ある軌跡――あるオーストリア人の伝記
ガリチア人の父、ボヘミア人の母の子として
ハンス・ケルゼンについて現在までに知られている自伝としては二つのものがある。その第一は、一九二七年に書かれた小文「自己描写」で、ケルゼンの精神的・知的発展をその著作と学問的業績に照らして描き出したもの、第二は一九四七年に書かれた、ずっと詳細な文章『自伝』で、私的・家族的生涯にも言及している。
既に後者の冒頭の文章からして、この伝記のオーストリア的、いやもっと正確には、旧オーストリア的な性格が表現されている。ケルゼンの父方の祖先は、オーストリア=ハンガリー帝国の、ポーランドに境を接するガリチアの出身で、母方の祖先はボヘミアの地に由来する。彼の父は、アブラハム・リットマン・ケルゼン(Abraham Littman Kelsen)の名で、一八五〇年六月六日、ブロディのユダヤ教徒戸籍に記入されている。母アウグステ・レーヴィ(Auguste Löwy)はボヘミアのノイハウスに生れた。ハンス・ケルゼンは、一八八一年十月十一日付でプラハのユダヤ教徒戸籍に記入されている。やがて両親(父は今やアドルフ・ケルゼン(Adolf Kelsen)という名となっている)は、帝都・王都ウィーンに移転し、ハンスはそこで教育を受け、また職業人となった。
こうしてケルゼンは、多くの旧オーストリア知識層と同様の、人種的・宗教的・社会的枠組の中に産み落とされたのである。
当時ガリチアのブロディは、当時格別の地位をもった都市であった。それはドナウ君主国の東北端に位置し、ユダヤ人たちにとって商業活動最重要の結節点であり、また知的・宗教的生活の中心地であった。
ブロディは自由貿易都市としての特権を与えられていて、十八世紀から十九世紀への移行期に既に繁栄していたが、十九世紀後半には経済的衰退期に入っていた。ところが、この転換期こそ、まさしくブロディを有名にした諸特徴が明確化した時期であった。即ち、もっと景気が良かった時期に宗教的・民族的少数派の離散の民の様々な集団が担ってきた小商工業が、明確な特徴を示すことになったのである。その際強烈な活力を示したのは、大小のユダヤ人商工業者であった。ハンス・ケルゼンの曽祖父アブラハム・リットマン・ケルゼン(Abraham Littman Kelsen)もまた、このような光景の一端の担い手であった。彼は当時一九〇店あったユダヤ人酒屋の一つの経営者で、その親族のイザーク・ケルゼン(Isaak Kelsen)も同業者であった。ブロディの納税者名簿や選挙人名簿に、ケルゼンの祖先の名がはっきり記されている。その地位は、中産階級と上層階級の間の流動的社会層に属するものであった(1)。このことは、ケルゼンが一九四七年の『自伝』で、「父アドルフ・ケルゼンは、ガリチアのブロディ市生れで、十四歳の時、全くの無一物でウィーンに出てきた。そこで小さな町工場の徒弟となり、やがて商店従業員として糊口を凌いだ」(2)と言っているのと随分違う。
どうしてこうも違うのか。彼が両親からこう聞かされていたのだ、ということも考えられる。しかしもっとありそうなのは、「貧しく生れ、帝国西方の大都市へと向い、商業的才覚で社会的梯子を登り、ブルジョワ的中産階級の生活を獲得した」という、社会的流動性の渦中にあった東方ユダヤ人のステレオタイプを自分に当てはめたのではないかということである(3)。
ブロディは商業中心地として語られるが、それに劣らず常に言及されるのがガリチアにおけるユダヤ教の中心地としての地位である。この都市は、一方で伝統的なハシディズム的ラビ伝統を承継しつつも、他方で既に十八世紀に、その商業的生活が関心を西へと向わせていた。即ち彼らは、その商品取引とともに、西方の啓蒙思潮を輸入し、それを東方へと広めたのである。十九世紀のブロディにおいてはハスカラ(Haskala:ユダヤ教啓蒙思潮)が広く受け容れられ、東欧ユダヤ系知識人の圧倒的多数がブロディに発する啓蒙思潮に身を投じた。
それ故ブロディでは複数宗教が同一の学校で教えられ、ユダヤ教の小学校もキリスト教の小学校もあり、またユダヤ教のギュムナジウムにユダヤ教徒もキリスト教徒も通学した。市役所の官職も両教徒に均分されていた。
なぜブロディ市についてこのように立ち入って述べるかと言うと、ケルゼン家のありようについて、このような社会的・民族的・宗教的環境からうまく説明がつくのではないか、ひょっとしてこの状況が一家のイデオロギー的・精神的傾向を解き明かす鍵を提供するのではないかと考えるからである。アドルフ・ケルゼンはブロディの町の中産階級にふさわしい教育を受けたのではないかと思われ、またドイツ教育とドイツ的教養を授けられたことも間違いないだろう。そしてそれは恐らくユダヤ教の教育施設においてであったであろう。しかし多少とも形式的な授業よりもっと重要だったのは、この町が若きアドルフ・ケルゼンに与えた文化的環境である。この社会は、青年アドルフ・ケルゼンに、開かれたものへの志向、民族的・言語的多様性の刻印を捺したのである。彼の受けた教育もさることながら、彼はそこで何よりも実業的・創造的環境を体験し、自分の能力や物の観方を帝国の西部で発揮させたいという意志を育まれたのではあるまいか。
アドルフは、ウィーンで十四年間兄サムエル・ケルゼンの会社に製品係として働き、その間実業家としての修業をして、一八七八年プラハの二番街に移住した。ハンス・ケルゼンの『自伝』には、「独立の念已み難く、プラハに移って照明器具を商った」とある(5)。父はプラハで幾度も短期の移転を繰り返した。ハンスの生れたのはノイシュタット六四番地である。そして結局は「ガス・水道・蒸気パイプ・セメント建築材・煙突などの製造・取次の工場と店舗を開業した」(6)。しかし結局このプラハの事業は長続きしなかった。一つにはプラハの地元ガス会社が発展して、それとの競争が困難になったこと、更には役所が営業許可に色々条件をつけてきたことなどによる(7)。
なおこの節の記述の最後に、ハンス・ケルゼンの母についても一言しなければなるまい。アウグステ・ケルゼン(旧姓レヴィ)(Auguste Kelsen (Löwy)
(1859-1950))は、ボヘミアの田舎町Jindrichuv Hradec (独語Neuhaus)に生れた。この町の多数者はチェコ語を話したが、彼女はドイツ語を話すユダヤ人という少数派に属していた。しかしチェコ語にも極めて堪能であったことは恐らく疑いない。彼女は一八七五年ウィーンの親戚の家に引き取られた。ユダヤ教区の結婚登録証によれば、一八八〇年八月二二日、レオポルトシュタット会堂において、アドルフ・ケルゼンと結婚した。
「凡庸な生徒」
ハンス・ケルゼンは、一九二七年の「自己描写」において、一家のウィーン移住と彼のその後の動静について、「両親は私が三歳の時ウィーンに移住した。私はこのウィーンで、小学校・ギュムナジウム・大学法学部を修了した」と言っている(8)。
ケルゼン一家はヴィーデン区ベルヴェデレ町三番地に住んだ。父の店はそこから何本かの道路を隔たるだけのゴルデック町二〇番地にあった。彼の義務教育は、非常な優秀校と見られていたプロテスタント系の私立小学校から始まった。当時異宗教の学校に入学することは珍しくなかった。私立学校だったから授業料を納める必要があったが、優等生には授業料免除の特典があった。ところがハンスはまあまあという程度の成績で、その特典が受けられなかった。当時父は経営困難に陥っていて、息子を近所の公立学校に転校させた(学校はアレー通り(Alleegasse)にあった)(9)。こうしたことから、彼のウィーンでの生活の初期の状況は推察できる。即ち父の会社が徐々に確立し、それによって生活様式はブルジョワ中産階級的になっていったのである。
小学校を卒業すると、彼はアカデミッシェス・ギュムナジウムに入学した。ウィーンの有名校であるが、『自伝』の中で彼は全然良く言っていない。曰く、「私の成績は中くらいで、教師たちは、私に学業への関心を喚び起してくれなかった」、と(10)。しかしこの青年学徒の生活は、授業外ではなかなか忙しかったようで、文学史や哲学の勉強に熱中した。彼の思想的発展は、唯物論哲学への関心に始まり、観念論を経過して、カントの著作に取り組むこととなった。このカント研究は彼の後の法理論にとって重要な意味をもつことになる。若きケルゼンはまた文学青年でもあって、受け身の読書ばかりでなく、詩の創作にも取り組んでいる。『ウィーン婦人新聞』には彼の詩が掲載されている(11)。
アカデミッシェス・ギュムナジウムの文書館に遺された資料には、出欠簿の他成績表も残っており、ケルゼンに対する評価が示されている。概して中の下くらいの成績で、後段階のCかDが多い。要求科目表をみると、ケルゼンは文系(語学・人文学)の授業もも理系(数学・科学)の授業も履修している。作文の課題「オーストリア史の学習からどのような道徳的教訓を得られるか」などからは、当時のオーストリア中等教育の愛国的・政治的性格が窺われる。卒業試験には、ラテン語翻訳(オヴィディウス『Ex ponto[黒海よりの手紙]』(IV, 5, 1-40)の他、独文羅訳やデモステネス演説の希文独訳もある(12)。ケルゼン自身は『自伝』の中で、数学や自然科学に主題への関心が高まったと言っている。いずれにせよ成績表で唯一Bがついているのは数学・自然科学である。ハンス・ケルゼンはこうして一九〇〇年初夏に、中くらいの学業成績でウィーンのアカデミッシェス・ギュムナジウムを卒業したのであった。
ユダヤ教からの改宗
ケルゼンは、ウィーン大学法学部学生時代に、ユダヤ教からローマ・カトリックへと改宗した。彼は一九〇五年六月十日、博士号を授与される直前に、聖マリア聖堂教会において、イエズス会のカール・ライフェルト(Karl
Leifert, 1865-1925)神父から洗礼の秘跡を受けた。アドルフ・ケルゼン、アウグステ・ケルゼン夫妻の長男の改宗は、色々な点で興味深い問題を提起している。以下その幾つかについて触れておこう。
諸資料の示す限りでは、ケルゼンの祖先は[母方の]ボヘミア側も、[父方の]ガリチア側も、ユダヤ教的環境の中で、ユダヤ教徒として生涯を送ったようである。当然非ユダヤ教徒の取引先・隣人・友人などとの交際はあったが、彼らから家族の宗教生活に重大な影響を受けるようなことはなかった。しかし住所移転とか、このようなユダヤ人夫婦の間の子供の教育とかに随伴する社会環境の変化などが、一家の中に亀裂をもたらすことはありがちなことである。ケルゼン家も、このような宗教的分裂と無縁ではなかった。
このような問題の最初の痕跡は、一八八一年八月二十二日にユダヤ教の儀礼に従って行なわれたアドルフ・ケルゼンとアウグステ・レーヴィの結婚において窺われる。アドルフという名は、それ以前に自分で名乗っていて、この機会に戸籍に登録したものであろう。自分で名乗った名は正式なものとは受け容れられないから、戸籍には「俗称」(vulgo)と付記されている。ユダヤ教徒としての彼の名はアブラハム・リットマン(Abraham
Littman)で、公式にそれを消去することはできなかったのである(13)。、彼が(自称とはいえ)この名前を選択したことは重要である。伝統的・正統派的ユダヤ教徒はユダヤ教的名を名乗り、ユダヤ教離れを試みるユダヤ教徒は伝来の名を棄て、子にもキリスト教風の名をつけようとするのである[父は敢て後者を選んだのである]。
ここに我々は、啓蒙期以来論議されてきた「解放と同化の緊張関係」という問題に逢着する。一般に「解放」は、ユダヤ人個人を非ユダヤ的世界の中でのユダヤ教徒として承認することよりも、ユダヤ人をユダヤ教から解放することを意味した(14)。オーストリア=ハンガリー帝国一八六七年憲法に従って制定された宗派際諸法(Interkonfessionelle
Gesetze)は、宗教集団から独立した戸籍の法的・実務的基礎を作り出し、改宗者や無宗教者を続出させた。ユダヤ人をユダヤ教から解放したことの直接的結果として、同化主義的傾向が顕著となり、人々は、イディッシュ語を棄てて一般的言語を話し、公私の生活様式も非ユダヤ的・キリスト教的主流文化に同化しようとした。この同化の決定的段階が洗礼であろう。洗礼にはカトリック儀礼によるもの、二つのプロテスタント儀礼の何れかによるものがある。改宗や宗教からの脱退は、その外的形式においては、現在の戸籍手続と大して異ならず、役所に行って登録するだけの簡単極まるものであるが、その意味するところは、家族的伝統であるユダヤ教との断絶であり、更に屡々当時の宗教共同体がその所属員に課していた社会的繋がりへの訣別である(15)。改宗の時期としては、教育年限の修了、就職、転職、他宗教信者との婚姻など、人生上の画期が選ばれることが多い。こうしたことは、ユダヤ人であることが職業的・社会的経歴にとってのマイナスであると考えられていたことを意味する。ユダヤ人であることは、しばしば名前からも見分けがつくから、宗教の変更届けとともに苗字の変更を届け出ることもある。洗礼には苗字でなくファースト・ネームの方の変更が要求されるのであるが――。こうした同化的行動の動機はと言えば、それは宗教以外の面での地位の向上なのである。
アドルフ・ケルゼンは、洗礼を受けず、生涯ユダヤ教に留まり、ウィーン中央墓地のユダヤ教部に葬られているが、四人の子供にはハンス、エルンスト(またはエルネスト)、ゲルトルーデ、パウル−フリッツという非ユダヤ教的名をつけた。苗字はケルゼンで、これは一見明瞭にユダヤ人だとは判別できないが、ウィーンでは既にハンス・ケルゼンの伯父サムエル・ケルゼンが知られていた。
宗教の変更には役所への届け出が必要であったが、十四歳になるまでは、親の許可なしには、生れついた宗教を脱することはできなかった。ケルゼン家の末子パウル−フリッツは、十四歳になると、早速ユダヤ教を脱し、一九一二年五月九日住所地ラント街の聖ロフス教区でカトリックの儀礼による洗礼を受けた。彼のこの改宗によって家族共同体の絆が影響を受けるということは全然なかった。長男が既に改宗していたからである。もっとも長男はパウル・フリッツの改宗時より十歳年上で改宗したのであったが。同家の末弟が改宗した理由は、推測に困難でない。兄が生活状況の改善を意図して改宗し、実際誰が見ても明らかなように、状況が改善したからである。また長兄ハンスがこの年第二の洗礼を受けたこと(後述)も大きな動機となったであろう。更には姉のゲルトルート・ケルゼンが一九一〇年三月一三日プロテスタントの洗礼を受けている。こうしてパウル・フリッツは、ユダヤ教に留まった父の死後に洗礼を受けたのであった。家族内において父が支えていた伝統的要素が[その死によって]断たれたことが、改宗を容易にした一要因であったということも考えられる。そしてまた、ユダヤ教を去って改宗した子供たちも、改宗しないユダヤ教徒の両親を非難したり、改宗させようとしたりしなかった。ユダヤ教共同体の中では家族の改宗はマイナスで不名誉なことだったであろうからである。
ケルゼン家最後の改宗者は母アウグステで、それは非自発的な、外的強要下のものであった。彼女は一九三九年、八十歳で洗礼を受けたが、それはウィーンがナチの迫害下にあって、ユーゴスラヴィアに逃亡しようとした直前のことである。第三帝国のユダヤ人迫害は、いわゆる人種主義的理由で行われたものであるが、少なからぬユダヤ人は、当時なお洗礼を受けることによっていわゆる烙印(Stigma)を拭い去り、迫ってきた脅威をかわそうとした。そこで特にウィーンのイエズス会は、一九三八年、洗礼によってユダヤ人を保護しようとしたのであった。かつて宗教的反ユダヤ主義の道具であったものを、人種的反ユダヤ主義に対する防壁として用いたのである。
ハンス・ケルゼンが一九〇五年、ウィーンのドミニコ派の洗礼を受けたのは二十六歳の時であった。多くの彼のユダヤ系同輩たちは、ギュムナジウム卒業直前ないし直後に洗礼を受けたが、彼は博士号取得前にやっと洗礼を受けた。しかし彼の場合もまた、他の者と同様の、生涯の画期を選んでの改宗であった。学習時代が終り、専門研究者の経歴に移ろうとするに当って、人生計画の一環として、改宗を敢行したのである。当時は、洗礼証明書は洗礼授与者が教区司教に提出すべきもので、その内容は「私は宗教的確信を変更しました。カトリック教会が唯一真の教会だと信じ、その信仰が唯一正しい信仰だと信じます」というものであった。そのような証明書が諸文書館にそのまま保存されている。これは形式的な文言として役所流に大量処理されたもので、本当に信仰が変わったのかというようなことには立ち入らなかった。
ケルゼンに洗礼を施したのはイエズス会のカール・ライフェルト神父であった。ケルゼンがこの神父を、少なくともその属する修道院を選んだことには、多少立ち入った動機があるのかも知れない。カトリックに改宗しようとする学者や知識人の多くは、改宗告白の場所としてショッテン修道院を選んだ。ライフェルトはイエズス会に属したが、聖マリア聖堂教会はドミニコ会に属し、そ場所はウィーン・イエズス会教区の中にあった。カール・ライフェルト神父は、カトリック世界の外でも広く有名な人物で、雄弁・知的率直をもって知られており(彼は医師でもあった)、学生の人気も高く、大学における学生たちの魂の救済にも従事し、様々な大学人の信者集会の指導者でもあった。彼はまたこれらの集会の信者たちによって大学における聴罪司祭にも選ばれていた。他宗派を含めた、すぐれた聖職者たちや、宗教性深い学生たちとの交流の体験は、他教派からの改宗希望者に動機を尋ねるに当って有意義であったと思われる。特にライフェルトがドイツ民族主義や反ユダヤ主義の学生団体ではなく、例えばスロヴェニア人の学生組織と関わり、その種の団体に知的な講演者として招聘されていたことなども興味を惹かれるところである(16)。改宗は同業者仲間・職長・企業職員やその仲間などの属する社会への入場券と看做され、特にこの仲間としての私的交際が無視できない重要性を有していた。異宗教信者間の交友関係が改宗の理由であることもしばしばあったし、人的結合が宗教の境界より強いこともあった。ケルゼンの生涯においても、このような面が関与しているかも知れない。ケルゼンは一九一二年五月十一日、ラント街の市役所支部でカトリック教会を離脱し、その九日後の語学二十日にプロテスタント教会に入信手続きをとった。彼の第一の改宗、カトリックへの改宗は、社会的野心というある程度はっきりした動機から説明がつくが、この第二の改宗にはマルガレータ・ボンディ(Margareta Bondi)との関係が関わっているのではないか。彼が入信した一九一二年五月二十日は、マルガレーテにとっても生涯の節目であった。このケルゼンの新妻は、夫と同様ユダヤ教を離れ、この日に受洗した。その洗礼立会人を務めたのがケルゼンであった。
当時既に、プロテスタントとカトリックの間の婚姻は両教会の承認しているところで、わざわざ面倒な改宗手続きをとる必要はなかったはずであるが、イメージの問題があったのではないか。改宗者たちにとって、カトリックとプロテスタントは、社会的・知的威信において等価的とは看做されていなかった。神学的問題が改宗に大きな役割を果たしたとは考えられないから別問題として、カトリック教会は、理論においても実践においても、広汎な社会層が無差別に属する民衆教会であり、庶民的な臭いを漂わせていたのに対し、プロテスタント諸派はエリート的で高級でインテリ的な性格のものと感じられていた。従ってカトリックからプロテスタントに改宗することは、社会的地位の上昇を意味していたのである。そしてケルゼンにとっても、そのことが重要だったのではあるまいか。彼はもはや教授資格を取得し、大学講師となって、帝都・王都において知的エリートに属したのである(17)。彼が二度目に改宗したことのもう一つの理由は、新妻の家庭状況に関わるのかも知れない。何れにせよ、ユダヤ人にとって、カトリックの洗礼儀礼は、トリエント公会議の反ユダヤ教的性格を保持していて、屈辱的なものと感じられる要素をもっていたのに対し、プロテスタントの儀礼はそういう性格をもたないものと感じられていたことは事実である。「ユダヤ的不信仰を唾棄し、ヘブライ的迷信を破棄せよ」(horresce Iudaicam perfidiam, respue Hebraicam superstitionem)、これが、成人がカトリックへの改宗に際して唱えるべき誓約文言で、ようやく一九六〇年に削除された(18)。この文言は、改宗を共にしなかった家族や親族に対する名誉棄損と感じられたであろう。両派のプロテスタントの何れに改宗しても、こういう葛藤を伴わなかった。ケルゼンが妻の宗教に同調するに当って、このことも多少の気休めになったであろう。もちろんそれは、自分の改宗の理由ばかりでなく、愛の表現でもあったのだろうが・・・。
(1)Vgl. Börries Kuzmany, „Juden in Brody:
Das soziale, wirtschaftliche und geistige Umfeld der Vorfahren Kelsens,“ in
Robert Walter, Werner Ogris, Thomas Olechowski (Hrsg.) Hans Kelsen:
Leben-Werk-Wirksamkeit (Schriftenreihe
des Hans Kelsen-Institut 32, Wien 2009), S.13.
(2)
Hans Kelsen, „Autobiographie,“ Hans Kelsen Werke, 1, S.30.(『ハンス・ケルゼン自伝』八頁)
(3)
Kuzmany, S.13.
(4)
Kuzmany, S.15-16.
(5)
Kelsen, op.cit., S.30.(『自伝』八頁)
(6)
Petr Kreuz, „Zu den Prager Wurzeln Hans Kelsens,“ Walter etc. (Hrsg.),
S.25.
(7)
Kreuz, S.26-30.
(8)
Kelsen, „Selbstdarstellung“, Werke
I, S.20.
(9)
Rudolf Aladár Métall, Hans Kelsen: Leben und
Werk, 1969, S.2-3.
(10)
Kelsen, „Autobiographie“, S.31 (『自伝』八頁)
(11)
op.
cit., S.31-2.(『自伝』九頁[詩の邦訳は同一〇四‐七頁])
(12)
Jahresbericht für das akademische Gymnasium 1900-1901.
(13)
Anna Lea Staudacher, „Zwischen
Emanzipation und Assimilation: Jüdische Juristen Am Wien des
Fin-de-Sicle,“ Hans Kelsen: Leben-Werk-Wirksamkeit, S.41-42.
(14)
Karl Martin Grass, „Emanzipation,“
Otto Brunner (Hrsg.), „Geschichtliche Grundbegriffe“ Historische Lexikon zur
politisch-sozialen Sprache in Deutschland, 1975, Bd.2, S.153.
(15)
Staudacher, op. cit., S.9.
(16)
„Personalakte Pater Karl Leifert SJ,“
Archiv der Jesuiten Wien I.
(17)
Staudacher, op. cit., S.49.
(18)
Pontificale Romanum.