岸田秀『二十世紀を精神分析する』
人間はいろいろ「罪深い、不安な、恥ずかしい、あるいは屈辱的な経験」をする。「自分はこういう人間だ」という信念を「自己規定」とよぶとすれば、この「自己規定」とは、そのような経験を隠蔽する「偽りの自己の物語」である。例えば失恋や昇進の遅れなどの体験について、我々がどう自分に言い聞かせているか、胸の中を覗いて見るならば、自分を深く傷つけるような説明を避け、なんとか自尊心と両立するような解釈をしていることに気づくであろう。
「失敗は失敗のもと」だ。なぜなら、失敗の真の原因は、人格構造と深くからんでおり、それを見つければ、自尊心を深く傷つけることにならざるを得ない。そこで偽りの物語を作って傷を避ける。そのような自己規定によって後の行動をとれば、さらなる失敗を繰り返すことは必然であろう。その適例が旧日本軍で、ノモンハン、ミッドウェイ等々、意地になって失敗を繰り返した。
このような、意識的自己規定の下に、意識下の「内的自己」が潜んでいて、時に応じて表面化する。ある男に対して愛憎の葛藤の中にある女が、ある時男に憎しみをぶっつけ、徹底的に叩きのめされた。そこで彼女は喧嘩したことを悔い、卑屈に彼に従うようになったが、抑圧された彼への憎悪が、妻が夫を殺した記事が眼についたり、彼が死んだ夢を見たり、彼にサービスしようとすると「不注意で」つい怪我をする、というような形で現れる。
こうしたことは、個人だけでなく、民族でも起こる。ヨーロッパ人は外来のキリスト教によってアイデンティティーを根こそぎにされたが、あたかもそれを自ら進んで採択したかのように歴史を歪曲し、隠蔽した。このことによる内面的な弱さが、本能のマグマを噴出させ、資本主義というブレーキなき文化を創造させた。米国人は、先住民の虐殺という現在を覆い隠す建国神話を奉じている。
日本は「男に侮辱され、侮辱を侮辱と思わず、かえってその男に惚れ、募ってついていく女」のようなものである。古代日本国家は、唐帝国の外圧によって成立したが、天孫降臨神話などでそれを隠蔽した。近代日本はペリーによる「強姦」から始まった。外圧によって成立した日本は、外圧を外圧と思わず、文明開化の神話を信じて、西洋に慕ってついていく。しかし内的自己は消滅するはずもなく、「鬼畜米英」との戦争、六十年安保、三島の割腹、オウム事件などの仕方で時々暴発する。
日本における外的自己の体現者は、西洋と自己を同一化し、土着的なものを攻撃する知識層である。内在的必然性はなく、外圧によって導入された近代法体系を後ろ楯として、日本の後進性を攻撃する法律家たちもその一種であろう。こうして世界を「医者のいない巨大な精神病院」ととらえる著者の「史的唯幻論」は、日本の法律家層を、日本の精神病理の一端の担い手として析出させるのである。(『法学セミナー』1997年2月号)