行政法と法哲学
行政法は、憲法と密接に関連するのはもとよりのこと、行政行為論は民法の法律行為論を下敷きとしており、行政訴訟法は民事訴訟法の特別法規であり、行政罰は刑法と関わり、公務員の労働条件に関しては労働法と関わるなど、諸々の法領域を観望する重要拠点である。行政法学者は、どんな法律問題でも専門的に理解することができるのではないか。
しかし、行政法学と法哲学ということになると、歴史的には余り深い関係があるとはいえない。日本法学史を見ても、憲法の宮澤俊義、小林直樹、芦部信喜、刑法の小野清一郎、木村亀二、民法の穂積重遠、星野英一、商法の田中耕太郎、西原寛一の諸先生など、法哲学の領域でも重要な業績を残された先達が少なくないのに、行政法の領域では、そのような学者が余り眼に付かない。これは恐らく、田中二郎先生が、「法哲学の領域でも一家言をもって気を吐いてやろう」というような山っ気をもたない方だったことにもよるのであろう。
だが行政法のような重要な法領域が、法哲学にとって関心対象の外に留まり得るはずがない。特に「少数者の権利」という法哲学の古典的な問題は、川上先生のご専門である行政争訟法に集約的に現われるのではないかと、考えている。
行政庁、特に民主社会における行政庁は、多数者の利益を背景とする公益の体現者であり、それに対し抗告訴訟の原告は、私益をもって公益に対決するもののように見える。しかしそうではなくて、「権利=主観的法(subjektives
Recht)」もまた「法=客観的法(objektives
Recht)」に劣らずRecht(法=正義)であり、それを主張することは、単なる私益の主張ではなく、公的な場である法廷で承認さるべき公的価値であることを理論的に確立すること、これが抗告訴訟という制度の法哲学的前提でなければならない。
戦後しばらくの間の左翼行政法学は、「資本主義の権力と闘争することは何ごとによらず正義であるが、マルクス主義のドグマに従って少数の党官僚が支配する体制になれば、国民を全く無権利状態におくことが正義だ」というような荒唐無稽な説を唱えていたが、さすがに途中からはもう少しもっともらしい理由づけを模索するようになった。
行政庁の体現する公益に対して個人が主張し得べき権利の根拠として考えられるのは、第一には「不可譲の基本的人権」である。それは差し当っては「生命、自由及び幸福追求」(憲法13条)という憲法上の権利であるが、少数者の権利の根拠としてもう一つ挙げられるのは、「民主主義の前提する相対主義が、多数者の支配への限定を要求する」という思想である。ある時点における多数者の意見は、暫定的真理・暫定的正義を示すものに過ぎず、反対者を根絶し、あるいは再起不能にするような権利、更に多数者への批判を圧殺するような権力をそれに与えることはできない。ここから、国民の多数決を背後にもつ公権力の正当性の限界が画されることになる。政府を批判する表現の自由などが立法や行政処分などによって侵されそうになったとすれば、そのような立法や行政処分は正当性を失い、それに抵抗する側に正当性が承認される。
また特定の権利を主張する個人は、単なる私人ではなく、同様の権利を有する人々の代表ないし象徴だということもある。例えば特定の道路計画によって所有地を収用される者は、多数の道路利用者に対してたった一人の利益が問題になっているように見えるけれども、彼の背後には、潜在的に同様な状態におかれる多数の人々がある。それ故、土地収用処分に対する抗告訴訟は、やはり多数者対多数者の対立なのである。
何にも知らない人は、行政法学者というと、官庁とのつながりが深く、権力の側に立って物を考える習慣の人のように感じているが、そしてそういう人もいないではないが、実際には、公益を名目として個人に迫ってくる行政庁の主張に対し、一見単なる私益に見えるものが実は公的なものであることを主張して、それに対抗する論理を構築する、権利のための闘争者であり得る。民事法の場合は、相手も私益だから、五分々々の闘いであるが、行政法学者の場合は相手が公益だから、不利な土俵での闘いである。この主張を公益として構成することによって、初めて五分々々となるのである。
川上先生は、イェーリング『権利のための闘争』を愛読しておられるが、行政法学のこのような性格を考えれば、よく理解できることである。
(『動く社会 生きた行政:川上宏二郎先生還暦記念集』2002年)