科学と政治[『ハンス・ケルゼン著作集』(法学論)所収]

事実と価値

科学は政治から独立しているべきだという主張は常識論のように見える。この命題は、科学の本質的仕事である真理の探究は、特定の社会秩序や社会制度の樹立や維持に関わる政治的関心によって左右さるべきでないということを意味する。政治は統治に術であり、人々の社会的行動を統制しようとする実践であって、意思の作用である。従って意識的・無意識的に、実現しようとする価値を前提している。それに対し科学は認識作用であり、その目的は統治でなく説明、世界記述にある。科学の政治からの独立ということは、突き詰めれば、科学者はいかなる価値も前提すべきではないということを意味する。ということは、科学者は、その考察対象の善悪を判断せずに、その説明と記述に自己限定すべきであるということである。善悪の判断とは、前提された価値との適合不適合の判断である。それは当然に、科学者は、その対象の記述と説明に当って、自分自身の信ずる価値に左右さるべきでないことをも含意している。科学的命題は事実に関する判断であり、それは経験によって検証可能なもので、定義上判断主体の願望や恐怖から独立した客観的なものであるはずである。その命題は真か偽かである。それに対し価値判断は主観的なもので、窮極においては判断主体の人格、特にその人格における情緒的要素に根ざすものである。

科学の領域よりの価値判断排除の原則には、一つの例外があるよう見える。「科学は真理という一つの価値を想定せざるをえない。科学者はあることが真か偽かという価値判断だけは正当になすことができる」ということが屡々主張される。しかし真理は、政治行動の基礎をなす諸価値、例えば個人の自由とか経済的安定とかと同様の意味で価値なのではない。あることが真であるとか偽であるとかという判断は、あることが善か悪かという判断とは本質的に異なっている(善か悪かは、価値判断の最も一般的な定式化である)。真理は、前提された価値との適合性ではなく、事実との適合性である。真偽の判断は、ある事実の存在・不存在の認識であり、それは判断主体の願望や恐怖から独立し、理性に統制された五感の経験によって検証され得る客観的性格のものである。「鉄は水より重い」という命題は真、「水は鉄より重い」という命題は偽であって、そのことは経験によって証明され得る。その真偽は、判断主体が何らかの理由でそうでないことを希望したとしても、全く左右されない。それに対し、「個人の自由は保障するが経済的安定は保障しない社会組織は善である」「それは個人の自由は保障しないが経済的安定を保障する社会組織より善い」という命題は経験によって検証される事実命題ではなく、真でも偽でもない。それは有効(valid)か無効(invalid)かである。価値として個人的自由と経済的安定性の何れがまさるかという価値判断は、「多数の人間は経済的安定性より個人的自由の方を選ぶ」という命題と混同してはならない。この命題は事実命題であって、真か偽かであり得る。仮に「大部分の人間は経済的安定性より個人的自由を選ぶ」という命題が誤っていて、その逆の命題が真であるとすれば、前者の命題は論駁されたことになる。だが「大勢の人間が何と言おうと、個人の自由は経済的安定より尊い、善い」という価値判断は、上記の命題によって論駁されない。独自の意味での価値判断は、事実命題を論駁も支持もできないものである。この意味において、事実と価値は常に異なった領域である。

ところが、「価値」とか「価値判断」とかという言葉は、屡々これと別の意味に用いられることがある。「あるもの(A)は特定の目的(B)のための適当な手段である」というような命題を一種の価値判断と解するような場合がそれである。実はそのような命題においては、そのAが、目的と考えられている結果Bをもたらす原因となることが述べられており、自然的事実を構成する要素の結びつき、即ち原因と結果の関係に関する命題である。自然科学は、因果律を適用することによって、即ち一定の条件のもとで一定の結果が必然的に、ないし蓋然的に生起するであろうという命題によって、その対象を記述する。この命題がいわゆる自然法則である。「あるものが目的のための適当な手段である」という命題は真か偽かであり、そのことは経験によって検証可能である。もし「共産主義的組織は『善』である」という命題が単に「それは万人に経済的安定を保障するのに適当な手段である」ことを意味し、また「資本主義的組織は『悪』である」という命題が「それはそのための適当な手段ではない」ということのみを意味するのであれば、この両命題は固有の意味における価値判断ではなく、事実に関する判断である。このような命題を価値判断とよぶならば、そのような価値判断は事実判断と異なるものではなく、むしろ事実判断の一種であり、科学の領域の外にあるものではない。しかし、「あるものがある目的を達成するための適当な手段である」という命題が科学としての性格をもつのは、「仮にBが目的として前提されるならば、Aはそのための適当な手段である」と述べる限りであって、「あるものが目的である」という含意をもってはならない。科学者は、「経済的安定が万人にとっての目的である」という前提のもとで、「共産主義はそのための適当な手段である」と述べることはできるが、彼が「経済的安定は万人にとっての目的である」と主張するや否や、科学の領域を逸脱する。科学は手段を定め得るのみで、目的を定めることはできないからである。

「あることが目的である」という命題と、「あることを単数または複数の人間、特に判断している本人が欲している」という命題は同一ではない。後者は人間の心の状態を記述する事実命題である。「目的」という言葉である個人が現実に意欲していることを意味するならば、この言葉は個人の意図、追求しつつある目標を意味する。しかし「あることが目的である」、例えば「経済的安定が万人の社会生活上の目的である」という命題の本来的意味は、それが実際に追求されていると否とに拘らず、それが目的として追求さるべきことを意味する。この意味においては、「目的」とは「正しい目的」と同義である。「あることをなすべきだ(ought)」「人はこのように行動すべきだ」という命題は、特定の行為を命ずる規範である。従って「あることが(正しい)目的だ」という命題は、そうすることを規範によって命令されていることを意味する。規範というものは、その本来の意味からして、客観的拘束力を主張するものである(その主張の根拠については後述する)。それ故「あることが(正しい)目的である」という場合の「目的」という言葉は、特定の個人によって追求されているという以上の客観的意味をもっている。この意味において目的とは価値であり、価値は規範によって構成される。別の言い方をすれば、「あることが目的である」という命題は、それが、あることが実際になされたとか、なされるであろういうとかではなく、「拘束力をもつと想定された規範に従ってあることがなさるべきだ」という命題である限りで、固有の意味における価値判断なのである。ある判断主体が何ごとかを命ずる拘束的規範を想定し、あることがこの規範に適合するとかしないとかと判断する時、その判断は本来の意味における価値判断なのであり、そういう仕方でその人物はその判断対象を是認ないし否認しているのである。

こう考えると、我々は目的を、更なる目的の手段としての目的と窮極目的に区別しなければならなくなる。窮極目的とは、根本規範、即ち至高価値によって構成された価値である。あることが目的であるという命題は、それが更なる目的の手段としての目的ではなく、窮極目的ないし至高価値を意味する場合にのみ、固有の意味における価値判断となる。それによって事実判断を論駁することは不可能である。「特定の価値判断、特定の規範はなぜ有効か」という問いに対し、解答となり得るのは他の価値判断ないし他の規範であり、事実命題はその解答でありえない。従ってこの問いを突き詰めていくと至高価値ないし根本規範に行き着く。「子はなぜ親を敬わなければならないか」という問いへの答えは、「我々は『子は親を敬え』と命じた神の命令に従うべきだ」というような規範命題で、「神が両親を敬えと命じたからだ」という事実命題では解答にならない。しかし「なぜ我々は神の命令に従うべきか」という問いにはもはや答えようがない。「神の命令に従うべし」とは、窮極目的、至高価値、根本規範の内容である。「科学は手段を定め得るのみで、目的を定め得ない」とは、「科学は根本規範の効力を想定できない」ことを意味する。適当な手段に関する科学的命題は、「仮に窮極目的を構成する根本規範が有効なものと想定されるならば、あるものはそれへの適当な手段である」という仮言命題でしかあり得ない。即ちその「あるもの」は、想定された根本規範が決定する窮極目的を結果し得る原因である。それを想定するのは科学ではなく、その結果を実現しようと意図する「行動する個人」である。

目的と手段の関係について合理的に考えていくと、窮極目的の想定が不可避であることに気づく。手段と目的の関係は原因と結果の関係の一種であるが、窮極目的の想定なしにはそのような解釈は不可能である。もっともこのことは自明ではない。なぜなら多くの人々は窮極目的想定の必要など意識していないからである。例えばある人が「民主制は善き政体である」とか「それは最善の政体である」と言っているとして、なぜかと問われれば彼は、「民主制こそ個人の自由を最大限実現する政体だからだ」と答えるであろう。この解答は、個人的自由が政治の目的であるということを前提している。それではなぜそうなのかが問われたとすると、彼は「誰もが自由であろうと欲するからだ」と答えるかも知れない。事実命題としてこの命題が正しいか否かも大いに問題であるが、仮に正しかったとしても、それは問いの答えにはなっていない。「民主制はなぜ善き政体なのか」という問いは、「人々が何を追求しているか」という事実問題ではなく、「人々は何を追求すべきか」「追求すべき正しい目的は何か」という当為の問題である。従って「なぜ民主制は善き政体か」という問いに対する正確な解答は、「人間は自由であるべきだ」というものである。この解答は自由が至高価値であることを前提としている。この価値判断は、民主制は最善だと考えた判断主体にとって余りに自明なので、この前提を自覚していないのである。

個人的自由とか経済的安定その他が窮極目的・至高価値であるとすると、それらは更に遡った上位の価値判断によって正当化することはできない。このような価値判断について論ぜらるべき問題は、A氏は自由を、B氏は経済的自由を、C氏は第三の別の価値を至高価値としているということのみである。それは価値の問題ではなく、心理学的問題、即ち事実問題である。「どうしてそうなのか」と尋ねられたら、結局判断者の人格、特にその人物の意識の感情的要素に行き着く他ない。自信の強い人間は個人的自由を選び、劣等感に悩んでいる者は経済的安定を選ぶとか・・・。強い形而上学的傾向をもった人物が、死の恐怖によって自己の魂の永生を信ずるようになったとして、彼はいわゆる「物質的価値」よりいわゆる「精神的価値」、魂の平安をずっと重要であると考えるようになるかも知れない。それに対しその人物より合理主義的傾向をもった人物は、もっぱら現世的快楽を求め、重要なのは物質的価値のみであると考えるかも知れない。このような意味で、窮極目的・至高価値に関する判断は、高度に主観的なものである(本人たちは客観的だと信じているであろうが)。このような判断は、事実判断とは全く異なるものである。事実判断は判断主体の人格、その願望や恐怖から独立したもので、経験的検証が可能であり、その性質上客観的なものである。この客観性こそ科学の本質的性質であり、この客観性故に科学は政治と対立し、政治から分離されなければならないのである。けだし政治とは、究極的には主観的価値判断を基礎とする活動だからである。

 

政治の科学と「政治的」科学

客観性の原則は、自然科学のみならず社会科学にも適用され、いわゆる政治学にも適用される。政治学対象は政治――即ちある社会秩序、特に国家の樹立と維持を目的とする活動である。もとより政治学は、政治現象を記述するに当って人々が政治行動において前提している諸価値を考察の対象とする。しかしその場合、政治学者は、特定の政治体制の樹立し維持するためには、異なった価値が窮極目的として想定されていることの認識と、異なった政治体制の基礎をなす異なった価値を発見することに、その活動を限定すべきである。これらの政治体制を叙述するに当って、彼自身は何れの価値をも前提してはならない。これらの価値を構成する規範を、自己を拘束するものと考えてはならない。即ち分析対象を肯定することも否定することも許されない。そうでないとその研究は政治の科学ではなく、政治の道具という意味での「政治的」科学となる。そういうものはもはや科学ではなく、政治的イデオロギーである。

価値判断に浸潤されているともいうべき領域を対象とする科学において、科学と政治を分離し、価値判断を自制するということは、一見逆説のように見えるが決してそうではない。必要なのは、人々がその政治行動において特定の価値判断に(意識的ないし無意識的に)決定されていることを認識することと、そのような価値判断を支持することとは全然別のことだということを認めることのみである。確かに社会科学、特に政治学を政治家から分離することは、自然科学におけるよりも困難であることは否定できない。しかし自然科学とて政治化の危険に対し免疫がある訳ではない。教会がコペルニクス学説を、それが誤りであると証明されたからではなく、聖書・教会の権威にとって危険だという理由で、抑圧しようとしたことはよく知られている。科学と政治の分離という要請に関して社会科学と自然科学を別扱いにするのは充分な根拠をもたない。

マルクス主義は、「科学は政治から分離することはできない。なぜなら科学は経済的事実の上部構造に過ぎず、政治もまた経済的現実なのであって、科学は政治の道具以上のものにはなれないのだ」と説く。政治学は政治から分離できないという主張の持主は、多かれ少なかれこの説の影響を受けている。この説は独立した科学というものの可能性を否定するものである。しかし近代自然科学の発展は、政治権力、特に教会権力よりの解放に起因するところが大きい。政治権力というものは、自らの権威に科学を従属させようとする特性をもつものである。過去において、自然科学が完全な独立を達成し得たのは、それを支援する強力な社会的利益、自由な科学のみがもたらしうるところの技術の発達への関心が存在したからだ、ということは否定できない。社会科学は、物理学や化学が工学や医学に貢献したような仕方で貢献していない、少なくともこれまでは・・・。権力者や権力追求者は、社会科学者に自分の都合のいいようなことを言わせようとする。即ち社会科学を政治的イデオロギーに過ぎない似非科学にしようとする。今のところ社会科学は、この権力者の圧力に対抗し得るような力をもっていない。政治学が政治から解放されない限り、真の政治の科学は存在し得ないであろう。

科学は政治から分離されねばならないが、政治は科学から分離する必要はない。政治家は当然、その政治目的達成の手段として科学の成果を用いる。科学一般がそうであるように、政治学もその手段を教える。否、科学のみが適当な手段を教えることができる。もちろん科学が政治の窮極目的を教えることができないことは前述した。ところが、自分たちが樹立し、維持しようとしている政治体制を絶対的に正当化しようとしている人々は、それが結局は主観的価値判断であるということを受け容れることができない。宗教にその絶対的正当化を求めて果さなかった者は、科学にそれを求める。「科学的」社会主義を樹立すると標榜するマルクス主義は、その典型である。真の科学は当然、宗教の代替物となることを拒否し、価値判断が事実認識から得られるとか、価値は事実の中に内在していて、科学によって認識されうるとかという幻想を破壊する。価値が事実に内在しているという思想は、自然や社会についての形而上学的・宗教的解釈、即ち非科学的解釈の特徴である。その思想を突き詰めると、絶対善の人格化である神が、事実と価値の双方を創造したのだという信仰に行き着かざるを得ない。その行き着くところは神義論(theodicy)という解決不能の難問である。「事実は神の創造物であるから善であるはずなのに、現実には悪が存在するのはなぜか」という問題である。価値が事実に内在しているという見解は、反宗教的・反形而上学的社会理論によって唱道される場合があるが(コントの実証哲学やマルクスの唯物史観)、何の根拠もないものである。

 

 

規範諸科学

科学を政治から分離するという要請は、科学の対象は事実であり、科学的命題は、固有の意味における価値判断に対立する事実命題であることを前提としている。しかし科学のうちに、あるいは少なくとも通常学問と考えられている分野のうちに、倫理学や法学のように、その対象が事実でなく価値であるように見えるものがある。それらの学科は、その記述の対象が価値を構成する規範であり、「規範」科学ともよばれ得るものである。倫理学の対象は道徳であり、何れも特定の人間行動を命じたり許したりする規範体系・規範秩序である。これらを科学と考えるためには、規範にも二種類のものがあり、価値判断にも二種類のものがあることを考えなければならない。即ち諸個人の行為によって創造された実定規範と、そうでなく行動し判断する諸個人の心の中で想定されているのみの規範との区別である。規範は、話し言葉、書き言葉、身振り、約束事の象徴等、様々な仕方で創造される。実定道徳規範は、説教とか、教祖の著書とか、習慣(共同体メンバーの慣習的行動)とかによって定められ、実定法規範は慣習、立法行為、裁判、行政行為、私人の法律行為などによって定められる。実定規範体系の規範を創造は、外界において、通常五官で感知し得る事実による。キリストの追随者たちは、山上の垂訓に際して、「汝の敵を愛せよ」と命ずる主の声を聞いたのであり、我々は聖書でこの出来事を読むことができる。我々はまた納税義務を定める法律を読むことができる。兵士は上官の命令を聞き、運転者は十字路を横切ることを許す青信号を見ることができる。「規範が事実によって作られる」とは比喩的表現過ぎない。規範は事実の持つ特殊な意味であり、この意味は解釈の結果であって、五感による覚知は不可能なものである。ある事実を規範として解釈するためには、この事実に法創造という性質を賦与する他の規範が想定されなければならない。この「他の規範」を突き詰めていけば、それは実定規範ではあり得ない。キリストが山上の垂訓において命じたものは、我々がキリストを至高の道徳的権威であると想定する場合にのみ我々を拘束する規範となる。これを想定するということは即ち、「我々はキリストの命令に従うべきだ」という規範を想定することである。キリストの命令は実定的規範であるが、この規範はそうではない。キリストの命令は、空間と時間の中で行なわれた規範創造行為の意味であるが、この規範の効力は我々が心の中で想定するのみである。

実定規範と非実定規範の区別は、法の領域において特に鮮明である。AがBに一定額の貨幣を支払えと命じた場合、この行為がギャングの恐喝ではなく、Bを拘束する規範であると解されるとすれば、それはA(例えば税務署員)の行為が法律によって授権された共同体の機関としての行為であると解されるからである。この授権法を採択した行為は、それが憲法の規定する手続に従った場合にのみ有効な規範と看做される。[その憲法が、先行する憲法の改正されたものであるとすれば、更に遡って歴史上最初の憲法に行き着くが]、その歴史上最初の憲法は、「我々はその最初の憲法の制定者たちの命令に従うべきだ」という規範を想定する場合にのみ拘束的規範の性格をもつ。「憲法の父たちは神よりその権威を得た」と想定するなら別であるが、そうでなければこの「我々はその最初の憲法の制定者たちの命令に従うべきだ」という規範が根本規範である。この根本規範は、憲法典のように、人間の行為によって創造されたものではなく、一定の人間関係を法的関係として、法規範に規定された関係として解釈したいと欲する人々によって想定されたものに過ぎない。しかしこの想定は恣意的なものではない。事実上我々は、概して実効的な憲法を基礎として樹立された法秩序に関して、その憲法制定者が我々になすべく命じたように行動すべきであると想定する。これが根本規範に内在する実効性の原則である。

法学は法の科学であって、実定規範をその対象とする。実定法のみが法科学の対象たり得る。これが自然法論と対立する法実証主義の原則である。それに対し自然法論は、法規範を人間が創造したものではなく、自然から導き出されたものであると考える。規範を自然から導き出すということは、自然を立法者と考えることであり、その前提には自然は神の被造物で、絶対善である神の意思の顕れだという思想がある。それ故自然法論は、法の科学ではなく、法の形而上学である。実定法には国内法と国際法がある。国内法は、特定国家の法で、憲法に基礎をもち、憲法の定める法的機関の立法行為によって創造された法で、国際法は慣習、即ち諸国の慣習的行動によって創造された法で、「諸国は諸国が通常行動しているように行動すべきである」という前提(国際法の根本規範)の下で成立したものである。実定法規範の効力根拠をなす規範は根本規範という非実定規範であり、法実証主義の原則もこの条件の制約を受けている。しかしこの制約があるからといって、法実証主義と自然法論の相違がなくなる訳ではない。自然法は、自然に適合した特定の人間行動を(正義として)命じ、自然に反する人間行動を(不正義として)禁止する。即ち自然法規範は内容的規範である。それに対し実定法の根本規範は単に形式的性格をもつ。それは自然法に適合するとしないとに関わらず、あらゆる実定法の根拠たる役割を果す。それは法科学の想定するもので、単に仮説的な性格のものである。法科学が実定法規範を記述する命題は、条件命題の性質を有する。法科学は科学であって、「個人や国家が一定の行動をとる法的権利・義務をもつ」という命題を絶対的なものとして主張する訳ではなく、ただ「憲法の父たちに立法権を授権する根本規範が有効であるという条件の下においてのみ、個人は憲法に根拠をもつ法規範に従って、一定の行動をとる権利義務をもつ」と認識するのみである。また諸国の慣行を法創造的事実として定める国際法の根本規範が有効であると言う条件の下においてのみ、国家はその慣習のよって創造された規範の定める権利義務をもつのである。法科学は、根本規範が有効であると論定すること、一般に非実定的規範が効力を有すると論定することはできない。実定法の非実定的根本規範の効力を認定することは、この実定法を認識対象とする科学の範囲外にある。

実定法規範が法科学の対象となり得るのは、実定法の存在(即ち効力)が事実の存在によって条件づけられているからである。その事実とは、法規範創造行為(慣習、立法行為、司法行為、行政行為、私人の法律行為など)とその規範が属する法秩序全体の実効性である。法科学がその認識対象を記述するに際して、これらの事実に言及しているのである。法の実定性はこれらの事実との関連にある。ある人間の行動(国家の行動も含まれる)を命じたり許容したりする規範は価値を構成し、ある人間行動・国家行動が実定法に適合しているか否かの判断、即ち合法か違法かの判断は価値判断であるとしても、その価値は事実と対立するものではない。そのような判断は、あることが前提された目的実現のために適当な手段だという判断と同様に、事実判断と根本的に異なる判断ではなく、特殊な種類の事実判断である。「ある行動は合法である」とか「違法である」とかと述べる命題は、真か偽かであり、そのことは経験によって検証され得る。そのような命題は、特定の国内法秩序、ないし国際法秩序との関連においてのみ可能である。例えば「ある国内法において婚約破棄は違法である」という命題は、その法体系中に婚約破棄に制裁を加える規範が存在しなければ「偽」であり、それが存在すれば「真」である。「そのような規範が存在する」ということは、憲法に従ってそのような規範が制定されたという事実、その憲法の下で作られた法秩序が概して実効的であるという事実を条件としている。これらの事実は、自然科学が認識する事実と同様に、法科学が認識し得る事実である。「法科学の対象は規範である」ことは、その対象が事実でないことを意味せず、ただそれが自然科学が記述する自然的事実でないことを意味する。法科学の対象は法的事実(legal reality)とよぶことができよう。自然的事実と法的事実の相違は、後者が(非実定的規範としての根本規範を前提した上で成り立つ)特定の意味をもった事実であるというところにある。それが実定法規範という意味である。と

自然科学は、「一定の条件(原因)下で一定の帰結(結果)が(必然的ないし蓋然的に)生起する」という命題において、その対象を事実として記述する。この命題がいわゆる自然法則であり、因果法則である。因果性は事実に内在する力ではなく、自然科学がその対象を記述するに際して道具として用いる認識の原則である。他方法科学は、規範体系としての法を記述するに当って、人間の行動をも記述している。規範は人間行動を規制するものだからである。しかし法科学は、人間行動を自然的事実として原因結果の関係において記述するのではなく、法規範によって規制された、即ち命ぜられたり許容されたりしたものとして記述するのである。法科学がその対象を記述する命題は、自然法則と同一の文法的形式のものであるが、因果律の適用ではなく、自然法則という意味のものではない。それも前件と後件を結びつけるものであるが、この結合は自然法則におけるものとは意味が異なる。自然法則の意味は、特定の条件下で特定の帰結が(必然的ないし蓋然的に)現実に生ずることであるが、法科学の場合は、前件が定めるある人間行為が生じた場合に、後件の定める人間行動が生ずるべきだ、というものである。この命題が法命題(rule of law)で、「Aが盗みを犯したならば、Bがそれを罰すべきだ」というものである。窃盗行為は原因ではなく、処罰はその結果ではない。この「べきだ」という言葉は、法規範において前件と後件が結合される(原因結果の結びつきと異なった)独特の意味の表現である。この結びつきは「帰報」(imputation)とよぶことができよう。これは人間行動を規制する規範を対象とする社会諸科学の原則であり、倫理学や法学のような特定の社会科学分野において、自然科学における因果律に対応する原則である。忘れてならないことは、帰報の原則に従って、「ある条件の下である行動がなさるべきだ」と述べられたとしても、この「べきだ」という言葉は通常の道徳的意味のものではなく、純粋に論理的な意味のものであることである。それは因果律と同様、カントの超験的論理学の意味における範疇なのである。

 

法科学と政治

 法科学がその対象を記述する命題を「法命題」(rules of law)とよぶとすれば、それはこうして記述された法規範(legal norms)と区別されなければならない。前者は法科学上の概念であり、後者は法的権威の作用である。法科学は、法命題を記述するに当って、社会的権威として活動しているのではない。法科学の活動は認識活動であり、社会的権威の活動は意思活動であるから。法的権威が制定した法規範はある価値、法的価値を定めたものであるが、法命題はいかなる意味でも価値判断ではない。それは自然科学がその対象を記述する自然法則が価値判断でないのと同様である。仮に「あることが法規範に適合しているとかしていないとかという判断を価値判断とよぶにしても、事実判断と本質的に区別される、独自の意味における価値判断ではなく、事実判断の一種である。それは、あることがある目的のための適当な手段だという判断が自然科学から排除されないのと同様に、法科学から排除されないのである。しかし後述する実定法の独自性から、あることが合法か違法かという判断も、法科学の中に存立する余地がないのである。

 あることが合法であるか違法であるかという判断は、あることが正義であるか不正であるかという判断と区別されねばならない。両者の相違は、「あることが前提された窮極目的への手段として適当である」という命題と、「あることが窮極目的である」という命題との相違と同様である。仮に「あることが適当な手段である」という命題や、「あることが合法である」という命題が、価値判断であると考えられるとすれば、それは同時に事実判断でもある。それに対し、「あることは窮極目的である」とか「あることは正義である」とかという命題はほんものの価値判断である。それはあることがある実定的規範に適合するかしないかを述べるのではなく、非実定的規範との適否を述べるものだからである。従ってそのような命題は、自然科学からも法科学からも排除される。

 法科学が考察の対象とする規範のうち、唯一非実定的なものは、その対象である法秩序の根本規範である。根本規範自体は法科学の対象ではなく、対象を記述する諸命題の成立条件である。法的価値を構成する実定法秩序の根本規範が果す役割は、法の窮極的淵源、法秩序の憲法の効力根拠となることである。この場合憲法とは、法秩序における他の諸規範の創造を規定する実定法規範(ないし法規範の一体)である。それ故、実定法秩序の根本規範の性格は、単に形式的なものであって、「人間は自由であるべきだ」「人は安定した生活を送るべきだ」というような、「正義」とよばれるような価値を構成する非実定法で内容的な規範ではない。法の実定性の本質は、その効力が正義への適合性に依存せず、根本規範の定める仕方で創造され、概して(by and large)実効的であるところにある。実定法は正義でも不正でもあり得る。実定的であれば、当然正義でも不正でもあり得るからである。あることが合法であるとか違法であるとかの判断は、特定の場所、特定の時に言及している。ある法秩序において合法的なことが、他の法秩序において違法だということは当然あり得る。この意味において、実定法規範が構成する価値は、常に相対的な価値である。それに対し、(独自の意味における)正義の観念は絶対的価値を指示する。それは不易の内容をもった実体的規範で、あらゆる時、あらゆる場所で拘束力をもつと主張される。また正義とか不正とかの判断が、(例えば慣習とか、一宗教の開祖の命令とかのように)実定道徳体系の規範との適合性による場合もある。しかしそれも法科学の領域からは排除される。なぜなら、そのような実定的規範体系の効力は、実定法の根本規範とは異なった根本規範に由来するものだからである。実定法の根本規範は、法科学がその対象を、特殊法的な価値を構成する有効な規範体系として記述するための、唯一の条件である。

 実定法という法的現実を対象としてそれを評価する他の諸価値、特に正義という価値は、法的価値と区別するために、「政治的価値」とよぶことができよう。そうすると、法と政治の区別は、二つの異なった規範体系の区別ということになる。法対政治という対置における「政治」の概念は、自然科学を政治から分離せよという場合の政治概念より狭い意味のものである。後者においては、政治とは規範体系一般、あらゆる規範体系を意味するから。実定法の科学の政治からの分離の要請とは、法科学者はその対象を記述するに当って、実定法規範以外の規範による価値判断、即ち政治的価値判断を慎むべきだ、その対象である実定法を正とか不正とかと評価することを慎むべきだ、ということを意味する。不正を排して正義を選ぶのは、法科学者ではなく、法的権威の仕事である。

 法科学が政治から分離することは可能であり、また必然である。法科学者は政治的価値判断を慎むべきである。それに対し、法的権威の仕事である立法は、政治と不可分である。立法活動は、法規範のみならず、他の規範体系に属する諸規範に支配される。ここでは法以外の諸規範体系を一括して、「政治的」規範体系とよぶことにする。法の特色は、自己自身の創造を規制するところにある。憲法は法律の創造を規制し、また慣習を法創造的事実と定める。制定法や慣習法は、裁判所における個別規範の創造を規制する。このような規範創造に際して、法的権威はその創造を規制する上位規範を適用し、下位規範の内容を限定する。規範は他の規範の創造や内容について、一定限度しか決定できず、規範創造権威は、その規範創造に当って、一定限度の裁量権を有している。その裁量権を行使するに当っては、法的権威は法規範以外の他の規範の規制を受けることが許されるし、現実に受けている。即ちこの裁量権を行使する限りで、法的権威の活動は政治性を帯びる。法規範に決定されている限りでは法的活動、他の規範に決定される部分は政治的活動という訳である。通常の場合、立法機関は立法手続に関してのみ憲法に拘束されており、立法の内容に関しては憲法は例外的にしか規定しない。その例外としては、ある内容の法律の制定を禁止したり命令したりする場合、例えば信教の自由の制限を禁じたりする場合がある。立法権の行使について憲法が定めていない部分については、政治的諸原則、立法者の信ずる正義の理念によって決定することが許されるし、実際にそうされている。ある領域における可能な立法案AとBとがある場合、立法者はAを正義、Bを不正義であると判断してAを選ぶ、というように。

 法科学者は、立法者が定立した法について、個人の正不正の判断によって受け容れたり排斥したりすることはできず、立法者が決定したものを、自分が正義と考えるものと合致しようとすまいと、存在する法として記述しなければならない。彼のなし得ることは、立法機関が創造した諸規範が実定憲法の規範に適合するか否かの検討である。この検討の結果到達した結論は、窮極においては主観的価値判断ではなく、客観的事実認識である。しかしある法律が合憲か違憲かに関する法科学者の見解にしたところで、法的には意味をもたない。この問題を決定するのは、法科学ではなく、法の授権を受けた法的権威である。同様なことは司法権の活動にも当てはまる。それは通常、憲法が立法権の規制しているのよりも、ずっと厳密に法律や慣習によって規制されているが、それでも上位規範によってある程度の資料範囲を許容されており、その範囲では裁判官も実定法以外の規範に従って判決の内容を決定している。司法機関は、個別規範を創造するに当って、一般的規範の許容する枠内において、ああするかこうするかの選択可能性をもっており、その何れかを選択するに当って、何れが正義か不正義かを考慮する。しかし法科学者はそのような選択可能性をもたず、裁判所の判決をその具体的事例における法として受け取らなければならない。もっともその判決が適用法条に適合しているか否かを検討し、適合しているとかいないとかという結論に到達することはあり得る。しかしこの判断は、突き詰めれば事実判断であり、法的には関連性をもたない。裁判所の判決が適法か違法かの決定をなすことは、法科学の権限ではなく、法の授権を受けた法的権威の権限である。

 法的権威による法の適用も、法科学者による法の記述も、それをなすためには法を解釈しなければならない。法規範を解釈することは、法規範の意味を認識することである。法技術は、法規範の意味を可能な限り明確に定式化し、その意味に疑義が生じないようにすることを要請している。しかし法規範は屡々多義的となる人間の言語によって表現されるものであり、明確化の要請は近似的にしか達成されず、一法規範が複数の意味をもつことが頻繁に起こる。「法規範は常に一つの意味をもち、唯一の正しい意味を発見する科学的な方法がある」とは、伝統的法学が法的期安定性の幻想を維持するために用いてきた擬制である。

 もとより、法の解釈方法は一つではない。立法者の意図に従う解釈もあれば法文の文言に従う解釈もあり、歴史的解釈、論理的解釈、縮小解釈も拡張解釈もある。法自体はその何れを採用せよとも定めておらず、どれを採用することもできる。ある方法を採用すれば、他の方法の場合と解釈が異なる。一つの解釈方法のみを採用することが求められている場合にも、なお相対立する複数の結論が生ずる場合がある。法的権威は適用に当ってその中の一つの意味を選んでそれに法的効力を賦与する。こうして選ばれた解釈は「公定解釈」(authentic interpretation)とよぶことができよう(もっとも伝統的用語法は、この言葉を「○法□条における△という用語は☆と解釈すべきものとす」というような法規による解釈の意味に用いている)。法的権威が法規の適用に際して複数の可能な意味から一つを選択する行為は、法創造行為である。その選択が上位規範によって特定されていない場合には、その行為は政治的行為である。なぜならそのような選択は法規範以外の規範によって決定されたものであり、法規範以外の規範は政治的規範とよぶことができる。そうであるとすれば、法的権威による法の公定解釈は、政治的解釈の性質をもつ。他方法科学者の法的文書解釈における任務は、条文の可能な諸意味を示すことで、あとは権限ある法的権威が、最も適当であると考える政治的原則に従ってその内のひとつを選ぶに任せることである。法が適用権者に開いている解釈諸可能性を示すことによって、法科学者は法適用に学問的に貢献する。またこれまで気づかれなかった条文の多義性を指摘し、用語の改善の必要を示すことによって、法科学者は立法活動に学問上貢献する。法科学者が、その可能の諸意味の中の一つの採用を法的権威に推奨しようとするのは、法創造に影響力を行使しようとすることであり、学問活動でなく政治活動をなしている。そして法科学者が自己の解釈を法規の唯一可能な意味であると標榜するならば、彼は科学者の仮装の下で政治家として活動しているのであり、法的現実を覆い隠しているのである。科学の任務は「覆いを剥ぎ取る」(unveil[discover])ところにある。事実を覆おうとするのは政治的イデオロギーである。法の科学的解釈、即ち法科学者による解釈こそが「法的解釈」であり、法適用機関による解釈は、可能な諸意味の他を排斥して一つを選ぶもので、その解釈は政治的解釈とよばるべきであろう。

 

「法的」と「政治的」

 法的作用と政治的作用、法によって規制された作用と法でなく政治的規範によって規制された作用の区別は、時に相当の重要な意味をもった区別である。その典型的事例の一つが、ある共同体を国家として承認するか否か、ある集団を政府として承認するか否かの問題である。伝統的法学は法的承認と政治的承認の区別をしておらず、そのことがこの主題を論じている著作者たちの間で混乱を惹き起こしている。一部の論者によれば、承認は宣言的性格のもので、法的効果をもたない。従って、国際法の定める要件を充たしさえすれば、他国の承認がなくても、ある共同体は国家であり、ある集団は政府である。他の論者によれば、承認は構成的意義をもち、重大な法的効果をもつ。即ち国家が国家となり、政府が政府となるのは、他国政府の承認によってであり、しかも承認した国家との関係においてのみ国家・政府なのである。こうして対立が続いているが、真実は、承認は構成的行為でもあり、宣言的行為でもあるのだ。その法的作用は構成的で、政治的作用は宣言的なのである。

 国家や政府の承認の問題は、差し当ってある共同体が国家であるか、ある集団が政府であるかの事実認定の問題である。一般国際法の諸規範は、国家や政府となるために具備すべき条件を定めており、承認はそれに従って行なわれる。承認は法の定める行為であるから、法的行為であり、法的承認とよぶことができる。法的意味を持つ事実の認定は、常に構成的性質を有している。なぜなら、法の領域においては、法が法的効果を与えている事実は、法の定める仕方で認定された場合にのみ法的存在となるからである。国際法は、「国家」や「政府」たる要件事実存否の認定権を各国政府に与えている。この法的承認が公正的性格を有することは、ある者がある犯罪を犯したという裁判所の事実認定が構成的性格を有することと同様である。裁判所が犯罪の事実を認定して初めてある者が犯罪者として可罰的となるのである。しかし承認は、国家や政府の存在という事実を認定する行為であるのみならず、承認する政府が被承認国家ないし政府と正常な関係に入りたいという意思表示でもあり、その行為は一般国際法によって規定されておらず、正常な関係に入るか入らないかは各国の裁量に委ねられている。それは政治的承認とよばれるもので、政治的諸原則によってのみ定め得るし、実際定められている。政治的承認は法的効果をもたないから、構成的でなく、単に宣言的性格を有する。通常法的承認と政治的承認とは「承認」という同一行為によって行なわれるが、その内の法的承認は構成的、政治的承認は宣言的性格を有するのである。

 「法的」と「政治的」の区別は便利で必要なものではあるが、有害かつ不愉快な仕方で濫用される可能性があり、伝統的法学においてそのような濫用の事例は少なくない。典型的濫用の一つは、国内法を「政治的」法と「法的」法(厳密な意味での、本来の意味における法)に分類し、公私法二元論と結びつける議論である。公法の定義は従来最も争われてきた主題であるが、いわゆる公法といわゆる私法の相違をどこに求めるにせよ、公法が私法よりも法的性格において劣るというようなことはないはずであり、その意味では法は「政治的」ではないはずである。ところが前者を政治的法、後者を非政治的法として対比する議論はまさしくそれを主張する。法は定義上政治と対立するものであるから、「政治的法」なるものは概念矛盾である。いわゆる公法は国家組織と国家機関の権限、即ち政治問題を規制するという事実から、それが私人間の経済関係や家族関係を規制する私法に法的性格において劣るという結論を導き出すことはできない。公法は国家と国民の関係、即ち優劣関係・「権力」関係を規制し、私法は国民間の、従って対等者間の関係を規制すると定義し、それ故後者が真の「法的」関係で、前者はそれに比べて法的性格が乏しい、という議論が論理的誤謬であることは繰り返し論証されてきた。法人格としての国家は他の人格と同様法に服するものであり、法人格間の関係は相互の法的権利義務関係でしかあり得ない。その関係は「力」関係ではなく、権利義務を設定する法に平等に服するものである(その法の内容自体は色々な場合があるが)。「公法は『政治的』法であり、私法より法的性格において劣る」という教説は、批判者たちによってその論理的矛盾がいかに指摘されても、多くの著作者たちは執拗にそれに固執する。その固執の理由は学問的根拠ではない。彼等が論理的矛盾に風馬牛なのは、この教説の目的が客観的・整合的に実定法を記述するところになく、法の不遵守を正当化するイデオロギーを供給するところにあるからである。公法、特に国家機関の権限を定める法が厳密な意味での法でないとすれば、政府は、私人が法に拘束されるような仕方では法に拘束されず、法の授権がなくても、政治的に便宜であると考える行動をとることができる。「公法は政治的法で、厳密な意味での法的性格をもたない」という議論は、科学的学説ではなく、政治的イデオロギーである。

 この議論と密接に関連して、「国家の憲法や国際社会の基本法は、法的文書というよりも政治的文書であり、法的でなく政治的に解釈さるべきだ」ということが屡々唱えられる。しかし法的文書とは法的権利義務を定める法規範を含んだ文書であり、国家の憲法や国際法上の基本条約が法的文書であることに何の疑いもない。問題はこれらの文書が法的文書であると同時に政治的文書でもあるか否かである。これらの文書の内容はもっぱら法的なものであるから、それらが政治的文書でもあるとすれば、それはそこに書かれている法の目的が政治的なものであることであろう。国家の憲法や国際社会の基本法の目的が「政治的」なものであるにしても、その目的の実現がもっぱら法的手段によるべきことは変らない。そうでなければ、憲法の制定が無駄なものとなるであろう。目的が政治的であるからといって、文書の法的性格がなくなるものではない。目的論的観点からすれば、法は常に目的でなく手段であり、法外的目的をもたない法などあり得ない。貸借契約は経済的目的をもち、それ故経済的文書であるともいえようが、そのことによってその法的性格はまったく左右されない。法規範が政治的ないし経済的目的をもつということは、その解釈が法的でなくてよいということを全く意味しない。法的解釈といっても、法規範には様々な解釈可能性があることは先に述べた。「憲法は法的文書でなく政治的文書である」という説は、「公法は法的法ではなく政治的法である」という説と同様の、国家機関や国際社会の機関の、いかなる憲法解釈からも出てこないような行動を正当化しようとする議論である。

 「この機関は法的機関でなく政治的機関である」として(国内的・国際的)機関の憲法違反の行動を正当化する議論も同様の傾向に属する。法的共同体の機関というものは、その権限が法によって定められている限りは法的機関であり、権限が裁量に委ねられている限りでは政治的機関である。つまり機関は同時に法的でも政治的でもあるのである。ある機関の権限は狭く、その権限行使に当って裁量の幅が狭いため、政治性に乏しいというようなことはある。裁判所の権限は狭く、行政機関の権限は広いのが普通である。もっともこのことには重要な例外があり、広大な権限をもつ裁判所もあれば、行政法によって狭く制約された権限しかもたない行政機関もある。例えば合衆国最高裁判所が法的機関であるばかりでなく、政治性の強い機関であることを誰が否定しようか。いかなる法的機関も法によって多少の裁量権を認められているから、政治的機関という性格を全くもたない法的機関はあり得ない。しかし裁量範囲がいかに広くとも、法の授権する裁量権の範囲内で権限が行使される場合にのみ、即ちそれが法に適合している場合にのみ、その機関の行動は法共同体の機関の行動と看做される。

 「法的」と「政治的」の区別の最悪の濫用の一事例、評判は悪いが、広く行なわれている議論に、国際紛争を「法的」紛争と「政治的」紛争に分類する議論がある。前者は司法的解決に親しむが、後者は親しまない、後者は国際法の適用、国際法廷の裁判による解決に親しまない、というように議論される。この議論が正しく、問題の性質によって、実定国際法の適用が不可能な紛争というものが本当に存在するならば、法的紛争と政治的紛争の区別も正当性をもつであろう。しかしそのような紛争は存在しないのである。いかなる紛争も、一当事者Aが相手が一定の行動をとる義務があると主張し、相手方Bがそんな義務はないと主張するものである。従って実定国際法上Bの義務が存在するかしないかの何れかであって、存在すれば原告の勝訴、しなければ被告の勝訴である。裁判所は、前者なら「被告は原告の主張に従う義務がある」と判決する。後者なら「原告の主張には国際法上の根拠がなく、被告にはそれに従う義務がなく、被告はこの問題については任意に高度する自由がある」と判決する。「法的に禁止されていないことは法的に許容されている」とはあらゆる法秩序の原則であり、従ってこの場合被告の自由は法的に保障されている。裁判所はこうすることによって、現行法を適用したのである。現行国際法の適用が不可能な紛争などは存在せず、司法的解決に親しまない政治的紛争なるものは存在し得ない。

 もっとも現行国際法の適用が論理的には可能でも、何らかの理由で政治的に適当でない場合もあるであろう。即ち、紛争が現行法以外の規範に従って解決される、先の事例でいえば被告Bでなく、原告A」を勝訴させる、というようなこともあるであろう。しかし「現行法の適用は不適当である」という判断は高度に主観的な判断であって、当事者間で賛否が逆になるであろう。もっとも両当事者が、実定法以外の規範(例えば正義や衡平の規範)に従って紛争を解決する国際機関にその紛争を付託することに合意することもあり得ないではない。その場合この機関は、当該事件について新たな法を創造する権限を与えられたのであり、その決定は両当事者を拘束する法的決定である。その限りで、この紛争も法的紛争であるが、その決定の内容は、立法機関の決定の内容と同様に、法以外の規範によって決定されたのである。確かにこの場合、現行法に従って解決される紛争とは異なるところがあるが、その相違は、一方が問題の性質上現行法に従う解決が可能だが、他方は不可能だ、というところにあるのではなく、両者ともそれは可能なのだが、一方は現行法が適用され、他方は法的合意に基づいて新たな法に従って決定されるというところにある。「現行国際法が適用できないから、非法的・政治的紛争というものが存在する」という議論は、非法的観点から見て不適当なものを、法的に不可能なものと決めつける誤謬を犯している。この議論は、法を客観的に解釈せず、法の科学的に認識し得る意味を排して、現行法の適用を排除しようとする試みを正当化しようとするものである。それは科学的理論ではなく、政治論である。

 法科学と政治を混淆するために用いられる手段には色々あるが、「法的」と「政治的」の区別の濫用は、最も有効な手段の一つである。しかし科学を政治から分離することが、すべての独立的科学が存立するための不可欠の条件であるのと同様に、法学の科学的性格を守るためには「法的」と「政治的」の混同を避けることが必須である。