万葉表記

   「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見む」(2:141)、死刑が待っている紀の行宮に向かう途上の有馬皇子の歌であるが、詠んで旅中自分で書きとめたか、従者に書きとめさせたか、従者が記憶しておいて後に百済人専門家などに書きとめて貰ったか、覚えておいて目的地で作者か、他の誰かが書きとめたか。この歌は「磐白」、これに附して後に詠んだ長忌寸麿の歌(143・144)は「磐代」となっており、長忌寸麿の歌(143)は「かも」が「鴨」と記されているのに対し、関連の「人麿歌集」の(146)は歌は「香聞」と記されている。筆記者の流儀を丁寧に比較すれば、上記の疑問の手掛かりとなるかもしれない。まず「人麿歌集」の流儀の特徴を把握するところから始めるべきか。何れにせよ、141-146が不統一であることは、最終段階では諸歌集からの引き写しが行なわれただけで、表記の統一は行なわれなかったことがわかる。▼まず人麻呂の表記の流儀を調べ、全体が一貫しているのならば本人が書いた可能性が強く、幾つかの類型に分かれるならば、何人かの筆記者が時期等に応じて筆記したことになり、ばらばらならば様々な時期・機会に表記されたことになる。その上で「人麿歌集」を調べて両者の関係を考える、というのが合理的approachであろう。こうしたことを作家ごとにやっていけば、A,B,C,Dと筆記者群が個性をもって分類され、「Aは百済人らしい」とかの推測も可能となる。誰かが既にやっていると思うが、何を見ればわかるか?(5/14/2011)

 

    倭建命と火焚老人との対話、「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」「かがなべて夜には九夜日には十日を」は「歌った」と書かれている。昔の人たちはオペラのように、歌いながら対話をしたものかどうか。能狂言や歌舞伎のような科白が日常生活でも語られていたのか。イザナミ・イザナギの「アナニヤシエヲトコヲ」「アナニヤシエヲトメヲ」は儀式上の科白であろうが、こうした歌のような詩のような科白が日常会話の中に入りこんでいたのか。万葉の相聞歌はserenadeのように女性の住まいの前で歌われたのか、中から女性が歌って答えたのか。挽歌は葬儀で歌われたのか。相聞歌は書きつけて車から従者に届けさせたというが、それは文字文化がかなり進捗してからであろう。「歌垣」では文字通り「歌」が交わされたであろう。N氏によると、作者に歌われてから万葉に載るまでの過程は余り分かっていないという。「朝廷に百済人の係がいて、いい歌ができるとそこに行って歌って見せ、書きつけてもらう」という私の想像もまんざら不可能ではないようだ。4500首となれば編集も大変な事務量で、「百済人の万葉文字化ギルドのようなものがあって、日本語や歌にも詳しい親方が全体を取り仕切っており、『親方、これは何と書きましょうね』『それは○○と書け』というような遣り取りの中で仕事が進められた」という私の想像も、まああり得ないでもないというような感じであった。万葉では厳密に守られている八母音・母音調和が平安遷都とともに消えてなくなったのも、こういう作業過程と関係があるのではないか、ギルドが廃止された、とか(5/12/2011)。

  

    「磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらば亦かへり見む」(2:141)、死刑が待っている紀の行宮に向かう途上の有馬皇子の歌であるが、詠んで旅中自分で書きとめたか、従者に書きとめさせたか、従者が記憶しておいて後に百済人専門家などに書きとめて貰ったか、覚えておいて目的地で作者か、他の誰かが書きとめたか。この歌は「磐白」、これに附して後に詠んだ長忌寸麿の歌(143・144)は「磐代」となっており、長忌寸麿の歌(143)は「かも」が「鴨」と記されているのに対し、関連の「人麿歌集」の(146)は歌は「香聞」と記されている。筆記者の流儀を丁寧に比較すれば、上記の疑問の手掛かりとなるかもしれない。まず「人麿歌集」の流儀の特徴を把握するところから始めるべきか。何れにせよ、141-146が不統一であることは、最終段階では諸歌集からの引き写しが行なわれただけで、表記の統一は行なわれなかったことがわかる。▼まず人麻呂の表記の流儀を調べ、全体が一貫しているのならば本人が書いた可能性が強く、幾つかの類型に分かれるならば、何人かの筆記者が時期等に応じて筆記したことになり、ばらばらならば様々な時期・機会に表記されたことになる。その上で「人麿歌集」を調べて両者の関係を考える、というのが合理的approachであろう。こうしたことを作家ごとにやっていけば、A,B,C,Dと筆記者群が個性をもって分類され、「Aは百済人らしい」とかの推測も可能となる。誰かが既にやっていると思うが、何を見ればわかるか?(5/14/2011)

 

   万葉194・195の挽歌は人麻呂が泊瀬部皇女に献上した歌で、195は「敷妙の袖交し君玉垂のをち野に過ぎぬ亦も逢はめやも」と、彼女が死したる夫川島皇子を偲んだ歌の代作、女性の立場での歌である。これもghostwritingであろう。色々な場面で歌を詠み、吟唱する必要があったから、特に高身分の人々は、このように著名な歌人に代作を依頼したのである。別に恥ずかしいことではないから、人麻呂の作品として万葉に載っている。▼万葉3589以下に、新羅に派遣される使節たちが歌った「古歌」が収録されている。例えば彼らは「天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」(3608)と歌ったが、これは人麻呂の「天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」(255)の翻案である。優れた歌は、流行歌のように合唱されたりしたらしい。野口氏の話だと「熟田津に船乗りせむと月待てば」(8)も、額田王による斉明天皇のghostwritingだという説があるそうだ(5/16/2011)

 

   藤原不比等の歌が万葉にないが、彼の漢詩が『懐風藻』にあること。「歌心」はあったが、万葉編集陣と対立関係にあったか、歌心に欠け、『懐風藻』の作品も皆誰かの代作か。もう少し勉強。▼山上憶良が粟田氏従属の百済系渡来人だという説。斎藤茂吉『万葉秀歌』の中で、そのことがかなり明確に示唆されている。「いかにもごつごつとして」「日本語の古来の声調に熟し」ておらず(pp.144-5)、「伝統的な日本語の響きに真に合体し得なかった」(p.178)、と(5/18/2011)。

 

   『万葉秀歌』上巻読み終える。読み直すと昔気付かなかったことに色々気付く。大伴旅人の歌「わが盛りまたおちめやもほとほとに奈良の京を見ずかなりなむ」(331)は、60代で太宰帥に任ぜられ、赴任するときの歌か。「おち」の原文が「変若」で、「若返ることもないだろう」という趣旨。万葉仮名、自分で書いたか?紀皇女の「軽の池の浦回(うらみ)行きめぐる鴨すらに玉藻のうへに独り宿(ね)なくに」(390)について、土屋文明先生は、恋人の高安王が伊豫に左遷された時の歌と想像しておられるとか。良寛の、「月読の光を待ちて帰りませ山路は栗のいがの多きに」が『万葉』の「夕闇は路たづたづし月待ちて行かせ吾背子その間にも見む」(709)の影響下のものであること(アララギでは良寛の評価は非常に高い)。旅人の「世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり」(793)の「知る」とは、仏典で知っていたものを実地に実感した意味であること。憶良の「悔しかも斯く知らませばあをによし国内(くぬち)ことごと見せましものを」(797)は妻を失った旅人の心持になって詠ったもの。茂吉は、(憶良が子を失った悲しみを痛切に詠ったその子)古日は憶良の子かどうか分からず、「恐らく他人の子だろう」という(p.188)。ghostwriterとしての憶良か?「マヒ」は「神に奉るものも、人に贈るものも、悪い意味の貨賂も」意味した(p.189)。賄賂と贈与の区別という法的問題にも連なる。旅人が太宰府から任終って都に戻るとき、彼が愛した「児島」という遊行女婦(うかれめ)が「凡(おほ)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振りたき袖を忍(しぬ)びてあるかも」(965)などの歌を贈ったが、「遊行女婦というものを軽蔑せず、真面目にその作歌を受取り、大家と共に並べ載せている」ことを「心にくいばかりの態度」と賞讃している(p.201)。「ふだんならばあれもこれもして上げたいのに、偉い方々が大勢いらっしゃるから、振りたい袖も我慢していました」と。永遠(とわ)の別れにいじらしい。彼女は高官たちと親しく、皆からも愛されており、旅人が出発した後残った高官たちに歌を見せ、高官の誰かが旅人に送ったのだろう。家持も父の愛した女性の歌に感銘を受けたのだろう(5/20/2011)。

 

   高校2・3年の頃、相当の時間とエネルギーをかけて、「『星離去』考」という文書を書いた。持統天皇の歌「北山にたなびく雲の青雲の星離(さか)りゆき月も離りて」(161)という歌に関するものである。何を目標に書いたのか忘れてしまった。生徒の作品集を編集しておられる中野先生という方(まったく授業と関係のない、知らない先生だったが)が、その最初の何分の一かを文集に載せて下さって、今も残っている。その後の部分は無くしてしまった。先生の評言に「よく考証している」というような言葉があったと思うが、私の言いたいことを理解して下さった訳ではないようだった。この歌には「青雲の」までは序辞で、「月毛」は「日毛(ひも)」の誤記で、要するに夫が死んでから月日が経ったというだけのものだ(空を仰いで詠んだものではない)という解釈も有力であったが、私は「夫を失った作者が、空を見上げているうちに、ふーっと精神錯乱を起こし、星やら月やらが遠ざかっていく幻覚を見た」と解釈したのであった。私は子供の頃から朝礼の時しょっちゅう立ち昏みを起こしたから、実感でもあった。同じ頃の作品に、「燃ゆる火も取りて裹(つつ)みて袋には入ると言はずやも知ると言はなくも」(160)とも読まれる歌があり(真淵の訓読)、火で奇術を行なう修験者か何かの話に関連して、そういう奇蹟があるのならば、夫も生き返ってこないものか、という奇蹟待望を述べたものである。ここにも一種の異常心理が見られる。この短歌二首の後に、夫の天武天皇の死後、「齋會(さいゑ)の夜夢のうちに習ひ賜ふ」長歌が載っている。「明日香の 清御原宮に 天の下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡きし波に 潮気のみ 香れる国に 味(うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子」(262)というもので、意味が未完結で、「香れる国に」の後に脱落があると言われている。しかしこれも私に言わせると、亡き夫恋しさの精神錯乱のもたらした、脈絡を無視した詠嘆のうわごとではないかということになる。女帝には巫女的性格があった可能性もあり、「夢」とは恍惚状態かも知れない。『書紀』の「深沈有大度」「母有儀徳」という形容に一致しないようだが、不幸に際会して一時精神錯乱を起こした可能性がないとはいえない。ところで最近古書店で見かけて買ってきた『国文学』(2004年7月号)に、千田稔氏が、「北山」の歌について、原典が「向南山」で、「向」は唐代の口語では「在」を意味するから、「北山」ではなくて「南山」ではないか、という説を唱えておられる(p.7)。確かに、奈良盆地の南の浄御原宮殿では、山は南側にある方が自然である。ただ字余りは多少感慨を損なうが・・・。「みなやま」と読めるか?「北山」の方が寒々とした情緒があって、棄て難いが(5/25/2011)。