カール・シュミットの非常事態論と主権論
ケルゼン風批判
一 非常事態論における存在と当為
「主権者とは、非常事態についての決断者である」(1)
これはカール・シュミット『政治神学』(一九二二年)の巻頭の命題です。
紀元前四四年三月十五日にユリウス・カエサルが暗殺され、ローマは非常事態となった。この状況についての決断者は、最初はブルートゥスのように、続いてアントニウスのように見えたが、群集が決断者であったという解釈もあり得るであろう。しかしやがてオクタヴィアヌス、アントニウス、レピドゥスによる三頭政治が始まった。だがこれもまだ過渡期で、十三年後には、オクタヴィアヌスが共和制に終止符を打ち、帝制を樹立した。即ち彼が非常事態の決断者、即ち主権者であることが証明されたのである。―――
シュミットはこのようなことを論じているのでしょうか?断じて否です!彼が論じているのは、緊急事態において何が現実に起るかではなく、現行秩序上何が起るべきかを、存在でなく、当為を論じているのです。彼は言います。
非常事態はアナキーでもカオスでもなく、それは法秩序ではないにせよ、法学的意味における一つの秩序である。ここでは法規範の効力に対する国家存立の優越が疑うべからざる形で示され、一切の規範的拘束から解放された、本来の意味における決断がなされる。非常事態においては、国家はいわゆる自存権に基づいて法を停止する。「法秩序」という言葉における「法」と「秩序」が分離し、両者が独立の概念であることが明らかになる。平時においては決断の要素は最低限に抑えられているが、非常時には規範は抹殺される。しかしそれでも、非常事態は法学的認識の対象であり続ける。なぜなら規範や決断はなお法的なるものの枠内にあるからだ。(2)
この議論は規範的議論です。ケルゼンの見地から見れば、シュミットは規範概念や法概念から「授権」(Delegation)を不当に排除しています。要するに彼が言っていることは、「成文憲法の他に不文憲法があって、それが何人かに、非常時を口実として、フリーハンドを与える権力を授権している」ということです。彼はこの不文憲法を、Verfassungsgesetzの背後にあってそれに優越するVerfassungとよんだりしています(3) 。またシュミットは、非常事態において「法は退くが国家は存立する」(4)と言っていますが、その国家とは、ケルゼンから見れば、「主権者」に無制限の権利を授権するとされるこの不文憲法の擬人化でしょう。
上記の文章で彼が用いている「秩序」とか「決断」とかいう概念も法的概念で、彼自身も法学的認識の対象で法的なるものの枠内にあると言っています。だから彼は、「主権者とは、非常事態についての決断者である」と言う代りに、「主権者とは非常事態において現行規範秩序上決断権を認められている者だ」と言うべきだったのです。シュミットが論じている時期は、成文憲法では対応できないが、彼のいう不文憲法なら対応できる時期で、更に事態が進行して革命的状況になった状態は、彼の論述の枠外です。即ちその時期は、戒厳令のような憲法上の制度で対応できる時期と、本当に革命が起ってしまう時期の間の中間の時期なのです。。
彼がこの規範的な議論を事実的なものであるように装ったのは、自分の議論を実際以上にリアリスティックに感じさせるための意図的偽装かもしれません。それに欺された一人に、『政治神学』の訳者ジョージ・シュワブがいます。シュワブは「主権者は、極限的危機が存在するかどうか、またそれを除去するために何がなさるべきか(was geschehen soll)を決定する」という箇所を“what must be done”と訳し、「彼は憲法を全面的に停止する決断権を有している(zuständig für die Entscheidung)」(5)という箇所を “he who must
decide”と訳しています(6)。これは“what ought to
be done” “he who is empowered to decide”と訳すべきでしょう。
二 すべての国家は絶対主義国家
「主権者とは、非常事態についての決断者である」 という命題について、今度は「ついての」(über、英訳on)という前置詞を考えてみましょう。
危機的状態において最も重要な決断は、将来の体制選択でしょう。オクタヴィアヌスは、共和制を維持するか、帝制を樹立するかという決断の前に立たされていました。シュミットが「非常事態についての決断」という場合の決断とはそのような決断でしょうか。否です。
この点についてのシュミットの考えを示唆するのは、ジャン・ボダン『国家論六編』における主権の問題を論じた箇所です。中世においては王権は絶対的でなく、慣習や等族議会(Stände)との約束などに拘束されていましたが、ボダンの時代には王たちは、「緊急の必要」(7)という理由の下で、その拘束を断ち切ろうとしていました。ボダンは緊急性を理由として実定法を廃棄する権限を主権の本質的要素だとしています(8)。
シュミットは、非常事態において、主権者に与えられる権限を列挙することはできず(9)、唯一残存する規範は「誰が行動し得るか」のみであると言います(10)。自分に全権を授権する一規範のみの下にある主権者は「法から解放されています」(legibus
solutus)。それでは、今が非常事態だということの認定権は誰にあるのでしょうか。「それは主権者だ」というのがシュミットの解答です。そうであるとすれば、少なくとも法理論上は、主権者はいつでも、「今が非常時だ。俺は何の拘束も受けない」と宣言して絶対権を掌握することができるでしょう。
この決断(非常事態についての決断)は、非常事態の発端になされるものです。というよりも、シュミットのいう非常事態は、事実としての危機ではなく、認定権者によってそのように定義されて始まる法的概念ですから、現実に大きな危機があろうとなかろうと、主権者が「今が非常事態だ」と宣言すれば非常事態であり、宣言しなければ、戦争があろうと内乱があろうと非常事態ではないのです。「非常事態についての決断」とは、このような法的非常事態を発足させる決断です。これに対し「非常事態の決断」、例えば先のオクタヴィアヌスの決断は、その後のある時期に、時には危機の最終段階でなされるものです。
シュミットのテーゼが教えることは、すべての国家が絶対主義国家だということです。なぜなら、すべての成文憲法の背後には、主権者に、緊急事態を口実として、憲法停止権と絶対権力を与える不文憲法が潜んでいるというのが彼の主張だからです。十七世紀以降英国やフランスに革命があり、法の支配や法治国を求める運動が存在したが、シュミットによれば、それらによって絶対主義が克服されたと信ずるのは、成文憲法のみを憲法だと信ずる愚者だということになります。
そうなると重要問題は、誰がその主権者なのかです。
三 誰が主権者か?
シュミットは「主権者とは非常事態についての決断者である」と言いました。これに対して私は先に、彼は「主権者とは非常事態において現行規範秩序上決断権を認められている者だ」と言うべきだったと述べましたが、この「現行規範秩序」とは彼の前提する不文憲法のことに他なりません。誰にこの決断権を認められているのでしょうか?
『憲法論』(一九二八年)においてシュミットは、君主と国民をこの主権者となり得るものとして挙げています(11)。確かに彼の主権定義は絶対君主制においては、直ちに当てはまるように見えます。ルイ十四世やフリートリヒ二世が、絶対主義体制の不文憲法を根拠として、法秩序を停止したとすれば、「その体制ならそれも当然だろう」という気にもなるでしょう。
他方国民主権の民主制の下ではどうでしょうか。全国民が集って憲法を停止するというような事態も観念的には考えられない訳ではありませんが、一般には一部の人間が国民の名において決断を下すものでしょう。『政治神学』においてシュミットは、民主制における主権の主体について、「反対なしに国民と自己を同一化することを認められた人々」(diejenigen,
die sich widerspruchslos mit dem Volk identifizieren dürfen)(12)という定義をしています。常識的に見てこの「人々」(diejenige)とは、政治指導者でしょう。彼らが何らかの仕方で、国民の名を語る正統性を獲得するのです。
ケルゼンは、このようなことを、指導者の意思を国民の意思と擬制する「代表の擬制」とよんで、その反民主的性格を批判しており(13)、シュミットも「議会が政治的統一体の代表であるとされる限りにおいては、それは反民主的なものである」と述べています(14)。しかしシュミットは反民主的代表制が悪いものだとは考えていません。それどころか、代表者は「より高く、より高次の、より強い種類の存在である」と言い、代表には「偉大さ、崇高さ、荘厳さ、栄光、尊厳、名誉」などの属性が結びついていると言っています(15)。ケルゼンは団体の代表者と団体の機関(Organ)を同一視していますが(16)、シュミットは「任意の機関がすべて代表者である訳ではない」と言って(17)、代表者とは「機関」のような安っぽいものではないと主張しています。団体(Organ)はギリシャ語のorganon(道具)という言葉に由来しており、尊厳性を欠いているのでしょう。戦前の日本において、天皇を「機関」とよんだことにの反撥があったのも、その根源はここにあるでしょう。そもそもシュミットにおいて代表の原型はカトリック教会で、それが「人間界」(civitas humana)の代表者であり、「歴史の現実の中で人間 となった神であるキリスト」の代表者なのです (18)。
シュミットによれば、代表とは「不可視なものを公然たる存在によって可視化し、具象化すること」です(19)(和仁陽氏はシュミットのRepräsentationを「再−現前」と訳しておられます。不可視の超越的なものを眼の前に現わすという趣旨です)。シュミットは「絶対君主もまた国民の政治的統一体・国家の唯一の代表者である」と言っています(20)。しかし君主が不可視の「国民の政治的統一体」の代表者であることを、国民はどうして知り得るのでしょうか?ケルゼン的に見ると、シュミットのいう「不可視の存在」とはプラトンの「善のイデア」のようなものです。「善のイデア」についてケルゼンは言っています。
統治者には見えるこの善のイデアは、被治者である民には見えないから、統治へ の参与の資格は全くない。民は、救済を得るためには、善を知りその善を欲するとされる統治者の権威に全面的に服従する他ない。プラトンの国家の権威は被治者の無限の服従を基礎としているが、その根底にあるのはこの信仰である。非合理主義の完璧な表現であるこのプラトンの神秘主義こそ彼の反民主的政治論の正当化根拠であり、またすべての専制支配の正当化根拠である。(21)
プラトンにおいては、哲人王は不可視なものを認識するが、シュミットにおいては、絶対君主は不可視なものを体現する。形而上学者から見ればこの「認識」と「体現」の間には深遠な相違があるのかも知れないが、経験論者から見れば、大差はないでしょう。
四 シュミットの民主制論
シュミットは「代表」の対立概念として、代表に劣らず神秘的な「同一性」(Identität)という概念を導入します。彼によれば、民主制とは「治者と被治者の同一性」(22)「具体的に現前する人民の自己自身との同一性」(23)である。
一見すると、この同一性概念は簡単明瞭なように見えます。即ち人民とはそこに居る人間たちであり、日本では日本にいる一億三千万人の人間のように見えます。そうだとすれば、人民主権とは、これらの人々が合意で憲法の停止を決定することなのでしょう。
ところがそうはいかないのです。彼はここに「同質性」(Gleichartigkeit) という概念と「公的性格」(Öffentlichkeit)という概念を持ち込んできます。まず前者について:
民主制の平等の概念は政治的概念であり、すべて本物の政治的概念がそうであるように、区別の可能性と関わっている。政治的民主性は無差別の人間ではなく、特定の集団(Volk)への帰属を基礎としている。ある者がこの集団に属するか否かは、人種・信仰・共通の運命・共通の伝統など諸々の観念によって定められる(24)。
それ故民主的平等は実体の平等である。全国民がこの実体に参与しているから、平等の取扱いを受け、選挙権等が平等に与えられるのである(25)。
民主的平等は本質的には同質性、集団の同質性である。民主制の中心概念は人間ではなく集団である(26)。
こうして彼は、人種・信仰・共通の運命・共通の伝統などの観念を共有しない少数者の排除を唱えます。同質性(Gleichartigkeit)という言葉は、ナチの「違和者」(Artfremdheit)概念に連なる不吉な言葉です。シュミットによれば、多元的構成員をもつ国家では、主流集団の専制的支配以外には民主制は不可能だということになります。それに対しケルゼンの民主主義は、異質的諸集団が相互的自己相対化と妥協によって統合をもたらそうとするものです(27)。
Öffentlichkeitという言葉はラテン語のpublicitusの独訳で、publicitusはpopulus(民衆)の派生語です。ラテン語の辞書を引くと、publicitusには「公開性」と「権力性」という二つの意味があります。昔々、都市国家の中央広場に市民たちが集って、重要事項を討論し採決した時代には、「民衆性」及び「公開性」と「権力性」は一体をなしていました。しかしローマ帝国成立以後の君主制・寡頭制の下では、権力は民衆的でも公開的でもなくなり、publicusの二つの意味は分裂しました。
シュミットは「代表はもっぱら公的領域のものであり、密かに『四つの眼の下で』相談されるようなものは代表でない」と言っています(28)。彼が一方で代表の非民主的性格を指摘しながら、他方でこのようにその公開性を強調するのは不思議です。彼が「政治的統一体の代表」であるとする(29)絶対君主の法秩序停止の決断は、たいてい「閉じられた扉の向こうで」(behind closed doors)行なわれるのではないでしょうか。
シュミットは、民衆による民主的意思決定の様子を次のように描いています。
民衆の直接的意思表示の自然的形態は、集合した大衆の賛否の叫び(Zuruf)、即ち喝采(Akklamation)である。近代の巨大国家においては、民衆の自然的・必然的な生の発現としての喝采は形態を変化させた。即ち「世論」(öffentliche Meinung)に。そこでもやはり民衆は、「賛成」とか「反対」とか(Ja oder Nein)の意思を表明するのである(30)。
この情景は、指導者とマス(大衆)の分離を前提しています。指導者は原案を提出し、民衆はそれに賛否を叫ぶのです。原案作成は困難かつ微妙な作業で、特に決定的危機の時期(31)にはそうですが、その過程からは民衆は排除されています。原案には、議論の対象となる事項、専門的事項、疑問をよぶ事項が含まれており、原案作成者集団の外にも、大きな、或いは小さな代案をもった専門家やオピニオン・リーダーがいるはずです。従って賛否を問う以前に質疑や討論が必要でしょう。ところがシュミットは、一切そのような過程について論及していません。彼の描き出す民主的決定過程は全然民主的ではありません。彼は政府の外の民衆は、与えられたメニューを丸呑みするか否かを問われるのみの愚者の集団だと想定しています。
彼は、この集団的決定の現代的形態が「世論」だと言っています。しかし彼のいう世論は、通常その名でよばれているものとは似ても似つかぬものです。彼お好みの言い草を借りるならば、世論は彼が軽蔑する「自由主義的個人主義の思想圏(Gedankenkreis des liberalen
Individualismus)に属する」(32)のです。世論が成立するための不可欠の前提として、言論の自由、相互批判の自由があります。そこでは少数意見は尊重され、傾聴されねばなりません。そのような討論は、単純な「イエスかノーか」ではなく、選択肢の複雑な分岐をもたらすでしょう。
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シュミットは秘密投票制を批判しますが、これも少数派排除という彼の主張と結びつくものです。多数派・主流派・権力派を支持する発言を群集の中でするのは、確かに自由であろうけれども、そこで少数意見を述べることはしばしば危険です。特に場の雰囲気が彼の言う「自由主義的個人主義の思想圏」に属さない場合には。
シュミットのいう「民主制」とは、実は権力者に操作された大衆支配なのです。
五 立憲制下の主権者
シュミットによれば、主権者とは「憲法を全体として停止する権限をもつ者」です。それにつけ加えて、彼は「近代立憲主義は、この意味での主権を除去しようと躍起となってきた」と言っています(33)。十九世紀立憲君主制憲法の殆んどすべては、君主・内閣・上下両院の権限をこまかく規定し、(少なくとも成文憲法上は)何らかの機関に憲法の全面停止権を与えてはいません。部分的停止権(シュミットのいう「委任的独裁」)を規定しているものはありますが。
そのような憲法の下でシュミットのいう「主権者」が、憲法の全面的停止を宣言したとすれば、それは成文憲法違反で、そのような行為が「国家行為」かどうかがまず問題となるでしょう。例えば大統領がワイマール憲法四十八条に列記されていない権利の停止を命令した場合、それは有効でしょうか?実際にその命令が執行されるか否かは、民衆や官僚たちの行動に依存するでしょう。
シュミットは「憲法」(Verfassung)と「憲法律」(Verfassungsgesetz)(即ち成文憲法)を区別し、このような行為は前者によって正当化されると言います。しかしそのような意味の「憲法」が本当に存在するのか、仮に存在するとして、一般的に、また具体的にそれが何なのかについて対立が生ずるでしょう。シュミットは、国民主権においては「反対なしに国民と自己を同一化し得る者」が主権者だと言いますが (34)、「同一化」とは神秘な概念で、諸陣営の政治指導者たちが各々「国民」との同一化を標榜するでしょう。そしてここで「反対なしに」と言っていることは、権力者に操作された大衆的決定を前提しており、シュミットの「喝采」論は、『憲法論』(一九二八年)より前の『政治神学』(一九二二年)に既に当然の前提となっていたことになります。
シュミットは言います。
非常事態を明確な法的要件として規定することは不可能で、せいぜい「極度の切迫」とか「国家存立の危機」とかと定め得るのみである。こういう事態になって初めて、主権の主体の問題、主権そのものの問題が顕在化する。何時非常事態が存在するのか、その場合にどうするのかを、列挙することなど不可能である。非常事態権限の要件も効果も無限定とならざるを得ない。憲法が定め得るのは、その場合に誰が行動し得るかのみである。こうなれば、その行動は何の統制を受けず、立憲制憲法慣行の抑制均衡などは消し飛んでしまい、誰が主権者は白日の下に明らかになる(35)。
成文憲法が誰にも憲法の全面停止権を与えていないところで、「誰が主権者は白日の下に明らかになる」とは不思議なことです。どうもシュミットは、部分的憲法停止権を与えられている者は、権限の要件効果を定めることが不可能だから、非常時にはオールマイティーとなると考えているらしいのです。部分的独裁官が専制支配者になることを防ぐために行なわれてきた古来の工夫は、無意味な努力だったという訳です。
シュミットは、非常時には一者、しかも既存の権力者に権限を集中し、その者に法の全面的停止権を含めた無限定の権限を与えるのが、唯一適当な方策だと前提しています(36)。しかしそういう場合もあるかも知れませんが、それの政策的妥当性はアプリオリではなく、アポステリオリに決まる問題です。権力集中には長所もあれば短所もあります。特に現存の権力者の失政によって危機が招来された場合には、その権力者に全権を与えることが適当とは思えません。実際歴史上も、危機を避けるために権力を分割した事例は少なくありません。アレクサンダーの死、オーストリア=ハンガリー帝国の敗戦、ソ連帝国の瓦解とともに、権力は分割されたではありませんか。イギリスの名誉革命、フランスの七月革命の後に、権力分立制が導入されました。
シュミットのもう一つの独断的前提は、既存の国家は何としても防衛されなければならない、国家は「自存権」(37)をもっている、という前提です。しかし革命的状況においては、既存の国家を維持するか否かが、それ自体問題となります。シュミットの議論は、それこそ反革命そのものです。
ケルゼンは言います。
しばしば国家の存立という事実そのものから国家に自存権があるのだ、ということが言われる。そして非常事態になると、国家は既得権を毀損し、令状なしに国民の自由を侵害し、補償なしに財産を剥奪・破壊し、更には国家機関、特に国家元首による法秩序・憲法の侵犯が正当化される、と主張される。「これが国家緊急権だ。国家は生きなければならない。合法的に生きられなければ、国家の最高機関、特に君主は、国家を存続させるためにすべてをなす義務がある」と言う。これはもとより、政治論や自然法論を実定法らしく装ういつもの遣り方である。たいていの場合、国家は「生きなければならない」という殊勝げな言い草の背後に、国家緊急権なるものを行使しようとする者の好むような仕方で国家を生かそうとする身勝手な議論が潜んでいる(38)。
(1)
Carl
Schmitt, Politische Theologie, 1922,
p.9.; Political Theology, 1985,
Translated by George Schwab, p.5.
(2)
Politische
Theologie,
p.13.
(3)
Verfassungslehre, p.13.
(4)
Politische
Theologie,
p.13.
(5)
Ibid., p.10.
(6)
Political Theology, p.7.
(7)
Politische
Theologie,
p.10.
(8)
Ibid.,
p.11.
(9)
Ibid.,
p.9.
(10)
Ibid.,
p.10.
(11)
Verfassungslehre, p.146.
(12)
Politische Theologie, p.11. シュワブはwiderspruchlosという単語を訳さず、「直接」(directly)という自前の言葉を挿入している(Political Theology, p.10)。 これは「反対意見なしに」という意味で、多元的社会・多党制の下では考えられない。彼は指導者に操作された群集支配による意思決定を前提している。
(13)
Hans Kelsen, Allgemeine Staatslehre, 1925,
p.344. Vom Wesen und Wert der Demokratie,
2.Aufl., 1929 (3rd ed., 1963 p.31.)
(14)
Verfassungslehre,
p.218.
(15)
Ibid., p.210.
(16)
Kelsen, Allgemeine Staatslehre, 1925,
p.310.
(17)
Ibid., p.212.
(18)
Schmitt, Römischer Katholizismus und politische
Form, 1925, p.26.
(19)
Verfassungslehre, p.209.
(20)
Ibid., p.214.
(21)
Kelsen, “Die
platonische Gerechtigkeit,” (1933) Aufsätze zur Ideologiekritik, 1964,
p.230.
(22)
Verfassungslehre,
p.234.
(23)
Ibid.,
p.223.
(24)
Ibid.,
p.227.
(25)
Ibid.,
p.228.
(26)
Ibid.,
p.234.
(27)
Kelsen, Vom Wesen und Wert der Demokratie,
p.56.
(28)
Verfassungslehre,
p.208.
(29)
Ibid.,
p.214.
(30)
Ibid.,
pp.83-84.
(31)
Ibid.,
p.84.
(32)
Ibid.,
p.245.
(33)
Politische
Theologie, p.10.
(34)
Ibid.,
p.11.
(35)
Ibid.,
pp.9-10.
(36)
Ibid.,
p.13.
(37)
Ibid.,
p.13.
(38) Kelsen, Allgemeine Staatslehre, p.157.