アドルフ・メンツェル『自然法論と社会学』(1912年)[未完] çßèéäâàüöêÉÀÁÂÈÊÌÍÎÒÔÕÖÙÚÛÜ
第一章 自然法論と社会契約説
人間社会に関する学問は、歴史的発展の過程で様々な形態をとってきた。古代における人間社会の考察はその大部分が倫理学の一部であった。人間相互間の関係、特に人間と最高の社会集団である国家との関係は、倫理学的観点から考察された(1)。中世において主流を占めたのは宗教的観点で、国家論や社会理論はキリスト教神学の一部をなしていた(2)。十六世紀以降この領域を支配したのは、自然法と言う名のもとでの法学で、それがその後三世紀に亘って文明諸民族の社会科学的思考を支配した。そこでは社会的諸現象、特に国家を法論理によって解明し評価する試みが繰り返された。もっともこの時代にも、自然法論に反対し、社会事象を事実に即して、あるいは歴史的に理解しようとする諸潮流も散発的には存在したが(第三章参照)、それが本格的に支配力をもったのは十九世紀に至ってからであった。十九世紀初頭以来、「自然法論は現実の客観的認識ではなく、根拠なき擬制であり、学問的外見をとった政治的議論に過ぎない」という思想がいよいよ有力になった(3)。
もっとも近年、自然法論へのこのような否定的な観方は、多少緩和された。自然法論が果たした国家や法の領域における改革的貢献などの、文化的功績が評価されたからである。しかし方法的正当性という点からは、現在でもかつてと同様、自然法論は非科学的なものだとして否定されている。歴史学派、そして十九世紀中葉以降「社会学」の名で登場した新たな社会理論は、主観の介入、特に政治的志向を排した社会理論の基礎づけを試みている。ところが、時の経過とともに、そこには多少とも自己欺瞞が介在しており、この新たな方法も、社会科学を客観的基礎の上に樹立することに、余り成功しなかったことが判明した。ここでは歴史学派については立ち入らないことにするが、その立場は、周知のように(4)、しばしば詳細な批判の対象になり(5)、例えば、「国家や法の歴史的把握と称されるものも、理論構成の恣意性を免れていない」などと指摘されてきた(6)。それに対し、新たな社会科学として称揚されてきた社会学について、その成果が本当に自然法論の学問的次元を大きく超えたものかどうかを検討することは、喫緊の課題ではあるまいか。寡聞にして私はそういう試みの例を知らない。その理由は、法学が自然法論の体系化を詳細に展開した学問分野であり、その理論家たちは、社会学からの批判に対して受け身の態度をとらざるを得なかったからではあるまいか。
以下で「自然法論」という言葉が用いられる場合には、それはもっぱら歴史的意味、即ち十六世紀から十九世紀初頭にかけて、法学的方法を用いて、人間社会の解明と批判に従事した国家理論・社会理論を意味する(7)。この潮流の全体を共通に特色づけるものは、実際この形式的要素である。それに対し、自然法論がもたらした実際上の成果は重要視されない。即ち個人主義とか、人権とか、人民主権とか、通常自然法論の特徴として挙げられているものは、自然法論の必然的帰結でもなければ、すべての自然法論者たちに共通のものでもない。
この潮流に属する人々が、特定の政治的・社会的理論を基礎づけるために(無意識的にせよ)用いた理論構成として最も顕著なものは、社会契約論であり、それが国家結合の歴史的基礎、そうでなくても少なくとも合理的基礎を賦与するものとされた。この法的理論構成方法を純粋に技術的観点から観るならば、社会契約説という道具立ては秀逸なものであった。自然法論者たちは、多様極まる政治理論の正当化にこの法学的理論構成を用いたが、それは何と鋭い着眼だろう。社会契約説発展史の諸文献がしばしば示しているように(8)、新たな論客が登場して、この道具を新たな目的に転用して見せた。この理論は、社会契約を二段階に分けたり三段階に分けたり、契約当事者を変更したり、原始契約の内容と称される諸条項を新たに考案したりすることにより、国民の国家との関係や、国家権力の所在や、その他重要な政治的問題の法論理による解決のための格好の手段となったのである。
グロティウス、アルトゥジウス、ロック、ホッブズ、プーフェンドルフ、ルソーなどの主要な代表者たちの業績は公知のことであるが、それ以外にも興味深い論者たちがいる。社会契約に神を持ち出して、特定の政治理論を基礎づけようとした者もおり、こうして敵対的だと考えられてきた神学的方法と自然法的方法が独特な仕方で融合する。また「原始契約の内容は神が万世に亘って確定したが、契約当事者だけが歴史的に変遷するのだ」という説や、「原始契約の当事者は神・支配者・国民の三者で、神が担保権者、他の二者が共同担保債務者である」という説も登場した。昔々の契約を記録した聖書とローマ法大全の諸条項とを結合して、独特の神権制的社会契約論を基礎づける者もある(9)。
余り知られていないことだが、社会契約論は、身分制社会、特に貴族や有産者の特権を法哲学的に基礎づけるために、保守主義者たちによって利用されてきた。そういう一人に、『郷土愛の夢』の著者として有名なユストゥス・メーザーがいる。彼は三つの論文(10)の中で、上述したような特権を擁護するために、自然法思想を利用したのである。彼によれば、契約は二段階に分かれる。第一契約は最初に土地を占拠・支配した原始土地所有者たちの間で締結され、彼らは自分たちの間で土地を分割し、外的と自然災害に対する保護同盟(堤防同盟(Deichbund))を締結する。賃借人や商工民として後に来た人々は、居住を許されるが、原始契約には参加せず、地主と彼らとの間で第二契約が締結される。その内容は、地主の特権の維持と外来者の法的保護、特に経済活動の保護である。すべての住民は一国家を形成するが、この差別は維持されている。憲法改正は単純多数決にはよらず、土地所有権を奪う改正は不可能である。世襲貴族は原始契約締結者の承継者であり、こうしてその特権的地位は正当化されている(11)。
逆に社会契約思想によって社会主義的・無政府主義的議論の基礎づけが試みられることもある。むしろ初期の社会主義や共産主義はもっぱら自然法論の路線上で展開されたと言っても言い過ぎではない(12)。その一例としてまず挙げられるのは、フランス革命で重要な役割を演じたバブーフの議論である。彼によれば、「人々が現在のような悲惨な状況を基礎づけるために社会契約に同意したなどということはあり得ず、大多数の民衆が労働に苦しみ、衣食に事欠いているのに、一握りの特権階級が怠惰で富に耽る状態を欲するはずがない。原始契約の目的は万人の幸福でなければならず、この幸福追求権は時効にかからないものである。自然は万人に万物を平等に享受する権利を与え、万人に労働義務を課した。現在人類が陥っている不条理な状態をもたらしたものは暴力と抑圧である。社会契約をそのまま実践すれば、経済における絶対的平等と万人の生存の保障が実現される」のである(13)。
カベーもその共産主義的提言を同様な仕方で基礎づけている(14)。彼によれば、「人々は、その共通利益の保護のために、合意に到達したが、最も重要な共通利益は自由平等という自然権の保護である。私有財産権は無産者の搾取をもたらすもので、自然法に反し、社会契約を実現するためには私有財産制を廃止しなければならない」。懐疑論的体質の持ち主プルードンでさえも、社会契約思想を利用することを避けなかった。確かに彼は、ルソーの議論を、「人間関係において最も重要な経済に関する論述をなしていない、あたかも商取引において、商品や価格のことを抜きにして、裁判管轄と違約金についてのみ協定しているようなものだ」と批判している(14)。彼によれば、真にあるべき社会契約は、人々は自分の持つ全利益と労働を、いわば会社設立の時の出資財産のように持ち寄り、その全額の対価が保証されるものでなければならない(15)。このようなことは、小結社においてしかあり得ない。その場合にのみ、契約の各条項が完全に自由な議論の対象となり得るからである (15)。この小結社がやがて上位の団体へと結合する。連合主義(fédéralisme)こそ未来の制度である、という。
第二章 フィヒテの国家論(1)
社会契約説の操作可能性を典型的にしめすのが、フィヒテの国家論である。彼の国家論は変転極まりなく、五段階に分けて考えられる(2)。彼の政治論は極端な個人主義と公然たる国家社会主義の間で変遷した。彼の志向も時には世界市民的となり、時には強固な民族主義となった。ある時は平等主義を奉じて民主主義者となり、他の時は精神的貴族性の優位を熱烈に唱道した。そして彼の国家目的論も、大きく変化した。最初は国家目的は法目的の限界内に留まるべきだと主張し、やがては国家の経済的任務を重視したが、最後には人間の道徳教育を国家の主要任務であると説いた。
このように変転極まりない彼の国家論ではあるが、終始彼は社会契約思想を固守した。彼は社会契約にその時々の目的に適合したような定式を与えることによって、達成しようとする政治目的を演繹的に基礎づけたのである。彼は社会契約説という素晴らしい道具を操作する巨匠であった。それ故フィヒテの自然法論こそ、社会契約説の操作可能性を端的に示す適例である。それ故以下で、我らの哲学者の国家の本質・任務に関する論証の幾つかを紹介することも、有意義であろうと思う。
一七九三年、彼は「フランス革命についての世論の判断を是正するために」と題する論説を発表し、革命を熱烈に擁護した。彼によればルソーの社会契約論はその定式化において不充分である(因みに彼はルソーを歴史的批判に対して強く擁護している(3))。彼は自由の観念を金科玉条とし、「他者の意志によって法則を課される者は、自らの人間性を放棄し、獣となる者である」という。それ故、社会契約を不可変のものとする条項は、人間精神に背反するゆえに無効である。国民はいつでもその憲法を変更することができる(このことはルソーが既に主張している)ばかりでなく、各個人も、社会契約が自分に不利益をもたらしていると気付いた時は、契約を解約することができ、また自分の宗教的信念が国法と両立しなくなれば、国民は国家を脱退することができる(4)。他方国家もまた同様の権利、即ち一国民が国家に有害な信念を抱いていると考えた時などには、その国民を国家から排除する権利をもつのは当然である。更に、少数派の国民が国家内に国家を建設することさえ合法的である(5)。この個人主義思想がアナキズムと殆ど異ならないことには多言を要しないが、なお形式上は社会契約説の思想に依拠している。
フィヒテは一七九六年に『知識学(Wissenschaftslehre)の諸原則に従う自然法の基礎』第一部を公刊、一七九七年に同書の第二部を『自然法の適用』の題で公刊したが、この著書においては既に徹底した個人主義は緩和され、かつての無制約的は人民主権論ももはや留保つきのものとなっている(6)。彼もフランスの恐怖政治に無関心ではいられなかったようである。国家結合の基礎としては、財産契約・安全保障契約・結合契約という三段階の契約が導入される(7)。ここでは細部には立ち入らないが、この三つの契約の目的は、財産・生命の保護、恣意的法律に対する保障で、スパルタの監察官(Ephor)を思わせるような監察機関の設置が正当化されている。もっともこの段階では、フィヒテはなお自由・平等・国民主権の観念を維持している。
ところが一八〇〇年に公刊された国家学上の著書『閉鎖商業国家論』(8)においては、まったくこれまでと異なった構想が描かれている。周知のように、この注目すべき著書は、社会主義的未来国家像を細部に渉って詳細に描き出したものであるが、ここではそれに立ち入らない。我々にとっての関心は、この新国家論と社会契約論との関係である。ここでのフィヒテの思想の新しいところは、根源的社会契約の驥尾に付して、いわばその細目化という形で締結される経済的諸契約という理論である。しかし本書においては、根源的社会契約自体が既に独自の色彩を帯びている。国家に向かって結合しようとする人々は、すべての欲することをなす本源的権利を放棄する。このことはそれ以前の自然法論が既に主張しているところである。ところがフィヒテによれば、この放棄は対価としての利益と引き換えでのみあり得る、というのが理性の示すところである。そこで国民は、排他的所有権を要求するはずである(9)。一部の国民が所有し、他の者は無産だなどということは、力(10)によってしかあり得ない。しかも国民が保持するのは単なる土地ではなく、その生産物の労働と買手を得る時、所有は完全なものとなり、この安全が保障されることによって社会契約は理性に適った内容を獲得するのである。各人が常に労働とパンをもちうるか否かを偶然に委ねることはできない。各人はその生活を可能とする一定の所有権を有すべきである(ここでの所有権(Eigentum)は最広義のものである)(11)。
フィヒテによれば、この根源的契約に続いて、(原料生産階級・加工階級(12)・商業階級の)三階級(『閉鎖商業国家論』第一部第二章)間に各則的諸契約が締結される。第一階級の任務は原材料と農業生産物の供給、第二階級の任務は工業生産、第三階級の任務は交易である。更にこの三階級の中に集団やギルドが存在する(13)。国民は領土内で契約を締結し、国家は一般的な経済的需要に適合するようにこの分業を監督し、経済活動に参与しない諸階級、即ち公務員と軍人の生活維持のために税を徴収する(同第四章)。「この国家においては、万人は全体の奉仕者で、その奉仕の対価として全国富の内から正当な分け前を受け取る」。国家は法律と強制によって全国民の均衡状態を確保する義務をもつ。もしこの均衡に影響力を行使する者で、国家の支配を受けない者がいるならば、国家はこの義務を果し得ないから、国民が外国と交易することは一切禁止される。国家に対外貿易の必要が生ずれば、それは政府のみが行なう(同第二章第六節)。まさに「閉鎖商業国家」なのである。
やがてナポレオン戦争などによって世界情勢が変化すると、フィヒテの国家観も、これまでの経済的観点から国民的・倫理的な色彩を強めていく。一八〇六年の『現代という時代の基本性格』においては、国家とは全個人の力を全体の福祉に統合する存在となり、国家契約は国民がそのすべての力を全体の支配下におく契約として定式化される。フィヒテは一八一二年の『法理論体系』(『遺稿集』(Nachlassene Werke) 第二巻)において、『閉鎖商業国家論』の社会主義思想を再び取り上げたが、そこでの社会契約は「各人は、労働することを条件として、その生存の保障を与えらるべし」ということを万人が万人と約束するものである。労働は法的義務であり、その対価として「自分の労働によって生活すること」を要求する権利が成立する。貧者も怠惰者も存在し得ない(Daselbst, S.591)。
『遺稿集』(一八二〇年)に収録された『国家論、別題始原国家と理想国の関係を論ず』(14)においては、更に新たな観点が導入されている。即ちそこでは、プラトンの国家理念の驥尾に付しつつ、精神的貴族性(Geistesaristokratie)が唯一の理性的国家形態であるとされているが、プラトンとは異なり、それは倫理的考慮を根拠とするものではない。フィヒテは、様々なところで有効性が示された社会契約という道具がここでも有効だと信じている。彼によれば、人はこの契約に加入すると、他人の意志に服従し、自分の判断に従うことを放棄することになるが、それは人が最高の人間的知性に服従することによってのみ合法性を持つ(15)。それ以外の服従は自由の原則に反するから、ルソーの「一般意志」(volonté générale)などは全然合理性の保障を欠いている。それ故支配者たる正当性は最高の知性の持ち主にのみ認められ、そのような支配者のみが国民を合法的に強制することができる。なぜなら、国民はこの強制によってただ自分の真の判断に従うに過ぎないからである、と言う。
この最高の知性は、それが最高の知性であることを、堅固な確信に担われた創造的行為によって直接的に立証する。他人を直接的認識へと導き得る者は、この行為によって共通の知性の所有者であることを示すのである。行為を通じてこの証明をなす者は教育者であり、支配者は教育者の中から選ばれるはずである。教育者たちによって、自分たちの間で最高の者と承認された者が国家の頂点に立つ者であるべきである(それは一人である場合も合議体である場合もあり得る)。この支配者の影響下で、理性的判断は徐々に一般化し、遂には一切の強制が不要となる。「こうしてかつての強制国家は、何の実力行使もしないままに、時の経過の結果として自ずから無となり、寂滅の死を迎えるのである」と。こうして変転極まりないフィヒテの国家論は円環を完成する。アナキズムから始まった国家論は、またアナキズムに戻ったのである。
第三章 反自然法的諸潮流
自然法論が最高潮に達した時期にも、支配的傾向に反して、国家論・社会理論の領域にリアリズム的方法を適用し、社会的現実を普遍的法則の支配下にあるものとして描き出し、法的演繹に代えて、情緒的要因から解放された自然科学的理解を、歴史的・比較社会論的基礎の上に樹立しようとする国家論・社会理論の萌芽が見られた。この新たな思想の最初の代表者はスピノザである。十八世紀になると、英国ではヒュームやファーガスン、フランスではモンテスキューや重農学派(Physiokraten)が、この方向に向かう試みを控え目ながら進めていた。スピノザ(1)はまだ外見上は自然法的諸概念に依拠しているように見え、自然状態・社会契約、更に人権の存在が彼の国家論・社会理論の概念装置を形成しているように見える。しかし実は、これらの諸概念は、根本的には飾りに過ぎなかった(2)。スピノザのいう自然法とは、理性から導き出された理念的秩序ではなく、自己保存という普遍的な法則を人間社会に適用したものに過ぎない(3)。彼において自然権とは、人間以外の存在の属性であるのと同様に人間の属性ともなる力に他ならない。
そこから国家の現実に対するリアリズム的考察様式が生ずる。しかもそれは、心理的要素を極めて重視するものである。特にスピノザは、人間間の服従の動機や支配関係、それに諸々の政治体制の現実的基盤などを考察した。彼はその政治論の著作の冒頭において、まず社会現象を批判の対象とするのではなく、他の諸物(4)と同様にもっぱら解明の対象とするという科学的・脱情念的な政治学の綱領を宣言する。もっとも彼がこの綱領を完全には遵守せず、言論の自由の保護のような政治的要請を唱えているということは否定できない。しかしこの点では、彼の運命は、同じように後の世で「客観的」政治学の綱領を掲げた社会科学者たちの運命と共通なのだ。確かに彼の自然法論批判は孤立しており、その国家論の後世への影響はあまり大きくないように見えるが、だからといって彼の功績を過小評価することは許されない。
私はあまり大きくないように「見える」と言った。それは彼の影響が、実は通常考えられているよりは大きいと思うからである。彼を表立って支持する者が少なかったのは、彼が無神論者だと喧伝されており、彼を引用することが憚られたからではないか。このことを示すのは、『法の精神』の著者モンテスキューが、同書の冒頭の法の概念規定において、スピノザに起源ををもつ概念を用いていることである。「法(lois)は事物の性質に発する必然的諸関係である」(5)、そのような必然的法則は人間社会にも存在する、そのことは国制などの諸制度が気候や土地の性質、民衆の性格や習俗などに依存していることに示されている、と彼は言う。このような考えは、現代の地政学的・人種学的社会学において発展させられている(6)。
実際これらの発言の故に、モンテスキューは一七四九年の論説(7)で、「スピノザ主義者」だという批判を受けることとなった。敬虔な書評者は、そのような決定論は自由意志の教義とキリスト教に反するものだと主張したのである。モンテスキューは、これに反論の文書を著して(8)、「神はこの不滅の法則を、自ら創造し給うたのであり、しかもそれに加えて人間の理性と自由意志に充分な活動範囲を許し給うたのだ」と答えた(9)。因みに、モンテスキューもまた周知のように、その立派な綱領への忠誠を貫いた訳ではなかった。その国民自由論や権力分立論は紛れもない自然法論である。(彼が理解したような)英国憲法を模範として讃えたことも、「各国民・各時代は各々独自の統治形態をもつはずだ」という彼の理論に矛盾している。モンテスキューは、自然的衡平や実定法を超える正義の存在を信じており(10)、彼もなお自然法論と密接な関係を維持していたのである。
自然法論からの訣別が一層明確なのは英国人ヒュームである。彼は特に社会契約説を鋭く批判した(11)。現代の歴史的・社会学的社会理論は彼をその精神的祖として仰ぐべきであろう。彼は、歴史上の諸国家は契約によって成立したのではない、国家権力は簒奪や征服によって成立したのだということを示し、自然法論の社会契約説は歴史的事実に反すると指摘した。更に仮に原始時代にそのような合意が成立したとしても、その後幾千も君主や権力が交替した現在、その合意が効力をもつはずがないと論じた。彼によれば、政治権力というものは、実際には慣習と伝統の上に成り立っている。彼は、スピノザを援用しつつ、「生起するすべての出来事は摂理の普遍的計画の中に含まれており、偉大な君主とて、簒奪者以上に大きな権力を主張し得る根拠はない」と言っている(12)。そこで彼は、権威の根拠を国家へと結合した人々の心理的性向に求め、「統治は民意(opinion)を基礎として成り立つ」と結論する。民意こそが国家の不可欠の基礎なのである(13)。
ところが驚くべきことに、歴史的・現実主義的な思考様式の持ち主である我らの哲学者ヒュームは、政治の普遍的公理を樹立することができると考え、「完全国家の理念」に関する論説さえ著している(14)。彼はネーデルランド連合共和国の国制こそ理想的なもので、彼の祖国イングランドもそれに倣うべきだと説いている。その提案によれば、大ブリテン国は連邦化され、自治的な小共和国に分割されて、百人の元老院議員によって構成される中央政府の下に置かるべきである。そして代議諸機関はネーデルランドの等族会議のように多様性を持つべきである、と。ヒュームのような独立心旺盛な人物も、政治の領域に立ち入ると、本来の学問的綱領に反して、自然法論者のような論理構成をもって議論したのである(15)。
自然法論と新たな社会科学を精神的に架橋したものの他の潮流としては、重農学派(Physiokraten)がある。この学派の重要性は、経済学史上大きな役割を演じた新経済理論にある。周知の学説でもあり、ここではそれに立ち入らないが、この学派の代表者たち(ケネー、デュポン・ドゥ・ヌムール、ル・メルシエ、ドゥ・ラ・リヴィエール、父ミラボー、チュルゴー)は国家論の発展にも少なからず影響した(16)。彼らは、社会契約説にも、あらゆる時代あらゆる国民に妥当する法体系という観念にも反対した点で、自然法論に半分反対したといえよう。彼らは、経済状態と歴史的発展の観察に基づいて、人間社会の自然法則を発見しようとした。もっとも彼らもなお「道の中途に立っていた」。重農主義者のいう「自然法則」(lois naturelles)は、純粋の自然法則ではなく、特定の目的を追求する人間的理性が決定的要素をなすような関係であった。
彼らのいう「自然の秩序」(ordre naturel)は、国家・社会の理性的統制によってもたらさるべき理想状態でもあった。重農主義者たちはなお自然法論の拠点に留まっており、この学派の始祖ケネーは『自然法基礎論』という著書を著している(17)。しかし同書には、通俗的な自然法論からはっきり逸脱しているような文章も見出される。例えばケネーは、「『人間の自然法などというものはない』と言う者、『人間の自然法なるものは、自然があらゆる動物に教えたものだ』と言う者、『自然法は正義や不正と無関係である』と言う者は正当である」と言っている(18)。これらの言葉は、ケネーよりずっと以前にスピノザが示した自然法観念を表明している(19)。これは法と力とを同一視するもので、支配的な自然法観念を否定するものに他ならない。もっともケネーは、物理的力関係が帰結する悪しき結果を矯正するために、理性原則という理念的要素を再導入している(20)。重農主義者の言う「自然の秩序」(ordre naturel)は、これまでこの自然的秩序の実現を妨げてきた障碍をまず除去する必要があるとする点で、理念的秩序である(21)。上に名を挙げた著作者たちは、国家や社会の現状に不満で、改革を志す人々であった。彼らは、自由な経済活動を阻害する実定法や実定的諸制度を廃止し、理想的秩序をもたらそうと志していたのである。人間のもつ自然的衝動の中に既に社会生活を調和的に形成する力が内在しており、この衝動の内に叡知ある予見が宿っていて、これまでこの自然的秩序の実現を妨げていたのは、人間の視野の限定に他ならない、というのである。
重農主義者たちによれば、人間生活の真の秩序が実現すれば、あらゆる時代、あらゆる国民に幸福と一般的福祉がもたらされる。国家とは単なる保護機構であって、真の秩序においては、経済・社会の法則が自然法則と一致するから、立法活動などというものはそもそも不要なものである。législateur[法を与える者]という言葉が既に、国家が法創造者でないことを示している。国家が法創造者であるならば、légisfacteur[法制作者]という言葉を用いるべきであろう(22)。この思想によれば、統治形態などというものは二次的重要性をもつに過ぎない。強力な国家権力は、過渡期において、未来における拘束や特権を除去するためにのみ必要なのである(23)。以上の論述は、重農主義もまたいかに強固に自然法論と結びついているかを示すであろう。あらゆる時代に通用する社会の理想状態を創造すること、これが彼らの実践的目的であった。もっとも彼らは、その目的のために法学的演繹に訴えることは、全くないとは言えないが、極めて少なく、特に社会契約論はもはや極めて周辺的な役割しか果たさなかった。それに代って
重要な役割を果たしたのが経済学的論理であり、それに加えて自然科学的類比であった。特にハーヴェイが発見した血液循環の法則が、人間社会における財貨の流通法則の定式化に応用された(24)。ここで忘れてならないのは、この学派の祖ケネーが科学的素養をもった医師であったことである。
第四章 社会学と発展法則
原理的に考えれば、自然法論的思想傾向と社会学的思想傾向ほど極端に対立するものは考えられない。前者は法と国家の認識の源泉を人間的理性に求め、概念的演繹を用いて思考し、意識的であれ無意識的であれ、実現すべき要請(Postulate)を定立する。それに対し社会学は、経験科学であることを標榜し、民族学・世界史・統計学などが提供する事実を研究対象とする。それは事象の因果関係を認識し、社会生活における自然法則を発見しようとする。
ところが両者は、出発点においてはこれほどこれほど根本的に対立しているに拘らず、社会学の文献を丁寧に検討してみると、その自然法論に対する対立関係は、実質的なものというより、言葉の上のものであることが分る。確かにこの新たな社会科学が、社会的現実に関する事実を蒐集することによって永続的貢献をなし、その記述や分類によって社会的現実に関する我々の知識を拡大したことは、否定できない。しかし彼らが記述の枠を超えて、普遍法則を定立しようとしたり、蒐集した事実から未来の発展について帰結を導き出そうとするや否や、その帰結は全盛時代の自然法論と瓜二つの主観主義に陥り、濃厚な党派性を帯びることとなった。社会学と自然法論のこの親近性は、公然と自然法論に帰依し、新社会科学を自然法論の基本思想である社会契約説と結び付けようとする社会学者たちにおいては明々白々たるもので、その点については更に後の章で述べることになろう。それに対し、多くの社会学者たちは、自然法的概念を用いたりはしないが、しかし彼らは、その代りに、意識的ないし無意識的に、政治的・社会的理想を学問的に正当化し、実践的要請を定立するための新たな道具建てを案出した。
この道具立てこそ、「発展法則」なるものに他ならない。これは、それを用いれば何でも正当化できるという点に関しては、社会契約説に劣らない。発展法則を適当に定式化することによって、多様な党派的願望に社会学的正当性を付与することができるのである。こうして、宗教的・保守的社会学や自由主義的・革新的社会学、個人主義的社会理論や集団主義的社会理論が登場し、貴族思想や、民主思想、更にはアナキズムでさえ、発展補足という魔法の呪文によって正当化された(1)。「人間社会は発展の産物である」と言うだけなら、それは疑いもなく正しいが、全く無内容である。しかしこの空虚な枠に内容を与えようとし始め、「この発展の決定的に重要な要素は何か」「この発展はどのような趨勢を辿るか」を論じ始めるや否や、多種多様な解答が登場する。社会発展を規定する要因について、ある者は人種だと言い、ある者は人口密度だと言い、あるいは技術・経済・世界観・科学・宗教・倫理だと説いて、発展法則をこれらの諸解答に対応して定式化する(2)。諸々の著作者たちにこれらの諸解答を選ぶに当って決定的役割を演ずるのは、自覚していないかもしれないが、彼らの世界観・政治的信念・倫理的信念である。
「人間社会の発展法則」を樹立しようとするに当って、最も利用できそうなのは、生物進化論である。確かにチャールズ・ダーウィン自身は、その種の変化・遺伝・生存闘争・適者生存というその学説が人類の発達にも適用可能か否かについて極めて慎重な態度をとっていた。しかし彼の弟子や信奉者の間では、進化論を人間社会の説明や評価に利用可能だと信ずる者が少なくない。もっともこれらのダーウィン的社会理論に対しては、疑問視する立場もあり、この問題に関する膨大な文献が存在する(3)。思うに、進化論自身の自然科学的基礎づけについてもあれこれ議論のあるところであるから、その社会学的応用が多岐に亘ることは明らかである(4)。これらの文献を一瞥するのみでも、この多様性が純粋に理論的な意見の対立よりも、政治的・社会的・倫理的意見の対立に由来することは明らかである。進化論は、これらの実践的な態度に理論的基礎を与えようとする意図の道具として用いられている(5)。貴族主義も民主主義も、個人主義も社会主義も、マンチェスター主義[経済的自由放任主義]も社会政策も、ダーウィン的原則から導き出された。周知のように。ヴァイスマンは「獲得形質は遺伝しない」という重要な修正を進化論に施したが、この修正も直ちに社会学に利用され、保守主義的傾向に掉さした。
特に社会発展の要因としての「生存闘争説」は、多種多様な解釈を加えられ、その多様な利用可能性は自然法論の社会契約説に劣らないほどである。「生存競争は個人間か集団間か」「闘争の目的は生存そのものか、優越的地位か、他者支配か」「勝利するのは最善者か野蛮無法な者か」「人間界の淘汰は自然淘汰か人為淘汰か」「生存闘争は過去現在のみの現象か、未来永劫続くものか」――これらの問いにどう答えるかによって、政治的・社会的帰結も全く異なったものとなる。そういえば社会契約説においても、それは誰と誰との契約か、どんな契約内容か、その結果どうなるのかなどを論争した。社会契約説のこのような議論は擬制だが、社会進化論のは事実だなどと言えようか。生存闘争が直接観察可能な事実であるとすれば、このような見解の対立が生ずるはずがない。議論は複雑極まる事実についての解釈・概括をめぐるもので、そこでは主観的要素が大いに幅を利かせるのである。
進化論の利用に特に熱心なのは貴族主義者たちである。ニーチェがその超人の理想、「有象無象」蹂躙論においてダーウィンに依拠したことは公知のことである。「支配者倫理」(Herrenmoral)をそこまで露骨に説かない人々も、人間界における階級分離を自然的なものとみなし、特に有産階級は人類の精華だと説いている(6)。ハーバート・スペンサーも、弱者のために国家が介入することを、「反自然的」であるとしているから、この潮流に属するであろう(第七章参照)。それに対し、民主主義者たちの中にも、進化論によれば万人は同一の起源に発し(7)、所有は人為的性格のものであり、愚かで怠惰な者も相続によって特権をもつ、などと主張する者がある(8)。社会民主主義者でダーウィニズムと結び付こうとする者もある。特にフェリ(9)やヴォルトマン(本章註(3)参照)は社会民主主義とダーウィン主義の内的親近性を示そうとしている。平和主義者(10)も好戦論者(11)もダーウィン理論を援用する。しかし何といっても最も特筆すべきは、キリスト教はダーウィン主義を白い眼で見るのが普通なのに、既成宗教であるキリスト教の唱道者であるベンジャミン・キッドが、広く読まれている著書『社会進化』(Social Evolution)において、彼の宗教的立場の根拠づけに進化論を用いていることである(12)。もし私がこれに加えて、アナキズム理論もまた時に進化論を論拠にしているという事例に言及するならば、進化論の社会理論への利用可能性について全部の傾向を網羅したことになるのだが。
以上の論述に対しては、「そういう議論は学問としての社会学には当てはまらない。事例に引用されているようなものは、生物学的法則を性急に濫用したものに過ぎない」という批判が出るかもしれない。しかし、人類文化史を基礎とした進化法則なるものも、同様に主観的色彩を帯びている。そのことはこれまでも既に示唆してきたし、以下重要な社会学体系を立ち入って叙述する際に、明確にするつもりである。しかしその前に、自然法論の新社会科学への影響という、従来殆ど気づかれなかった事実を叙述しておきたい。
第五章 現代社会学における社会契約説
社会契約思想の社会科学に対する巨大な影響力は、消え去るどころか、現代においても顕著である。それも、歴史的・社会学的思考様式を拒否し、敢えて古き自然法論の埒内に留まろうとする著作者たちの話ではない。少なからぬ研究者たちは、社会科学における歴史的方法や自然科学的方法に注意を払ってはいるが、なお社会契約観念を放棄しない。そのような人々として第一の類型は、社会契約思想を我々の社会の構造を解明するために不可欠である、それも人類が発展してそれに徐々に接近していく理想というに留まらず、過去や現在を解明するためにも不可欠であると考える人々である。第二には、社会契約はこれまでは社会発展にとって二次的意義を有するに過ぎなかったが、未来においては国家や社会にとって決定的な役割を果たすだろう、社会契約は歴史の発端ではなく、終末に成立するのだと考える人々である。
前者に属する著作者として第一に挙げらるべきは、フランスの哲学者で社会学者であるアルフレッド・フイエである(1)。彼の思考過程は大略次のようなものである。「社会契約という思想は、ルソーやカントのように、歴史的説明ではなく規制的理念としてとらえるならば、全く正当なものである。社会科学の研究対象は、現実のみならず当為でもあり、社会制度、特に国家は正当化を求める。国家は単なる記述によっては理解できない。人間の共同生活が自由意志を基礎とするものだという思想は、百パーセントの真理ではないが、真理の一端ではあり、その一端は時の推移とともに拡大し、遂には全社会生活が全体意志の表現となる時代が到来するのではないか」、と。
このような理想主義的志向、演繹的方法に対立するものとして、社会を自然法則的必然によって支配される有機体としてとらえる、社会科学の自然主義的方向がある。フイエはこの立場も正当であるという(2)。彼によれば、人間社会の十全な理解は、外見上対立している社会契約論と社会有機体説を結合することによって、初めて可能になる。フイエは、社会とは「契約的有機体」(organisme contractuel)である(3)。この契約と有機体の綜合において重要なのは、社会有機体の成員は意識をもち、自由意志によって相互に作用し合うことである。これは純粋な自然的有機体にかけている新たな結合手段である。人間社会は、自覚的存在、自己を意志の対象とする存在であり、従って自己実現的存在である。この結合の意識こそが、社会有機体における真に人間的な特性である。フイエは、この理論は善き政治思想へと導かれる、と言う(4)。純粋な契約説によれば、社会は単なる個人意志の産物に過ぎないから、極端な個人主義をもたらす。他方生物学的社会科学は、個人を有機体の一細胞としか看做さないから、権威主義的で保守的な国家観に導かれる。この「契約有機体説」こそが、両極端に陥らず、穏健でリベラルな政治論に学問的基礎づけを与えるものである、と言う(5)。フイエによれば、この政治論の理想は、各人の最大の自由と、全員の最大の団結を結びつける社会秩序である。この理論はまた、宿命論的な非行動主義も、既存の社会関係のすべてを恣意的・革命的に転覆する試みも否定する、と(6)。
私は、上述したフイエの試みを批判しようとするものではない。この議論は、現代社会学がもたらした、もっとも才気に富んだ作品であろう。ただ明らかなのは、契約有機体という理論と、実践的・政治的帰結との間に密接な結びつきが存在していることである。ここでも「願望は思考の父」という言葉が見事にあてはまる。このことはもう一人のフランスの著作者、フランス政治に重要な役割を果たしている人物にも見事に当てはまる。急進社会党の指導者レオン・ブルジョワである。一八九六年に刊行された注目すべき彼の著書『連帯』(La Solidarité)は、同党の社会改革綱領の理論的根拠づけの書といっても差し支えない。私が以下で同書を紹介するのは、それが何より、社会契約思想を現代社会学理論と結び付けようとしているからである。
観察者の目には、人間社会は、個々人の個別的営みとは無関係な、万人の全体目的に向かう協働・相互依存のように見え、それ故社会は生きた有機体の特徴を示していて、これを「連帯」(Solidartät)と呼ぶのが適当なように思われる。この相互作用は、有機体の現存の成員間のみならず、世代間にも存在する。人間社会は、時間の経過の中で、膨大な物質的・精神的・道徳的財宝を蓄え、新世代はそれを汲み取り、護り、更に発展させる。人間は、この世に生まれ出づるや否や、親や祖先の労働の成果を享受する。人は、自分が何一つ貢献しない段階から、食物・衣類・道具・言語・知識を与えられる(7)。後に人が社会有機体の歯車の中に自分の位置をもつに至っても、他者の助けなしには一日も生きることができず、他者に依存している。
それ故連帯は自然的事実であって、そこから道徳や法が導き出されるのである。そこで最も重要なことは、「人間はこの生きた全体に対する債務者であり、過去の世代に対する債務者であって、債務者とは単に道徳的意味での負い目を負う者というばかりではなく、法的な意味でもそうである。この債務は準契約(quasi-contrat)に基礎を置くもので、私法上の推定合意、更には法律そのものによって返済義務を負わされている。そこで社会の成員は、社会から与えられたものを全力を尽くして返還しなければならないのである。実定法は、各人がこの負い目をどれだけ返済するかを具体的に規定する責務を負う。その原則は、「各人は社会集団が提供する利益を平等に享受する権利をもち、また社会に負う責務をいかなる集団や個人を優先・劣後することなく負担しなければならない」というものである(8)。従って、公法は社会的準契約の原則の細目化に他ならない。社会契約の明示的規定を求めたルソーは誤っている。実際には社会契約は、日々新たに、暗黙裡に締結されているのである。しかし「社会全体の個人に対する強制力は、暴力ではなく法的義務によって説明さるべきである」という彼の基本思想は正当であった。彼の理論は、「連帯思想は極端な個人主義と革命的社会主義の両方に対する防壁を与える」という社会改革の指針の手掛かりを与えるという点でも重要である(10)。
このレオン・ブルジョワの理論の法学的論拠は脆弱なものである。周知のように、民法における準契約は、事務管理と不当利得という、甚だ性質が異なり、到底一括できないものを強引に一括したもので、実際には「推定同意」などというものは存在しそうもなく、そういう概念を社会関係の基礎概念に据えるなどということはまったく不適切である。それに「社会的債務」などという概念も漠然としており、万人が負い目を負うているという過去の世代を債権者と考えるなどということは困難であろう。もっと困難なのは、未来の世代に対する義務なるものを法的に定式化することで、それがいくらになるかを算定することなどできるはずがない。このような準契約論よりも、古き自然法論の契約思想の方が、簡明だというだけでも優越している。因みに、この準契約論では、国民の義務の説明はできても、権利の説明は不可能である。
フランスの社会学者の中には、他にも社会契約思想の追随者がいる。エミール・デュルケームの社会分業論などもそれに当る(11)。コンブ・ドゥ・レストラードの『社会学基礎論』(12)やギヨーム・ドゥ・グレーフの『社会学入門』(13)も、人間社会の自然的有機体との決定的相違は契約的結合であるということを繰り返し強調している。人類発展の初期において既に本能的相互作用が見られるが、これは黙示の契約である。文化発達の過程においてこの契約の要素が重要性を増すにつれて(14)、文化は人間的なものとなり、動物界から離れて行く。そして遂には全政治集団が成員の自由な合意を基礎とするものとなる、と(15)。
以上の論述を見て、社会契約思想を固守しているのはフランスの社会学者のみだと考えないで欲しい。ここで私は、英国の著名な著作者・自然科学者トマス・ハックスリーの社会契約思想を精力的に擁護している著作を紹介したい。曰く、「社会契約の想定はしばしば嘲笑の対象となっているが、しかしすべての社会制度は、その核心において、成員間の、明示ないし黙示の契約であることは、充分明らかなことである。奴隷支配や街の強盗のような暴力的支配でさえも、支配者と被支配者の同意、被支配者の自発的服従という要素を含んでいる。憲法・法律・慣習なども、窮極においては、権力を行使する者と行使される者との間の、明示・黙示の契約に他ならない。この性格こそが社会的有機体と生理学的有機体の相違をなすものだと私は思う」と。因みにハーバート・スペンサーもまた、社会契約の観念を信奉する社会学者であることを後の章で示したい。彼の社会契約は、過去に行なわれたものではなく、人類発展の未来において完全に現実化されるものではあるが。
第六章 オーギュスト・コント(1)
重農主義が後世に与えた影響といえば、何よりも人間社会の自然法則・経済構造・歴史的発展に関する教説であろう。即ちチュルゴーは、その初期の作品において、文化史における発展の観念を強調し、友人で弟子であったコンドルセが人類の全体的発展像を描く構想の契機となった(2)。そしてこのコンドルセの影響下で、サン・シモンとオーギュスト・コントが新たな社会学的科学の基礎を築いたのである。その際純粋に学問的な動機の他に、政治的信念もまた重要な役割を果たしたことは疑いない。
重農主義者たちにおいてなお、自然法論が一定の役割を果たしていたのに対し、サン・シモンとコントは、それと完全に絶縁した。どうして絶縁したのか。それは、フランス革命がもたらした深刻な危機を、彼らが自然法論のせいだと考えたからであろう。先に述べたように(第一・二章参照)、自然法論も社会契約説も、必ずしも過激な民主主義の主張を帰結するとは限らず、他の諸々の政治論に根拠を与えることも可能である。しかし革命時の歴史的状況においては、自然法論は革命と思想上必然的に結びついていると思われ、反革命の理論家たちは、フランスにおいても他国においても、自然法論を敵として闘うことになった。反革命論者たちの一部は、中世の神権的教説に戻ろうとし、他の論者たちは新たな実証的社会科学の助けを借りて、革命的国家論を抹殺し去ろうとした。フランスにおいて、前者の方向に向ったのがボナールやメーストル、後者の道を選んだのがサン・シモンとコントということになる。両潮流とも保守的性格のものであるが、もとより前者の方が過激である。後者の著作者たちは、単にアンシャン・レジームに戻ろうとするのではなく、科学的理論を基礎として社会を再組織しようとしたのである(3)。
この政治的・社会的動機は、サン・シモンのみならず、他ならぬ近代社会学の創始者コントにおいても、その学問的思考に強烈な影響を与えている。そのことは彼の著作活動の全発展を見れば明らかである。既に一八一九年から一八二六年の初期の作品においても、この実践的・政治的傾向は鮮明に表れている。この時期の『小品集』(Opuscules)(4)はサン・シモンの直接的影響下で書かれたもので、後の大著を導いた思想は既にそこに表れているが、その中で彼は、彼の探究の目的は、フランスをこの危機の時代から救い出して、永続的秩序の時代に移行させるという実証的的政治を基礎づけるところにあると明言している(5)。彼の著作活動の第二期は、大著『実証主義哲学講義』(6)(一八三〇年に続く時期)の成立期であるが、この時期には、実践的動機は、自然科学・文化科学の包括的体系を構築しようとする努力の影に隠れて、一見表面に出ていないように見える。しかし『実証政治体系』(一八五三年に続く時期)に代表される第三期には、コントの実践的・改革者的志向が再び顕著で、彼の讃美者たちの中には、この時期に精神力が衰えた、少なくとも客観的・科学的方法を放棄したと見る者もある(7)。
そもそもオーギュスト・コントの「客観的・科学的方法」なるものの本質は何か。彼はしきりに自然法論者たちを形而上学者と烙印し、その理論の帰結である社会契約論・人民主権論・万人平等などを恣意的想定だと論難する(8)。法的推論なども問題外という扱いで、大部の『実証主義哲学講義』の中に「法」(droit)の字は殆ど一度も出てこない(9)。彼はまた、同様の厳しさで反動期に再生した神学的社会理論をも攻撃する(10)。社会科学はもっぱら観察と歴史的経験の上に樹立さるべきであり、他の諸科学、特に自然科学の偉大な進歩に貢献したような道が開拓さるべきである(11)。
もっとも社会学の創始者・命名者(12)による、この立派な綱領を具体化は、完璧からほど遠いものであった。コントは、法的形而上学に変えて、歴史的構成ともいうべきものに依拠したが、それは文化史を規定する多数の要因の中から一つのものを選び、それを社会発展の決定的原因であると称するものであった。その一つのものとは、特定の時代に社会を支配した精神的方向ないし基本観念である(13)。コントは、この思想に従って、有名な「三段階法則」(14)を定式化した。それによれば、人類史は「神学的時代」から「形而上学時代」を経て「実証科学的時代」に至るという。この精神の基本方向に、国制、経済組織、芸術、学問など他のあらゆる文化的要素も追随する。人間社会の進歩もこの法則に従う、という。
コントによれば、現在人類は実証科学の時代という、最終的で最高の発展段階の発端にある(15)。この段階は社会再組織の時代であり、科学者は新社会の精神的指導者となる(16)。彼らは中世の聖職者が担っていた精神的権力(pouvoir spirituel)の担い手である。彼らは人間教育の一切を指導し(17)、その助言はあらゆる政治行動の指針となる(18)。従来の社会組織では政治権力は貴族や軍人、やがては法律家や文士(Literaten)が行使したが、未来においては世俗の権力は産業指導者に与えられる(19)。一言にして言えば、コントの実証哲学は、その客観的・科学的出発点とは露骨に矛盾するユートピアに終った。彼の社会理想は多くの特徴においてプラトンの「理想国」を思わせる(20)。プラトンと同様、コントも社会の指導を科学的素養をもった人々の手に収めようとし、最大の重点を青年教育と道徳改革に置き、個人主義に反対して秩序と統一を強調した。
コントの政治論の批判にはここでは立ち入らない(21)。「反個人主義で、半ば保守主義、半ば社会主義的な改革案」と性格づければ、それで充分であろう。特に特徴的なのは、コントが表現の自由の権利を承認せず(22)、人類を神的なものとして崇める一種の強制宗教を導入しようとしたことである(23)。それ以外の彼の主張には、普遍的世界平和、ヨーロッパ共和国の組織(24)、国家による資本家と労働者の関係の規制、私有財産制を原則として維持した上での(25)社会化などがある。これらすべての立派なことは、何れも過去の歴史的発展の必然的帰結とされている。ところで、人類史はこれからなお幾千年を経過するであろうが、その間に新たな発展可能性はあり得ないのか、実証主義哲学をもって人類史は本当に最終段階に到達したのか、という問いには、コントは全然答えていない。
以上の紹介からも分かるように、彼があれほど激しく批判した社会科学における形而上学は、彼の体系に明確な痕跡を残している。しかしともかく、彼の著作には興味深い洞察や深い観察が数多く含まれていることは紛れもない事実で(26)、この点に関しては後の社会学者たちの誰にも凌駕されていない。彼による文化的諸要因の関連づけ、社会動学と社会静学の理論、世界史における思想の重要性の議論、特に中世の客観的評価などは、永続的価値をもつ議論であり、彼の自然法的個人主義批判も有益な影響を与えた。しかし彼が根本的に誤っているのは、科学がその発展法則なるものを根拠として政治的・社会的改革の目的を設定し得る信じたことである。この点で、彼の意識下には強烈な主観的衝動が作用しており、純粋な客観的認識への衝動を挫折させたのである。
これと同様のことは、コント以後の社会学の発展に最も重要な影響を及ぼした人物、即ちハーバート・スペンサーについても言える。スペンサーの体系において新しいところは、何よりも、コントの時代にはあまり発達していなかった学問、即ち生物学を応用したことである。スペンサーの生物学的類比への言及は断片的ではあるが、全体として社会を有機体として語っており、社会科学はこの側面から大きな刺激を受けたのである。
第七章 ハーバート・スペンサー
スペンサーの人間社会研究において、壮大な出発点をなすものは発展の世界法則である。この発展の推進力は、原始星雲状態から太陽系が生れ、無機物が有機物に発展し、植物が動物となって更に人間となり、単純な有機体が超有機体としての社会を成立させた力と同一の力である。単体は合成物へ、均等のものは不均等なものへ、分散的なものは集中的なものへと徐々に移行する。社会の細胞としての家族が部族へ、種族へ、民族へ、国家へと複雑化していくのも同様の過程である。彼のこの自然主義的社会理論(1)にこれ以上細かく立ち入ることは本書の目的から見て不要であろう。彼の社会学体系は繰り返し批判的検討の対象のなってきたことでもあるし(2)。しかし従来余り注目されていなかったのは、彼の社会理論のイデオロギー的性格が、彼の出発点と明確に矛盾していることである(3)。
仔細に検討してみると、スペンサー自身は、その主著のみならず、多くの政治的・社会的小論においても、断乎たる自然法論者である。彼はカントの理論と基本的に共通する正義の普遍的定式を定立しようとしたのみならず(4)、国家成立以前から存在し、国家から独立した人権の集成を掲げている。人身不可侵権、移動・移転権、自然物享受権、物的・精神的財産権、贈与・遺贈権、通商・契約自由権、自由営業権、信教・礼拝自由権、言論・出版自由権など。彼の著書『道徳の諸原則』第二巻では、これらの諸権利の各々について一章ずつ当てて論述されている。
この権利の列挙が単なる道徳的要請を越えた法的人権であることは、第九八節に引用されている著作の、「上述の権利ほど本来的な意味での権利は存在しない。それは社会状態の中で営まれている生活の法則から直接導き出されたものである」という言葉から知られる。スペンサーは、ジョン・ロックと全く同様に、共同体は各人の権利を侵害から護る義務をもつと言っている。「これらの個人権を擁護する点における進歩の有無が、文明の有無の判定基準である」と言う。国家の義務は、ひたすら外的に対する社会防衛と司法運用にある。これは少なくとも文明国には当てはまる。原始的社会形態においては、他の生活領域に対する権力支配の集中のために国家的強制が用いられた。現に在においても、経済・教育・医療など他の領域に強制力を発動しようとするならば、国家活動の限界を逸脱している。彼は労働立法や公的貧困政策の導入も唱えているが(一一七-一四一節)、これは彼の唱える「自然淘汰」法則論(5)と矛盾するであろう。
スペンサーは人間社会を「軍事型」と「産業型」に分類する。前者においては民衆は軍隊的に組織され、軍事指導者は最高権力を掌握し、集権的統制力をもって支配する。そこでのあらゆる制度は、社会を対外的に協力で戦争準備が整っているように見せることを目的とする。社会は厳密な序列と目上に対する無条件的服従を原理とし、全国民は団体の利益のために奉仕すべきだという信仰が支配する。軍事的社会における協働は常に強制に依拠しており、経済活動でさえも政府の統制下にある。宗教も軍事的性格をもつ。
産業型社会はこれと正反対で、成員の福祉を最高目的とする思想が支配している。政府の任務は成員の意志を執行することのみにある。そこでは成員が自発的に協力する領域、即ち産業の領域が最も重要である。宗教においても強制的体制は廃止され、信教の自由が重視される。国民には国家的強制から解放された諸権利が与えられる。全体として強制に代えて自発的協力が原則となり、法的関係の大部分は契約を基礎とする。憲法は民主制的なものとなり、政府の地位は責任ある執行者でしかなく、その任務は最低限に限定される。
スペンサーによれば、後者、即ち産業型が進歩し(6)、高度に発展した形態である。人類の全文明発達史は、人類の軍事型からの漸次的解放であり、産業型社会の完成が文明進歩の絶頂である。国家の支配は逐次的に減退し、すべての人間関係が契約によって規制されるとき、遂に真の自由の王国が樹立されるであろう、と。
以上は『社会学原理』第二五八節以下から引用したものであるが、その議論は本格的検討に堪えるものではない。それは彼を支配する主観的な政治的見解の表明に過ぎない。そもそも「軍事型」と「産業型」という両社会類型からして、社会組織の様々な特徴の中から、二つのものを恣意的に選び出したものに過ぎず、あらゆる歴上の国家は、現実において国民の軍事的活動と経済活動の一定比率での結合である。例えばスペンサーは、古代アテネ国家は経済が大きく発展した産業社会の典型で、芸術や学問が開花した時代だと言っているが、この国家は同時に全力を集中して国民を権力に従属させた国家であったことを忘れている。
スペンサーは、歴史発展の過程において軍事型は後退し、独占的支配者であった国家に代って社会がいよいよ優越する法則なるものを説いているが、歴史の発展はそれと違っている。まさしく現代こそ、国家の任務が増大し、軍備は増強され、公法の強行法規によって契約法は減退している時代、スペンサーの産業型と逆の現象が表面化している時代である。既に彼自身にその在世中にこの傾向に気づき、一連の論文において国家全能の傾向に強く抗議している。これらの論文の示すところは、スペンサーが時代の変化、特に祖国英国の変化に不満であったことで、それらの論文は、軍事型から産業型への発展の自然法則なるものの反事実性を露骨に示している。
スペンサー社会学の主観的・政治的性格を明確に示すもう一つの点を挙げると、一方で彼は社会は有機体であるとして、社会を多くの有機体的比喩をもってこと細かに叙述しているが(『社会学原理』二一四節以下)、他方で社会と有機体の相違を強調している。多くの論評者はこの矛盾に気づいているが、これまでどうしてこういう矛盾が犯されたのかを説明した者はいない。私の考えでは、スペンサーにおける個々の有機体においては、それを構成する単位に感覚がなく、全体が感情と意志をもち、個々の単位は全体の行動を支配する神経中枢の支配を受けているのに対し、社会的有機体においては有機体の単位をなす個人が感情をもっており、全体は幸不幸を感ずる能力をもたず、個人のみが幸不幸を感ずる。彼はここから、個々の有機体においては、部分は全体の利益のためにあるが、社会的有機体においては全体が個々人の利益に奉仕すると推論した。
個体の感情が存在するのか、全体の感情が存在するのか、という論議にはここでは立ち入らないが、スペンサーはこの区別から彼の帰結、「人間界においては個人こそ重要で、集団、特に国家の価値など軽視すべきだ」という帰結を導き出していることは明らかであると思われる。しかし彼がその生物学的比喩を貫徹したならば、このような帰結は不可能なはずである。真に有機的な社会観と個人主義は結合不可能である。政府が生命体の頭脳であるならば、政府は全能で、無限定的服従の対象でなければならない(7)。こういう思想はスペンサーの政治思想と全く矛盾するから、ここで他の箇所では精力的に唱道してきた有機体的仮説を破棄したのである。
ところで不思議なことは、社会的有機体において個人の幸福が結合の主目的だという彼の議論は、軍事型の社会として彼が描き出すものと正反対である。『社会学』第二五九節で、彼は軍事社会においては全体が個人の利益にためにあるのではなく、個人が全体のためにあるという。そこでは全体の要求がすべてであり、個人の権利主張は無である。すべての公的・私的活動において個人の意志は全体に服従する。ということは、軍事社会は、スペンサーが社会有機体の本質とよぶものに反するのである。産業社会に至って初めて個人はその主張を顧慮されるのである。何千年間人類史を支配し続け、現在においてもなお存続していることを認めざるを得ない社会形態が異常なもので、社会有機体の本質に反するというのは変ではないか。この有能な頭脳がどうしてこんな矛盾に陥ったかといえば、その頭脳が政治的偏向に支配されているからである。
この傾向は、一八八六年の著書『人間対国家』に一層露骨に顕れている。ここで彼は、国家形成以前、原始共同体時代においても、個人は習俗と慣習によって、権利、特に所有権を有していた、と言う。国家が成立すると、その国家は原始時代から承継された制度の管理者となる。しかし軍事型社会が登場すると、政府の役割が国民の権利保護に限定されるなどということはあるはずもなく、権力が暴力的な態度で個人に臨むことを止めようもないであろう。これには更に、権力者が神的起源のもので、その命令は神聖なものだという信仰も加わる。国民の自由が再び力をもち、国家権力を限定しようとする動きは、極めて緩慢なものであった。この動きは、権力の軍事的性格が克服され、産業活動が成長することによって生じた。個人権の尊重が進むにつれて、国家も発展するのだが、このことは現在においてもなおしばしば誤解されている。王権神授説に代えて議会権神授説が登場しているが、これは多数決がいかなる対象に対しても絶対的力をもち、国民を拘束し得ると信ずる迷信である(8)。そこでスペンサーは、この「政治的迷信」を、一種の法論理によって打破しようとする。彼は「ある福祉団体がある宗教宣伝に会費を費やすことを、多数決で決定することが許されるだろうか」「図書館団体が、読書より面白いと考えて、多数決で財産を射的のために用いることを決定することが許されるだろうか」と問う。
スペンサーは否と答える。「なぜなら団体の成員は、団体の目的の範囲内でのみ団体の多数決に服するもので(9)、この限界を越えた多数決は無効だからである。国家もまた特定の目的のために組織された団体であり、その目的は団体の定款のように明確には定められていないが、その目的を団体の全体的傾向から導き出すことは困難でない(10)。例えば英国民に、『どういう信仰箇条を信ずべきか』、『何を着るべきか』を国法によって定めることに同意するかと問うならば、『ノー』という答えが返ってくるであろう。しかし『国家は国民を外敵から守るべきか』『国内治安を維持すべきか』『犯罪者を処罰すべきか』と問うならば、殆ど全員一致で『イエス』と答えられるであろう。国家と我々が呼ぶ団体の真の任務はまさしく後者である」と言う。このようなスペンサーの論述をわざわざ批判することは労力の浪費かも知れないが、一言するならば、福祉団体や図書館団体と国家との類比は不適切である。前者においては、定款の遵守を監視する上位権力が存在するが、国家が権限を逸脱したことを誰が法的に判断するのか。さらに、この限界を示そうとしてスペンサーが持ち出した心理学的議論は、まさしく一部の国民はある国家権力の拡張の試みに賛成し、他の人々は反対したとき、解答不能に陥る。いずれにせよ驚くべきことは、スペンサーがここで英国で支配的な実証主義法学を激しく攻撃しつつ、ドイツの自然法論を称賛していることである(11)。近代社会学の代表者の口から、自然法讃美の言葉が聞けるとは!
しかしスペンサーが、その統合的哲学体系を構築しようと試みるよりずっと以前に、政治的信念を形成していたことを想起すれば、この驚きも驚きでなくなる。この政治的信念は、一八五〇年の最初の著書『社会静学』において表明されたもので、その信念とは、ロックやスミスが古典的に定式化した古き英国自由主義であった。彼は、その長年の社会学的研究において、その本来の思想を確証したのである。求めたものを見出したのである(12)。
第八章 他の社会学諸体系
コントによれば、特定の文明発展期の世界観が、人類史発展の決定的要因である。この唯心論的歴史観と興味深く対立するのが、唯物史観の名で知られる教説で、それによれば生産技術とそれに基づく経済構造が他のあらゆる文化要素の基礎であり、、国家や法、宗教や道徳、更には芸術や学問までもが、この経済構造という社会的基盤に依存している(1)。いわゆる科学的社会主義は、この社会学的方法(2)によって、現代社会の資本主義的構造は、自然法則的必然性に基づいて、集権主義的構造に移行することを証明し得ると信じている。この発展法則なるものについては、随分論評もされてきたが、それに対してどのような態度をとるにせよ(3)、その到達するとされる社会が、古くより社会主義者たちが実現しようとした綱領とそっくりなのは注目すべきである。マルクス(4)登場以前の社会主義者たちは、その理想、特に生産手段の社会化の理想を、倫理学的・自然法論的考察によって正当化しようとしてきたが(第一章参照)、今や新たな社会科学的方法に従って、発展法則という道具が適用されることになった。この適用によって本当に「空想から科学へ」と進歩するものかどうかは、ここではさておくこととして、何れにせよ注目すべきは、この理論によれば、人類史の発展は、(経済構造という決定的要因に関する限り)間もなく到来する集産主義によって完結する。これはコントが、彼の理想である実証主義の時代が到来すれば、その後の時代はないと考えていたのと似ている。
この経済史観と対極的なのが、宗教を社会発展の中核に据える、キッドの『社会進化』(5)とオーリューの『伝統的社会科学』(6)である。前者はプロテスタント的、後者はカトリック的色彩を帯びているが、両者に共通なのは、人類史の進歩は愛他的感情を基礎とするもので、人類はそのような感情をキリスト教を通じて身につける、と説くところである。更にキッドは、先に触れたように、進化論、具体的にはヴァイスマンが定式化した進化論に依拠している。オーリューが依拠するのは、生物学的議論ではなく、人類文化史である。彼は、いかなる社会も物的手段のみで発展するものではなく、自己犠牲の精神によって維持され発展する。自己犠牲を教えるものは宗教の他にはなく、自らを犠牲にして人類を救済しようとしたキリストの死こそ永遠の模範である。社会悪からの救済は、人が神と地上にける神の代表者である教会に身を捧げることによってのみ可能である(7)。国家は権力を必要とし、従って堕落の可能性に曝されている。中世におけるように、それ(?)が統治と一体となる時に、有機的な歴史時代が具現する(8)。社会において完全な平等は到達不可能であり、特権や階級分化は根絶できない。人々を摸倣に向って駆り立てる貴族主義は不可欠である(9)。これらの文章は疑いもなく立派な信念の表現であるが、キッドにおいてもオーリューにおいても、こういう信念は、彼らが社会学的体系を構想する以前から抱懐していたもののように見える。彼らは元来人類文化における宗教の重要性を信じていて、その歴史研究においてもっぱら宗教に着目し、そして宗教の重要性を確証したのである。
米国の社会学者レスター・ウォードは、「純粋」社会学と「応用」社会学を分けた(10)。他の社会学者たちの場合もそうだが、こういう分類をする人は、最初に政治的・社会的問題に関して特定の観念をまず形成し、その後にその発想を純粋理論化することがあり、彼の場合もそういう疑いがないではない。ウォードはスペンサーとは逆に、集団主義に惹かれ、スペンサーの発展法則に小さな修正を施すことによってこの彼の理想を正当化した。ウォードは言う、「スペンサーが分化の進行をもって社会発展の基本法則としたことは全く正しいが、彼は発展の第二の要素、人々がいよいよまとまっていく傾向、いわゆる統合(integration)の傾向を充分評価していない。しかしこの第二の要素によってこそ、文明進歩の自然的結果として、人々はいよいよ統合し、国家権力はいよいよ強化されるのである。それ故、ウォードは、保健・教育・労働保護などの領域に国家が介入することを正しい社会発展の表われだと考える。ところで個人の福祉もまた社会の目的であるならば、その福祉はスペンサーが非難した国家活動の拡大によって促進されるのではないか。未来は集団主義のものであり、それこそが個人の福祉増進を確固として保障するものではないか、と言う。ウォードは更に、人種の世界的統一こそが人類発展の目的であることを証明したと信じた。この自然的発展を阻んでいるものは、現在なお黒人・赤色人種・黄色人種が後進状態に置かれていることである、と言う(11)。この彼の立場は、人種混血を汚染であるとし、アーリア人種の支配こそ自然の摂理だと唱える社会学者たち(12)と正反対の立場である。
人種理論に対する敵対者の一人は、やはりフランスの社会学者アドルフ・コストである(13)。彼は、「純粋な人種なるものは存在しない。人種混淆は文明史発展不可欠の前提である」と述べ、統計学・民勢学の専門家である彼は、人種混淆は人口密度の増大、特に大都市への人口集中によって必然的に生ずると説いている。家内産業・工業・商業・世界経済という四段階を経て発展する経済進化は、人種混淆に依拠している。政治もまた固有の発展法則をもっており、国家において最初は軍事的役割が優越的であるが、第二段階では立法が重要となり、広汎な立法活動が行なわれる。現在は国家の行政活動が優越しているが、未来においては司法活動が優越する、という(14)。その時代になると、宗教的対立や経済的対立も裁判によって決着がつけられる。いかなる社会秩序においても一定の不平等は不可避であるが、裁判が公正で不可避だと感じられれば、不満を抱く者はいない。それ故、あらゆる社会生活の領域に独立の裁判所を導入することが幸せな未来を築く前提である。この理想は、経済の領域では、生産者の自由な連合(libres associations)(15)が資本主義的個別企業に代わるという仕方で現実化する。このようにして、統計学的事実認識に出発したコストの研究は、過去の発展の必然的帰結と彼が信ずる社会的理念の定立を、その結論とするのである。彼は、未来においても「科学的宗教」が存在するであろう(それは各国において多様な宗派を許容するものである)と説くが(16)、彼の論述を見てきた我々には、この結論は少しも不思議ではない。
米国の社会学者ギディングズの著書『社会学原理』(Giddings, Principles of Sociology, 1896)は多くの版を重ねているが(17)、彼によれば、文化現象の決定的要因は共属意識・同族意識(consciousness of kind)である。動物社会におけると同様人類においても、その結合の起源においては、本能によって同種のものが集ろうとする。こうして家族や原始集団が生ずる。やがてこの結合は意識的な意志行為の結果として生ずるようになり、国家や民族が成立するが、それは単なる合同(composition)ではなく意図的組織化(constitution)である。その発展は、軍事的・宗教的時代、自由主義的・法律的文明、そして経済的・倫理的段階という三段階を経る。現在我々は、経済的・倫理的問題があらゆる他の問題に優先する、この第三段階の発端に立っている、と(18)。この共属意識は人類進歩の発現であって、時代とともに強固となり、キリスト教理念の影響下で、あらゆる階級や人種は一つの精神的人類共同体に結集する。また社会発展の目標は、民主制が全地球に拡大することでもある。努力目標は苛酷な超人を生み出すことではなく、人間的限界を超えることである(19)。「疑いもなく、民主制もまた苛酷な支配をもたらし、重大な過ちを犯し、我々が堪えかねて『天才と賢者の支配に戻してくれ』と叫ぶことになるかも知れない」。しかし民主制は、多くの過ちを犯しても、なお人類を啓蒙し、善導し、人類精神を高貴な決意へと鼓舞するであろう。また被抑圧者の重荷を軽くし、万人がその能力を発揮する機会を保障するであろう、と。こうしてギディングズは、多くの独創的個別研究を含んだこの著書を、社会的理想の提唱をもって閉じたのである。
これと正反対なのが、二人の著名な社会学者の未来構想である。マッケンジー(20)によれば、社会の任務は人間の精神的本性の現実化にある。民主主義も社会主義も、この目標を達成できず、人類をその道徳的理念に導き得るものは、貴族制のみである。現代の混沌とした社会からの脱出と社会の再建は、最賢者の自由な団結による他ない(21)。フランスの優れた社会学者ガブリエル・タルド(22)も、その最内面的本質において、個人主義者・反民主主義者である。一見するとこのことは彼の社会学理論と首尾一貫しているように見える。その理論によれば、社会生活の基本事実は摸倣で、それは物質界における波動や有機界における遺伝に対応している。摸倣の対象は発明(invention)で、技術のみならず宗教や道徳においても、発案は個人の独創による。それ故創造的個人は歴史の動因であり、大衆はその人物に受動的に追随するのみである。スペンサーと正反対に、タルドは、人類は漸進的に分化するのではなく、漸進的に同質化する。同質化は停滞であり、人類は天才の嚮導によってのみ停滞から脱出し得る。幸いにして常に個性的精神が支配し、普遍的平準化の埒外にある一領域がある。芸術の領域がそれである。人類の未来は芸術の発展にかかっている。タルドの社会学は鋭い心理学的分析をもって特色とするが、その結末においては理想、社会生活を美的・貴族的に形成するという理想に至ったのである。
現代社会学において名声を享受しているものに、二人のオーストリア人学者の著作がある。ルートヴィヒ・グムプロヴィッツとグスタフ・ラッツェンホーファーの著作である。以下では彼らの理論の傾向をごく簡潔に性格づけてみたい。グムプロヴィッツは(23)、人類発展の基本事実は社会集団間の闘争であるという。特に国家は人種闘争の中からのみ成立した。ある部族が他の部族を征服し、永続的に支配すると、元来同質的であった人群は市民社会へと発展し、民族的多様性に代えて経済的対立が生ずる。しかし何れにせよ支配と搾取が国家の本質的要素である。グムプロヴィッツはこの性悪説的社会像から、「国家には何の正当性もない」という、アナキズムに接近するような帰結を導き出さない。彼はただ、闘争と抑圧はどの時代にも必然的であると言うのみである(24)。平等という民主的理念は社会学的認識に反し、社会主義の理念はまさしく人間の本性に矛盾する(25)。法治国の理念もドイツの教授たちの発明したものに過ぎない。この超保守的社会学理論は、ルートヴィヒ・フォン・ハラーの議論を思い出させるところがあるが、グムプロヴィッツの最後の著書『社会哲学』(Sozialphilosophie, 1910)においては、それと反対の思想が説かれていることが注目される。ここでは彼は一連の自由主義的要請が定立されており、特に国家と教会の分離が要請されている。この老練な著者は、この国家教会分離論をも「社会学的に」正当化している(26)。
社会学者ラッツェンホーファーの基本観点はグムプロヴィッツと同一である。人類史は多様な社会集団間の対立と個人対団体の対立の上で展開する。淘汰によって最善の組織をもつ集団が徐々に優位に立つ。国家はその強制力によって個人と諸階級の利己心を抑制する任務をもつようになる(27)。未来国家はもはや階級支配国家ではなく、共通利益の代表者となるが、そのためには強力な権威と軍事力の完備が必要である(28)。ラッツェンホーファーは永遠平和理念の断乎たる反対者である(29)。決闘とて正当な社会制度であるとされる(30)。忘れてならないことは、こお著者がかつてオーストリア=ハンガリー軍の高級軍人だったことである。
第九章 結論
私は先に、現代社会学の諸体系は、その政治性・道徳性という点で、自然法論と殆ど同程度である、と述べたが、以上略述したところを見ても、それが正当であることが分かるであろう。諸体系の主観性は、既に文化的要素として何が最も重要かの(意識的・無意識的な)選択において作用している。社会生活において何が一番基礎的だと考えるか、人種か、宗教か、経済体制か、あるいは芸術か、という問題は、気軽に答えらるべきものではない。同様に過去の人類史がどのような発展段階を辿ったかについて叙述し、未来の予言に連ねることも、同様である(1)。
私はもちろん、「社会学はまだ確固たる地位を築いていない若い学問なのだから、小児病的なところがあるのは無理もないよ」という反論に曝されることは覚悟している。「これまでの社会学理論が様々にイデオロギー性を帯びていると言われればその通りかも知れないが、方法を改善していけば、だんだん客観的なものに成長していくよ」というのであろう。方法の改善という点については、社会事象を自然物と同様に考察し、因果関係の認識に限定しようという立場もある。エミール・デュルケームの『社会学方法論』(Les règles de la méthode sociologique)(2)はまさしくこういう思想を表明している。こういう原則を立てることは易しいが、実行することは難しい(3)。このことを面白く示すのは、デュルケーム社会分業論の主観的な要因に満ちた論考である。そのことは同書のドイツ人批判者(4)のみならず、フランス人社会学者からも公然と指摘されている。「デュルケーム氏は、分業が現実にどのように作用するかよりも、いかに作用すべきかを語り、その必然的結果よりも、理想的結果について語っている」と(5)。
デュルケームは、学問というものは元来「イデオロギー的段階」を経過するもので、自然科学とて帰納的方法が貫徹されるまでは、先入観念や先入概念に支配されていた、社会学もなお帰納的方法がまだ貫徹されてはいない、しかしやがては社会科学も自然科学の成果を特徴づけるような客観性に到達するであろう、と言う(6)。私はこのデュルケームの希望に全然賛成しない。すべての社会科学には必然的に主観的要素が付着するものであり、それが自然科学との原理的相違である。私はこの思想を何年も前に講義で述べた(7)。ここでその一部を再録することをお恕し頂きたい。
「社会科学の研究対象は、様々な程度に人間的なものに影響を受ける。自然科学に目的観念を持ち込むと形而上学的色彩を帯びない訳にはいかないが、社会科学や文化科学の領域にそれを持ち込むことは全く正当で、それは他から異質的なものを導入することではなく、目的は人間の文化生活において、我々の意識に直接的に了解可能な実効的動機である。そう言ったからといって、因果連関の追求を止めよという趣旨ではないが、文化科学においては、因果の範疇と並んで、目的的要因が支配しているのである」。
「このことと結び付くのは、文化的対象の評価の可能性と、価値的諸概念の構築である。宇宙論的・生物学的現象を価値的に批判するなどということは、科学として不可能であるが、文化現象はそのような価値判断の対象となり得る。また、社会科学は、自然科学と異なって、その研究対象に変更を加え得る力であるという点も、両者の相違である。自然科学の理論は、それが正しいにせよ間違っているにせよ、その研究対象に影響を及ぼして変化させることなどあり得ない。彗星の性質について天文学でどの説が有力かなどという事実は、彗星に何の影響も与えない。植物の新陳代謝の在り方が植物哲学の学説によって影響を受けるなどということは全然ない」。
「文化科学・社会科学においては、事態は全然異なる。国家の本質や、国家権力と被治者との関係に関する学説は、それが通説になれば、研究対象である国家もその影響を受けて変化し得る。このことは経済学の領域では明白で、自由貿易学派の学説の現実に与えた影響については、改めて喋喋するまでもないであろう。同様のことは文化科学の全般について当てはまる。キリスト教教義について新たな定式が正統となれば、研究対象であるキリスト教自体が、それ以前と別のものとなる。なぜなら、キリスト教とは、それを信ずる人々の宗教的信念に他ならないからである。これに比類すべきことは自然科学の領域にはない。化学上の学説は化学現象の性質や形態に何の変更を加えることもあり得ない」。
以上のことを念頭に置いて下さるならば、私がこれまで社会学の諸体系に加えてきた批判(Kritik)は、決して非難(Vorwurf)でないことが理解して頂けるであろう。私が指摘した、理論への主観的なものの介在は、社会科学的思惟の必然的随伴物である。理想の定立や倫理的・政治的原則の主張などは、場合によっては現実の正確な記述以上の価値をもつかもしれない。「客観的科学のエチケットに固執するよりも、これらの要請を効用(Nützlichkeit)という見地から推奨すれば、それで充分ではないか」という意見もあるかも知れない。しかしそういう意見については、人間精神というものは、最聖なる信念に関しては、そういう効用の考慮のみでは満足しないものである、ということを指摘せざるを得ない。このような信念に関しては、理念に聖性を賦与しようとする志向が奪い難きものとして存在する。その理念が神意であるか、至高の倫理原則であるか、自然法であるか、はたまた歴史発展の自然法則であるかに関わらず・・・。
第一章註
(1) 倫理的社会理論の創始者はプロタゴラスである。それはやがてプラトンの体系において頂点に達した。拙稿“Protagoras: der älteste Theoretiker der Demokratie,[最古の民主主義理論家プロタゴラス]”Zeitschrift für Politik, III, (1910) p.205.
(2) 「それ以前の政治的諸原則に代えて、中世的社会秩序の理論は、神に発する権威を置いた。こうして一つの社会形而上学が成立した。その基礎は普遍的な形而上学にあり、それは当時知られていた限りでのすべての歴史的・社会的現象を包摂するものであった」(Dilthey, Einleitung in die Geisteswissenschaften[精神科学入門],
I, p.433)。確かに中世にも既に自然法論の形跡がないではなかったが、全体の形成要因は神権制的観念であった。自然法論が純粋な形で完成するのは、宗教的・教義学的前提から解放されて後のことである。それ故神権制的国家論と自然法的国家論は厳しく対立するものである」(Otto Gierke,
Johannes Althusius, 2nd ed., S.338)。
(3) もっとも自然法論に対するこの闘争には、理論的動機のみならず、政治的動機も重要な役割を果たしていた(第六章参照)。
(4) この点についてはHans von
Voltelini の最近の論文“Die naturrechtlichen Lehren und die Reformen
des 18. Jahrhunderts[18世紀における自然法諸教説と諸改革],”Historische Zeitschrift III.Folge, Bd. 9, pp.67ff.を参照せよ。民法典編纂において果たした自然法論の重要な役割は、現在では一般的に承認されている。特にMoriz Wellspacherの論文“Das Naturrecht und das ABGB[自然法論とオーストリア民法典],”Festschrift zur Jahrhundertfeier des österreichschen bürgerlichen Gesetzbuches, I, (1911) pp.175ff.
(5) 歴史学派の国家論については、Gunnar
Rexiusの論文“Studien zur Staatslehre der historischen
Schule[歴史法学派国家論研究], ” Historische Zeitschrift III. Folge (1911)を参照せよ。この論文は、同学派の国家論に、バークが(ゲンツやレーベルクを通じて)強い影響力をもったことを指摘している。
(6) 歴史学派の法理論に自然法的要素があることについては、Karl Bergbohm, Jurisprudenz und
Rechtsphilosophie[法学と法哲学] I, pp.488ff.参照。
(7) 歴史学派の特質として、過去の理想化、それに歴史の中の伝統という固定的要因を一方的に重視して、変化の要素を無視していることも批判された。発展の概念に関しては、Adolf Merkel,
Grünhut’s Zeitschrift III, pp.526ff.を参照せよ。歴史学派は歴史を記述するのみならず、歴史の中に綱領・当為を見た。 歴史学派の綱領の中での統治者の任務については、Savigny, Zeitschrift
für geschichtliche Rechtswissenschaft I, p.386参照。
(8) 自然法概念にはもう一つのものがある。それは「実定法の上または横にある拘束的規範」というもので、ベルクボームの著名な著書はそれに依拠している。彼は自然状態、それから脱却する社会契約という想定は自然法思想の概念要素ではないというのである(op.cit., p.136)。それ故彼は、自然法論は十八世紀後半に初めて登場した、なぜならその時期に二重の法体系という思想が初めて登場したからだ、という。しかしこのように自然法概念を定式化することは、歴史的発展と整合的でないであろう。
(9)
その古典は、周知のように、Otto Gierke, Johannes
Althusiusである(第二版は一九〇二年)。なおFrédéric Atger, Essai
sur l’histoire des doctrines du contrat social[社会契約説史論], 1906参照。
(10) 神権主義的色彩を帯びた社会契約論は、特にいわゆる「暴君殺害論者」たちの作品に共著に表明されている。特にユニウス・ブルートゥスの『暴君に対する自由の擁護』(Junius
Brutus, Vindiciae contra tyrannos,
1580)は、本文で略述した「共同担保債務」という理論構成の発見者である。
(11) Justus Möser, Vermischte Schriften, I, pp.335ff.
(12) このメーザーの家産的・自然法的理論は、当時大いに称揚されたもののようである。フィヒテもその国家哲学的諸著書において、わざわざ彼の理論を反論する労をとっている。曰く、「『大地主の地位のみが真の所有権であり、彼らのみが国家を構成する階級である。他のすべての居住者は彼らの好む条件下で許容を買い取らねばならない』という議論を我々は聞かされたのである」と(Der geschlossene Handelsstaat[閉鎖商業国家論], Buch 1,
Kap. 7)。彼の著書「国家論、原始国家と理性帝国の関係について」(Die Staatslehre oder das Verhältnis des Urstaates zum Vernunftsreiche[国家論、ないし原始国家と理性の帝国との関係について], p.37
(Ausgabe von F. Medikus, 1912)でも同旨が述べられている。
(13) しかし初期社会主義のこの法学的論理展開を詳細に研究した業績は、これまでのところ存在しない。社会主義史文献は汗牛充棟であるが、その叙述の対象の大部分は経済理論と実際的提言である。アントン・メンガーの著名な『労働全収権論』(Anton
Menger, Das Recht auf den vollen
Arbeitsertrag[労働全収権論])でさえも、社会契約論の適用については何も述べていない。
(14) これらの諸文章は「民衆の護民官」(Tribun du peuple,No.34 (1795))や『バブーフ演説集』(Victor Advielle, Histoire de Gracchus Babeuf[グラックス・バブーフ伝], II p.34)、及びAlfred
Espinas, La philosophie social du XVIIIe
siécle[18世紀社会哲学], 1898よりとられたものである。
(15) Étienne Cabet, Voyage
en Icarie[イカリア国航海記], 1840, 特に pp.554,5.
(16) Pierre Joseph Proudhon, L’idée générale de la révolution[革命の一般的観念], pp.116ff.
(17) Atger, op.cit., p.376所掲の引用参照。
(18) 「連合主義の体系においては、社会契約は単なる擬制以上のものであり、現実に提案され、討論され、投票され、採択される実定的契約である」(Proudhon, Du principe fédératif[連合主義論], p.67)
第二章註
(1) フィヒテの国家論の本格的な研究書は未だ存在しない。ジャネの著書(Paul Janet, Histoire de la science politique[政治学史], 1872)も彼の第一作しか論じていない。
(2) メディクス編の最近のフィヒテ著作集(Leipzig
1912)は残念ながら不完全で、例えばフランス革命論が入っていないから、私はフィヒテ自身による旧版から引用する。
(3) 「歴史上の国家論は大部分強者の権利論である。正義に即していえば、市民社会は契約以外のものに依拠し得ないのに」(Fichte, Werke VI, p.101)。
(4) Fichte,
op.cit., p.160.
(5) Op.cit., p.171.
(6) 「法律の名において正義を蹂躙する興奮した群衆の熱狂もまた恐るべきものである」。
(7) ここにロックの思想とルソーの思想が結合されている。フィヒテによれば、国家そのものは社会契約によって創設されるが、財産契約と安全保障契約がそれに先行する。彼によれば、ロックは財産を法的根拠となり得ないはずの労働のみによって基礎づけたところに誤りがあり、ルソーはまだ権利となっていない権利をなぜ社会契約によって放棄し得るのか不明確である。
(8) Medicus版Werke III (Leipzig
1910, Verlag von Felix Meiner)。
(9) 「自らの持ち分を保持すること、しかもそれを完全な形で維持すること、これなしには人は他の持ち分を放棄するはずがない。放棄だけして何も得ないなどということはあり得ない。何も得ない者は、好むことのすべてをなすという根源的権利をそのまま保持し続けるのである」(Der geschlossene Handelsstaat, Buch I,
Kap.7)。
(10) 「だが私がここで問うているのは力(Gewalt)ではなく、法(Recht)なのだ」(同所)。
(11) 「この安全保障を与える者は国家である。安全保障は自ずから実現するだろう、お天道様と米の飯はついて来るだろう、などと考えるのは、正しき国制からみて不真面目である」
(12) フィヒテはこの階級を技芸者たち(Künstler)と呼んでいる。
(13) 「お前はこの業種から手を引け、俺はあの業種から手を引く。俺はお前に俺の生産物の引き渡しを約束するから、お前も俺にお前の生産物の引き渡しを約束せよ」と。
(14) Sonderausgabe von F.Medicus, Leipzig, 1912.
(15) 「強制は、強制者が全世界に向かって、自分の判断の不可謬性を示す用意がある時、合法的である」(!)。
第三章註
(1) 私は一八九八年から一九一〇年の間に、スピノザの国家哲学に関する一連の論考を公にした(Grünhuts Zeitschrift、Archiv für Geschichte der Philosophie、Schmollers Jahrbuch、Kohlers Zeitschrift für Bundes- und Völkerrechtに掲載)。この主題に関する最近のすぐれた業績はHeinrich Rosin, “Bismarck und Spinoza,” Festschrift für Otto Gierke, pp.383ff.
(2) homo sui juris (自分固有の権利に依拠する人間)という全く法学的な概念でさえ、スピノザにおいては心理学的・リアリズム的意味のものに変じている(vgl. Menzel, Grünhuts Zeitschrift, 32, pp.77ff.)。
(3) スピノザ社会理論のこの決定論的性格は、現代社会学の精神的親近性を示している。
(4) スピノザは、「線、平面、立体のような幾何学的図形のように」考察する、という(『政治論』第四章)。
(5)「私は批判するために書くのではない。各民族は各々その理性・行動原理をもっている」(『法の精神』「序言」)
(6)オーギュスト・コントはモンテスキューが自分の先駆者であると明言している。ただモンテスキューが強調した気候・地勢等は人類発展において副次的な役割を果たすのみだ、と説いている(Alengry, La sociologie chez Auguste Comte[オーギュスト・コントの社会学], p.394)。
(7) 雑誌Nouveux Ecclésiastiquesにおいて。
(8) “Défence de l'ésprit des lois[『法の精神』擁護論], ” Genève, 1750.
(9) 彼は『法の精神』の末尾で、「本書の中にスピノザ主義はない」と宣言している。この点に関してはCharles Oudin, Le spinozisme de Montesquieu[モンテスキューにおけるスピノザ主義], 1910という文献があるが、入手できなかった。
(10) モンテスキューは、制定法以前にも法的関係が存在したことを指摘し、「制定法の命令や禁止がなければ正義も不正もないと言う者は、円を書く前には半径がないと言っているようなものだ」と言う(『法の精神』I,1)。
(11) Hume, Essay XII, 「原始契約について」。
(12) Hume, Works III, p.444.
(13) Hume, Works, III, pp.110-115.民意にも色々なものがあり、ヒュームはそれを利害の民意(opinion of interest)と正義の民意(opinion of right)に分ける。前者は国家制度の福祉的効果についての一般的感情であり、正義の確信に基づく忠誠である。
(14)“Idea of a Perfect Commonwealth,” Essay XII, Works III, p.490).
(15) ヒュームの国家論・社会理論は、従来殆ど文献的に顧みられていない。
(16) Benedikt Güntzberg, Die Gesellschaft- und Staatslehre der Physiokraten[重農主義者たちの社会理論と国家論], 1907 (Staats- und völkerrechtliche Abhandlungen von Jellinek und Anchütz, VI,3)は、材料は豊富だが明晰性に欠ける。
(17) "Le droit naturel[自然法]," Daire, Physiocrates, I.
(18) Daire, p.45.
(19) ル・メルシエも「個人に自己保存に努める自然権を承認しないような人物が存在するなどとは信じられない」と言っている(『政治共同体の自然的・必然的秩序』(L'ordre naturel et essentiel des sociétés politiques)。彼は「それ故、各人が自己の人身と努力・労働によって獲得したものについて、排他的所有権をもつということも、自然そのものから導かれる」と述べて、自己保存の自然権から所有権を導きだしているが、これはかなり強引な論法である。
(20) ケネーは、「ここで自然法則(loi physique)とは、人類にとって最も有利なように万象を統制する事象の運行である」と言っているが、それは同時に神意に基づく秩序である。
(21) 以下に述べるところについては、Wilhelm Hasbach, Die allgemeinen philosophischen Grundlagen der von François Quesnay und Adam Smith begründeten politiscen Ökonomie[ケネーとスミスの創始した経済学の一般哲学的基礎], pp.60ff.(ケネーとスミスの創始した経済学の普遍的な哲学的基礎)及びBiermann, Staat und Wirtschaft, I, Kap.III参照。
(22) それ故国家権力の主要な任務は行政と司法にある。
(23) こうして「合法的専制主義」(despotisme légal)の説が成立する(vgl. Güntzberg, p.103)。
(24) この点については、Hector Denis, "Die physiokratische Schule und die erste Darstellung der Wirtschaftsgesellschaft als Organismus[重農学派と経済社会有機体説の起源]," Zeitschrift für Volkswirtschaft, Sozialpolitik und Verwaltung, VI, 1897, pp.89ff.
第四章註
(1) パリで「社会学文庫」(Bibliothèque sociologique)が発刊され、既に40冊が刊行されているが、すべてがアナキズムの文献である。
(2) この点については第六−八章参照。
(3) Cf. Ludwig Woltmann, Die Darwinische Theorie und der Sozialismus[ダーウィン理論と社会主義], 1899, pp.32-176がそれまでこの問題について公刊された諸著書を論評している。それ以後については、一九〇三年以降『自然と国家』(Natur und Staat)という叢書が自然科学的社会理論の懸賞論文集を出版している(実際の出来には精粗の別があるが)。なおVgl. Michael Hainisch, Der Kampf ums Dasein und die Sozialpolitik[生存闘争と社会政策], 1899.社会ダーウィン主義についての最近の、そして極めて周到な研究はRudolf Goldscheid, Höherentwicklung und Menschenökonomie[高次の発展と人間的経済], erster Band, 1911.
(4) 註(3)の「我々は進化論の原理から何を学ぶか」という懸賞論文集の審査委員は、その応募諸論文を見て、次のように言っている:「応募論文を一覧すると、進化論の原理から導き出される実践的帰結がいかに多様かを知らされる。教皇党以外の政治傾向で、唱えられていないものは殆どない」(Natur und Staat[自然と国家], I, p.20)。
(5) ブーグレが、相争うダーウィン主義的社会学者たちは、「ダーウィニズムの切れっぱしの売り込み合戦をしている」「各人おのおの、社会を自分の理想へと導こうとして、自然科学の権威を利用しようとしている」と言っているのは当っている(Revue de Métaphysique, Jan. 1910, pp.79ff.)。
(6) 例えば、Otto Ammon, Die Gesellschaftsordnung und ihre natürlichen Grundlagen[社会秩序とその自然的基礎], 1895.及びAlexander Tille, Von Darwin bis Nietzsche[ダーウィンからニーチェへ], 1895.
(7) Leopold Jacoby, Die Idee der Entwicklung[発展の観念]. なおBouglé, La démocratie devant la science[科学の観点からの民主制], 1904.
(8) Thomas Huxley, Der Daseinskampf in der menschlichen Gesellschaft[人間社会における生存闘争], 1888.[The Struggle for Existence in Human Society, 1888]
(9) Enrico Ferri, Sozialismus und moderne Wissenschaft[社会主義と現代科学], 1895(tranlated to German by Hans Kurella)[socialismo e scienza positiva[社会主義と実証科学], 1894]
(10) Jacques Novikow, Les luttes entre société humaine[人間社会の中の闘争].
(11) Steinmetz, Die Philosophie des Krieges, 1907.
(12) キッドは、単なる理性は人類の発展に不可欠な生存闘争を除去してしまうから、愛他感情や永続的選別をもたらすためには宗教が必要である、という(なお第八章参照)。
第五章註
(1) 彼の主著『現代社会科学』(Alfred Fouillée, La science sociale contemporaine[現代社会科学])は一八八五年に刊行され、以後版を重ねている。私は第三版(一八九六年)を引用する。
(2) 彼はこの方向を「フランス的方法」と呼ぶが、これが正当な命名であるかどうか、疑問であろう。
(3) フイエは社会の有機体的性質を示す生理学的・心理学的証拠を詳述する。この点についてはVgl. Paul Barth, Philosophie der Geschichte[歴史哲学], pp.145ff.
(4) Fouillée, pp.128ff. それはまた刑法改革にも連なる(p.307)。
(5) 「政治に適用された生物学の帰結はリベラリズムである」(!)(p.132)
(6) pp.392ff. 配分的正義と均衡的正義という正義の二類型も、フイエは、有機体と契約という人間社会の二面性から説明する。
(7) 「人は人間共同体の債務者として生れてくる」(Bourgeois, p.116)。
(8) ブルジョワはここで、民法典一九七〇条・一九七一条を援用し、合意の推定であると言う(p.132)。更に「この準契約は遡及的に合意された契約に他ならない」とも言う。
(9) 「社会全体の問題は、会社の株主が日々解決している問題と同一である」(!)
(10) 上述した理論の追随者シャルル・アンドレルは、「準契約には三つのものがある。即ち個人間の準契約、国家と個人の間の準契約、それに現存世代と未来世代の間の準契約である」と説いている(Charles Andler, “Du quasi-contrat social de M. Léon Bourgeois[レオン・ブルジョワの準社会契約論], ”Revue de métaphysique et de morale, V, 1897, pp.520ff.)。まさしく自然法の再生である!
(11) 「社会の分化は分業へと、従って契約へと向かう」(Durkheim, Division du travail social[社会分業論], p.138)。デュルケームはある箇所(p.133)で、自然的有機体における栄養の分配を「生理学上の契約」とよんでいる。この点についてはBarth, p.296参照。デュルケームは、その後の著書ではずっと控え目になっている(第9章参照)。
(12) Gaetan Combe de Lestrade, Éléments de sociologie[社会学基礎論], 1896, p.13.
(13) Guillaume de Greef, Introduction à la sociologie[社会学入門], 2nd ed.,1911, I, 特に pp.121-169.
(14) グレーフは封建的主従関係(pacte feudal)をもその事例であるとしている(p.146)。
(15) グレーフは、同書第二巻においても繰り返し契約論に回帰している。「契約こそが社会の網の目の特徴である。契約の増進は社会の増進である」(p.8)。社会学者ラウール・ドゥ・ラ・グラスリーもこの思想のファンである。曰く、「契約はしばしば黙示のものであるが、黙示だからといってその実効性が劣るということは決してない」(Raoul de la Grasserie, Les principes sociologiques du droit public[公法の社会学的原則], 1911, p.377)。
第六章註
(1) コントの社会学についての最近の本格的研究書は、Franck Alengry, Essai historique et critique sur la sociologie chez Auguste Comte[オーギュスト・コント社会学についての歴史的・批判的論集] , Paris, 1900 [初版1984].他にHeinrich Waentig, Auguste Comte und seine Bedeutung für die Sozialwissenschaft[オーギュスト・コントとその社会科学に対する意義], 1894, Paul Barth, Philosophie der Geschichte, I, pp.24ff.
(2) Condorcet, Esquisse d'un tableau historique des progrès de l'esprit humain, 1795.[『人間精神進歩の歴史』(前川貞次郎訳)]
(3)コント初期の一著作の題は『社会再組織に必要なる科学的工作案』(Plan des traveaux scientifiques pour réorganizer la société, 1822[堀秀彦他訳])というものである。
(4) 前註に示した著書以外では、「科学と知識人に関する哲学的諸考察(Considérations philosophiques sur les sciences et les savants)」「精神の力に関する諸考察(Considérations sur le pouvoir spirituel)」がある。この『小品集』は『実証政治体系(Systme de politique positive)』第四部(pp.566ff.)に付録として収録されている。
(5) 「その目的は、形而上論者や革命家たちの非合理な主張がもたらした危機を有機的原則(les principes organiques)に基づく新たな秩序に置き換えることである」
(6) 以下同書はLittré版から引用する。
(7) 従って私も以下では、このコントの最後の著作には立ち入らない。
(8) 英国憲法もコントの眼鏡に適わない(Cours IV, p.109)。現代の立憲君主制も神学的神寵論、形而上学的国民主権論の非嫡出子だという(Bd. IV, pp.81ff.)。
(9) 権利(droit)の概念は反道徳的・無政府的で、再組織された社会においては義務のみが存在する、と言う(Discours préliminaire I, p.361)。
(10) もっともコントは中世とカトリック階層秩序の讃美者で、「カトリシズムとともに滅ぶのは教義であって、その組織ではない。カトリック的体制は科学の基礎において再建され、未来の社会組織の基礎となるであろう」と言う(Cours V, p.344)。
(11) もっとも人間社会にはその固有の法則があり、自然科学的準則を社会科学に単純に移すことはできない、とも言う(Cours VI, p.729)。
(12) 「社会学」という名称を案出する以前の初期の作品においては、彼は「社会物理学」(physique sociale)という表現を用いていた。
(13) 「精神的秩序(ordre intellectuel)がすべての真の秩序の第一次的基盤である」(Cours IV, p.138)
(14) この法則の価値については意見が分かれている。バルトは前述の著書でその重要性を認めているが、オーリューは「全社会学者の精神から三段階法則なるものへの迷信的信仰がが除去されたならば、社会科学にとって大いなる福音である」と言っている(Hauriou, La science sociale contemporaine[現代社会科学])。ハクスリーも、全く否定的で、「学問に従事する者は、三段階説の法則のようなものを無視するのが慣例である」と言っている(Reden und Aufsätze[講演と論文], 独語版Fritz Schultze訳 1877, pp.149ff.)。
(15) Cours VI, pp.41,42,276,760.
(16) コントはこの科学者を「知識人」(savants)とか「卓越した知識人」(supérieurs intellectuels)などとも呼ぶ(Cours IV, p.48)。科学においては、自分でよく分かっていない見解を述べることは許されないから、それより更に困難な知識に関わる政治に関してはなおさらである(Cours IV, p.55)。これは既にソクラテスが表明した見解である(クセノフォンやプラトンの伝えるところによれば)。
(17) この教育は知育のみならず徳育も含む(Cours IV, p.57)。
(18) Cours VI, p.457.
(19) これにも序列があり、最高位は銀行家である(VI, pp.501,2)。
(20) 両者の共通点はまだある。プラトンもコントも新社会への過渡期に独裁(僭主制(Tyrannis))を予見した。両性の完全な平等を主張した。思想の自由を否認した。どういう訳だか従来のコント論でプラトンとの共通性を指摘したものはない。
(21) 詳細に批判したものとしてMichel, L'idée de l'état[国家の観念], pp.438ff.
(22) 彼によれば、表現の自由というドグマは革命的形而上学の一端である(Cours V, p.448)。
(23) もっともこの思想は、コント著作活動の第三期に初めて登場したものである。
(24) Cours V, p.446.
(25) それ故コントは社会主義者と看做されていない。
(26) 例えば有名なコントの「学問序列論」なども多くの論議を呼んだ面白いものだが、本書の主題と関わらないので、立ち入らなかった。
第七章註
(1) それは生物学的比喩に満ちている。社会集団にも外皮(Ektoderm)と内皮(Entoderm)と中皮(Mesoderm)があって、外皮は対外防衛に当る戦士階級で、内皮は栄養を作る生産階級、中皮は分配を担当する商人階級だだ、などと言う(§§238, 244ff.)。しかしこの哲学者は、比喩が自分の政治的立場に危険になりそうなところでは有機体説をひっこめる。
(2) Barth, Philosophie der Geschichte, pp.100ff.; Leopold von Wiese, Zur Grundlegung der Gesellschaftslehre[社会理論の基礎], 1906.
(3) スペンサー自身は、その社会理論は「社会的脈絡の中に存在する秩序」の顕在化、自然法則の社会への適用に過ぎず、そういう矛盾を犯していないと考えている。この思想は重農主義者の「自然的秩序」(ordre naturel)の理論を想起させる(第三章参照)。
(4) 最初の著書『社会静学』(一八五〇年)においても、『人間対国家』(一八八六年)においても、更に『正義』(一八九一年)においても、「万人は、他者の有する同一の自由と両立する限りで、自己の能力を完全に発揮する完全な自由への権利を有する」という定式を主張している。
(5) スペンサーは、ダーウィン[の『種の起源』(一八五九年)]より以前の著書『社会静学』において、弱者を淘汰する「自然の規律」について語っている。滅亡の運命をもつ個体を人為的手段を用いて生存させることは正当でない、という(p.307)。
(6) ブルックス・アダムズは、その著『文明とその没落の法則』(一八九七年)[The Law of Civilization and Decay[文明の法則とその衰退], 1896の独語版]において、軍事的・宗教的時代に対比して、経済優位の文明は堕落の段階である、と説いている。
(7) ハックスリーの以下の論評は的確である。曰く、「スペンサーの説くように、筋肉が、神経には収縮に干渉する権利がないと主張したり、分泌腺が他の分泌腺と喧嘩別れをする権利を主張したり、細胞の一つ一つが独立して自己主張したりしたら身体はどうなるのだ。実際には身体の最高権力が有機体全体のためを図り、鉄の鞭をもって各分肢を支配している。血液でさえも、集会を開いたりすれば騒擾罪に問われ、脳は専制君主としてそれに厳罰を加える」と(Soziale Essays, deutsch von Tille, S.170)。ハックスリーのこの論文は、スペンサーの「国家ニヒリズム」を見事に批判している。
(8) The Great Political Superstition[大きな政治的迷信], pp.78ff.
(9) op.cit., p.82.
(10) 「多数決は、組織の目的に関する事項では拘束力を持つが、あくまでその限度内である」(p.83)。
(11) op.cit., p.87.
(12) スペンサー自身、『倫理学の諸事実』(Tatsachen der Ethik, 1879. 独語版Vetter訳 [Data of Ethics, 1879])の「序文」において、「正しい社会秩序の基本原則は、私がずっと以前から構想していたことである」と認めている。彼はこの原則に、自然科学の領域における哲学的研究によって、一層深い基礎づけを与え、それを生成消滅の最高の法則の下に照らし出そうとしたのである。『自伝』(Eine Autobiographie, 独語版(Ludwig and Helene Stein訳, 1905, pp.99ff.))[An Autobioraphy, 1904])の中でスペンサーは、既に一九四二年に雑誌Nonconformistに発表した論文「政府の本来の領域」(The Proper Sphere of Government)において、自分の政治理論の基本思想は既に示されている、と言っている。
第八章註
(1) この理論を詳細に紹介し批判した文献としては、マサリック『マルクス主義の哲学的・社会学的基礎』(Die philosophischen und soziologischen Grundlagen des Marxismus, 1899)とハマッヒャー『マルクス主義の哲学体系と経済学体系』(Emil Hammacher, Das philosophische und ökonomische System des Marxismus, 1909がある。更にPaul Barth, Philosophie der Geschichte, pp.304-364参照。
(2) アキレ・ロリアによれば、これが唯一正しい方法である(Achile Loria, Die Soziologie, ihre Aufgabe, ihre Schulen und ihre neueste Fortschritte[社会学、諸学派、その任務、近年の進歩], 独語版、Heiß訳,、Jena, 1901.[La socilogia: il suo compito, le sue scuole, i suoi recenti progressi, 1900] )。フェリは、このロリアの言葉について、「社会主義は社会学の論理的・必然的な到達点である」と言っている(Annales de l'Institut international de sociologie I, p.166)。
(3) それへの歴史学の見地からの立ち入った批判はBernheim, Die historischen Methoden[歴史学の諸方法], 3.Aufl., pp.670ff.国家論の見地からは、Michel, L'idée de l'état[国家の観念], pp.511ff.
(4) 『経済学批判序説』(一八五九年)において次のように言う、「生産関係の総体が社会の経済構造を構成し、その上に法的・政治的上部構造が聳え立つ。その構造に特定の社会意識形態が対応するのである。物的生活の生産様式が社会的・政治的・精神的生命過程一般を規定する」、と。
(5) Benjamin Kidd, Social Evolution[社会進化]. 書評はPfeiderer, Jena, 1895.
(6) Maurice Hauriou, La science sociale traditionnelle[伝統的社会科学], Paris, 1896.著者は法学者、『行政法講義』(Cours du droit administratif)という好著の著者として有名である。
(7) 「必要なのは信仰の目覚めである」(Hauriou, pp.241ff.)。
(8) 「目指すべきは半ば中世的な組織(l'organisation d'un demi moyen âge)である」(p.275)。
(9) pp.138ff.
(10) Lester F. Ward, Pure Sociology[純粋社会学], 1903; Applied Sociology[応用社会学], 1907. 前者には独訳がある(Innsbruck, Wagner)。
(11) Vgl. Gumplowicz, Geschichte der Staatstheorien[国家論史], pp.426ff. (“Ward contra Spencer”)
(12) 社会学におけるこの潮流はゴビノー伯爵の著書『人種不平等論』(Essai sur l'éigalité des rasses humaines, 1853)に始まる。更に参照せよ、Lapouge, Les sélections sociales[社会的選択], 1896, Gustave Le Bon, Les lois psychologiques de l'évolution des peuples[諸民族進化の心理学的法則], 1900.
(13) Les principes d'une sociologie objective[客観的社会学の諸原則], 1899; L'éxprience des peuples[諸民族の体験], 1900.
(14) 司法が支配する時代がくる(L'éxprience des peuples, pp.185-6)。
(15) Coste, op.cit., pp.533ff.
(16) pp.405ff.
(17) ドイツ語版は1911年、「哲学・社会学叢書」(Philosophisch-soziologische Bücherei)から刊行されている。
(18) Giddings, pp.269ff.(German ed.)
(19) Giddings, p.418.
(20) J.S. Mackenzie, An Introduction to Social Philosophy[社会哲学入門], 1896.
(21) Mackenzie, pp.390-8.
(22) 主著は、『摸倣の法則』(La loi de l'imitation)、『社会の論理』(La logique sociale)』、『普遍的対立』(L'opposition universelle)、『権力変遷論』(La transformation du pouvoir)』など。小著『社会法則』(Lois sociales)に独訳がある(Philosophisch-soziologische Bücherei, Bd.4)。
(23) 著書:『人種闘争』(Der Rassenkampf, 1883)、『社会学原論』(Grundriß der Soziologie, 2.Aufl., 1905)、『社会学的国家観念』(Die soziologische Staatsidee, 2.Aufl., 1902)、『社会学論集』(Soziologische Essays, 1899)。
(24) フランツ・オッペンハイマーは、グムプロヴィッツに密接に追随しているが、 この点で師と分岐する。彼は現代国家は確かに掠奪国家・封建国家と同一の性格のものであるが、未来にいては「自由な市民共同体」(freie Bürgerschaft)が登場するだろう、という(Franz Oppenheimer, Der Staat[国家], p.150)。
(25) 国家は常に少数の支配者に支配される。大衆は怠惰で愚昧である(Rechtsstaat und Sozialismus[法治国と社会主義], pp.503,505)。私有財産の廃止など不可能であり、廃止などしたら全人類史の逆行である(Essays, p.80)。
(26) Sozialphilosophie[社会哲学], pp.103,144.
(27) 「文明にとって重要なことは、堅固な権威を創造し、権威への信仰を確固たるものにすることである」(Soziologie, p.157)。
(28) Soziologie, p.207ff.
(29) 永遠平和の主張者は「女と女みたいな男である」(p.108)。
(30) 未来を支配するものは、適式の決闘である(p.137)。
第九章註
(1) この点で例外をなすのは、ゲオルク・ジンメルの社会学的諸業績、特にその著『社会学』(Soziologie, 1908)である。彼は発展法則の定式化を放棄し、もっぱら社会生活の形式を心理学的基礎から分析した。例えば原因と結果、優位と劣位等。フェルディナント・テニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(Ferdinand Tönnies, Gemeinschaft und Gesellschaft)(最近第二版が出た)も社会学的基本類型についての優れた研究を含んでいる。
(2) ドイツ語版はPhilosophisch-soziologische Bücherei, Bd.5.
(3) 例えばデュルケームは、正常なものと病理的なものの区別を立てているが、よく考えてみればそんな区別は成り立たず、結局主観的判断の領域に移行してしまう。彼は「社会的事実が正常であるとは、特定の社会的型(Typus)に関し、その発展の特定の様相において、そのような性質(Art)をもつ社会の、進化に適合した様相において、平均的であることを意味する。この方法の結果は、考察対象である社会的型において、共同生活の一般的条件のうちに、現象の普遍性が基礎づけられている時、検証することができる」と言っている(p.92)。この基準に従って、社会主義が現代社会において、正常な現象なのか病理的現象なのか、判断を試みて欲しい![できっこないだろう]
(4) シュモラーは、「デュルケームは、各人が自分にふさわしく適合するような在り方に到達する民主的未来理想を構想し、社会分業がやがて平等と正義を基調とする連帯状態をもたらすことを要請している」と論評している(Schmollers Jahrbuch, XVIII, p.286)。vgl. Durkheim, Division de travail[社会分業論], pp.427ff.
(5) Bouglé , Qu'est-ce que la sociologie?[社会学とは何か] (Paris, 1907), p.143.
(6) Die Methode der Soziologie[社会学の方法], (独語版) pp.39ff.
(7) Natur- und Kulturwissenschaft[自然科学と文化科学], Leipzig, 1903.
Adams, Brooks (1848-1927)
Advielle, Victor (1833-1905)
Alengry, Franck (1865-?)
Althusius, Johannes (1557-1638)
Ammon, Otto (1842-1916)
Andler, Charles (1866-1933)
Anschütz, Gerhardt (1867-1948)
Atger, Frédéric (1881-?)
Babeuf, Gracchus (1760-1797)
Barth, Paul (1858-1922)
Bergbohm, Karl (1849-1927)
Bernheim, Ernst (1850-1942)
Biermann, Wilhelm Eduard (1878-1937)
Bonald, Louis Gabriel de (1754-1840)
Bouglé, Célestin Charles Alfred (1870-1940)
Bourgeois, Léon (1851-1925)
Brutus, Junius→Duplessis-Mornay
Burke, Edmund (1729-1797)
Cabet, Étienne (1788-1856)
Combes de Lestrade, Gaetan (1859-1918)
Comte, Auguste (1798-1857)
Condorcet, Marie Jean Antoine Nicolas Caritat, Marquis de (1743-1794)
Coste, Adolphe (1842-1901)
Daire, Eugène (1798-1847)
Darwin, Charles Robert (1809-1882)
Denis, Hector (1842-1913)
Dupont de Nemours, Pierre Samuel (1739-1817)
Durkheim, Émile (1858-1917)
Dilthey, Wilhelm (1833-1911)
Duplessis-Mornay, Philippe (1549-1663)
Espinas, Alfred Victor (1844-1922)
Ferguson, Adam (1723-1816)
Ferri, Enrico (1856-1929)
Fichte, Johann Gottlieb (1762-1814)
Fouillée, Alfred (1838-1912)
Gentz, Friedrich von (1764-1832)
Giddings, Franklin Henry (1855-1931)
Gierke, Otto von (1841-1921)
Gobineau, Arthur Comte de (1816-1882)
Goldscheid, Rudolf (1870-1931)
Grasserie, Raoul de la (1839-1914)
Greef, Guillaume de (1842-1924)
Grotius, Hugo (1583-1645)
Guplowicz, Ludwig (1838-1909)
Güntzberg, Benedikt Elias (1881-)
Hainisch, Michael (1858-1940)
Hammacher, Emil (1885-1916)
Hauriou, Maurice (1856-1926)
Heiß, Clemens (1865-?)
Hobbes, Thomas (1588-1679)
Hume, David (1711-1776)
Huxley, Thomas Henry (1825-1895)
Jacoby, Leopold (1840-1895)
Janet, Paul (1823-1899)
Jellinek, Georg (1851-1911)
Kidd, Benjamin (1858-1916)
Kurella, Hans (1858-1916)
Lapouge, Georges Vacher de (1854-1936)
Le Bon, Gustave (1841-1931)
Le Mercier de la Rivière, Pierre-Paul (1719?-1792?)
Loria, Achille (1857-1943)
Mackenzie, John Stuart (1860-1935)
Maistre, Joseph de (1754-1821)
Masaryk, Tomas (1850-1937)
Medicus, Fritz (1876-1956)
Menger, Anton (1841-1906)
Merkel, Adolf (1836-1896)
Michel, Henry (1857-1904)
Mirabeau, Victor Riquetti (1715-1789)
Montesqieu, Charles Louis de Secondat, Baron de la Brède et de (1689-1955)
Möser, Justus (1720-1794)
Napoléon Bonaparte (1769-1821)
Nietzsche, Friedrich (1844-1900)
Novicow, Jacques (Iakov Aleksandrovich) (1849-1912)
Oppenheimer, Franz (1864-1943)
Oudin, Charles
Proudhon, Pierre Joseph (1809-1865)
Pufendorf, Samuel (1632-1694)
Quesnay, François (1694-1774)
Ratzenhofer, Gustav (1842-1904)
Rehberg, August Wilhelm (1757-1836)
Rexius, Gunnar (1886-1918)
Rosin, Heinrich (1855-1927)
Rousseau, Jean-Jacques (1712-1778)
Saint Simon, Claude Henri (1760-1825)
Schmoller, Gustav (1838-1917)
Schultze, Fritz (1846-1908)
Simmel, Georg (1858-1918)
Spencer, Herbert (1820-1903)
Spinoza, Baruch (1632-1677)
Stein, Helene
Stein, Ludwig (1859-1930)
Steinmetz, Sebald Rudolf (1862-1940)
Tarde, Gabriel (1843-1904)
Tille, Alexander (1866-1912)
Tönnies, Ferdinand (1855-1936)
Turgot, Anne Robert Jacques (1727-1781)
Vetter, Benjamin (1848-1893)
Voltelini,
Hans von (1862-1938)
Waentig, Heinrich (1870-1944)
Ward, Lester Frank (1841-1913)
Weismann, August Friedrich Leopold (1834-1914)
Wellspacher, Moriz (1871-1923)
Wiese, Leopold von (1876-1969)
Woltmann, Ludwig (1871-1907)