村上一博『明治離婚裁判史論』

   夫は「勝手につき」離別する、以後再婚差支えなし」という趣旨を三行半にしたため、妻に渡せば離婚できたが、妻からの離婚は鎌倉東慶寺などの「駆け込み寺」に逃げ込まない限りできない、無筆の夫は紙に三本半棒を引くだけで間に合わせることもある――江戸離婚法がこのような「夫専権離婚制」であったという「通説」は、近年高木侃氏の『三くだり半――江戸の離婚と女性たち』(平凡社現代選書)や『三くだり半と縁切寺』(講談社現代新書)などによって挑戦を受けている。実際「昔から女は強かった」という議論がどの程度正しいかは別としても、当時の婚姻が「家」と「家」との関係で、婚姻圏が狭かったことを考えれば、離婚もまた「家」の間の関係だったはずで、夫の側が絶対権をもつ制度であったとは信じ難いところである。

   戦後改革前の民法第四・五篇は、祖先から子孫に連なる眼に見えない線としての「家」の存続という目的に、生きた人間を従属させる制度であったが、こういう制度が、現在の地位が遠い祖先の軍功に由来する武士以外の民衆の間で、本当に慣習法であったのか、従来から疑問の対象となっていた。

   このような問題を学問的に考察する手がかりとして、様々な資料群が存在するが、旧家族法制定前の明治期判例は、重要な資料である。なぜなら、一つには、「条理」への言及によって有名な明治8年太政官布告に「民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ慣習ニ依」るべきことが定められており、成分法成立以前には原則として慣習によって裁判が行なわれたからである。

   このような判例はどこに行ったら見られるか、それは、毛筆書き、ガリ版刷りなどの形で、各地の裁判所倉庫に眠っていたりして、「足を使って」知らば歩かなければならない。その労をとって、福島の裁判所記録を渉猟した森泉章氏、熊本の裁判所でそれをした山中至氏などの先行業績を承継しつつ、京都・大阪・高知・大分などの裁判記録を蒐集し、研究したものが本書である。

   内容は、興味深い発見にみちている。離婚訴訟の当事者が、妻の父・兄、後には彼らと妻の共同原告・被告であることが多いが、これは婚姻の「家」的性格を反映したものであろう。江戸時代の庶民の間で、「駆け込み寺」を経過せず、妻の側から離婚を要求する制度が、慣習法上存在したことには、18世紀半ばの資料も存在し、明治初年の『民事慣例類集』などでも明言されている。判例にも、夫が受刑中の場合、妾や先妻を家に連れ込んだ場合、暴行などの虐待などの場合につき、妻の離婚請求を認めた事例がある。「今日ニ至リテハ、到底夫婦永続ノ目途ナキモノ」などという破綻主義的な判決も少なくない、など。原判例が各章章末に掲載されていて、当時の家族関係や裁判官の意識のありようが生々しく伝わり、また著者の文章が明晰で、学術書としてばかりでなく、読み物としても興味深く読むことができる。(『法学セミナー』1995年3月号)