あとがき

   ケルゼンは法学者であるから、この法学論が彼の本領である。しかし彼は、ギュムナジウム(中学・高校)時代文学青年・哲学青年で、卒業の時は大学で哲学・数学・物理学を学ぶつもりであった。このように、発想の原点が外にあるということが、彼の法学論の基本性格を規定している。彼は、恐らく「どうせ兵役があるのだから今のうちに済ませておこう」と思ったのではないかと思われるが、「一年志願兵」になって兵役に服した。身長一六五センチというチビの彼は、肉体運動だけの日々で頭がおルスになり、仕方なしに法学部に進学したという(『自伝』一一頁)。因みに彼のライヴァルであるカール・シュミットはもっとチビで、一五九センチである。

   日本におけるケルゼン学の大先達である宮澤俊義先生は、法学説を「理論学説」と「解釈学説」に分類したが、ケルゼンの主要な業績は前者に集中している。後者に関しても、国連憲章註釈書の大著『国際連合の法』や本書収録の「国際法違反行為に対する個人責任」など、色々存在するが、彼は、実定法は通常複数の解釈可能性を含んでおり、その一つを選ぶのは実践者の任務であって法学者の任務でないとして、可能な諸解釈を認識し比較する以上のことは慎んでいる。これは伝統的な法学者が中心的任務と考えてきたものから身を退くことを意味し、いかにも物足りない印象を与えるかも知れない。しかしこれは、学問は認識だという彼の前提からは、致し方のないことである。認識でないものを学説の名で唱えるのは知的不誠実だという、来栖三郎先生流の批判は、「昔から法学はそうやってきたのだ」として、伝統の名で否定し去ることはできないであろう。

   彼の「理論学説」に関しては、彼独特の哲学的前提から出てきた独特のもので、その前提を共有しない者には無関係だという観方もあるが、私は賛成できない。確かに彼の思想的本拠地は、ドイツ公法学に強い影響を与えてきたドイツ観念論の首都ベルリンではなく、懐疑論的ラディカリズムの首都、世紀末(というより世紀交替期(Jahrhundertswende))のウィーンであった。戦前の日本精神界においては、前者が正統派、後者は歯牙にかける価値もない異端説だと見えたかも知れないが、現在ではそういう精神構造の方が異常だと見る人々も少なくない。

   私の見るところでは、世紀交替期ウィーンの精神界の特質は、英国思想の過激な再現である。超越的な観念をすべて意識に還元しようとする英国経験論は、マッハの物理学において徹底され、論理実証主義に承継された。社会的諸現象を意識下から解明しようとするフロイトなども、広い意味ではこの潮流に属する。また、ホモ・エコノミクスという抽象的アトムから市場の運動を再構成しようとした英国古典経済学は、ドイツ歴史学派からその抽象性・非歴史性を批判されてきたものであるが、メンガー以下の限界効用学派はアトミズムの復権である。ミーゼスやハイエクの市場原理主義は、古典経済学の市場主義を過激化したものといえよう。カント以下のドイツ観念論は英国経験論や自由主義を克服したと標榜したが、ウィーンでは全然克服されていないという前提に立って、諸々のパラダイムが再登場したのである。

   ケルゼンは経験論(彼は一部の形而上学者たちが蛇蝎視する「実証主義」という言葉を使うことで余分に敵を増やした)の伝統に忠実に、超経験的な人格概念や実体概念を、擬制ないし思考の病理の産物として、その消去を試みた。国家とは法秩序の擬人化に他ならないとして、国家概念を法命題(Rechtssatz)に還元することが、彼の理論の中心モティーフであった。この還元によって国際法・国内法二元論、公法・私法の二元論、立法と行政・司法の原理的対置などが相対化されたのである(本書所収『主権の問題と国際法の理論』「序文」はそのことを綱領的に述べている[一一五〜一二〇頁])。

   ただケルゼンは、意識の世界にすべてを還元しようとする経験論に、もう一つの前提を付加する。即ち人間の意識の中に、因果律と並んで、当為という範疇(Kategorie)が存在し、これを因果律による世界解釈と対立するもう一つの世界解釈の枠組と考えることである。彼によれば、当為もまた経験的世界の解釈図式(Deutungsschema)であって、経験論哲学と矛盾するものではない。数百人の人々が起立するという経験的事実を「法律の議決」と解釈し、黒い服を着た人物が壇上から何か言う行為を「判決言渡し」と解釈する、というようなことが法という解釈図式による経験的事実の解釈の例であり、疫病の流行を死霊の復讐と解釈した未開人の態度はその先駆である。

   カントは形而上学的・宗教的情熱を理性によって辛うじて抑えるといった人格の持ち主であったから、ヒュームの懐疑にショックを受けた後、範疇概念の発見によって絶対者への情熱を復権させようとした。人間の心には、神の植え込んだ絶対的真理の担い手としての範疇があり、それによって(プラトンをソフィストやソクラテスの懐疑から救った)純粋数学や純粋幾何学の絶対的真理性が確立され、また実践理性の範疇によって、人格の尊厳というような彼の倫理的信念も基礎づけられるのである。 

   ケルゼンはそのような情熱とは無関係な人格の持ち主で、カントのいう実践理性なるものは理性ではないし(Reine Rechtslehre, 2.Aufl., p.415)、いわゆる定言命法(kategorischer Imperativ、直訳すれば「範疇的命令」)は形式的枠組の中に実質的倫理規範を密輸入することによって近代倫理学の規範のように見えるに過ぎない(pp.368-374)。彼によれば世界をもっぱら規範的範疇によって解釈するのは未開人であるが、未開人は理性をもたない情念的人間である。ケルゼンにおいては、因果律は未開人には存在しない後天的なもので、当為の範疇も未来の人類には存在しないかも知れない(Society and Nature, p.266(『ギリシャ思想集』一六〇〜一頁))。当為は「ヒュームの思考習慣やカントの思考範疇のようなものである」と、カントの絶対主義的な範疇を思考習慣の次元に引きずり降ろしている(Reine Rechtslehre, 2.Aufl., p.110)。

   これらの点でケルゼンは、ショーペンハウアーがカントに施した修正に依拠しているという印象を受ける。ショーペンハウアーは、カントが『純粋理性批判』に掲げた十二の範疇表を無意味な形式主義として、範疇を因果律に一元化した。これがケルゼンの因果律によって世界を解釈する自然科学の世界ということになる。ショーペンハウアーは、因果律の範疇によって支配される経験界(彼のいう表象界)に対立するものとして、不条理な「意志」を挙げたが、ケルゼンにおいては、情念人として未開人はこの「意志」の範疇として規範的カテゴリー、彼のいうZurechnungsprinzip〈帰報律)をもつことになる。「文明人」もまた、非合理な決断によって立法し、命令して、規範体系を作り出し、それによって人間行動を規律し、解釈するのである。

   リッケルトに代表される西南ドイツ学派新カント主義に対する、ケルゼンの批判は、彼らのいう「価値関係的」な文化科学の概念が、倫理学や法学のような規範を対象とする学と、規範の対象である事実に関する因果科学という範疇の異なるものを一括して「文化科学」と呼んでいることに向けられている。歴史学や社会学は人々の価値的行動によって営まれる事象を因果的に把握する因果科学であるが、倫理学や法学は規範を対象とする規範科学であって、これを前者と同様に文化科学と呼ぶことは、混乱を招くのみだというのである。

   規範体系は根拠を遡っていくと、最終的には仮説的前提に行きつく(これを彼は根本規範(Grundnorm, Basic Norm)と呼ぶのであるが、体系の頂点にあるものを底辺としてのGrundとかBasisとか呼ぶのは用語法としておかしい。始原仮説(Ursprungshypothese)という方が適当と思うが、彼自身の後期の用語法であるから、以下それに従う)。ケルゼンはこの仮説的前提について、「受け容れることも受け容れないことも可能だ」と言っている("Why Should the Law Be Obeyed?" What Is Justice? p.263)。「ヤハウェの命令に従うべし」「アラーの命令に従うべし」などという根本規範を信者は受け容れ、非信者は受け容れない。受け容れない者にとっては、諸々の儀礼などは単なる身体の運動に見える。実定法の根本規範を受け容れないアナキストには、刑罰も強制執行も税金の徴収も、殺人行為・強盗行為も同様のものに見える。それを理論的に反論することはできない。

   ケルゼンは法を「最終的効果が物理的強制である規範体系」であるとしている。物理的強制がなければ、厚顔無恥な規範蹂躙者に対し手の施しようがないし、強制はやがて警察や軍隊という組織へと発展する。そうすればこの組織を動かす実定的な組織規範が必要となり、道徳や慣習から独立した制定法が発達することになる。制定法は道徳や慣習などと矛盾する内容をもつこともあるであろう。規範を強制規範と非強制規範に分類することは、規範分類における重要な着眼点である。もっとも私は、法と道徳を根本規範を異にする別の規範体系だと解釈する必要はなく、ケルゼンもそうある必然性を論証していないと思っているのであるが・・・(長尾「ケルゼンにおける法と道徳」『日本法学』72巻1号(2006))。

   強制規範としての法規範との関連において、法的諸概念は定義される。強制の要件を避けるのが「義務」であり、要件に当たらない行為が「自由」であり、強制を受ける地位が「責任」であり、自分の意志によって法的制裁を発動させる可能性が「権利」であるというように。このような法の一般理論上の諸概念に加えて、各実定法は更に法学辞典に掲載されているような概念の細目を作り出す。

   「授権の体系としての法の段階構造」というアイディアは弟子のメルクルに発するものであるが、頂点の「根本規範」はまったく無内容で、法段階ごとに内容が加わっていくという思想は、法の内容のすべてが人為のものだという法実証主義の帰結である(自然法論者によれば、実定法の上にたつ自然法が既に内容をもって実定法を拘束している)。授権規範は上位規範、被授権者が創造した規範が下位規範であるが、上位規範と下位規範が抵触した場合、必ずしも前者が後者を無効とするとは限らない。無効化する手続きが定められていなければ、下位規範が上位規範を排して効力を持つ。違憲立法審査権制度が定められていなければ、違憲の法律が憲法を排して実定法となる。私は授権・被授権を示す「上位」「下位」と区別して、抵触の際に優先して適用される規範を「優位規範」、適用されない規範を「劣位規範」とよぶことを提唱している。

   近代国際法秩序は「上位の権威をもたない主権国家の並存状態だ」というのがウェストファリャ条約以来のドグマであるが、これは擬人化された法秩序である国家を巨大なリヴァイアサンとして表象し、その無拘束性を誇張する議論であって、ケルゼンによれば基本的には中世以来慣習国際法や条約が各国家を拘束してきた。ただ国際法秩序は極めて分権的な体制であるから、上位規範と優位規範とが分離し、上位規範が劣位規範となることも多い。慣習国際法上のPacta sunt servanda(合意は拘束する、条約に従うべし)という原則は条約国際法の上位規範ではあるが、条約は原則として慣習国際法より優位規範である。国際法上位説によれば、(実効的に支配する国家や政府に授権する)国際法は国内法の 上位規範であるが、国際法の国内的効力は各国が決定権をもち、国際法は多くの場合憲 法に劣後する。日本でも条約は憲法と法律の中間にあるというのが旧憲法以来の公定解 釈で、砂川事件判決でも、最高裁は日米安保条約の合憲性を審査した(「条約優位説」 からすれば審査は不可能である)。即ち国際法の国内的効力という点に関しては、国際法は国内法の上位規範で劣位規範、憲法は条約の下位規範で優位規範である(しかし国内法を理由としての国際法違反は国際法上の制裁の対象となる)。

   本訳書が訳出した「国際法における個人の地位」は、第二次大戦末期、連合国の間で戦犯裁判が論議されていた頃の作品で、まだニュールンベルク裁判や東京裁判の枠組なども未決定の段階のものである。中立国による裁判の提案など、「強者の裁き」にならないような配慮が示されており、東京裁判においてその正当性を批判したインドのパル判事が幾度も本書に言及している。戦時国際法に関する彼の造詣には、第一次大戦末期、陸軍大臣顧問としての体験が反映しているように感じられる。激戦の続いている中で、ナチスの被害者である彼が、裁判が復讐であってはならない旨を助言し(二〇〇頁)、冷静に法律論を展開しているのは、自らの学問論への忠実さの表れと評価できよう(パルの引用箇所は本書一七四、一八〇〜一八六、二〇〇頁)。

   反ユダヤ主義者カール・ルェーガー・ウィーン市長は、「学問とはユダヤ人とユダヤ人の喧嘩のことだ」という趣旨の発言をしたが、ケルゼンとエールリッヒの論争にはその感もなくはない。今井・竹下両氏による解説も指摘しているように(二七三頁)、ケルゼンは法社会学そのものを敵視している訳ではなく、彼の立場から見てエールリッヒの概念の整理が悪いことを指摘しているに過ぎない。ケルゼン自身もオイゲニー・シュヴァルツヴァルトの社会人学校で社会学の講義を担当していた(『自伝』一一四頁)。ケルゼンの態度は、第一次大戦でチェルノヴィッチ大学が廃校となって失職し、後には留学中の孫田秀春にドイツ語を教えて糊口を凌いでいたエールリッヒに苛酷だという観方もあり得るかと思うが、最初の批判文執筆の頃は恐らく開戦前で、その後ケルゼンも軍隊内で苦労していた(陸軍大臣法律顧問と「偉く」なったのはZeitschrift  für Militärrecht, 1.Bd.(1917)に論文が掲載されて査問を受けてからで、論争終了後である(『自伝』二七頁))。

   ケルゼンは法実務家としては、オーストリア憲法の起草、憲法裁判所判事としての活動などの経験があり、メルクルは彼の「法創造の才能」を評価している(三五四頁)。この憲法は第二次大戦後多少の修正を加えられて復活し、現在のオーストリアで彼は「憲法の父」とよばれ、「彼の起草した憲法は敗戦後のオーストリアに唯一可能な制度的枠組を提供した」、「オーストリア議会はケルゼンの肩の上に立っている」などと評されてている(『自伝』「あとがき」一六一頁)。憲法裁判所判事としての司法官としての活動は、なかなか目的法学的であった(Robert Walter, Hans Kelsen als Verfassungsrichter, 2005, p.91(長尾「ケルゼンと憲法裁判所」『日本法学』七二巻二号(二〇〇六年)二六七頁)。

   ただケルゼンの、特に初期の作品は、もう少し誤解を招かないように神経を使ったら、とひやひやするようなところがある。渡米後異質の文化の中で自己紹介をしなければならなくなって、随分よくなったが、それでも「私ならこう言うのに」と思わせるところが多々ある。しかしこういう右顧左眄しない剛直さが彼の理論的一貫性と破壊力と結びついているのであろう。例えば「すべての法は公法だ」(九頁)という主張も、民事実体法も裁判と強制執行という公法的制度の適用における要件を定めるものであるから、透徹した認識といえよう。

   本書においても、昔のご訳業の再録を快諾されたばかりか、改めて丁寧に手を入れて下さった訳者諸氏に感謝したい。特に『ケルゼン選集』(木鐸社)とは独立になされた翻訳を本書に収録することをご快諾下さった今井弘道・竹下賢氏のご厚意には感謝の念を禁じ得ない。原則として体裁の統一は行なわなかったが、余りに分りにくいと編集者に指摘された部分については、長尾が手を入れた。慈学社の村岡侖衛氏にはいつもながら御迷惑をおかけし、だらだらと遅滞もして、お詫びの言葉もない。               

                                                                    長尾龍一

  二〇〇九年十月三十一日