ケルゼンと哲学

 

I 哲学について――タレスからケルゼンまで

哲学と啓蒙

哲学(philosophy)とは「知」(sophia)の愛(philia)である。

愛の重要な属性の一つに「打算抜き」ということがあるだろう。「そんなことを知って何になる」「余計なことは知らないでおいた方がいいんだよ」というようなことを言う人は、哲学には向かない。

「哲学の祖」とよばれるタレスはいかなる知識をも愛した。エジプトで幾何学を学び、二等辺三角形の底角が等しいことを示し、三角測量で船の距離を測定し、磁石が鉄を動かすことを観察し、川の流れを変え、日食を予言し、大地は水に浮いているという説を唱えた。星を眺めつつ歩いて溝に落ちて、奴隷女に笑われた。彼の貧乏を嘲笑した者に対し、オリーヴの豊作を予見して圧搾機を買い集め、財産を作って見せた、と言われる。「儲けようと思えば儲けられるが、そんなことに関心がないのだ」ということを示すためであった。

文献的証拠はないが、彼は「雷はゼウスの警告だ」というような神話的説明を哲学に持ち込むべきでない、というルールを哲学に持ち込んだ。また「自分の説は仮説に過ぎない、もっといいアイディアを出してくれ」と友人や弟子たちに言い続けた。どうして証拠のないことが言えるかと言うと、アナクサゴラス以下の後継者たちがそのルールを実践したから。水が万物の根源(arche)だというタレスの説に対し、いや空気だ、火だ、地水火風だ、と続々異説が登場し、しかもその何れも神話的でないから。

彼の後進であるアナクサゴラスは、「何のために生きているか」と問われて、「太陽や月や天空について考えるために」と唱え、太陽が火の玉だと唱えて、神聖冒涜で罰せられた。デモクリトスは「ペルシャの王となるよりも、一つの因果的説明を発見したい」と言った。

オイディプースは、生まれた時に「父を殺し、母と結婚する運命にある」と予言され、無自覚のうちにそれが実現して、今はテーバイ国王となっている。だがやがて自分の運命の真相究明に乗り出し、「そんなことをしても不幸になるだけだ」と必死で止める母=妻の制止を振り切って、遂に真相を突き止める。その結果母=妻は自殺し、自分も盲目となって放浪する。作者ソフォクレスは哲学の世紀、哲学の場である紀元前五世紀のアテナイ知識人の一員であった。

カントは啓蒙とは「敢て知る」(sapere aude)ことだと言っている。「敢て知る」とは、知ることにいろいろ不都合をもたらす可能性があっても、なおそういう考慮を抜きにして、「知を愛する」ことを意味する。この啓蒙の定義は哲学の定義でもある。aude(敢て○○する)という動詞の(英語の)名詞形がaudacityで、オバマ大統領に『敢て希望する』(Audacity of Hope)という著書がある。「そんなことを望んでも無駄だよ」と言われても、なお敢て希望するという意味である。

 

紀元前五世紀の思想界

「哲学は啓蒙だ」などを言うと、「いや哲学には啓蒙主義の哲学と反啓蒙主義の哲学とがあり、むしろ後者の方が正統派ではないか」という意見もあるだろう。何しろ最大の古典的哲学者とされるプラトンこそ反啓蒙主義哲学の代表者だからである。こうなると「プラトン問題」に立ち入ることになる。

タレスに始まった哲学的伝統は、百年を経た紀元前五世紀に、一つの曲り角にさしかかった。一つには、「科学と宗教の衝突」という事態があり、太陽が神でなく火の玉だと唱えたアナクサゴラスの投獄はその一つの顕れである。万物の窮極的根源(arche)を問うたタレスの試みは、後継者たちの多元的な解答によって、一種の思想的アナキーをもたらした。六世紀末に登場した東方のヘラクレイトスと西方のパルメニデスは、各々常識を徹底的に破壊する世界観的パラダイムを提出した。即ち前者は「万物流転」を説いて固定的認識の可能性を否定した。後者は、「無いものは無い」から空間は存在せず、存在としては、隙間のない静止した「全即一」があるのみと説いて運動の存在を否定した。私はビッグバン以前の宇宙はパルメニデス的世界、ビッグバン以後はヘラクレイトス的世界で、紀元前六世紀末の両哲学者によって全宇宙の姿・歴史が示されたと考えてみたが、物理学者に聞くと、全宇宙の質量が一点に凝縮しているビッグバン直前の宇宙は、一般相対性原理によって空間も時間も彎曲しており、「ビッグバン以前」という時間はないのだとかいう。多少半信半疑だが。

他方でアテナイにおける中産階級の進出、識字率の上昇があり、伝統的な世襲貴族の支配に代って、「大衆説得」が政治的成功の鍵となった。ところがアテナイは、それに対応する政治的エリートの教育体制を整備できなかった。その間隙を埋めるものとして、アテナイの分家筋の諸都市国家出身の野心的知識人たちが、政治的能力(arete)、特に説得術(弁論術)の教師としてこの大都市に登場した。その代表的存在が、「知者」(sophistes)と標榜する知識人群である。彼らの中には、人間の平等の判断能力と理性的説得を基礎とする政治的秩序の形成という、民主的政治哲学を説くプロタゴラス、ヒピアス師弟のような政治思想家も登場したが、他に種々雑多な分子も存在した。説得術を技術として開発したゴルギアス等は、「何ものも説得し得る」というような自己宣伝によって、真理・正義に対するニヒリズムを助長した。これが哲学界のアナキーと連動した。

このような状況の中で、ギリシャ世界の世界戦争ともいうべきアテネ=スパルタ間の戦争が始まり、四三一年から一世代近く続いて、結局アテナイが敗れた。第一次大戦中の犯罪統計を研究した犯罪学者たちによれば、戦争初期の感激期には一時犯罪が減るが、長引くにつれて犯罪が戦前を超えて増加していったという。それと同じようなことがアテナイで起った。トゥキュディデスの叙述によれば、開戦二年後の四二九年に流行した疫病が、信者・不信者、善人・悪人の区別なく生命を奪ったのを見たアテナイ人たちの間で、宗教や道徳に対する否定的雰囲気が広まった。政界におけるデマゴーグの横行は、知識人に政治的ニヒリズムの風潮を広めた。

 

ソクラテスとプラトン

このような状況の中で、ソクラテスは、外来の教師たちの伝授する知識の不健全性と政治教育体制の不整備を痛感した。彼は、広場(agora)におけるエリート青年たちとの対話によって、その是正ために努力した

彼は若き日、自然哲学者アナクサゴラスに師事したが、宇宙論より人間界の問題の方が切実だと考えて、その門を去った(アナクサゴラスが不敬罪で逮捕されたことがその契機だともいう)。彼はまたソフィストの一人プロディコスに師事し、概念の定義を通じて議論を整理する手法を学び、それをソフィストたちの言説の批判の武器とした。最大のソフィストであるプロタゴラスからは、真理と正義に関する相対主義的懐疑論を学んだが、その懐疑論を「無知の知」として定式化し、「知者」(sophistes)を自称する知識人たちの批判に用いた。広場におけるソクラテスの対話は名物となり、多くのファンを集めたが、ファンたちも雑多であった。概念分析という武器を通じて論者を「無知の知」に導くという彼の議論の破壊性が、確実な知識はないのだと考えるニヒリスト的言動と連動したとしても不思議ではない。

プラトンが生れたのは対スパルタ戦争開戦の二・三年後で、彼は戦時におけるアテナイの道徳的頽廃が進行する中で成長した。育ったのは母の家庭で、周囲は貴族的知識人の世界であった。少年時代から、母の従兄弟クリティアスや母の兄弟カルミデスに連れられて、ソクラテスの対話を見守ったのであろう。その周辺には家柄・雄弁・美貌において比類のないアルキビアデスもいた。この貴族層の青年たちは、戦争の進行とともに進行する伝統的秩序の崩壊過程の中で、復古と革新を混在させたような現状批判思想をもった。

彼らがソクラテスに惹かれた一つの動機は、ソクラテスのスパルタ贔屓である。喜劇作家アリストファネスは、ソクラテスの周辺の者たちを「スパルタきちがい」(elakonomanoun=Laconian mad)の集団と呼んでいる(『鳥』1281)。なぜアテナイの中産階級に属し、ペリクレス時代に青年時代を送ったソクラテスがスパルタに惹かれたのか、リベラルと称する日本知識層の共産圏贔屓を見慣れた我々にはそう不思議なことではない。中産階級の自己規律倫理と、軍事的規律国家スパルタ体制とを混同したのかもしれない。ソクラテスは、祖国を裏切るような仕方でスパルタに加担したことはないが、アルキビアデスは一時敵国スパルタに亡命した。クリティアスも対スパルタ主戦派の支配するアテナイから亡命していた。アテナイ敗戦後、クリティアスとカルミデスは、スパルタの軍事力を背景に。親スパルタ政権を樹立した。彼らの売国的行動が、ソクラテスに死刑に連なった。弟子のクセノフォンもスパルタと縁が深い。

プラトンは、親スパルタ的親族に取り巻かれて育ったが、もっと内在的にソクラテスの言説に注意を向けていた。彼の初期対話篇は、プラトンがソクラテスを通じて学んだ五世紀思想界の内在的な理解者であることを示している。しかし彼は、本心において、「無知の知」というソクラテスの結論に不満で、この無知の深淵からの突破口を求めて、三十代に至ってなお放浪した。そして遂に無知からの突破の鍵を発見し、「絶対知」の哲学者に転向した。旅行中の彼は、ピュタゴラス派末流の哲学者たちとめぐり会い、幾何学的真理の絶対性を教えられた。板や砂に描いた三角形には誤差があるが、それは「ほんものの三角形」の不完全ば「影」に過ぎず、「ほんものの三角形」の内角の和が二直角であることは、感性を超えた純粋理性によって絶対的に知り得る、というようなことである。理性のみによって知り得る「ほんものの三角形」がイデアの典型である。

プラトンは師ソクラテスの教育への関心を発展させ、故郷アテナイにエリート教育機関アカデメイアを設立した。門に「幾何学を知らざる者は入るべからず」と標示したというのは伝説に過ぎないらしいが、幾何学の教授から始めて、学生たちをイデアの絶対知へと高めようと試みた。窮極の到達点は善や正義や国家のイデアで、つまりは政治的エリート養成のための教育である。彼は理想国の構想を示し、その中で三階級に分けられた国民の教育体制をスケッチした。理想国はイデアを認識する哲学者(哲人王)の支配体制である。そこでは「敢て知れ」という啓蒙的知性は抑圧される。

このプラトン思想の根本的な問題は、幾何学(数学・論理学)のアプリオリ性・明証性・絶対性と同様な真理性が、他領域でも存在すると考えたところである。幾何学に触れた直後の作品『メノン』では、無知な奴隷の少年に初歩的な幾何学を教える場面が出てくる。正方形Aの各辺の中点を結んでできる正方形Bの面積は、Aの半分だということを、予備知識のない少年に理解させるのである。しかし幾何学以外にはそのような明証性は存在しないから、イデア論においては、まず明証性という属性は放棄され、幾何学的真理以外のイデアは、深遠な哲学者だけに認識できるもの、と神秘化される。

幾何学との類比が困難になったイデア論の正当化は、「普遍概念の先行性」という別のドグマによっても試みられる。これは人為の現象や生命現象に関しては、ある程度の合理性を認めることも可能かもしれない。例えばある設計図に基づいて作られた何万台かの自動車において、設計図がイデアで、個々の自動車はその経験界への反映・具現だとも言い得る。ある遺伝子をもった何百万匹の昆虫についても同様のことが言えるかもしれない。無機物についても、(「重水」「重水素」など)共通の化学的構成をもった物質は、共通の性格をもつ。この思想は、この思想はアリストテレスの「形相因」という思想、更に「神の世界計画」という思想と結びついて、中世宗教哲学と合流した。

デモクリトスとアリストテレス

古代哲学が生み出した諸々の体系のうち、後世への影響の最も大きいものは原子論であろう。この説はレウキッポスとデモクリトスという二人の思想家が唱えたとされるが、通常は著作が多く、視野も広いデモクリトスによって代表させられる。

原子論とは、宇宙はアトムと空虚から成り、アトムは物理法則の必然(ananke)に従って運動するとする宇宙論である。後世の言い方をすれば唯物論と決定論を結合した体系といえよう。それは、アトムだけが存在し、神々もイデアも、(死後残存すると信じられた)霊魂も存在しないとする唯物論であり、また過去のアトムの位置と運動方向と速度のみが現在・未来の宇宙のありようを決定するという決定論である。摩擦のない容器の中で複数のビリアードの球を弾けば、必然に従って球は動き続け、何億年後のある瞬間に、ある球がどの方向にどの速度で動いているかは、原理上予測できる。現在は完全に過去によって決定されているから、未来の目的を実現するために、その手段を選択するというようなことはあり得ない。

このデモクリトスの体系に強く反発したのはプラトンであったと言われる。彼は後世ヘーゲルが説いた「世界精神」のような「理性」(Nous)が宇宙を目的に向って導いていると考え、そのような思想に敵対するデモクリトスの著書を集めて焼却しようとしたが、「もう出回っていて手遅れだ」と言われて諦めた、とアリストクセノスという著作者が伝えている。もっともこのアリストクセノスはいかがわしい信用のおけない人物で、言うことも当てにならないとして無視する学者も少なくないが、そうとも限らないという議論もある。彼の父親はプラトンと同世代の知識人で、プラトンが死亡したのが彼の四十歳くらいの時期だから、その情報をひとえに無視する訳にもいかないだろう。

ともかくプラトンの弟子のアリストテレスは、デモクリトスの学説に強い関心をもち、反対の立場から徹底的に論じている。アリストテレスによると、この宇宙には「原因」(aitia)に四種類がある。例えば料理を作る場合を考えると、穀物・肉・野菜などが「質料因」(material cause)、コックの労働が「動力因」(efficient cause)、レシピが「形相因」(ideal cause)、おいしい食事を供給することが「目的因」(final cause)ということになる。この「原因」という言葉は、現在の用語法より広く、「条件」というような意味も含んでいるだろう。

現代人の常識から見ると、雨が降るとか風が吹くとかというような自然現象には「目的因」の観念を容れる余地はない。しかし花が咲くのは、昆虫を惹きつけて、雄蕊と雌蕊を受粉させ、子孫を残す「ため」で、生命の世界においては目的因の観念が入ってくる。時間表を作って列車を運行させる、というような形相因は、人間やそれに近い高等動物にしか考えられない。ところがアリストテレスは、天体の運動などを含む宇宙全体が目的因と形相因に支配されているとし、デモクリトスは目的因を無視している、と批判している。

中世思想においては、「神の世界計画」というような思想と結びついて、アリストテレス的宇宙観が圧倒的な優位を占めた。しかし近世において形勢は逆転する。ケプラーが、惑星の公転が楕円であることを発見し、惑星の運動、日食・月食などが厳密な物理法則に従って運動していることが明らかになる(それまでは公転軌道を「円」として計算したから、誤差が出て、近似的にしか予測できなかった)。ガリレオは天上界と地上界が別の法則に支配されてしるというアリストテレスの前提を論駁した。こうして地上の物体も同様に厳密な法則に従って運動していることが明らかになる。ニュートンがその法則を定式化する。ここに宇宙を形相因・目的因に従って説明したアリストテレス的宇宙観は根本的誤謬として排斥されることになる。デモクリトスの完全な復権である。

ヒュームとカント

ニュートン物理学の世界には、形相因や目的因は入り込む余地がない。しかし現実に生命は生存・繁殖という目的に適合するようにできており、人間は諸可能性を比較考量して決断し、計画という未来像に基づいて行動している。しかしニュートン物理学を理論的に反論することは、十九世紀末に至るまで不可能であった。従って二世紀以上に亘って、人類は自分たちの毎日していることを説明できない科学的世界観の支配下で生きてきたのである。マールブランシュとかライプニッツとか、物理学と人間生活を強引に整合させようと試みた哲学者もいないではないが、成功したとも思われない。例えば、将棋名人戦で、羽生は勝負に勝ちたいという目的因と「読み」という形相因に従って駒を動かす。その時神は、その「読み」とちょうど一致するように、物理的世界における質料因と動力因を駒の運動にセットする、というのがマールブランシュの説である。神は天地創造に当って、質料因・動力因の組み合わせによって可能なあらゆる世界を一望のもとに見渡し、その中の最善なものを選んで現実化したから、この宇宙は目的因にも適っている、というのがライプニッツの説だが。

他方ニュートンとはまるで異なったパラダイムの哲学も登場した。デカルトは一応疑う余地のあるものはすべて疑ってみようと試み、現在夢を見ているのではないか、心が悪魔に騙されているのではないか、と考えてみた。しかしそれでも、そのように疑っている「自分」が何らかの仕方で存在することは否定しようがない、と考えて、有名な「我思考す、故に我存在す」という命題を哲学の出発点に据えた。ジョン・ロックは、夢であれ悪魔の作り出した幻覚であれ、そういう意識が存在することも否定できないと考え、「我」と「意識」とは別々の仕方で存在していると考えた。しかし「意識」は確かに体験しているから疑いないが、「我」の方は本当に存在するのか、という疑問も生じてくる。こうして「疑いなく存在するものは意識だけだ」という経験論哲学が成立する。

この経験論哲学にとってニュートンの法則とは何か?経験は有限で、その知識は過去と現在に限られる。未来の出来事を含めて「すべての○○はこう運動する」というような命題を正当化することはできない。何百回ヘタが腐って林檎が落ちるのを見たところで、未来の林檎もそうなれば必ず落ちるとか、すべてのヘタの腐った林檎は下に落ちるとかという命題は成立しない。我々は一応そうなるだろうと予期するが、それは過去の経験に基づく「思考習慣」がそう思わせるに過ぎない、と。スコットランドの哲学者ヒュームはこう考えた。

ニュートン物理学が窮極的真理であると信じて疑わなかったドイツの哲学者カントは、このヒュームの説にショックを受けた。彼は「私はヒュームによって独断のまどろみから覚まされた」と言っている。しかし彼は「幾何学・数学・論理学、それに(彼が「純粋物理学」と呼ぶ)ニュートン物理学の基本法則が絶対的真理であることは疑いないから、その真理性の源泉はどこにあるのだろう」というふうに考えたと思われる。そこで彼は人間の思考を形式と内容に分け、内容は経験論者たちの言うように、経験に由来するから、「思考習慣」以上の必然性を与えないが、認識主体の側の「形式」が絶対的な真理性を与えるのだと考えた。

カントはプラトンによく似ている。プラトンは、「人間は万物の尺度である」というプロタゴラスの命題から徹底的な主観主義の帰結を導き出した。「ウィスキーはうまいか」「酒飲みの辛党にはうまい。下戸の甘党には苦いだけだ」。「北方領土はどの国の領土か」「ロシア人にとってはロシア領であり、日本人にとっては日本領である」。即ち、すべての命題は「誰にとってか?」という問いを抜きにしては論じられないのであり、誰にとってかによって真偽は異なるということである。プラトンはこの相対主義と苦闘し、幾何学の真理の絶対性を確信することにより、「無知の知」の懐疑者から「絶対知」の哲学者に転向した。カントも英国経験論の懐疑主義に衝撃を受けたが、思考の「形式」を経験論の混沌から救い出すことによって、理性の哲学者となった。カントをどのくらい宗教的な思想家と考えるか、解釈は分かれているが、彼の宗教的側面に重点を置いて解釈すれば、この「主観の形式」の絶対的真理性とは、神が人間の頭脳に与えた贈り物である。余り宗教的でない現代人にとっては、この真理性は進化が作り出した頭脳のコンピューターの演算能力に求めるかも知れない。

カントは感性の形式としての時間・空間、悟性の形式としての十二の範疇、実践理性の形式としての定言命法をもって、経験論者による認識の相対化に対抗した。ショーペンハウアーは、十二の範疇なるものはカントの図式癖の産物に過ぎず、その中で唯一世界認識の原理として有意味なのは「因果律」であると指摘した。

 

ニュートン物理学の動揺

十八世紀末から十九世紀前半に生きた人々は、ソクラテスのいう「無知の知」の自覚などは、本心からそう思ってはいない謙遜だと思っていたのではないか。ニュートン物理学はこの宇宙に関する絶対的な真理であり、個々的にはそれで説明のつかないこともあるが、それは枝葉末節のことで、遠からず解明されると考えていた。ユークリッド幾何学やアリストテレス論理学も、細部に亘っては改善の余地があり得るにせよ、根本においては不動の真理であるとされた。カント『純粋理性批判』の体系は、これらのものの絶対的真理性を、「主観の形式」として基礎づけ、それを更に神の存在や霊魂の永生にまで類推し得るかを論じたものである。

 ニュートン物理学の動揺は光に関する問題から始まった。光のドップラー効果の不存在を示して、ニュートン物理学の時間・空間観を粉砕したマイケルソン=モーリーの実験(一八八七年)について、文系読者に説明するなどということに、ここが適当な場所ではないであろう。ともあれ、光について、この実験がもたらした衝撃は致命的で、過去のあらゆる物理学理論によっては説明がつかないままで、二十世紀を迎えることになった。一九〇五年にアインシュタインという青年が登場して、ニュートン物理学の前提とする時間・空間観念を破壊することによって、物理学の新時代を創造した。

アインシュタインの「特殊相対性原理」(一九〇五年)によれば、宇宙のどこかに「原点」があって、そこを基準として位置や速度が測定されるのではなく、運動する物体のすべては、自分に原点をもっている。「一般相対性原理」(一九一五年)によれば、時間や空間はカントのいうような単なる物体の容れ物ではなく、巨大な質料の物体のそばでは歪むのである。一般相対性原理の世界はユークリッド幾何学でなく、リーマン幾何学の構造をもっている、ということも、ニュートン=カント的宇宙像の解体の現われである。また質料とエネルギーに互換性があり、原子核は巨大なエネルギーに転化し得る。ここかた核兵器や原子力発電などが可能となった。

他方物質は分子から成り、分子は原子から成り、原子は陽子と中性子から成る原子核ととそれをめぐる電子によって構成されている、という微小世界の認識の進展は、窮極的な微小単位である量子の研究において、大きな難題に直面した。量子はただ小さいだけではなく、古典物理学の図式でその運動を認識することが出来ないことが分かった。それを高性能の顕微鏡で観察しようとすると、観察のために光を当てるというようなことが、対象を変化させてしまって、「本来どういう運動をしているか」が分らなくなる。これは認識の不確定性原理と呼ばれるが、この不確定性が物理的世界観の決定論を揺るがすものかどうかについて、依然論争が続いているという。更に、この分子・原子・素粒子という微小物質で構成される質量は、全質量の五パーセントを占めるに過ぎないことが判明した。暗黒エネルギーと呼ばれるものが七五パーセント、暗黒物質と呼ばれるものが二〇パーセント、これらのものの正体はまだよく分っていない。この暗黒エネルギーが宇宙を加速度的に膨脹させている。

かつては宇宙は膨張も収縮しないものと考えられており、引力もある以上段々収縮していくのではないかと考えられてこともあった。しかし実際には遠くにある銀河ほど加速度的に遠ざかっていることが判明し、それから逆算すると、過去のある時期に宇宙の全物質は一箇所に集中していたということが唱えられた。いわゆる「ビッグバン」仮説で、一三七億年前にそれが大爆発を起こし、以後膨張を続けているという。そしてこの膨張の原動力が暗黒エネルギーなのである。

ビッグ・バン後粒子は自由に飛び歩いていたが、温度の低下とともに相互に邪魔をするようになり、その邪魔の発生が即ち質量の発生である。こうして生じた質量をもった粒子が非ッグズ粒子であり、仮説であったこの粒子が最近確認された。この粒子の中に生命の萌芽が含まれているのではないか。この粒子がデモクリトスのアトムのようなものではなく、目的因の可能性を秘めているとすれば、ここに近代物理学が放逐していた目的因の可能性が再生するのである。ある意味でアリストテレスの復権である。

II ケルゼンについて

  ところでこの歴史の中でのケルゼンの位置づけであるが、その哲学の基本性格は、カント哲学から神学的・形而上学的要素を除去したものといえよう。

カントの実践哲学に関しては、ケルゼンは「実践理性」の概念を、「神学的・宗教的起源のもの」で、自己矛盾であるとした(Reine Rechtslehre, 2nd ed., p.415)。そして、その実践理性の形式として普遍妥当的倫理と称しているものは、空虚な定式であるか、論理的には導き出されない規範を密輸入しているかの何れかであるという。密輸入された具体的規範をすべて排除すると、思考形式としての空虚な形式、即ち「当為」の観念のみが残る。

  初期のケルゼンは、この「当為」の観念を、それを否定する「自然主義的」倫理学に対して防衛しようとしたから、一見観念論の側の思想家のように見えたが、しかしその「当為」に内容を与えるものは、実定規範であるから、結局彼のメタ倫理学的立場は、多くの観念論的倫理学と対立する法実証主義・道徳実証主義ということになる。もっとも、彼の規範的実証主義は、実定規範体系の頂点である「根本規範」を仮説であるとすることによって、現状肯定的性格と訣別する。結局は、その仮説は「受け容れることも受け容れないこともできる」(may or may not be accepted)のであって(What Is Justice? p.263)、各人は自らの責任で、依拠する規範体系を選択する他ないという、一種の実存主義的倫理学を帰結することになる。

  カントの理論哲学に関しては、ケルゼンは、まず「悟性の形式」としての十二の範疇表の中から、因果律のみを経験科学の範疇として維持する。これはショーペンハウアーのカント批判を承継したもののように見えるが、実際にケルゼンが『意志と表象としての世界』以外のショーペンハウアーの著作を読んだ形跡も見られないから、自己流に捻出した理論の可能性もある。ケルゼンは、この因果律は、カントの言うような「生得観念」ではなく、紀元前五世紀のギリシャ哲学の中で定式化されたものであるとする。それ以前の人類精神史においては、応報律のみが人類のもつ範疇であったとした。

  更に彼は、「原因」(aitia)概念が、「罪」の概念を承継しているように、因果律は応報律の発想を転用したものであり、この起源が科学哲学上の因果律概念に独特の歪みをもたらしたと指摘する。因果律絶対性への信仰は応報の絶対性への信仰の非合理な承継であり、原因結果の等価性への信仰も、罪と罰の等価性への信仰の承継者であって、ヒューム以下の経験論者たちがその信仰を解体したと言う。ハイゼンベルクの不確定性原理は、ヒュームによる因果性概念解体の延長線上にある、と。原因−結果の客観的結びつきへの信仰が解体されると、因果律は認識主体の側の認識を導く要請(postulate)に過ぎないことになり、「原因と結果を一対一対応が成立するように実験を繰り返せ」という規範ということになる。神学的色彩を帯びたカントの範疇論は、認識の要請へと人間化された。カントは、ヒュームの懐疑による衝撃から、ヒュームを克服する範疇論を案出したが、ケルゼンはそれをヒュームすれすれのところまで引き戻したのである。

  ところで、私は長い間、ケルゼン(その背後には同じ考えの多くの科学哲学者がいる)の、因果律「要請」(postulate)説に(深い信念となっていたかは別として)追随してきたのだが、最近徐々に疑念を深めてきている。その一つは、人間の認識の原則・要請とは独立した宇宙そのものの法則性の問題はやはり存在するのではないか、ということである。ケルゼンはルイ・ドゥ・ブロイに言及しつつ、現在なお「厳格な因果律」を放棄しない人物としてアインシュタインの名を挙げている(『著作集VIp.278)。アインシュタインは、ニュートン物理学の時間・空間観、質量とエネルギーの関係などの前提を覆したが、因果律に関しては、ニュートンの後継者である。

  そして宇宙の法則性の中に、目的因の介在する余地が存在するのではないか、また因果法則の例外としての人間の「自由意志」という問題も、やはり存在するのではないか、というようなことも考えてみている。一言にして言えば、カントの「コペルニクス的転回」の再逆転である。

  なぜそう思うようになったのか。一つには「経験論の謙虚と傲慢」という主題である。人間は所詮自分の主観的意識の世界の外に出ることはできず、「物自体」を知ることができない「井の中の蛙」である。そのことの自覚から、蛙たちが「見たこともない外の世界については臆測以上のことは出来ないのだ」という謙虚な立場を守るとすれば、それは穏当な態度である。しかし臆測は認識と無知・誤謬の中間的存在であり、自分の臆測を認識であると標榜するのも傲慢であるが、他人の臆測を無知・誤謬と決めつけるのも時に傲慢となる。

   ヒュームが「我々井蛙的存在にとって、因果性は思考習慣以上のものと言う資格はないのだ」と言うのは謙虚だが、ヒューム的立場から、「この宇宙がニュートン的に決定されてはいない」と断定するのは井蛙の分際を越えた態度である。仮に宇宙が決定論的に出来ていても、単称命題から普遍命題を導き出す能力がなく、過去の経験から未来の必然性を導く能力をもたない人間はそれを確言する資格はない。しかし決定論的に出来ていることの可能性を否定する資格もない。

   『自伝』によればケルゼンはギュムナジウム時代「哲学・数学・物理学」を学ぶ希望をもった(p.11)。そのせいか自然科学の中でも生物学に対する関心が稀薄で、生命現象を支配する目的因への理論的関心が見られない。広義の「生の哲学」に対する無関心もこれと関わるであろう。しかしニュートン物理学の支配する時代にも、実証的な研究者は生命現象を固有の対象として観察・記述して来た。ヒューム流の経験論哲学からすれば、ニュートン物理学のような全称命題の体系は根拠をもたないのであるから、生命現象を物理的決定論の体系に適合しないから否定するという必要はない。積極的には論じてはいないが、因果律を主観の側の要請として捉えるケルゼンの体系の中に、生命を目的論的に捉える可能性が含まれていないとは言い切れない(人間の目的的行動については、因果律の原因を手段、結果を目的と再解釈することで対応している)。

  ケルゼンは、自由意志問題を因果律論の領域から放逐し、規範的思惟(彼の言う「帰報」(Zurechnung))の領域にもっぱら帰属させる。しかし因果律論の中にも自由意志問題は存在するのではないか。一歩譲って、人間の意志決定の因果的説明の要請を維持するとしても、物理的因果的説明には限界があるという認識は成立する可能性があるのではないか。ケルゼンも、人間行動の因果的説明に関して「心理学・民族学・歴史学・社会学」などによる説明をその例として挙げている(『著作集VIp.257)。古典的決定論は物理的決定論であるから、これらの人間学的説明が可能であるとしても、それらが物理的に決定されているかは、別の一つの問題である。

  こうして私は、物理学との関連における非決定・自由の可能性、物理的宇宙に内在する目的因や自由意志の潜在という可能性を素粒子論の領域で肯定する可能性に思いを致し、ケルゼンのカント的性格から離反しようとしているのである。