続当為について

Kelsen未開人論の批判

 Kelsenは、未開人は因果的思惟をもたず、万事を当為の範疇に従って解釈と言ったが

、そのようなことはないだろう。人間は社会と自然という二つの環境の中で生きており

、前者の法則が当為、後者の法則が因果律だとすれば、両方の環境に適応しなければ、

即ち両方の法則に適合しなければ生存が不可能である。彼は、未開の神話はすべて応報

神話であると言っているが、実はもう一つ「成功失敗神話」というべき類型が存在し、

その多くは因果律に従った者が成功し、従わなかった者は失敗する物語である。しかし

Kelsenの未開人論が全く無価値だという訳ではなく、一種の極限概念と解するならば、

思考実験としての意味がある。

 

規範と制裁

 当為を含む命題を規範(norm)という。規範の基本形式は「○○すべし」で、その否定

形は「○○すべからず」となる。例えば「借りた物は返還すべし」という命題があれば

、「借りた物を着服すべからず」という否定形の命題もある。「べし」「べからず」と

いう形で命令されたものを「義務」とよぶ。義務の対象でない行為は「自由」であり、

「許容されている」などといわれる。

 規範違反の行為に対しては制裁が科される。制裁の最も強いものは物理的制裁で、法

の「強制説」によれば、法は物理的制裁の裏づけをもった規範である。即ち法義務とは

、その違反が最終的に物理的制裁によって担保されている義務だということである。こ

れはもちろん、六法全書に載っている一条一条の違反がすべて刑罰か強制執行の対象と

なるという意味ではない。刑罰の要件は、憲法に従って制定された法律の存在、法律に

従った捜査・裁判の長い連鎖で、各条文はその長い連鎖の一環であるとする。

 法以外の規範違反に対する制裁はあまり組織的でない。もっとも組織が明確な会則な

どの組織規範をもっている場合、法に似た厳格な手続きで制裁が定められることがある

。その制裁が物理的強制を含む場合には、法規範と衝突し、組織規範に従った制裁が犯

罪として追及されることがある。やくざの規律などがそれである。合法的組織は制裁と

して除名などの非物理的制裁を定めるに留まる。

道徳規範違反への制裁としては、世間の非難、恥の意識、良心の呵責などがあるといわ

れ、世間の非難によって担保された規範は社会的道徳、良心の呵責によって担保された

規範は個人的道徳などとよばれることがある。

 

規範体系

親から、あるいは社会から植え込まれた規範を無批判に受け容れている純朴な子供ない

し未開人というものも観念上は存在する。しかし実際には義務とはしたいことの禁止、

欲望の制限であるから、人間性がそれに抵抗する。そこで義務の遵守を迫って来る社会

に対し、その「根拠」を問うことになる。

規範の根拠づけには功利的なものと権威的なものとがある。「そんなことをしたらお前

が痛い眼に遭うぞ」という説得は、本人単位の功利主義、「家族が困るぞ」というのは

家族単位の功利主義、「村の恥だ」などというのは地域共同体単位の功利主義、「お国

のためだ」などというのは国家単位の功利主義である。全人類単位の功利主義、「運命

共同体としての地球」に住む全生命体の功利主義というものも考えられる。

権威的根拠づけとは、親と教師とか、権力者などの権威による正当化で、法の場合は、

警察官の逮捕行為は警察官職務執行法の権威、それを制定した国会の権威、国会を定め

た憲法の権威というように遡っていく。功利主義的正当化も、功利の単位が大きくなる

につれて権威主義的正当化に接近する。「規範とは所詮は集団的功利である」という考

えもある。

規範の根拠づけを求めていくと、根本的な前提へと遡り、その前提の下に多くの規範が

包摂されることとなる。一つの根本前提の下に包摂される諸規範は一つの体系をなして

おり、その体系を規範体系という。規範体系にも功利的規範体系と権威的規範体系とが

ある。何を功利とするかの対立は、合理的決着は不可能で、非合理な権威的決断が必要

であるとして、権威の体系、授権の体系として実定法秩序を基礎づける思想は法実証主

義の法思想だといわれることがある。

 

根本規範

 規範体系の頂点に立つ規範はKelsenによって根本規範(Grundnorm, basic norm)とよ

ばれた(頂点に立つものを「根」とよぶのは変な気もするが)。国内法の根本規範は「

最初の憲法に従うべし」、国際法の根本規範は「諸国が行動してきたように行動せよ」

というものだという。ユダヤ教倫理の根本規範は「ヤハウェの命令に従え」、イスラム

倫理の根本規範は「アラーの命令に従え」というものであろう。

 更にこの根本規範の根拠は何かと問われても、もう答えられない。Kelsenによれば、

あらゆる規範体系の根本規範は、「仮設」されたもので、それを自分の行動基準とする

か否かは各人の問題だという。最初素朴に与えられた規範に従って生きて来た人間が、

懐疑の木の実を口にすると、根拠から根拠へと問いを遡らせ、最終的には個人という主

体が自らを拘束する規範体系を選ぶことになる。元来他律的であった規範は、徹底的な

懐疑者にとっては自律的規範となる。

  これに対し、「自己授権」は不可能か、という問題がある。神だけは、この宇宙の

窮極的存在として、自分で自分に授権することができるというのである。自然法論者は

、万物の根源である「自然」だけは自己授権が可能であるという。こうしてKelsen流の

相対主義は克服されるというのだが、Kelsenに言わせれば、自己授権が可能だというの

も一つの信仰で、信仰の数だけ自己授権可能なものが出てきて、どの自己授権者を選ぶ

かは、結局各人の問題だということになろう。