日本におけるケルゼン  

歴史的脈絡 

近代日本は三つの啓蒙期を経た。

第一期は明治初年から二十年くらいまでの時期で、新政府によって全面的な欧化主義が推進されたが、やがて伝統的価値の部分的再評価の時期が来た。第二期は大正期から昭和五年くらいまでの時期で、「父親像」としての明治天皇の死に続く自由化の時期であった。この雰囲気は、中国ナショナリズムとの激突のもたらした狂信的ナショナリズムによって破壊され、(ナチ・ドイツとファシスト・イタリアを除く)全世界を相手とする全面戦争へと導かれた。

第三期は戦後二十年ばかりの時期で、敗戦と米国占領がもたらしたものである。米軍によって遂行された戦後改革は心理的変革、イデオロギー的変革を伴った。その変革は他律的ではあったが、全体としては日本民衆に歓迎された。彼らは戦時の苦難に嫌気がさし、また戦時宣伝の虚妄性に目が開かれたからである。特に歓迎したのは、知識人・青年、そして女性であった。しかしそれから二十年も経った頃、民衆も日本の経済的成功を見て民族的自尊心を回復し、伝統的価値再評価の潮流が生じた。

日本のケルゼン研究は、第二の啓蒙期に始まり、軍国主義時代にも自由主義的知識人によって継続された。 

II戦前のケルゼン学

1. 第一期

若きハンス・ケルゼンが一九一一年に最初の主著『国法学の主要問題』を刊行した時、その何冊かは日本に輸入されたが、日本の学術雑誌にケルゼンの名が登場したのは、一九二〇年のことである。即ち行政学者田村徳治が『主要問題』の第二〇章「国家機関の人格」を邦訳して雑誌に掲載したのである。彼がこの翻訳を思い立った動機は、恐らく「天皇機関説論争」との関連にあるだろう。その頃、天皇が国家機関なのか、国家主権の主体なのかという学問的・イデオロギー的論争が、行なわれていた。田村は、「私は著者がどんな人物か知らない」と告白している(1)。

その年(一九二〇年)十月、民事訴訟法学者中村宗雄)がウィーンでケルゼンに会っている。彼は最初スイスのベルンで学んでいたが、オーストリア民事訴訟法に関心をもち、シュパール教授の指導を受けようと、ウィーンを訪れた。大学の事務官が学部長であったケルゼンに相談するよう勧めた。ケルゼンは非常に友好的で、「いつでも相談に来なさい」と言った。

中村の追憶によると、ケルゼンは「デル・ヴェッキオやエールリッヒの学説は大して重要ではない」という趣旨のことを言った。中村がロスコー・パウンドの名に言及すると、「アメリカに法哲学なんてあるのかね」と言った(その二十五年後の一九四五年、無力な亡命者となったケルゼンは「アメリカ法理学におけるロスコー・パウンドの卓越した貢献」という文章を書いている。彼は渡米後の身の振り方について、パウンドの世話になったのである)。もっとも彼もフランソワ・ジェニーには多少の関心を示した。何れにせよ中村は、専門の相違の故に、ケルゼン研究には立ち入らなかった(2)。

刑法学者木村亀二の論文「ケルゼンと法社会学」(一九二二年)は、多少とも本格的なケルゼン研究の最初のものであった(3)。 彼は、法社会学は法的現象に関連する経験的事実を因果的に説明しようとする分野であって、ケルゼンはその可能性を否定していない、と指摘した。しかし形式と内容は不可分のもので、法学は純粋に形式的な学問ではあり得ない、とケルゼンを批判している。この批判は正当だとも思われない。ケルゼンにおいて「法の一般理論」と「特定実定法秩序の認識」の区別があり、純粋に形式的なのは前者のみである。ケルゼンは「あらゆる法秩序に当てはまる一般的法概念が純粋に形式的なものでしかあり得ないことを理解しない者とは、議論しても無駄である」と言っている(4)。

木村はそれ以後十年間ばかり、ケルゼン研究を続けたが、「ケルゼンの実定法学は狭すぎる」と述べて、研究から手を引いた。彼は、「法の科学の任務は実定法の枠内で可能な諸解釈を列挙するに留まるべきで、その内の一つを選択するのは科学でなく政治の役割だ」というケルゼンの主張に対し、「真の法学」は目的論的観点を導入することによって、最善の解釈を示すことを任務とする、と主張した(5)。

一九二三年、若い社会学者岩崎卯一がウィーン大学を訪問した。まず門衛所で、「この大学で最も有名な社会学者は誰か」と問うと、一人はシュパンの名を、一人はケルゼンの名を、もう一人はアドラーの名を挙げた。岩崎は、ある日本の社会学者がケルゼンに触れていたことをうっすらと思い出した。ある守衛がケルゼンとアドラーが毎晩のように会っているカフェを訪れるよう勧めた。岩崎がそのカフェを訪れると、二人と医学部教授夫人とが雑談していた。岩崎は英語で話しかけたが、ケルゼンもアドラーもしゃべれず、幸いその夫人が通訳してくれた。「現代のドイツ語圏において、最も重要な理論家は誰だと思うか」と訊ねると、ケルゼンはフロイト、フッサール、カッシーラー、ヴェーバーの名を挙げた後、「それにここにいるアドラー君だよ。彼は私の親友でもあり、論敵でもある」と述べた(6)。

2.「ケルゼン学徒」たち

上記の人々は、公法学者でも法哲学者でもなく、そのケルゼンへの関心も本格的ではなかった。ケルゼンと専門を共有する研究者たちによる本格的な研究は、一九二五年頃から始まった。ルドルフ・メタルが作成したケルゼン著作リストを見れば分るように、この時期からケルゼンに関する単行著書や論文、翻訳が続出した。もっともそれらの学問的価値には首をかしげざるを得ないものもないではなかったが――。美濃部達吉は一九三〇年の論説(7)において、次のように述べている。

「多くの若い研究者がこの学派に共鳴している。私の読んだ範囲でも、浅井清慶大教授の『法学的国家論』はケルゼン的基礎の上に憲法理論を展開している。大澤章九大教授の博士論文『国際法秩序論』はケルゼンとフェアドロスの理論を基礎として、国際法に関する新原則を樹立しようとしている。最近の雑誌論文では、神川彦松教授の「国際連盟と世界法の建設」、岡康哉氏の「国際法における個人の地位に就いて」が、多かれ少なかれケルゼンの影響下にある。横田喜三郎教授の「国際法と国内法との論理的関係」は殆ど全面的にケルゼンに追随している。以上はたまたま私の眼に触れたもので、他にもこの学派に属する作品は少なくないようである。

多くの日本人学者がウィーンを訪れた。憲法学者清宮四郎は一九二六年夏学期のケルゼンの講義を聴講し(8)、同じく憲法学者黒田覚は二八年夏学期の講義を聴講した(9)。横田喜三郎も一九二七年夏にウィーンを訪れたが、ケルゼンは休暇中で会えなかった(10)。法哲学者尾高朝雄は、その欧州滞在期(一九二八〜三二年)にウィーンでケルゼンの下に学んだ(11)。この時期の「ケルゼン学徒」と呼ぶべき人々(多かれ少なかれ本格的にケルゼンを研究した人々、賛成者とは限らない)として名を挙げるべきは、憲法学者宮沢俊義、政治学者矢部貞治 、行政法学者柳瀬良幹がある。注目すべきは、彼らが共通の世代、即ち相対的には自由主義的な時代に成長し、ワイマール・ドイツの知的雰囲気が生み出した理論や思想を学んだ人々であることである。

3.  美濃部達吉のケルゼン批判

「ケルゼンの徒」たちの理論に立ち入る前に、美濃部達吉の憤激に満ちたケルゼン批判を一瞥する必要がある。なぜそれが必要かというと、一つには、それが先行世代のケルゼンに対する反応を典型的な形で示しているからである。美濃部は、一九三〇年の論文を、次の言葉で切り出している。

       私は十数年前、『国法学の主要問題』をかなり丁寧に精読し、教えられるところもなくはなかったが、その根本思想には到底同意し得なかった。最近また『主権の問題と国際法の理論』と『国家概念論』に眼を通したが、一層の反感を深くし、このような考え方は法学の邪道であるという信念を強くした。・・・私はこのような理論が若い研究者の間に追随者を見出していることを、法学のために甚だ遺憾とする。このような有害な傾向が国家論・公法学・国際法学の間で流行することに黙視できず、本稿を執筆した(12)。

美濃部は、ケルゼンの存在・当為二元論、法実証主義、法概念論、法・国家同一性論、法的意志・心理的意志峻別論、根本規範論などを正面から批判し、イェリネックの国家両面性説、学際的国家学論、事実の規範力論などをケルゼンの批判に対して擁護している。美濃部は更に、一九三二年に、ケルゼンとフェアドロスの国際法・国内法一元論を批判する論文を公刊した(13)。

筆者(長尾)はここで、美濃部のケルゼン批判について、二三の評釈を加えたい。

ケルゼンから見て、美濃部の哲学理解の素朴さを指摘することは容易である。彼は、規範的議論のもつ認識論的・存在論的問題にまったく無理解で、一切を「社会心意」という漠然として神秘な観念で説明し去る。彼によれば、法の本質も社会心意であり、それは当為でなく存在である。法学は社会学・心理学と同様の経験科学であり、国家もまた社会心意の統一体である。機関の意志を法人の意志にするのも社会心意である。彼の素朴さを示すものに、次のような言葉がある。

男子が二十五歳になれば選挙権をもつという規定は、SollenでなくKönnenの規定であり、物が熱せられれば膨脹するのと異ならない(14)。

美濃部の誤解を招いたのには、ケルゼン自身にも責任がない訳ではない。彼の自説の叙述に誤解を招き易いところがあることもまた否定できないところである。先に私は、木村のケルゼンは「形式主義」だという批判が、ケルゼンにおける「法の一般理論」と「特定実定法秩序の認識」の区別を無視していると述べ、一九一三年の論文「国家不法論」の一節を引用したが、『国法学の主要問題』(一九一一年)においては、法学一般について、それが形式的性格をもつと言っている(15)。通常の読者は彼が実定法学もすべて形式的であるべきだと主張していると思うのは当然であろう。

また、ケルゼンは、法的意志と心理的意志の相違を強調している。通常の読者は「故意」とか「悪意」とかという概念を法における意志の典型的なものと考え、なぜそれが心理の状態でないのか不思議に思うだろう。『国法学の主要問題』において、ケルゼンは、著書のだいぶ進んだところで、この疑問に答えている。

私が刑法理論からすべての心理的要素を排除することを主張しているというように誤解しないで欲しい。洗練された法意識においては、自分がなしていることを理解できる者のみが刑罰の対象になるのである(16)。

これらのことを最初に述べておけば、多くの読者は誤解を免れたであろう。木村や美濃部のみならず、多くの読者もこれらの点を誤解し、ケルゼンは信じられないような不合理な説を唱えていると思ったのである。

確かに美濃部のケルゼン論は素朴で誤解に満ちているが、しかし彼はケルゼンの法学・国家論解体の試みの中に、危険な要素が潜んでいることを直感していた。ケルゼンの観点からすると、法理論とか国家論とかと称されているものの多くは、擬似科学であり、神話であって、「学」と称しているけれども、その実質は価値判断なのである。しかもそれらは、認識を誤導する擬人化的・実体化的比喩を含んでおり、それが体制維持に重要な役割を果たしている。

法学者の大部分は、法学が法実務に実践的影響を与えることを放棄すべきでないと考えている。大学で教授されている「法理論」と呼ばれているものの大きな部分は、行政官・司法官・弁護士などに示す実践的指針である。そして法的実践においては、関連するあらゆる事実・資料を考慮に入れなければならない。「法律家はその視野を狭い法の領域に限定してはならない。世界全体・社会全体に視野をもたねばならない」とは、当時から頻りに言われたことである。その「法律家」の中には法学教授も含まれるのである。

そして最も重要なことは、地上に正義を実現しようという情熱に満たされた法律家たちは、ケルゼンの価値相対主義を受け容れないことである。 

美濃部は、戦前の日本の体制下の枠内では、開明的・自由主義的・合理的な法学者で、半神学的な穂積八束の憲法学の厳しい批判者であった。しかしその彼も、彼の前提する体系の脱構築を許容できなかったのである。 

4. 田中耕太郎のケルゼン批判

もう一人の重要なケルゼン批判者にトマス主義法哲学者田中耕太郎がいる。

田中は若い頃、内村鑑三の門下生であった。内村は、神と人間との間に介在する一切の中間的権威の存在を否定する個人主義的思想家で、その運動は「無教会派」と呼ばれていた。一九二六年、田中はカトリックに改宗した。この改宗の性格には、はっきりしないところがある。私は、内村と田中の結びつきの発端は、必ずしも深い思想的結びつきでない偶然的なものではないかと思って見ている。田中の初期の、ギールケに関する論文(17)は、非個人主義的・団体主義的色彩のもので、彼は最初からそのような思想的傾向をもっていたのではないか、と。

田中は、論文「現代法律思潮」(1929)において、新トマス主義の観点から、十九世紀以降のヨーロッパ法哲学史の推移を回顧した。彼はこの論文の劈頭でフリッツ・ヴァン・カルカーの、「世界観なき法律学は戯画だ」という言葉を引用し、ケルゼンの純粋法学をその典型例であると指摘した。彼によれば、ヨーロッパではケルゼンの理論は激しい批判の対象となっており、甚だ不評判なのに、日本の一部でもてはやされているのは、常に新奇さを求める日本知識界の浅薄さの表れである(18)。

彼はヨーロッパにおける法思想の変遷を、次のように描いている。

十九世紀において、自然法論は個人主義的偏向の故に批判された。やがてそれに代って反理想主義的傾向が有力となり、法実証主義の支配となった。新カント主義の台頭は、反理想主義的傾向への反動であったが、その理想に実体を与える規範的内容を欠いていた。  シュタムラーの説く理想は空疎であり、ラートブルッフは相対主義者である。ケルゼンの理論は世界観と無縁だ(19)。

こうして彼は、中世の自然法的伝統への復帰を提唱したのである(20)。

しかし田中はケルゼンの著作を注意深く観察していた。彼の「価値中立的科学主義」なるものの背後に何らかの世界観的背景があるに相違ないと睨んでいたのである。 田中に大きな霊感を与えたのは、エリッヒ・カウフマンの『新カント主義法哲学批判』(1921)であった。カウフマンは、ケルゼンのカント主義なるものは、カントにおける理想主義的・形而上学的・倫理的要素を払拭しており、彼の哲学は実も蓋もない実証主義となっていると批判している。

田中は、ケルゼンの『自然法論と法実証主義の哲学的基礎』(1928)及び『民主制の本質と価値』(第二版)(1929)を読んだとき、カウフマンの認識は全く正しいと感じた。一九三四年、彼は「ケルゼンの純粋法学の法哲学的意義及び価値」という論文において、ケルゼンを正面から論じた。

彼はまず、ケルゼンの自然法に対する態度をめぐって、木村と横田の間で交わされた論争を論評した。木村によれば、ケルゼンは自然法の存在を全く否定しているのに対し、横田によれば、ケルゼンはただ、自然法と実定法が一つの体系の中に共存し得ないと述べているのみだと言う。田中は、このような問題は論理構成の枠内で答えられるものではなく、ケルゼンの哲学と世界観を見ることによってはじめて答え得るものである、と指摘した(20)。

田中は、自然法と実定法の関係に関するケルゼンの議論を分析し、彼が描き出した自然法論はトマス主義の自然法概念に当てはまらないと断定した。田中は、すべての自然法は人間性の産物であり、従って実定法の多くの規範は自然法に適合している。自然法と実定法が共存し得ないというケルゼンの主張は誤りである。また、自然法規範は自由意志の主体である人間に適用されるものであって、ケルゼンの言うように「内的必然性」によって実現するものではない。ケルゼンは自然法秩序を無政府的秩序だと言っているが、これも誤りである。なぜなら自由意思の主体は犯罪を犯す可能性をもつものであり、従って自然法もまたそれに対する強制を必要とするのである。ケルゼンは、自然法論は実定法を正当化する傾向をもつから、常に保守的政治論に帰着すると言っているが、これも浅薄な観方である。自然法論は、実定法の良い部分は正当化するが悪い部分は批判するというだけのことである。ケルゼンのマルクス主義者と同様、「保守即悪」だと考えているのか。

田中は、結論として、ケルゼンの世界観はソフィスト的相対主義、正義より平和を重視するピラトのシニシズムである、としている。そのような思想は、いかなる自然法の存在をも信じえないものであり、木村が正しく、横田は誤っている。現代世界の病理の一根源は世界観的無秩序にあり、多くの知識人が新カント主義の悪しき影響下にあることはその病理の徴候である、と(21)。

5. 美濃部事件

ケルゼンは、『一般国家学』(1925)の「日本語版序文」(1935)に次のように書いた。

     本書を日本の知識層世界に示し得ることは、私の大きな喜びである。日本人は文明の最先端に比較的短期間で到達することができた。それは日本人が学問の独立と自由の重要性を認め、自然科学や技術のみならず、法学や国家学にも強い支援を与えてきたからである。法学・国家学は眼に見える実用価値をもたないもので、社会の叡知と寛容のみが、政治権力の干渉から独立したその発展を可能にする。私の理論が日本に読者を見出したのは、日本人がこれらの徳性を有しているからだと思う。私は敢て、日本こそが本書に表明されているような理論的志向を理解する最善の土壌を提供していると言いたい(22)。

ところが不幸なことに、一九三五年こそが、学問の自由、特に法理論・国家理論の自由が、日本において狂信的ナショナリズムに脅かされた年であった。憲法学者美濃部達吉は、「天皇は国家機関である」という学説を唱えたが故に、迫害されたのである。この年こそが、民族主義と天皇制の神話の支配の時代の発端であり、その結果が中国との戦争、更には米国との戦争へと連なったのである。

ドイツ、オーストリア、そして日本の戦間期(1918-1939)は、比較的自由主義的な時期と反自由主義的な時期という二期に分けて考えることができる。ケルゼン自身もこの政治的激変によって、ウィーンからケルン、ジュネーヴとプラハ、そして米国へと居を移さざるを得なかった。日本の場合は、ドイツやオーストリアほどの激変ではなかったが、漸進的に同様の変化を見た。

この時期、日本の中国ナショナリズムとの対立が年を追って深刻化した。この深刻な緊張関係の只中で、一九二九年の世界恐慌が起り、それは日本経済に甚大な影響を与えた。この衝撃が、国際孤立の危険を冒してさえも、対中関係の軍事的解決を主張する狂信的民族主義者を台頭させた。「軟弱」と見られた政治家に対する暗殺事件が続発し、一九三二年における犬養毅首相の暗殺は、政党内閣に終止符を打った。議会に基盤をもたない齊藤実海軍大将が後継首相に選任されたのである。

このような雰囲気の中で、学問の自由が危機に立った。その最も有名な犠牲者が美濃部であった。それ以前から右翼著作者たちは、彼の天皇機関説を神聖冒涜として攻撃し続けていたが、一九三五年までは、学問の自由に対する深刻な脅威というほどではなかった。この年議会で、何人かの政治家が公然と機関説を非難した。当時美濃部は貴族院議員で、議場で反論演説を行ない、機関説は天皇の公的地位を説明する学問上の学説に過ぎないと説明した。しかし野党・軍の一部や右翼諸団体は連合して政府を攻撃し、その勢いは増大した。 遂に美濃部は議員辞任を余儀なくされ、天皇機関説は神聖な「国体」(国家の本質)に照らして許容不可能だと宣言された。美濃部は暗殺企図の対象になり、負傷した。彼の著書の幾つかは禁止された(23)。

それまで、「日本のイェリネック」と呼ばれた美濃部のみならず、ケルゼンの徒たちにとっても、君主機関説は受け容れられており、教科書にも書かれていた。こうしてイェリネック派とケルゼン派は民族主義的狂信に対して共通の戦線に立たされた。ここに彼らの気概が試されることとなった。

私はこれ以前の「ケルゼン学徒」たちの著作にはそれほどの興味を感じない。その多くはただケルゼンの書いたことを拙く反復したに過ぎない。「新傾向」としてケルゼンを追いまわした人々は、更なる新傾向としてカール・シュミット、ルドルフ・スメントなどを追いまわしていた。

6. 宮澤俊義

宮澤俊義は東京帝国大学憲法講座の、美濃部の承継者であった。一九三四年美濃部が六十歳で定年退職すると、宮澤はその夏学期から法学部憲法講義を開講した。その冒頭で彼は、「オーギュスト・コントは、『歴史は神学的段階から形而上学的段階を経て実証主義的段階に移行する』と言った。日本憲法学史において、穂積八束の体系は神学的段階、美濃部達吉の体系が形而上学的段階に相当する。これからいよいよ実証的段階が発足するのである」と宣言した(24)。この「実証主義的段階」とはケルゼン的段階を意味するであろう。

宮澤は、犬養首相の暗殺による政党内閣の終焉(1932)と、ドイツにおけるナチ政権の成立(1933)を深く憂慮していた。彼は、独裁制と民主制の相違は絶対的権威の存在の存否にある。絶対的権威はタブーによってのみ維持される。民主制はタブーなき体制であり、言論の自由、学問の自由の体制である。最近生じたナチの政権掌握は、タブーの復活の顕れである、と書いた(25)。彼が学問の自由に言及した時、ケルゼンを含む学者たちのナチ・ドイツにおける運命を念頭においていたであろう。

一九三四年、宮澤は、「ヒトラーがドイツ国民の代表である」というオット・ケルロイターの説を、次のように批判した(26) 専制的政府でさえも、自己を「国民の政府」だと標榜する。そのための便利なイデオロギー的道具立てが、代表の概念である。パウル・ラーバントはぶっきらぼうに、「実定法の中に代表の概念の存立の余地はない」と言った。その通りだが、それでも議員たちは選挙権者たちによって選挙されているという点で、なお国民と結びつきをもっている。そういう手続きを経ていない独裁者が、どうして国民代表を名乗り得るのか。近時ドイツにおける反動的学者たちは、民主主義と自由主義を区別し、非自由主義的民主主義なるものを唱える。しかし民主主義は自由の政治的組織化であり、自由なき民主主義なるものは存在し得ない。ケルゼンは、ルドルフ・スメントを批判しつつ、「反議会主義の闘争は反民主主義の闘争に他ならない。議会主義に敵対する者は、民主主義に敵対しつつあることを認める率直さをもつべきである」と述べている(27)。

 同じ一九三四年、宮澤は「民主制と相対主義哲学」という論文を発表した(28)。これはラートブルフの論文「法哲学における相対主義」(29)の紹介・論評で、そこでラートブルフは、相対主義は信念の欠如ではなく、むしろ攻撃的な道徳的態度である、それこそが自由主義、法の支配、寛容、そして民主主義の基礎をなすものである、と主張している。宮澤は、ドイツ法哲学における代表的相対主義者はマクス・ヴェーバー、ゲオルク・イェリネック、ケルゼン、及びヘルマン・カントロヴィッツで、既に他界しているヴェーバーとイェリネックは別として、他の二人、そしてラートブルフ自身も国を追われている、これは相対主義に対するナチの態度を象徴している、と評している。

一九三五年美濃部事件が起り、宮澤の学問的将来にも暗雲が立ち込めた。彼は美濃部の後継者として、天皇機関説について何というか、右翼やその影響を受けた学生たちから恒常的に監視された。上述した相対主義に関する論文は、国体に対する信念の欠如として、繰り返し攻撃された。

美濃部事件の直後の一九三六年、彼は「法律学における『学説』」と題する論文(30)を、学術雑誌に発表し、次のように述べた。法学における学説には「解釈学説」と「理論学説」がある。前者は実定法の枠内における価値判断であり、ある条文についてABCの三説が可能であるならば、私人は誰でも その何れを採用すべきかについて見解を述べる自由をもつ。他方公権力は、その何れかを選んで公定解釈とすることができる。理論学説はそれと異なり、法の科学のみがそれを判断する資格をもつ。公権力がその判断について権威的に介入することは理論的に不可能であるばかりでなく、有害である、と。天皇機関説は明らかに理論学説である。宮澤はこうして、美濃部の迫害を批判したのである。ここで表明されている認識と価値判断に二元論は、明らかにケルゼン的なもので、先の代表論において、宮澤はケルゼンの論文「解釈論を論ず」(31)において表明されたこの二元論を引用している。

この一九三六年に、「二・二六事件」とよばれる大規模なクーデタ未遂事件が起り、二人の総理大臣歴任者が殺され、現職の岡田啓介首相は辛うじて死を免れた。先に美濃部も暗殺未遂事件に遭遇しており、狂信者たちに攻撃されると生命の危険が存在したのである。

宮澤は、敢て殉教者となろうとするような英雄的人格の持ち主ではなかった。この時期からの約十年間、彼の学問的活動は、日本憲法史や公私法二元論批判など、比較的地味な主題に限定された。この時期展開された伝統的法理論(Rechtsdogmatik)に対する彼の批判は、ケルゼンの強い影響下にあった。軍国主義的雰囲気になじまない知識人たちに、ケルゼンは一種の避難所を提供した。刑法学者小野清一郎は、一九三五年、「若い知識人の間でのケルゼンの人気の一つの理由は、それが共産主義にも民族主義にも身を投じ得ない知識人に適当な避難所を提供しているからである」と言っている(32)。小野はケルゼンについて否定的な見解の持ち主で、この論評も政治的イデオロギーがすべてで、認識固有の価値を承認しない立場の表明のように見える。 

7. 横田喜三郎

横田喜三郎は、一九二三年ケルゼンの『主権の問題と国際法の理論』を読むや否や、ケルゼンの帰依者となった。一九七四年の「ケルゼン追悼文集」に寄せた追憶の中で、次のように言っている(33)

私は(東京帝国)大学を卒業した後一年半ばかり、研究助手として「国際裁判の歴史的研究」という論文に取り組んでいた。その頃私は法学の基礎的な研究をしてみたいと思っていた。その時ある書店が私にケルゼンの『主権の問題』を見せてくれた。私のドイツ語力がまだ不充分だったのと、彼の文体がなじみやすいものでなかったことから、それは非常に難解に感じられた。しかし、苦労して読み進むうちに、その論理の鋭さ、徹底さ、新鮮さ、大胆さに驚かされた。感銘を受けたというよりも、むしろ感激を覚えた。

特に私を魅了したのは国内法に対する国際法上位説であった。時は世界大戦が終り、国際連盟等の国際組織が創設され、世界平和が実現しそうに見えた時期である。そういう状況においては、国家主権概念を根本的に批判する新国際法理論の展開が要請される。ケルゼンの著書はまさしくその要請に応えたものだ、と私には感じられた。 国際法の研究に取り組みはじめたばかりの若き学徒が、それに感激しないはずはない。私は若き日の情熱を傾けてこの書物に取り組んだ。

横田のケルゼン解釈は、ケルゼン自身の「冷徹なリアリズム」と対比して、理想主義的に過ぎるという印象を禁じえない。批判者は、彼の国際主義を、英米覇権下の世界秩序へのナイーヴな帰依だと見た。横田は、満洲事変(1931)における日本の行動を大胆に批判し、満洲占領の合法性を否定したスティムソン原則(1932)を肯定した僅かな日本人の一人である。日露戦争(1904-5)における勝利の後、日本は、多くの犠牲を払って満洲(東北中国)からロシアの影響力を排除した故に、そこでの特殊的地位の承認を求めていた。中国はこの主張を認めなかった。幣原喜重郎外相は、この危機を国民党政府との交渉で解決しようとしたが、その努力は一九三一年挫折した。その年の九月、日本陸軍の一部が内閣の承認も天皇の命令もないままに、武力行使に出て同地を占領した。

スティムソン米国務長官は、合衆国は占領の合法性を承認しない旨の通牒を日本政府に送った。国際連盟が日本非難決議を議決した時、日本は連盟を脱退した(1933)。日本国内は愛国的雰囲気に湧き立った。横田は、この興奮の只中で、日本による満洲占領は違法で(34)、スティムソン原則は国際法の正当な原則であることを述べた論説を発表した(34)。彼はまた国際連盟からの脱退も公然と批判した(35)。

  8. 尾高朝雄

   尾高朝雄は、実業家の息子として、植民地朝鮮の京城(現ソウル)に生れた。東京帝国大学法学部卒、続いて京都帝国大学文学部で哲学を学んだ。京大では西田幾多郎の指導を受けた。一九二八年京城帝国大学(現ソウル大学)助教授、一九三〇年教授。一九二八〜三二年、ウィーン大学でケルゼンの下に、またフライブルク大学でフッサールの下に学んだ後、再びウィーンに戻ってフェアドロスの指導を受けた。この間彼はドイツ語で、著書『社会集団基礎論』(Grundlegeng der Lehre vom sozialen Verband (1932))、及び論文二点を発表した。 帰国後『法哲学』(1935)『国家構造論』(1936)『実定法秩序論』(1942)など大著を次々に発表し、ケルゼン理論を批判した。一九三六年の著書の序文では、本書は全体としてケルゼン理論の批判であると述べている。一九四四年、彼は母校東京帝国大学教授となり、法理学を担当した(彼の主唱で、この科目名は「法哲学」と変更された)。

    初期の彼はギールケの影響下にあったようで、その彼がケルゼンの下に留学したのは、ギールケ理論にある種の理論的弱点を感じて、自己批判を試みたのかも知れない。彼はケルゼンによる法概念の鋭利な分析には感心したが、国家を法秩序の擬人化とする唯名論には反発した。彼によれば、国家はディルタイ的精神科学、ないしフッサール的本質観照によって把握さるべき精神的形象である。 更に彼は、国家という精神的形象は経験的事実に底礎(fundieren)されている、と言う(「底礎」はフッサールの言葉)。そこで、国家はもっぱら法学の対象とするケルゼンを批判して、国家学は学際的領域だとする。

   彼はまた、第一次規範と第二次規範の関係についてもケルゼンを批判する。ケルゼンによれば、法規範は要件(殺人等)と効果としての強制(懲役等)とを規範的に結合したものであり、「殺すなかれ」という規範は第二次的にその前提となっているに過ぎない。それに対し尾高は、マクス・エルンスト・マイヤーやオイゲン・エールリヒを援用しつつ、「文化規範」「社会規範」が第一次規範であり、強制規範はそれを実現するための第二次規範であると言う。

   美濃部など、日本の多くのケルゼン批判者たちは、尾高と同意見である。しかし私(=長尾)の見るところでは、ケルゼンは、様々な「社会規範」が、候補者として立法を待っている多元的社会を前提としている。立法によって、その候補者のどれかが強制と結びつき、実定法となるのである。どの「社会規範」が実体規範の背後にあるかは、立法によって初めて明らかになる。尾高は、日本は一元的社会で、一つの強制規範の背後には一つの社会規範の候補しか存在しないと考えたのであろう。しかしそれは神話である。一九二〇年代から四〇年代の日本とて、多元的社会であった。植民地朝鮮の大学における教授は、そこに渦巻く価値観の対立に鈍感であるべきではなかったであろう。

   人物としては、尾高は愛すべき人柄の持ち主であった。ケルゼンは彼を愛し、著作公刊の機会を色々提供した。ケルゼンが彼を愛した一理由は、当時ケルゼンが激しい論争を交えていたルドルフ・スメントに対し、批判的見解を表明していたからかも知れない。実際には尾高の哲学はケルゼンよりスメントに親近性をもつように見えるのだが。

    終戦直後に、尾高と宮澤の間で、戦後日本における憲法変革をめぐって論争があった。尾高は、法秩序の窮極的根拠は「ノモス(正義の観念)」であり、権威主義的君主制から国民主権主義へと憲法は変ったが、両体制は「ノモス」を根拠とすることにおいては異ならないから、この変化は「革命」ではない、と主張した。

   それに対し、宮澤は、「ノモス」なるものは空虚な定式に過ぎず、問題は誰の「ノモス」概念が支配するかである、尾高の議論は、現実の変化を蔽い隠そうとするものに他ならない、と指摘した(36)。当時の多くの知的読者は、この論争は宮澤の優位に終ったと看做したという。ここでは明らかに、宮澤の方が尾高よりケルゼン的である。

   理論上は批判的であったが、尾高はケルゼンを尊敬していた。京城帝国大学の同僚であった清宮四郎は、一九七四年に公刊されたケルゼン追悼論集において、ケルゼンがナチ政権にケルン大学教授の地位を罷免された一九三三年に、彼をこの大学に招聘しようと努力したと回想している(37)。

  尾高は一貫してナチ体制とそのイデオロギーに批判的であった。一九三五年の著書『法哲学』の序文において、彼は、ナチ政権成立以後、ドイツでは自由な学問的発展が不可能になったから、我々は自主的思考者としての立場を堅持しなければならない、と説いた。

  尾高は、カール・シュミットの憲法制定権力論を「実力説」だと批判し、ケルロイターやラインハルト・ヘーンについて侮蔑的論評をしている。戦後の小論において、彼はエリッヒ・カウフマンを讃美した田中耕太郎を、「彼はナチの思想的先行者の一人ではないか」と批判した(38)。    

  『法の窮極にあるもの』(1947)の序文において、次のように述べた。

          本書の執筆を終える直前、バークリーでケルゼン教授に学んだ韓国人の若い研究者が、ケルゼンからのメッセージを届けて下さった。それで私は、ウィーンにおいて教授がい    かに私を援助して下さったかを、感謝の念とともに思い出した。教授はナチに迫害され、米国に亡命した。私は、国際文化世界から孤立していた日本の研究者として、言葉に言い    表せないほどの喜びと激励を感じた。私は教授の理論に追随する者ではなく、本書において屡々それを批判しているが、教授が政治的圧力下で法と法学の独立のために不屈の    闘いを続けてこられたことに、心からなる尊敬と畏敬の念を捧げたい。

 9. 戦前期ケルゼン研究の総括

後世から顧みると、戦前期日本のケルゼン研究は、二三の重要な点で視野が限定されていた。それは当時その情報取得が困難だったからで、当時の研究者たちを責めることはできない。

 第一に、ケルゼンの著書『応報律と因果律』(Vergeltung und Kausalität, 1941)(英語版『社会と自然』(Society and Nature, 1943)が戦時中に発表され、日本で入手できなかったことである。同書は、彼の理論の哲学的前提(特にヒューム的側面)や人類精神史の全体像を明らかにしており、彼の規範理論が哲学的人間学や科学哲学に重要な問題提起をするものであることを示している。

第二には、ルドルフ・メタル『ケルゼン伝』(1969)が、彼の生涯についての基本的事実を明らかにしたことである。それはユダヤ人問題が彼にとっていいかなる意味をもったかを示している。それまで多くの人々は、「純粋」を求めるケルゼンは、典型的な象牙の塔の学究で、政治的現実については知識も経験もない人物だと思っていた。この伝記によって、我々は初めて、彼が陸軍大臣の顧問として、第一次大戦末期に重要な役割を果たしたことを知ったのである。

第三に、我々はジョンストン『オーストリア精神』(William M. Johnston, The Austrian Mind, 1972)、ジャニクとトゥールミン共著の『ヴィトゲンシュタインのウィーン』(Allan Janik & Stephen Toulmin, Wittgenstein's Vienna, 1973)、ショースキ『世紀末ウィーン』(Carl E. Shorske, Fin-de-Siècle Vienna, 1980)などの著書によって、ケルゼン思想におけるウィーン的背景の重要性を知らされた。戦前日本の「ケルゼン学徒」たちの多くは、(宮澤を別とすれば)ドイツ学界とオーストリア学界の相違に気付かなかった。戦前の法学者たちの書棚にはフロイトやヴィトゲンシュタインや論理実証主義者たちの書物はなかった。 

III ケルゼンと戦後法学

1.    歴史的状況

   第二次大戦の敗戦とともに、軍国主義政権とその狂信的民族主義は崩壊し、啓蒙主義第三期が発足した。米軍占領下で、自由主義的民主主義が新たな正統的政治思想となった。「アメリカン・シーザー」と呼ばれたダグラス・マッカーサー元帥は批判を超越した存在であったが――。この自由民主主義的で国際主義的な政治思想は、ケルゼンの理性主義的法学に適合的であるように思われるが、色々な理由で、彼の理論は知識人や法学者に好意的に受け取られなかった。

   第一に、民主主義を相対主義的に基礎づける立場は、民主主義が守勢に立たされていた戦間期の産物であった。戦後民主主義は、その絶対的正当性を信ずる攻撃的な立場である。戦前にはロックやルソーの個人主義的民主主義思想は、時代遅れのもので、歴史主義やヘーゲル主義によって克服されたものと看做されていたが、米国占領軍の支持のもとで、新たな正統的権威となった。

   第二に、戦後のドイツやオーストリアにおいて、自然法論が復活した。その唱道者の一部はナチ体制に加担した人々であったが、「ケルゼンの法実証主義こそナチのイデオロギー的根源だ」と唱えた。それは理論的にも歴史的にも甚だ疑わしい議論であったが、日本の法学者にも追随者を見出した。

   第三に、若い知識層の間でマルクス主義が熱烈な支持を集めた。中国で革命が進行中であり、また日本でも自由主義者たちは多かれ少なかれ軍国主義に屈服したのに対し、共産主義者のみがそれに抵抗したという解釈が広く受け容れられたからである。

  そして最後に、法学者たちが、法学は純粋な理論科学であるべきだとするケルゼンの見解に反対した。彼らは、法学者は実践的志向をもつべきであり、立法者・法実務家・法学教育者に善き助言をすることにより社会の改善に奉仕すべきだと主張した。 その助言が科学外的価値判断に基づくものであっても、 なおそれが望ましいと考えたのである。

2.   横田喜三郎と宮澤俊義

  しかし、旧世代の法学者たちの一部は、なおケルゼン的諸問題を論じた。

   横田喜三郎は、終戦後直ちに米軍の占領を歓迎した。彼の回想録の中で、軍国主義日本の敗北を喜んで迎えた、と言っている。メタルは『ケルゼン伝』の中で、ケルゼンは民族主義に無関係(indifferent)であったと言っているが(39)、横田も同様であった。国際法学者として、彼はニュールンベルクと東京における戦犯裁判を、国際法の更なる発展として正当化した。この彼の態度は、占領終了後日本の民族主義者たちからイデオロギー的批判を受けた。

   彼は日本国憲法九八条を、条約が憲法以上の国内法的効力をもつことを定めたものと解釈した。この議論は、実定法学者たちから、理想主義的・国際主義的に過ぎるものとして批判されている。人々はこの横田の主張を、ケルゼンの形式主義的法学の帰結だと誤解した。なにしろそれは「ケルゼン学徒横田」が主張しているから。しかしケルゼンは、「国際法に反する国内法規範も、国際法の観点からしても有効である。なぜなら国際法にその国内法規範を無効とする手続が存在しないからだ」と言っている(40)。彼は、憲法は憲法裁判所に条約を失効させる権限を授権することができる」と言う(41)。

   宮澤俊義は一九四八年、論説集『民主制の本質的性格』を刊行した。これは戦前の「ケルゼン的諸論文」を集めたもので、その序文で、「民主制に対する私の基本的立場が、全体としてラートブルフとケルゼンの立場であることは、読者も理解されるだろう」と述べている。宮澤は、横田と同様、米国占領を歓迎した。マッカーサー司令部が、一九四六年二月、日本政府に対し新憲法草案を提示し、三月にそれを基礎とした政府案が公開された時、宮澤はそれを熱烈に弁護した。彼は日本法史において、新憲法の擁護者、この憲法の権威的教科書と註釈書の著者として記憶されている。

   しかし宮澤の憲法理論には非ケルゼン的要素があり、その説が現在に至るまで激しい論争の対象となっている。旧憲法下であった戦争中の一九四二年、宮澤は『憲法略説』と題する憲法教科書を刊行した。その中で彼は、憲法の本質的原則(国体)は、憲法の定める改正手続きによっても改正不可能であると主張した(42)。ケルゼンは「オーストリア憲法におけるライヒ法とラント法」(1914)と論文において、「君主制を共和制に変更することも、他の憲法改正と同様法的に可能である」と述べており、それと異なっている(43)。この宮澤の議論が、カール・シュミットの「憲法」(Verfassung)と「憲法律」(Verfassungsgesetz)の対比、憲法制定権力(pouvoir constituant)と被制定権力(pouvoir constitué)の区別の影響をうけていることは明らかである。この教説、及び「国体」という言葉の使用は、「国体は法概念でない」と述べた師美濃部の説(44)から、穂積八束の教説への先祖帰りである。

   一九四五年十月、宮澤は新聞論説において、一八八九年に公布された現行帝国憲法(旧憲法)は、 充分に自由主義的・民主主義的で、改正は不要であると論じた(45)。しかし一九四六年三月、新憲法政府案が公開された時、彼はこの態度を変更した。彼は同時に、天皇が主権者であるという(旧)憲法の基本原理(国体)は合憲的には変更不可能であり、国民主権主義を定める新憲法の制定は、法的な革命を意味すると主張した。 そうであるとすれば、その革命はいつ起ったのか?宮澤は、「それは日本がポツダム宣言を受諾した一九四五年八月である。なぜなら同宣言には、国民主権の原則が定められているからだ」と答えた(46)。

  この宮澤の説は「八月革命説」とよばれるが、多くの批判を招いた。憲法改正権限界論を批判する者もあり、ポツダム宣言は国民主権を定めていないと言う者もあり、条約によって憲法の基本原則を変更することはできないと言う者もある。更にはこの憲法は、国民の自由意志が抑圧されていた占領下で、占領軍に押し付けられて成立したものとして、合法性や正統性を疑う者もある。

宮澤は晩年、再び相対主義というケルゼン的主題を論じた。彼は「正義について」(47)という論文において、ケルゼン的な正義不可知論への支持を表明し、「世界滅ぶるとも正義行なわれよ」(Fiat justitia, pereat mundus.)という標語に代えて、「世界を栄えさせるように正義を生かせ」(Vivat justitia, ut floreat mundus!)という標語を掲げた。一九七四年の『ケルゼン追悼文集』において、彼はケルゼン「プラトンの正義論」の次の言葉を引用している。

       単なる妥協、単なる平和に尽きない正義への希求・憧憬、高次の、至高の、絶対的な価値への信仰は、合理的思惟が動揺させ得るには余りにも強力なものであり、それを覆すことはおよそ不可能であることは歴史の示すところである。この信仰が幻想であるとすれば、幻想は現実より強いのである。多くの人間、否全人類にとって、問題解決とは問題の概念・言語的・理性的解決ではないからである。かくて人類はおそらく未来永劫ソフィストの解答に満足せず、プラトンの辿った道を、血と涙に濡れつつも辿り続けるであろう。この道こそ宗教への道である(48)。

   宮澤は、このケルゼンの言葉に対し、「ケルゼン自身の頭は、その永い一生の終りに何を考えていたろうか。死ぬときまで、その反主流の道こそ真の主流であるとの自信をもって、それを歩みつづけたであろうか。それとも、ついにソフィストの道に満足することができず、プラトンの辿った道宗教の道へよろめき入るようなことはなかっただろうか。それを、わたしは、知りたい」と論評した(49)。

   宮澤は、死の直前に洗礼を受け、友人たちを驚かせた。

3 他の元「ケルゼン学徒たち」

一九三五年から一九四五年までの期間に、かつての「ケルゼン学徒」たちがとった言動について述べることには、些かの躊躇を伴う。その多くはこの時期ケルゼンを離れ、復帰しなかった。

ケルゼン『自然法論と法実証主義の哲学的基礎』の訳者黒田覚は、関心をシュミットに転じ、非常事態であるという理由で戦時立法を正当化した。もっともこの時期にも、彼の国家論・憲法論はイェリネック、ケルゼン、シュミットの理論の折衷であった。かつてケルゼンの相対主義的民主主義論を支持した矢部貞治は、大東亜共栄圏論の唱道者となった。もっとも彼は戦後もケルゼンに関心を持ち続け、『ボルシェヴィズム政治論批判』の翻訳を出版した。 尾高朝雄は、法学・国家学の学際性を唱えて、ケルゼン批判を続けた。 清宮四郎は、憲法教科書において、ケルゼンの根本規範論に言及しているが、それはケルゼンのような仮説的規範ではなく、実定憲法の基本的諸原則であるとする。こうして彼は、実定憲法(戦前は旧憲法、戦後は新憲法)を正当化した。 なお、次の世代に属し、また、「ケルゼン学徒」でもないが、清宮・尾高の影響下でケルゼン的主題を論じた小林直樹は、一九六〇年及びその翌年に刊行した二冊の著書において、清宮がケルゼンに施したこの変更を踏襲し、「根本規範」は実定憲法の定める改正手続きによっても変更できないと主張し、この脈絡においてカール・シュミットの憲法改正権限界論に言及している(50)。ここにケルゼンの用語とシュミットの教説が、実定法の正当化のために結婚した。彼はまた国家学の学際性という尾高の主張も承継している。 

4 鵜飼信成と碧海純一

憲法学者・行政法学者鵜飼信成は、一九三九・四〇年ハーヴァードで学んだ。彼は米国リーガル・リアリズムに関心をもった最初の日本人法学者の一人である。その著書『アメリカ法学の諸潮流』(1948)において、彼はジェローム・フランク、カール・ルウェリン、フレッド・ロデルなど偶像破壊的著作者たちの作品を、ウィットに富んだ文体で紹介した。その中で彼は、リーガル・リアリストたちとケルゼンの、法的神話破壊者、特に法的安定性神話の破壊者として、精神的親近性を指摘している。

 鵜飼は、ハーヴァードでケルゼンの「オリヴァー・ウェンデル・ホームズ講義」を聴講した。ところが当時は日米関係が悪化の一途を辿っており、彼は講義の途中で帰国せざるを得なくなった。ケルゼンは彼に、『国際関係における法と平和』の草稿を贈与した。後に鵜飼はそれを、東京大学図書館に寄付した。『法と国家』と題された同書は、長く刊行が続けられた。鵜飼はまた、『社会と自然』の重要性に着眼した最初の日本人である。

 鵜飼は、一九七三年のケルゼンの死を契機として、『ハンス・ケルゼン』という著書を編集・刊行した(一九七四年)。その第一部は「純粋法学」(鵜飼)、「イデオロギー批判」(碧海純一)、「民主制」(長尾)、「憲法―議会制論」(樋口陽一)、「国際法」(筒井若水)、「日本におけるケルゼン」(原秀男)から成り、第二部は、代表的な日本のケルゼン学徒が「ケルゼンと私」という題で回想を述べている。寄稿者は清宮・黒田・宮澤・鵜飼・柳瀬・横田の他、浅井清、菅野喜八郎、(民主制論の訳者)西島芳治、尾吹善人。更に長尾執筆の「ケルゼン伝」、及び「純粋法学とは何か」「民主制の擁護」、そしてアドルフ・メルクル「憲法起草者としてのケルゼン」の翻訳が付されている。興味深いことは、日本の代表的ケルゼン学徒(宮澤・清宮・柳瀬・鵜飼)が何れも、ケルゼンを嫌悪した美濃部の弟子だということである。

碧海純一は尾高門下であるが、自然科学や科学哲学への志向の持ち主であった。若い頃からバートランド・ラッセルの崇拝者で、米国留学中ウィーン学団の亡命学者たちの影響を受けた。帰国後彼は、論理実証主義の武器をもって法学の根底的批判に取り組んだ。この時期の論文「純粋法学」において、彼はケルゼンとウィーン学団との精神的親近性を強調している。ケルゼンはモーリツ・シュリックの友人で、多少周辺的ではあるが、学団の一員であった、と。彼のケルゼンに対する態度は、ウィーンの経験論的伝統(マッハなど)の影響は哲学的に健全なものであるが、マールブルク学派の新カント主義の影響は不幸であった、というものである。日本でケルゼンを根本的に経験論者と性格付ける観方が有力なのは、彼の影響である。自然科学者が経験的現象を因果律によって解釈するのと同様に、規範科学者は経験的現象を規範的範疇によって解釈するのだ、という訳である。

一九六〇年代、碧海はカール・ポパーの論理実証主義批判を受け容れ、ポパー主義に転向した。またエルンスト・トピッチュの示唆を得て、「批判的合理主義」を唱えた。この主義の代表者として、彼はラッセル、ヴェーバー、ケルゼン、ポパーなどを挙げた(58)。

5 仙台学派

行政法学者柳瀬良幹は、その学問的生涯をケルゼン的問題の考察に捧げた研究者である。彼は行政法学上の問題における理論的問題と実践的問題を区別し、学問的関心を前者に集中した。公法と私法の区別の批判、行政行為の合法性の推定に対する批判などは、ケルゼン的であるが、個々の問題においてはケルゼンと異なった見解もある。彼は東北地方の都市仙台の東北大学教授を長く勤めた。

植民地朝鮮の大学で憲法を講じていた清宮四郎は、帰国後東北大学教授に就任した。京都帝国大学教授であった黒田覚は、戦後東京の一大学の教授を勤めていたが、非常勤講師として仙台に招かれた。西洋中世史を中心とする法史学者世良晃志郎は、マクス・ヴェーバーの社会科学方法論と歴史学の研究者であった。これらの学者たちの影響下で、「仙台ヴェーバー・ケルゼン・シュミット学派」と呼ぶべきものが成立し、一九六〇・一九七〇年代には活発に学問的成果を発表した。次の世代の研究者として、菅野喜八郎、尾吹善人、樋口陽一、藤田宙靖、新正幸などがおり、何年か仙台で非常勤講師を勤めた長尾もその準メンバーといえるであろう。 彼らは理論的・認識的な志向を共有し、価値からの自由と知的廉直というヴェーバーの学問論を共通の前提としていた。そのような志向は、戦後日本学問のイデオロギー過剰、特に憲法学の護教的性格への反動であった。

   この学派のもう一つの特徴は、ケルゼン・シュミット比較論への関心である。東北大学大学院で公法を研究した殆どの研究者は、両者の著作を集約的に研究した。もっとも彼らの殆どは、イデオロギー的にも理論的にも、ケルゼン的自由主義と合理主義の支持者であった。

   菅野喜八郎は、基本的にケルゼン的分析手法を用いて、宮澤の八月革命説や小林直樹の憲法改正権限界論を批判した。八月革命説は、条約が憲法に優越するという、国内法に対する極端な国際法優位説を前提しており、それは実定国際法秩序の原則に反するというのである。 尾吹善人は米国に留学した憲法学者であるが、ケルゼンとシュミットの著作を集約的に研究した。彼は、ケルゼンの大作『法と国家の一般理論』とシュミットの大作『憲法理論』の邦訳者である。彼の学問的関心の焦点の一つは、ケルゼン、シュミット比較論であった。彼は、在来の学説に対するシュミットの批判の大胆さ、独創性に魅力を感じていたが、しかし根本的にはケルゼン主義者であることは、ケルゼン追悼論集の以下の引用からも知られる。

    ロスコー・パウンドがケルゼン理論を「諦めろという哲学」(give-it-up philosophy)と批判しているのは浅薄な見解である。「あらゆる法秩序は、いかなる目的のためにも用いられる強制秩序である」とする一見散文的な議論の背後には、この秩序を、(神や自然や民族精神や階級意志等の)超人間的・絶対的権威によって正当化することを拒否する烈しい情熱がある。

      ナチが政権を掌握した一九三三年、ケルゼンは『国家形態と世界観』と題する著書を公刊した。その中で彼はA(我と汝と対等性、客観主義的[合理主義的・経験主義的]認識論、デモクラシー、平和主義)とB(唯我独尊、主観主義的[非合理主義的・形而上学的 ]認識論、オートクラシー、帝国主義)を対比している。 彼はそれを没価値的な比較だと称しているが、実際には彼の長い学問的生涯のすべてはBの系列の批判に捧げられた。彼の全著作が巨大な闘争文献(Kampfschrift)であった。

     私の最も好きなケルゼンの文章:

          デモクラシーは、反デモクラシーの思想の平和的表現を抑圧しないことによって、オートクラシーから区別される。たんなる思想の表現と暴力行使の間に線をひくことはむずかしいだろうが、デモクラシーを維持する可能性は、そうした境界線を見出す可能性に依存している。

  樋口陽一はフランス憲法理論を学んだ憲法学者であるが、仙台に学んだ研究者として、ケルゼンとシュミットを集約的に研究した。両者の議会制論の比較において、民主主義と自由主義を根本的に対立させるシュミットに対し、それを否定するケルゼンの理論を支持している。 行政法学者藤田宙靖(東北大教授、最高裁判事)も法学における理論的要請と実践的要請を区別するが、後者も大学法学部というものの果たすべき社会的役割から見て、法学の不可欠の要素であるとする。しかしケルゼンや柳瀬が唱えた理論的純粋性は堅持さるべきで、それを実践的考慮から左右すべきではないという。彼の行政法教科書には実践的提言も含まれているが、その理論的部分にはケルゼンや柳瀬の思考様式や学説の影響を見ることができる。ケルゼンやアドルフ・メルクルは、「法の重要な部分に違反する行政行為は無効だが、それほど重要でない部分の違反は取り消し得るに留まる」という説を批判している(63)。法形式的見地からすれば、重要か否かの区別はなし得ないはずだという。藤田の師で、東京大学における美濃部の行政法講座の承継者である田中二郎は、戦後日本行政法学における最も権威的な学者であるが、このケルゼン、メルクルの議論をやや不機嫌に否定し、法規における「重要性」という観点の重要性を強調した。藤田は、田中の立場は実践的観点からは合理的であるが、ケルゼンの理論も実証主義法学のからは正確だ、と論じている。

  長尾龍一は、ケルゼン理論と半世紀に亘って取り組み、彼の多くの著作の翻訳者である。彼はケルゼンの反非合理主義、唯名論的認識論、価値相対主義などを承継しているが、ケルゼンの主張に最初から疑念を持ち続けてきた。「当為」は範疇であるか、法と道徳は別の規範体系であるか、等。また、ケルゼンの規範的範疇のみで思考するという「未開人」の性格づけは事実に反するのではないか、罪と罰の等価性、彼がそれに由来するとする原因と結果の等価性の主張も事実に反するのではないか、従って因果律の観念が未開人の応報信仰に由来するというのも事実に反するのではないか、ケルゼンに言語理論がないことは重大な欠陥ではないか、等々。彼は近いうちにこれらの点を詳述しようと考えている。  新正幸はケルゼンの法命題の理論の変遷を辿り、後期ケルゼンの「法命題」(Rechtssatz)と法規範(Rechtsnorm)の区別を、彼の実証主義と新カント主義の矛盾の産物だと指摘した。彼は最近憲法裁判所に関する単行本を刊行した。   

6 他の研究者たち

   仙台学派以外で最も注目すべきケルゼン論は、土屋恵一郎『社会のレトリック:法のドラマトゥルギー 』(1985)であろう。彼は、ケルゼンの「純粋法学」という構想の根源を、シュンペーターの「純粋経済学」、アンドレ・ジードの「純粋小説」、ポール・ヴァレリーの「純粋詩」、ル・コルビュジェやピエ・モンドリアンの「純粋美術」、ジェルメーヌ・デュラックの「純粋映画」、ジャック・コポーの「純粋演劇」、アルベール・ティボーデの「純粋批評」などを生み出した時代精神の中に見る。彼の見るところでは、ケルゼンの純粋主義・反心理主義はフッサールの「純粋論理学」と結びついている。ケルゼンは心理的意志と帰報(Zurechnung)を区別し、後者のみから成る純粋な「法的世界」を構成しようとした。これは役者たちのセリフを彼らの心理から峻別する純粋演劇の思想と並行している。法も演劇も人為的に構成された領域であり、カール・ポパーの「世界III」に属する。土屋はケルゼンの意志理論を、英国日常言語学派の言語行為論と関連づけている。

   原秀男『価値相対主義法哲学の研究』(1968)は、新カント派思想家たち(ヴェーバー、ラートブルフ、ケルゼン等)における存在と当為の二元論、価値相対主義、寛容、民主主義などの問題を論じている。 高橋広次『ケルゼン法学の方法と構造』は法哲学史の中にケルゼンを位置づけようとする試みである。その結論は、「ケルゼンは十九世紀実証主義を完結し、二十世紀の形而上学的潮流への道を開いた人物である」というところにある。著者はその形而上学的潮流に属している。手嶋孝『ケルゼニズム考』(1981)は、ケルゼンの生涯・思想、及びその意味についての概観的作品で、憲法起草者としての活動に関する調べの行き届いた一章がある。 兼子義人の遺著『純粋法学とイデオロギー・政治』(1993)は、マルクス主義的傾向をもった著者によるケルゼン論で、マルクスとケルゼンのイデオロギー概念を比較し、またケルゼンのオーストロ・マルクス主義との関係を論じている。 関口光春の博士論文『ケルゼンとヴェーバー:価値論研究序説』(2001)は、フッサール、コーエン、マッハなどケルゼンの哲学的背景を探索し、ケルゼンとヴェーバーの相対主義を批判的に検討している。 佐伯守『法と人間存在:ケルゼン法学とポスト・モダン』(2005)は、やや晦渋な文体で、「相互承認」というヘーゲルの社会理論とケルゼンの法的世界の関連を論じている。

7 翻訳[]

[1] 田村徳治「国家機関の人格」『法学論叢』4巻3号。

   [2]     中村宗雄「ケルゼン教授の面影」『マルクス主義理論と訴訟法学』1950.

   [3]     木村亀二「ケルゼンの法律社会学の方法論」『法学志林』24巻1・1号、1922.

   [4]     Kelsen, “Über Staatsunrecht, ” Zeitschrift für Privat- und öffentliches Recht der Gegenwart, 40.Bd., 1913, p.3.

   [5]     木村「ケルゼンの法律解釈論」『法学志林』36巻7号、1934.

   [6]     岩崎卯一『社会学の人と文献』1926、pp.435-459.

   [7]     美濃部達吉「ケルゼン教授の法及国家理論の批判」(1930)『ケルゼン学説の批判』(1935)

[8]      清宮四郎「ケルゼン―鋭利な学説と温和な人柄」『ハンス・ケルゼン』(1974)p.156.

   [9]     黒田覚「私の“中”のケルゼン」同上、p.166.

   [10]    横田喜三郎「ケルゼンとわたくし」同上、p.192.

   [11]    『自由の法理・尾高朝雄教授追悼論文集』(1963)

[12] 美濃部、上掲([7])。

[13] 美濃部「国法国際法一元論を駁す」(1932)上掲([7])。

[14] 美濃部、同、p.10.

   [15]     Kelsen, Hauptprobleme der Staattsrechtslehre,  1911, pp.92-4.

   [16]     Kelsen, op. cit., p.138.

   [17]     田中耕太郎「株式会社発起人ノ責任ヲ論ス」『法学協会雑誌』

[18] 田中「現代法律思潮」(1929)『法律哲学論集(二)』(1944)p.171.

[19] 田中、同、pp.217-236.

    [20]    田中「自然法の過去及びその現代的意義」(1930)同上([18])。 因みに、ケルゼンは初期の作品『ダンテの国家論』(1905)において、トマス・アクィナスの自然法論を分析している。

    [21]    田中「ケルゼンの純粋法学の法律哲学的意義及び価値」(1934)同上([18])。

[22] ケルゼン『一般国家学』(清宮四郎訳)。原文は紛失しており、英文は日本語からの長尾訳。

   [23]    長尾「天皇機関説事件」(筒井清忠編『解明・昭和史』(2010))。

   [24]    丸山眞男『懐古談』(上)(2006)。

   [25]    宮澤俊義「民主制より独裁制へ」『中央公論』48巻9号(1933)

   [26]    宮澤「独裁制の民主的扮装」『中央公論』49巻2号(1934)、「国民代表の概念」『公法学の諸問題』(1934)。

   [27]    Kelsen, Der Staat als Integration, 1930, p.82.

   [28]    宮澤「民主制と相対主義哲学」『外交時報』72巻2号。

   [29]    Gustav Radbruch,  “Le relativisme dans la philosophie du droit,”Archives de philosophie du droit et de sociologie juridique, 1934.

   [30]    宮澤『法律学における『学説』」『法学協会雑誌』54巻1号(1936)。

   [31]    Kelsen, “Zur Theorie der Interpretation,” 8 Revue internationale de la théorie du droit, 1934.(『憲法の原理』(1967)p.188)

   [32]    小野清一郎「ケルゼンの純粋法学」『法学協会雑誌』53巻5号(1935)。

   [33]    横田喜三郎「ケルゼンとわたくし」『ハンス・ケルゼン』(1974)

   [34]    横田「満洲事変と国際連盟」『帝国大学新聞』(1931年10月5日)

   [35]    横田「アジア・モンロー主義批判」『中央公論』(1933年7月号)

   [36]    宮澤「国民主権と天皇制に関するおぼえがき」(『国家学会雑誌62巻6号(1948年))、尾高朝雄「ノモスの主権について」(同62巻11号(1948年))、宮澤「ノモスの主権とソクラテス」(同61巻10・11・12号)。

[37] 清宮四郎、註(8)。

[38] 尾高「紹介:田中耕太郎教授『法律哲学論集(二)』」『法学協会雑誌』64巻1号。

[39] Cf. Rudolf A.Métall, Hans Kelsen: Leben und Werk, 1969, p.11.

[40] Kelsen, Reine Rechtslehre, 1934, p.146.

[41] Kelsen, “La garantie jurisdictionnelle de la constitution,” Revue du droit public, Vol. 44, 1928, p.36.

   [42]    宮澤『憲法略説』(1942)pp.72-5.

   [43]    Kelsen, “Reichsgesetz und Landesgesetz nach der österreichischen Verfassung,” Archiv des öffentlichen Rechts, 32.Bd., 1914, p.413.

   [44]    美濃部『時事憲法問題批判』(1921)p.64.

   [45]    宮澤「憲法改正について」『毎日新聞』1945年10月19日。

   [46]    宮澤「八月革命と国民主権主義」『世界文化』1巻4号。

   [47]    宮澤「正義について―ケルゼンをめぐって」立教法学1号(1960)。

   [48]     Kelsen, “Die Platonische Gerechtigkeit,” Aufsätze zur Ideologiekritik, 1964, pp.230-231.

   [49]     宮澤「ケルゼン教授の訃に接して」『ハンス・ケルゼン』

   [50]     Carl Schmitt, Verfassungslehre, 1928, p.20.

   [51]     Kelsen, Über Staatsunrecht,” Zeitschrift für das Privat- und öffentliche Recht der Gegenwart, 40.Bd., 1913, p.73, cf. Adolf Merkl, Allgemeines Verwaltungsrecht, 1927, p.195.