マーク・ピーティー(Mark R. Peattie)『植民地』(浅野豊美訳)

  日本が植民地をもち、知識人が植民政策を論じていた時代は、忘却の彼方にあるように見えるが、それへの朝鮮民族の怨念によって、記憶がしばしば呼び覚まされる。彼らの憎悪のあまりのすさまじさに触発されたのか、実態はどうだったのかという学問的関心が、米国研究者間に生じている。朝鮮支配層、特にブルジョワジーの対日協力についての研究書C. Eckert, Offspring of Empire, 1991なども刺激となり、加害者でも被害者でもない第三者の研究がぼつぼつ現れているが、本書もその一つといえよう。

  帝国主義の本質について、ホブスン、レーニンらの「古典学説」は、過剰生産のはけ口という経済的要因を重視するが、当時の英国の投資先のほとんどはアメリカ、カナダなどで、19世紀に獲得した地域には全然向けられていないから、事実に合わない。シュムペーターは、西洋列強の非合理な権力意志に原因を求めたが、著者(ピーティー氏)も、多様な原因で場当たり的に起こったもので、単一の原因など求められない、と言っている。

  日本は、日清戦争までは、(周辺的な人間を除けば)植民帝国を作ろうとは考えていなかった。日清戦争による台湾取得後帝国主義時代が始まるが、「主権線」と「利益線」という、軍事的発想に発する植民地支配において、朝鮮半島の方が切実な関心対象であった。

  台湾は、軍事的討伐段階(第一期)の後、後藤新平による、西洋植民地を模した近代化政策が推進された。台北等に堂々たるビル街を建設、郵便・電信・道路・衛生施設・学校などを導入し、農業技術の改善、精糖業の育成など、相当の成果を挙げた。原敬内閣時代、文官総督田健治郎の下で、一定限度のリベラルな政策が導入されたが、台湾議会創設は拒否され、限度があった。

  朝鮮への干渉は早くから始まり、日清戦争後激しい抵抗を受け、全権を掌握して抵抗を抑えるため併合した。寺内正毅総督の武断統治により抵抗は一時潜在化、1919年の「3・1事件」において再び顕在化した。原内閣は「文治政策」という懐柔政策に転じたが、「過去の不正と蛮行に対する怒りの記憶が余りに強すぎた」。

  この段階(「第二期」)までの日本の支配は、西洋植民地主義の比較的優等生的な模倣者で、諸国の評価も高かった。1930年代(第三期)以後日本は、西洋帝国主義排斥を標榜するアジア支配に乗り出し、「皇民化」の名のもとで日本流を押し付けた。日本敗戦後まず起こったことは、神社焼き打ちであった。こういう「愚」がなければ、日本帝国ももっと続いたかも知れない、という。

  本書の基本的姿勢は、植民地支配はすべて悪ではあろうが、日本の「悪」は「第二期」までは大体西洋並み、「第三期」は特に悪かった、しかし旧植民地への日本の遺産をすべて敵視ないし無視する訳にもいかないだろう、というもののようである。朝鮮統治の「覇道」と異なる「王道」と標榜された「満州国」は、もっぱらこの「第三期」に当っている。(『法学セミナー』1997年4月号)*

* その後訳者浅野氏の刺激などもあって、植民地問題について、多少勉強し、また考えるところがあった。「文化」と「文明」を区別するならば、朝鮮は日本の「文化」の先輩国であり、両国は少なくとも同等の水準にあった。日本は「文明国の権利」という西洋帝国主義の論理に便乗してこの国を植民地化した。しかも西洋諸国は中国・朝鮮・日本を「半文明国」として、「半主権国」扱い、即ち不平等条約の対象としていた。植民地とは「非文明地域」に対する待遇である。西洋的「文明の論理」からしても、朝鮮を植民地化するのはルール違反で、朝鮮民族が怒ったのは当然といえよう。