法哲学講義第二部
法哲学と言いながら、法の字のつかない話ばかりしてきた前期講義に対し、後期の講義は、(I)「社会的世界の再構成」という主題と、(II)法哲学という名で従来議論されてきた諸問題の中から幾つかの主題を紹介する。IIは私の定義からすると「哲学」に当たらない部分を含み、「法哲学者」と自称したり、世間からそう呼ばれている人々が、得意になって展開してきた議論の一部を批判的に紹介する、という性格のもの、即ち俗流法哲学の紹介・批判という性格のものを含む。
第一章 近代哲学の全体的性格
しかしまずは前期の講義の総括から始めなければならない。
アリストテレスの四原因(質料因・動力因・形相因・目的因)論は、中世キリスト教神学において、「神の形相」「神の目的」という教義と結びついて、全宇宙の説明原理となった。近代科学は、これに対し、次のような仕方で挑戦した。
第一には、太陽系に関する天文学が進歩して、厳密な物理法則に従う天体の運動という体系が成立した。Democritosの抽象的な決定論的綱領がここに具体化したともいえる。これには惑星の軌道が円でなく楕円であるという発見で、近似的にしか説明がつかなかった惑星の運動が厳密に計算できることになったことが大きく貢献している。惑星の軌道が「円」であると想定されている間は、経験的データとずれがあって、厳密な決定論的体系が成立しがたかったのである。
第二には、天上の法則と地上の法則が異なるというアリストテレスの想定が崩され、太陽系の運動に関する厳密な決定論が地上に移されて、地上的・人間的世界についての厳密な決定論が登場したことである。ニュートン物理学がこれに数学的定式化を与え、人間界・動物界に関する厳密な決定論が不可抗の理論として支配力をもった(ニュートン的法則を、神の世界計画の具現として、形相因的・目的因的に説明することは、信仰としては、不可能ではないであろう)。
第三に、この決定論的体系は、人間の「心」、及び「心」に宿った観念が物理的現象に支配力を及ぼすという経験的事実と衝突し、これについてDescartes、Leibniz、Malebranche, Kantなどによっていろいろ理論的解決の試みがなされたが、結論として言えば何れも成功しなかった。宇宙全体を「形相因」の支配下におくアリストテレスの世界観は、ニュートン物理学によって代置されたように見えたが、宇宙の小さな一部であるとはいえ、人間という重要な例外について、ニュートン体系に整合的に取り込むことに失敗した。
第四に、過去の原因が未来の結果を決定する決定論的体系は、未来の目的が過去の手段を決定する「目的因」の支配を受ける生命現象を体系に整合的に取り込むことにも成功しなかった。即ち、少なくとも広大な宇宙の中の一小部分に過ぎないにせよ、この地球上で生じている諸現象について、ニュートン的世界観は例外を認めざるを得ないように見えた(これは古代において既に、エピクーロスによるデモクリトス体系修正において、予見されていたともいえる)。
第五に、ニュートン物理学が19世紀中葉より、光や電磁気に関する説明において克服できない困難に直面し、Einstein、Heisenbergなどによる20世紀物理学に支配の座を譲るが、この20世紀物理学と「形相因」「目的因」の関係については、依然としてニュートン物理学における問題を未解決のまま承継している。要するに近代科学・近代哲学は「宇宙における人間の位置づけ」という根本問題について、なおほとんど手つかずの状態なのである。
第六に、アリストテレスが人間を「ポリス的動物」と呼んだように、古代哲学は「宇宙の中の人間」、「社会の中の個人」という枠組みの中で展開したが、デカルトの懐疑に始まる近代哲学の潮流は、外界を捨象した人間の主観を拠点として世界を再構成する、という主観主義的哲学を成立させた。第五までについては、前期で既に論じたので、以下の叙述は、この第六の点、即ちデカルトの「方法的懐疑」から出発する。
だが、デカルトの話に入るに際して、やや私事を交えたくだけた話をしたい。私に1991年に書いた小文があって、それは「私の哲学入門」という題で『純粋雑学』という雑文集に収録されているが、そこに私の哲学入門の回想が書かれている。それによると、中学三年のころ、永井浄さんという先輩の本棚で園原太郎『自殺の真理』という本を見つけてそれを読み、私も引揚者として九州の山村で適応障碍を起して自殺を考えたこともあり、異常な関心をもった。外の人間にはまったく理解されないこの世への怨念に固まって、その怨念をかかえてあの世にいく自殺者の主観的世界、その世界こそ真実の世界なのではないか、などと考えた。同じく浄さんの本棚にあった太宰治『人間失格』の大庭葉蔵の主観的世界などとも類比して、そこに出てくるヒラメとか堀木などという外面だけから人間を理解する俗人に対して、主観主義的・内面主義的傾向が強まっていた。
高校に入って、野口君という同級生に「自殺について関心がある」と話したところ、「兄の本」だとしてショーペンハウアー『自殺について』という小さな本を貸してくれた。そのときはよくは分からなかったのだが、しかしこのSchopenhauerこそ世界を「意志と表象」として描いた主観主義哲学者で、当時の私の志向と適合的な思想家であった。私は何とかこういう思想を理解したいと考えて、図書館の哲学の本を読み始めた。そして出会ったのがデカルト『方法叙説』であった。外界の存在は不可知で、「我」の存在のみが確実だというデカルトの議論は説得的に見えた。しかしロックが、「我」の存在は経験では知り得ず、直感で知るのだ、と言っているのをみて、「本当に我なるものは確実なのか、経験(意識)だけが確実ではないのか」という方向に思考が発展していき、英国経験論を基礎として客観的世界を再構築したいというような抱負をもつようになっていた。
しかし私は最近、このような20年前に考えた「自分史」の理解に疑問をもつようになってきた。