あとがき(未完)

I.

    

           『続日本紀』聖武天皇時代の記録を読んでいくと、新帝即位の前年養老七(七二三)年九月に祥瑞の白い亀が現れた。元明天皇は、これは大した功績のない私に「天地」が賜ったものではなく、「天地」が皇太子の徳に感じて下し賜うたものであろう、と述べ、年号を神亀と変えて、皇太子の聖武天皇に位を譲った。ところが神亀二(七二五)年には天体に異象があり、地震も起こった。そこで新天皇は九月二十二日、詔勅を下し、「昔殷の高宗は徳を修めることによって火星の異象を正したという。私も善行によって災害を除きたい」と宣言し、三千人を出家入道させ、七日間経典を読ませた。神亀三(七二六)年には前の天皇(元正)が病気になったので、六月には諸国に命じて生き物を解放させ、七月には大赦を行なった。天平六(七三四)年に大きな地震があり、天皇は「朕の徳が欠けているからだろう」として大赦を行なった。「万方有罪在予一人」(天下のあらゆる罪とがはすべて自分の責任だ」という尚書の言葉)がここに引用される。

         天地は規範的秩序で、人間界の罪に対しては天災によって罰が加えられる。罪を浄めて規範的秩序を正すのが君主の役割である。罪を浄める方法としては、読経もあれば、放生(拘束した生き物の解放)もあり、大赦もある。動物の拘束も犯罪者拘束も苦しみを与えることであるから罪であり、その解放は贖罪の意味をもつのであろう。天地には心があり、白い亀を顕わすというような祥瑞によってその心を人類に示す。人類はこうして示された神意に服従しなければならない。元正女帝の譲位はこうして行なわれた。東大寺大仏の建立という大事業も、宇宙の秩序を保つという君主の責務を果たすためなのだろう。古代国家の膨大な税収の相当部分はこのような祭祀と贖罪に費やされる。

          これはまったく、ケルゼンの描いた規範的世界像を制度化したようなものである。

          ケルゼンの人類思想史像は、噛み砕いて言えば、概略以下のようなものであろう。

          

         

 

         ケルゼンの思想史的諸業績を、単なる法学者の余技とみなすのは、必ずしも正当ではないであろう。『自伝』によれば、ギュムナジウム(ほぼ日本の高校に対応)時代の彼は、文学青年・哲学青年で、法学部には、余り気が進まないままに進学した。むしろ思想史の方が彼の本来的志向とも考えられる。二十三・四歳で開始した彼の著作活動の発端に『ダンテの国家論』があるのも、そのことを物語っている。

そういう心理的動機の問題はともかく、彼の人間学の全体像から見ても、法学と思想史は、共通の根源に発する二分肢と見ることができるのではないか。初期のケルゼンは、カントの範疇論の修正として、人間の思考には「存在」と「当為」という二つの範疇があると考えた。これはカントの純粋理性と実践理性の形式に相当する。純粋理性の範疇については、カントは十二の範疇表を挙げたが、ショーペンハウアーはこれを無意味な形式主義と批判し、因果律のみが純粋理性の純粋形式であるとした。ショーペンハウアーの影響かどうか分からないが、ケルゼンも「存在」の範疇は因果律だとしている。

「実践理性」に関しては、(後期に明言するに至ったものであるが)そのようなものは存在しないとするが、人間の意識の中に「当為」の範疇は存在する。カントの実践理性の範疇である「定言命法」(kategorischer Imperativ、直訳すれば「範疇的命令」)は、ケルゼンによれば内容のない空虚な定式であるはずのものに、カントが自分の道徳意識を読み込んで、個人主義的な倫理の規範に仕立てた。彼の立場は、社会的存在としての人間の思考には社会から植え込まれた当為の範疇があり、その内容は時代と社会によって異なる、ということであろう。

初期のケルゼンは、「存在」と「当為」は、人間精神に生得的な必然的形式と考えていたように見えるが、やがて「存在」の範疇である因果律は、古代ギリシャ哲学に起源があり、レウキッポス、デモクリトスによって完成されたもので、それ以前の人類には存在しなかったと特に至る。そして恐らく、中世には、思想的先祖返りによって、タレス以前の状態に戻ったと考えているのではあるまいか。そうであるとすれば、因果律以前・以外の人類の思想を支配するのは、もっぱら「当為」の範疇だということになる。神話的・アニミズム的世界観における思考は、すべて「当為」の範疇による世界解釈だということになる。

   人間の思考範疇において、「存在」「当為」が並立していると考えた初期のケルゼンから、原始人類は「当為」の範疇のみで思考したという後期の立場への移行は、日常言語学派の言語論における、認識言語・行動言語並立論から、「最初に行動言語があり、認識言語は後に派生した」とする発展と対応している。

青年時代のケルゼンは自然科学者を志したというから、因果律による「存在」の探求がその初心であったかもしれない。軍隊で頭を悪くせず、その志を貫徹していたら、ちょうどアインシュタインが「特殊相対性原理」を発表した時期であるから、二十世紀の物理学の問題提起者になったかも知れない・・・などと考えるのは買いかぶりか。それにしてもケルゼンの学校の成績がなぜあんなに悪いのか。理系の頭の持ち主は、学校の数学や物理くらい、大して勉強しなくても、満点を取り続けるのが普通なのに・・・(閑話休題)。

ともあれケルゼンは、ダンテ論以降の思想史的業績において、しばしば混乱し、混沌とした前近代的思考の中から、その骨格をなす「当為」の体系を析出させることを試みた。彼によれば、混乱・混沌の大きな根源は擬人化と実体化である。「神と国家」は、世界体系の擬人化としての神と法体系の擬人化としての国家が、実体化され、「神と世界の関係」「法と国家の関係」という仮象問題が成立したとして、それをもとの規範体系に還元・解消した。ここでの彼の「神」の分析が彼の思想史論の原型であり、「国家」の分析が国家学の原型である。

三月戊寅。宣勅。朕以薄徳、君臨四海。夙興夜寝。憂労兆民。然猶風化未洽。犯禁者多。是訓導之不明。非黎首之愆咎。万方有罪。在予一人。咸洗瑕穢。更令自新。宜大赦天下