Max Pinnは一人か二人か?

ナチ政権成立からほどなく、ドイツ文化を「汚染した」として攻撃されたユダヤ人たちが、残された余力を結集して、ドイツ文化に対するユダヤ人の貢献を総括したのが、1000頁を超えるJuden im deutschen Kulturbereich(1934)で、文学・美術から哲学・歴史学、自然科学・社会科学からチェスやスポーツまで、48項目に亘ってその業績を回顧している。

その中で「法学」を担当しているのがMax Pinnという人物で、恐らく若い研究者だと思うが、ドイツ図書目録の中に著書もなく、どういう人物か不明である。

他方1942年12月2日、Palestineでアラブ人に襲撃されて死亡したMax Pinnという人物がいる。彼はPalestineにユダヤ人国家を建設する運動団体Jewish Agencyの活動家で、Paltreu(Palästina-Treuhandstelle=パレスチナ信託)という、Palestineにユダヤ人の財産を輸送する事業の責任者であった。

この両者は同一人物か。『ケルゼン研究III』でPinnの文章に言及したところから、巻末人名索引にPinnの名が登場し、その生卒年を調べざるを得なくなっている。両者が同一人物なら、少なくとも1942年という没年は知られる。随分やっていることは違うが、法理論研究を志した青年が、それどころでなくなってZionismの活動に身を投じたという可能性はないではない。

Walter Grünfeldという人物の回想録(website) Rückblickeの中に(後者の方の)Max Pinnが出てくる。熱烈なZionistだが、Palestineに行ってもなお法学の勉学を続けていた、彼は建国を見ずに殺された、と。やはり同一人物か。  

Max Pinn、当時の米国の新聞記事で、Palestineで死亡の時36歳と判明。母はBrooklynに住んでいた。1934年には28歳。27歳で「ドイツ語圏のユダヤ人法学者」書けないことはないか?いくら早熟でも、広範な領域の数十人の法学者の業績紹介は、執筆を委ねられないか?しかし緊急時で人材不足、先輩たちが協力して書いたか?

物書きのMax PinnとPaltreuのMax Pinnが同一人物かどうか、Juden im deutschen Kulturbereich(1934)の他の執筆者たちがどんな人たちかを調べると、見当がつくのではないか。27歳の彼に広大な領域である法学全般の概観の執筆を委ねられたかどうか。最初の方から執筆者を調べていくと、「文学」のArthur Eloesser(1893-1938)、「美術」のMax Osborn(1870-1946)、「美術品収集家」Karl Schwarz(1885-1962)、「出版業」Siegmund Kaznelson (1893-1959)、「作曲家」Oswald Jonas(1897-1978)、「演奏家」Rudolf Kastner(1906-1957)、「演劇」Fritz Engel(1867-1935)、「映画」Rudolf Arnheim(1904-2007)、「哲学」Harald Landry(1898-1936)、「心理学」Franziska Baumgarten (1889-1970)、「教育学」Hilde Ottenheimer(1896-1942)、「言語学」Leonore Goldschmidt(1897-1983)と、まだ半分も検討していないが、概して30歳以上であるが、20代もいる。。1933年に執筆したとして、20代は「演奏家」のKastnerと「映画」のArnheim。「法学」のような古典的領域を27歳に書かせるだろうか。しかしまた、他の領域の執筆者は、調べれば経歴が判明する重要人物ばかりなのに、Pinnだけは、法学世界のどこにも名が出てこない。ひょっとして編集者のKaznelsonをよほど感心させることがあって、若き秀才に大項目の執筆を委ねたが、執筆後すぐ実践活動に移ったのか。

「演奏家」を書いたRudolf Kastnerの伝記を調べていたら、彼は後にHungaryユダヤ人の救済のためナチと交渉し、特別列車を仕立てて相当数のユダヤ人を国外脱出させたが、戦後Israelで「Naziと結託して、少数者の偽善的救済と引き換えに大量の犠牲者を出した」と告発され、一審は有罪、上訴審で無罪となった時は1950年代後半。そして無罪判決に怒ったユダヤ人に暗殺された、とある。