『神話と宗教』「あとがき」çéèäáàâüöôêñšñÉÀÁÂÈÊÌÍÎÒÔÕÖÙÚÛÜß

  祖先のこと

   ケルゼンの伝記としては、長い間メタルのもの(Rudolf Aladár Métall, Hans Kelsen: Leben und Werk, 1969)が唯一のもので、忠実な弟子・心酔者の作品としてやや美化され過ぎているのではないかという印象もあった。その中にケルゼン自身による『自伝』が引用されていたが、行方不明だということになっていた。ところが2006年ウィーンで行なわれた生誕125周年式典の列席者にそれが配られ、やがて『全集』(Hans Kelsen, Werke)の第一巻に収録された(“Autobiographie,” 1947(長尾訳『ケルゼン自伝』)。マックス・ナイトがポールソン氏に託した資料から発見されたということである。

   その間ソ連圏の崩壊があり、彼の祖先に関する資料への接近が可能となって、父方のブロディ(ガリチア、元ウクライナ)、母方のノイハウスやプラハ(チェコ)などの資料に接近する研究者も出てきた。『ハンス・ケルゼン:生涯・業績・現代的意義』(Robert Walter, Werner Ogris & Thomas Olechowski (eds.), Hans Kelsen: Leben-Werk-Wirksamkeit, 2009)第一部にその成果が収録されており、遠からず紹介したいと思っている。本書に訳出したムーラウアーの論文は、新たな資料を基礎に、批判的考察を加えており、ケルゼンとメタルによる伝記に対する幾つかの修正点もある。

   ブロディは、一時人口の半分以上をユダヤ人が占め、東欧ユダヤ文化のセンターであった。私は、戒律を守り、帽子をかぶり、髭を生やした正統派ユダヤ教徒の世界だというイメージをもっており、『自伝』(p.83)にはそういうユダヤ人の写真を載せた(この写真を載せたことに、故ワルター教授は余り好感をもたれなかったようだった)。ムーラウアー論文は、同地のユダヤ人がもっていた「西向き」の志向を強調していて、蒙を啓かれた。終戦直後に私が住んだ九州の山村で、青年たちが「銀座のカンカン娘」などという歌を歌っていたように、地方住民の中央文化に対する関心は強烈なもので、ブロディのユダヤ人たちも、ウィーン文化に憧れ、西欧ユダヤ教を席巻した啓蒙主義(Haskala)の潮流の強い影響下にあったとしても不思議でない。

   ケルゼンの祖先はSchankwirtであったというが、これには酒屋という意味と居酒屋(一杯飲み屋)という意味がある。ムーラウアー氏に訊くと、税務記録を調べると相当の税金を払っており、ちゃんとした中産階級であったというから、酒屋の方だろう(江戸から明治初期には、酒屋は地方の有力者で、酒税は税収の重要部分を占めていた)。父は恐らく中産階級にふさわしいドイツ語教育を受け、西側での立身を志した青年であったろう。

   『自伝』では、父は殆ど無一物で(fast mittellos)で上京し、どこかの町工場」(irgeneiner Kleingewerbebetrieb)で徒弟(Lehrjunge)としてパンを稼いだ(私の訳だと「糊口を凌いだ」)と言っているが(Werke, p.30、邦訳p.8)、ムーラウアーによるとどうもそうではないらしい。親も相当のカネを持たせてやっただろうし、第一兄のサムエルがウィーンで会社を経営していて、そこで十四年間働いたのである。想像するに、父は兄のもとでの生活の思い出が余り愉快でなく、子供達には抽象的な苦労話だけをしたのかも知れない。

  『ダンテの国家論』まで

    独立し、プラハに行き、ウィーンに戻った照明器具等の業者としての父の事業の起伏については省略するとして、ハンス少年はやがてアカデミッシェス・ギュムナジウムというウィーンにおける私立の名門校に入る。一五五三年にイエズス会の教育機関として設立されたものであるが、一七七三年にイエズス会から離れて一般教育の学校となった。現在でもピアリスト修道会が運営しているが、宗教性の濃厚な教育は行なわれておらず、出身者にも多くのユダヤ系有名人がいる(作家のホフマンスタール、シュニッツラー。経済学者・数理哲学者のミーゼス兄弟、哲学者のポール・エドワーズ(原姓Eisenstein)など)。

   彼はこの学校に適応障碍を起こしたらしい。第一成績が悪過ぎる。残存している通信簿では、五段階評価でBが一つ、あとはCかDだという。彼自身も「学校の他愛ない宗教的立場(primitive religiöse Einstellung)」に対する反感ということを言っている(p.32, 邦訳p.10)。この時期彼は文学青年、続いて哲学青年となり、卒業時には大学で哲学・数学・物理学を学ぼうと志した。しかし陸軍に志願して一年を経て、頭がお留守になり、断念して法学部に進学する。一六五センチの彼が軍隊に志願した理由は不明。「どうせある兵役だから早く済ませよう」と考えたのか。本当に兵役があったのか、よく分からない。陸軍文書館に残されている射撃の成績はひどく悪い。

   法学部でも適応障碍を起こした。講義はどれもこれも面白くなかった。初学年で唯一興味を惹かれたのがシュトリゾーヴァーの法哲学史で、その講義でダンテに『君主制論』という著書があることを知り、これを論じて見ようという気になった。シュトリゾーヴァーは、「まずちゃんと法学の勉強をしてからだ」と止めたが、「どうせ法学に興味を持つようなことはないのだから、興味のあることをやりますよ」というようなことで、この主題に取り組んだ。『ダンテの国家論』は一九〇五年に出ているから、そしてケルゼンは十月生れだから、二十三・四歳で執筆したものであろう。現在の日本でいえば修士論文である。

   私が指導教授だったら、「よく調べ、よくまとまっている。自己主張が強くないのは、若者の作品としては、むしろ好意がもてる。OK」と言ったかも知れない。恐らくベルナチックやメンツェル、シュトリゾーヴァーなどもそういう評価をしたのだろう。二十四歳にして単行本の著者となる。この著書を、彼の学問的生涯の中で意味づけるとすれば、次のような印象となる。

   彼が当初の希望通り数学や物理学を専攻していたら、それらは論理や因果法則によって構成された体系を合理的な認識の対象とする営みである。ところが彼は、当為・価値判断・信仰という非合理な対象の合理的認識という主題を選んだ。広い意味でのイデオロギー分析、トーピッチュのいう「イデオロギー批判」である。だがこの処女作においては、穏和な態度で、思想や信仰の内容を合理的に再構成しようとしたに過ぎない。この作品は、思考の病理を剔出し、外見上の合理的議論の背後に潜むイデオロギーを暴露するという、後年の激しい闘争的議論の予備段階の習作である、と。

   カトリック思想の理解に関しては、ギュムナジウム時代の教育も役立っているであろう。彼の宗教に対する態度については『自伝』中の「ケルゼン伝補遺」(pp.118-122)参照。

思想史の全体像

   ケルゼンの描く人類思想史の全体像は以下のようなものである。

  (1) 社会的存在としての人間の意識に当為の観念が植え込まれる。

  (2) 当為の社会的形態は、「社会に有害な行為には罰を、有益な行為には賞を」という応報律である。

  (3) 応報律は「未開人」の世界理解の唯一の範疇であり、近代人のいう「自然」を含めて全世界がそれに従って解釈される。

  (4) 人類の思考には「擬人化」「実体化」という傾向があり、応報の主体や客体は霊魂・精霊・神などに実体化・人格化される。

  (5) 応報の主体・客体は人格であり、死者の霊魂である精霊(daimon)が万象に宿るというような仕方で、アニミズムが成立する。

  (6) 応報の主体としての人格は徐々に統合され、多神教的神々、一神教的神、そしてその対立者としての悪魔の観念などが生ずる。

  (7) やがて事実を原因と結果の連鎖としてとらえる因果的思惟が芽生え、世界の現実は応報律に従っていないことが意識され始める。

  (8) 現世で実現しない応報実現の場として天国・地獄等、「来世」における死後の霊魂の行く先が想像される。

  (9) ユダヤ教は来世における死後の霊魂に対する制裁の信仰に代えて、現世における最後の審判、地上の楽園を信ずる。

  (10)  因果的思惟は初期ギリシャ哲学において理論的に形成され、レウキッポス、デモクリトスの原子論において徹底した定式化を見る。

  (11) 中世においては思想的先祖返り現象が起こるが、近世において因果的世界観が支配的世界像になる。

  (12) 因果律の絶対的支配と言う観念は、応報律の絶対的支配の観念の承継者であり、ヒュームの懐疑によってその信念は動揺する。

  (13) カントの範疇論は、因果律を認識への要請(Postulat)であるとする因果律論への道を開く。

法学と思想史

   ケルゼンの国家論は、国家概念・法人概念等の擬人化・実体化を解体して、法体系を「法命題」(Rechtssatz)の体系として描き出す試みである。他方ケルゼンの前近代思想研究の一つのモティーフは、混濁した神話的思惟から、擬人化的・実体化的諸概念を解体し、その規範体系としての実体を析出するところにある。そしてケルゼンの宗教批判の一つのモティーフは、神概念を解消して、規範体系と因果体系に還元し、その矛盾によって神学が弁神論(Theodizee)の問題に逢着せざるを得ないことを示すところにある。彼の小論「神と国家」は、彼の思想史と法学が、人格概念・実体概念を解体し、規範体系を析出させるという共通の主題を共通の方法で追求するものであることを示している。

   「神と国家」は、副主題として、フロイトなどに由来する、権威を「父」に関する幼児体験と関連づける仮説を論じている。ケルゼンは一時期フロイトに親炙した。非合理な対象を合理的に分析するという態度において、両者の志向は一致している。

「聖書における正義」について

   門外漢である私がこのような作品の訳者となることには色々問題があることは自覚しているが、それについて多くを語ることが意味をもつとも思えないので、以下の三点にのみ触れておきたい。

   (1) 明治以降の先人たちが精魂を込めて訳した文語訳聖書は、日本文章史上の古典であり、口語訳聖書に代える気にはなれなかった。

   (2) 「ロマ書」十三章一節の?ξουσ?αは「権威」と訳されるのが伝統であるが、Vulgataのラテン訳がpotestas、ルターの独訳がObrigkeit、King Jamesの英訳がhigher powersであることを考え、権威(authority)と権力(power)を区別する思想史の伝統を考慮して、「権力」と訳した(三四三頁)。

   (3) ケルゼンが戒律違反に対する神罰として長々と引用しているレヴィ記二十六章については、次のような印象をもった。

  戒律違反に対する神罰を列挙したレヴィ記二六章三四節「その地荒れ果てて汝らが敵の国に居らん。その間地は安息を楽まん」の意味はわかりにくい。しかしレヴィ記の相当部分がP資料(エズラの周辺の祭司たち(priestly writers)の執筆)で、紀元前四五〇年頃の作品であるとすれば(http://mb-soft.com/believe/txs/leviticu.htm)、民衆がバビロンで捕囚状態にあり、エルサレムの土地は住人を失って「安息を楽しんでいる」状態を追憶したものではないか。強烈な自嘲(sarcasm)のJewish jokeである(ユダヤ人たちは強制収容所内でも、この種のジョークを言い合ったという)。そうすると、レヴィ記二十六章に列記されている懲罰の預言も、実は預言ではなく、全体としてエルサレム陥落(五九七年)期の叙景ではないか。肺病・熱病・眼病・精神病。播いた種は敵に喰われる。殺戮・異民族支配・逃亡。野獣襲撃。閑散たる街路。飢餓で息子の肉、娘の肉を喰う。祭壇破壊。離散、武装集団による追跡。農地荒廃・都市滅亡。敵国への虜囚。そして「十人の女が一個の炉でパンを焼き、一人当たり僅かの分量を量って配る」「木の歯の動く音にも驚いて逃げ」「追う者のないのに走って躓き、折り重なって倒れる」「敵の土地でやせ衰える」など極めて具象的で、ケルゼンこれが延々と引用したのは、ナチ期の体験と連動したからではあるまいか。この記述は、捕虜収容所や強制収容所、ワルソー・ゲットーなどの光景を連想させる。

ケルゼン人類学と日本

  ケルゼンの人類学的考察は、日本の神話や宗教にも適用可能である。日本神話もまた応報律的世界解釈の構造を示している(記紀における「山幸海幸物語」等)。彼の霊魂信仰の二分説、即ち死者の霊魂が応報の主体として生者に応報を加えるとする信仰と、霊魂が応報の客体となって来世で賞罰を受けるという信仰との対比は、神道と仏教の対比に対応する。神道においては、人、特に偉人は死んで神となり、神社に祀られて子孫を護る。それに対し仏教では、西方十万億土で地獄極楽の賞罰を受けるか、生前の行動に応じて輪廻する。ケルゼンは霊魂応報主体思想から客体思想への移行を歴史的発展段階の相違として描いているが、日本では神道と仏教は共存している。従って盆の送り火を焚いた直後に仏壇の位牌に祈ったり、自宅の墓参の後に靖国神社で柏手を打つといった行動が生ずる。神島二郎によれば、日本人は応報の主体となって子孫と関わり続けたいのであり、楠正成の「七生報国」はその表現で、靖国神社の人気は死後に護国の神としてこの世に祀られるところにある。

   更に東洋にも、ケルゼンがユダヤ教に即して描いた地上楽園信仰の伝統が、「大同」思想や弥勒下生(げしょう)信仰、太平天国などの形で存在する。これは鈴木中正が中国革命の宗教的背景として叙述した主題である。毛沢東思想は、東洋的終末論とマルクス主義的地上楽園信仰の合流としても解釈される。

  『続日本紀』などに描かれた、君主の徳が天然現象と結びつき、天災は君主の不徳の表れだとする信仰は、中国の皇帝信仰に由来するものであるが、まさしくケルゼンの描いた応報律的世界像の制度化と見ることができる。天災が起これば、斎戒沐浴し、読経し、拘束している囚人や動物を解放するなどの贖罪行為をとる様子は、『応報律と因果律』(の本選集で訳していない前半の人類学的部分)に引用されている諸事例と瓜二つである。

諸批判

   彼の妻の甥ピーター・ドラッカーが「理知的に過ぎて親しめない」と彼を評したのは、多くの人々の共感を博するのであろう。 他の点では仲の良い友人たちで、同様の印象をもち、「なぜ長尾はあんな冷たい知性に共感するのだろう」と不思議がる人もいる。また神の人格性を規範体系に還元するなどということは、多くの宗教者の受け入れないところであろう。神は当為である以前に「存在」であるというのが、宗教者の立場であろうから。

   私は、「ケルゼンが『未開人』は因果の範疇をもたない」と言っているのは間違いではないかと思っている。考古学的資料は、段々と道具を発展させていった歴史を示しており、道具は因果律に従って製作されるものである。人間は自然と社会という二つの環境の中で生きている。前者の法則が因果法則で、後者の法則が応報律であるとすれば、両者に適合しなければ滅亡する。「未開人」の自然認識は不完全かも知れないが、それなりに模索しつつ法則を見出して、それに適合してきたからこそ生存できたのである。しかし現代人から見て、因果法則に従って解釈し得る現象を、応報律の適用とし解釈する、病気がはやれば贖罪する、というようなことはある。ケルゼンは、そういう事例ばかりを集めて、「未開人」は因果律をもたないと速断したのかも知れない。しかしケルゼンの主張を、「『未開人』は因果律による世界解釈をしないではないが、その認識は不完全で、応報的解釈によってそれに代置することもしばしばある」という程度に緩和すれば、概して当っている。彼の誤りは致命傷ではなく、その説が全く無価値になる訳ではない。

   「未開人」(primitives)という言葉は、1960年代くらいまでは、人類学の学術用語として通用していた。国連にアフリカ諸国が議席を占めて自己主張を始め、各国の少数民族も自己主張を始めてから、「未開」概念は帝国主義者の差別用語として排撃された。 かつては、「未開」はまだいい方で、エンゲルスの絶讃で有名なモーガンの『古代社会』(一八七七年)の副題にはSavagery through Barbarism to Civilizationという言葉があり、『未開社会の思惟』という邦訳のあるレヴィ・ブリュールの著書(一九一〇年)の「未開社会」の原語は「劣等社会(sociétés inférieures)」である。ケルゼンが当然のことのように用いている「未開人」という言葉が、現在から見てpolitically correctでないことは当然であろう。そこから、因果律をもたない「未開人」は因果律をもった「文明人」に支配されるのは必然であり、善意の「文明人」の教育を受ける(知的に支配される)のは結構なことだという結論も、当然導き出されるものであろう。ただケルゼンの中心関心はそこにはなく、「応報律から因果律へ」という図式はギリシャ思想理解においては有用な分析概念となっている。因みに帝国主義的偽善の凝縮といわれる国際連盟規約二二条(第一次大戦敗戦国の植民地を戦勝国が奪い取る委任統治制度を「文明の神聖な使命」として正当化している)については、ケルゼンは辛辣な批判を加えている。

             ☆          ☆          ☆          ☆            ☆          ☆          ☆          ☆           ☆          ☆          ☆          ☆            ☆          ☆          ☆          ☆

   『ケルゼン著作集』(全六巻)はこれで完結する。これはケルゼンの他界した一九七〇年代に、木鐸社から刊行した『ケルゼン選集』(十巻)を再編成し、各巻に一・二の新訳を加えたものである。木鐸社の能島豊・坂口節子、慈学社の村岡侖衛氏はじめ、多くの方々の御尽力によって可能となったもので、深く感謝したい。また亜細亜印刷株式会社の印刷に当られた方々の、信じられないほどの正確・良心的な活字化にも深く感謝の意を表したい。

   なお、人名索引は、一種の遊び心の産物であるが、これを調べる過程で思いがけない発見があり、内容理解に資するところがあった。読者諸氏に何らかのお役に立てば幸甚である。

           二〇一一年八月四日                                       長尾龍一

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ダンテの国家論』: Die Staatslehre des Dante Alighieri, Wiener staatsrechtliche Studien, Edited by Edmund Bernatzik & Eugen von Philippovich, Franz Deuticke, 1905; Also in Hans Kelsen Werke I, Edited by Matthias Jestaedt, Mohr Siebeck, 2007.(初版『ダンテの国家論』 木鐸社、一九七七年)

「神と国家」:"Gott und Staat," Logos, BD.XI, Heft 3, 1922/23; Also in Aufsätze zur Ideologiekritik, Edited by Ernst Topitsch, Luchterhand, 1964.(初版『神と国家』 有斐閣(一九七一年)、再版『神と国家』 木鐸社(一九七七年)所収)

「霊魂信仰の社会学」:“The Soul and the Law," The Review of Religion, Vol.1, 1937; Also in Aufsätze zur Ideologiekritik (Translated into German by Ernst Topitsch).(初版『神と国家』 有斐閣 、再版『神と国家』 木鐸社所収)

「因果と応報」:“Causality and Retribution," Philosophy of Science, Oct. 1941; Also in What Is Justice, University of California Press, 1957.(初版『正義とは何か』 木鐸社(一九七五年)所収)

「応報律と因果律」: “Primitive Magie,”“Das Wesen der Magie,”“Die Vorstellung von unpersönlichen Kräften,” in Vergeltung und Kausalität, W.P.Stockum & Zoon, 1941.(初版『正義とは何か』 木鐸社所収)

「因果と帰報」:“Causality and Imputation,” Ethics, Oct. 1950; Also in What Is Justice? 初版「因果律と自由意志」『神と国家』 木鐸社所収)

「聖書における正義」:“Justice in the Holy Scriptures,” Rivista Juridica de la Universidad de Puero Rico, 1952-1953; Also in What Is Justice?初版『ヤハウェとゼウスの正義』 木鐸社(一九七五年))

附録 I トーピッチュ『イデオロギー批判論集』「序文」:Ernst Topitsch, “Einleitung,” Aufsätze zur Ideologiekritik.(初版『神と国家』 有斐閣 、再版『神と国家』 木鐸社所収)

        II. ムーラウアー「ある軌跡」(Gerhard Murauer, “Lebensspuren: Umrisse einer österreichischen Biografie,” Hans Kelsen und die österreichischen Verfassung, Bezirksmuseum Josefstadt, 2011.

        III. 小林 公「『ダンテの国家論」解説」『ダンテの国家論』 (木鐸社)所収)