関 曠野『ハムレットの方へ』

   可憐なオフェリアに対し、ハムレットがなぜあんなに邪慳なのか、多くの読者は不思議に思うし、シェークスピア学者たちの間でも議論されてきたことらしい。

   著者によると、彼女は(1960-70年代に話を移せば)親や教師に従順で、デモにも行かず、トロツキーやゲバラも読まず、かわいらしくお化粧し、エリート青年との結婚を待つ両家のお嬢さん。管理社会のヒエラルヒーの底辺にあって管理されるだけの人間、資本主義経済において、親から夫に性を売られる商品であり、同情の余地なし、ということである。

   兄であり、王であったハムレット王を殺して、その王位と王妃を承継したクローディアスは、しらばっくれて、「いずれはお前に譲る王位だから」とか、きれいごとを言いながら、宮廷内に新たな体制を築いた。彼は能吏ではあるが人間的深みを欠き、「コミュニケーションを強調し」「臣民の福祉と国家の安寧を大義名分」として、「自分の地位を正当化」しようとする。

   彼の築いた体制は、「役割人間」のシステムである。その典型は、オフェリアの父である廷臣クローディアスや、(「ハムレットの友人」とされていて、クローディアス王の道具として使われるだけの、「個人の目鼻立ちをもたない全くの役割人間」である)ローゼンクランツとギルデンスターンなどである、という。

   それに対しハムレットは、その体制の虚妄性を直観した、役割論理の断固たる拒否者であり、「方法的狂気」を演ずる彼は、「割り当てられた役割から公然とはみ出す」ことにより、「正体不明の訳のわからぬ存在として打って出て、体制を混乱させる」「体制の変革者」である。そして彼の言葉使いは、宮廷言語に対する言語的テロリズムであるというが、これは我々に、あの難解な「全共闘用語」を想起させる。

   本書の初版は1983年。ハムレットは全共闘で、クローディアスの体制は、彼らから「管理者的」と批判された大学当局、ないし「主権者たる皆様のために」とか言いながら私腹を肥やしている政治家たち、ということになるであろう。

   『ハムレット』の結末は、叔父も母も、恋人もその父も兄も、そしてハムレット本人も死に、結城と攻撃性だけが取り柄の、侵略者フォーティンブラスに、漁夫の利として権力を与えることになる。これは、全共闘世代に続く時期に、若い世代の知識人の間から、粗野で攻撃的な市場経済讃美者やナショナリストが大量的に登場し、バブル経済の上部構造を形成したことと対応する。

   そのバブルもはじけて、日本国民は心理的に「負け癖」がついた民族になった、といわれる現在、「ミネルヴァの梟」ではないが、再版された本書を、過去一世紀の青年知識人史との関連で読み直すのも、意義深いであろう。

   なお著者が、大学教授を「大学なる制度の囲われ者」と呼んでいるのは非常に正しく、我々も名刺を出す時は、この言葉を思い出すべきであろう。(『法学ゼミナー』1997年6月号)