。現存する日本で書かれた文字資料で「本」という字体が現れるのは平安時代末期以後です。それまではすべて 「夲」という字体で書かれていました。(「富夲銭」の字体が有名ですが、肝心 の万葉集の古写本がすべて「夲」です。その他出土木簡や、法華経義疏、聖武天皇雑集、奈良時代の写経など、万葉集以前・以後の文字資料が例外なく「夲」です。 想像2.「『大相』の『相』を分解して、『木』に人が人に寄り添っている「从 」(つまり配偶者)を付けると『大相』は『大來目』になる。 「來」という字体は「旧字体」とされているために、いかにももっともらしく聞 こえる説ですが、やはり当時書かれていた字体は例外なく今と同じ「来」(またはそれを略した「耒」のような形)です。「來」の字体が書かれるようになるのは、やはり鎌倉時代以降になります。いずれも中国宋代以後に一般化した字体で す。これも、日本の文字資料としては、埼玉稲荷山鉄剣銘以後、多数の例があります。 要するに、これらの説は、当時の字体を知らないままに、字体に拠って論を立てようとしたわけです。字体に拠って論を立てようとするのなら、活字の校本と漢 和辞典の知識で能事足れりとするのでなく、最低限万葉集の写本は参照すべきです。

▼額田王の超難解歌、土屋文明先生「なまじひに訓を試みるのは愚の至りであるが、大事を取って手をつける人がなくなったのでは、何時になっても進歩はない。愚なる試案も亦何かのことで正しい見解に寄与することがあるかも知れない」として、試案を提出。「莫囂圓隣之」の内、「莫囂隣」(まがり)は地形による地名で、「圓」は「まがりと読む」という傍註として別行にあったものが入り込んだのだ、と。「大相七」の「七」は「士」の誤りで、これを「たぶし」と読むと、「田盧」(たぶせ)が『万葉』に二例あり、「たぶし」とも読んだ可能性がある。「田のいほり」である。「兄爪」は「見乍」の誤字で「みつつ」。結局「勾(まがり)のたぶし見つつ行け吾が背子がい立たしけむいつかしが本」と読む、と(pp.31-2)。懐旧追慕の念をもって同行者に呼びかけたもので、同行者は「吾が背子」その人かも知れない、と。「射立為兼」を「いたたせりけむ」でなく「いたたしけむ」と読んでいるのは、たしか『アララギ』の面々から批判されていたような記憶がある(誌面の対談で。あの対談はまとめて本にならないものか)。