松本清張『象徴の設計』

  「清張さんの10分の1も業績があれば、大学教師として一人前でしょうねえ」とは、政治学者K氏の言葉である。私は20分の1で充分じゃないかと思った。

  仮にその20分の1の同僚たちが、新聞社の広告図版係の清張さんと接したとして、その学識を評価しただろうか。「否」。きっと腹の底で「いかもの」だと思いながら、何とかかとか理屈をつけて排斥したに相違ない。

  そういうお前はどうかって?私はそうでないと信じたい。なぜなら、私はそういう同僚たちから「いかもの喰い」といつも軽蔑されているからである。

  清張さんの古代史研究は、故江上波夫先生などが絶讃したところで、『魏志倭人伝』の「特置一大率」の「率」は、女王国の代官ではなく、帯方郡が置いた軍政官だとした着眼だけでも、革命的な問題提起であるらしい。こういう業績が随所に存在する。

  私は最近古書店で『象徴の設計』(文春文庫)という本に出会い、早速読んだ。明治10年代は清張さんの数多いレパートリーの一つで、初期の『西郷札』『くるま宿』など以来多くの作品がある。12年に発覚した藤田組贋札事件が、長州閥の巨頭井上馨の犯行であることを示唆する『不運な名前』は、日本貨幣史という観点からも必読文献である。

  『象徴の設計』は、明治憲法準備期の明治10年代を、山縣有朋を中心に描いたもの。体質的な人間不信者・人民不信者である山縣は、軍の政治化による叛乱という、諸国の革命の先例に深く留意し、軍を国民から切断された特殊な世界として構成しようとした。

  明けっぴろげで、自分は誰にも愛されると信じて疑わなかった伊藤と異なり、山縣は、自分が外部者に愛されないことを自覚し、「自分の空間」の防衛という基本姿勢をもって生涯を送った。椿山荘という庭を愛する精神と陸軍防衛の精神は、共通の根源に発する。

  本書は、近衛砲隊の叛乱(竹橋事件)への衝撃から、軍を天皇の直属とする「軍人勅諭」発布、民権運動弾圧の政治警察組織創造に至る過程を山縣を中心として描いている。統帥権独立によって保障された日本陸軍の閉鎖性を、山縣の自閉的精神と関連づけたのは、独創的視角である。

  1962-63年に雑誌に連載された本書は、戦後世代に理解困難な原資料の引用に満ち、文庫本は既に絶版になっているが、『松本清張全集』(17巻)(文芸春秋社)に収録されている。憲法体制論などに関心をもつ者の必読書で、私もこれまで気づかなかったことは恥ずかしい。

  鬼の首をとった喜びを付け加えると、本書に一つ間違いを見つけた。本書では明治20年4月20日、伊藤首相主催の仮面舞踏会に、山縣は反感をもって出席しなかったとされているが、『世外井上公伝』によると、彼は幕末における奇兵隊隊長のいでたちで、筒袖に韮山笠、両刀をたばさみ、白木綿に「長藩萩原鹿之助源有朋」(幕末に彼はこう名乗った)と書いて登場したのである。(『法学セミナー』1997年7月号)