Edan Corkill: スパイ宮城与徳の姪:ゾルゲ事件とその後
(Japan Times Jan.31, 2010)
徳山敏子氏(81)は、叔父宮城与徳がspyとして獄死したことを知ったのは14歳の時で、spyとは何かもよくわからず、その後も尊敬する叔父の印象は変らなかった。そして過去20年間、僅かな支援者たちと共に、彼の名誉回復のため努力してきた。その成果が実り、2週間前Los Angelesの自宅から訪日し、東京のロシア大使館で「第二等愛国勲章」を受けた。これが実現したのには、Medvedev大統領ないしPutin首相の関与があるという推測もある。
1937年、既にspy活動に入っていた宮城は、父与正の還暦祝いに故郷沖縄名護市を訪れ、四箇月滞在した(その時の一族9人の記念写真が掲載されている)。父も1905年出国してPhilippines、HawaiiそしてCaliforniaで過ごしており、1919年には沖縄に残していた二人の息子与整・与徳を米国に呼び寄せた。与整は農場を経営し、与徳は画家修業をした。1928年与整は沖縄に帰国、結婚して娘敏子を儲けたが、すぐその後渡米、やがてMexicoに移った。敏子は残って祖父母に育てられた。1937年与徳が東京から与正の還暦祝いに訪れた時のことを、敏子は鮮明に記憶している。「親切でやさしかった」、「滞在期間中に二枚絵を描いた。一枚は隣人の肖像画で、もう一枚は死者の肖像画だった」、Sorgeから手紙が来て、滞在は中断され、「その手紙を焼いてくれ」と言われた、と彼女は言う。何しろ当時は、1936年日独防共協定締結、1937年7月盧溝橋事件勃発と、ソ連spyにとっても重大な時期であったから。別れる時彼は、友人の画家寺田武雄から借りた鞄を返すことと敏子や親類の人々の肖像画を描くため沖縄に戻ってくることを約束したが、何れも果たされなかった。
宮城が共産主義者になったのは1920年代の滞米中であったが、「プロレタリア意識」は沖縄時代に遡る。逮捕後の1941年、彼は捜査官に対し、「私は14-5歳の頃祖父から政治意識を授けられた。彼は1879年に日本に併合される前の琉球王朝について語り、弱者を抑圧することの悪を教えてくれた。それが私の、鹿児島からやってきた官吏や医師の傲慢に対する反感を掻き立てた」と語っている。1919年、16歳の時彼はCaliforniaに向かい、そこで「平等・自由・機会」を見出すことを期待したが、米国人のアジア人に対する侮蔑を体験した。1925年頃彼はLos Angelesで「社会問題研究会」を組織、やがてそれを「黎明会」と改称した。同会は1927年頃米国共産党の影響下に立った。
ちょうどその頃Richard Sorgeは上海でFrankfurter Zeitungの記者を務めながら、spy活動に従事し、中国共産党との接触を強めるとともに、中国の緊張状態や駐留日本軍の増加についてMoscowに情報を送っていた。1932年SorgeはMoscowに召還されたが、それは彼を赤軍情報部門(第四軍)の対日spyとするためであった。Sorgeは日本語ができないから、ソ連に忠実で英語が堪能な日本人を必要とした。米国共産党を通じて人材探しが始まり、結局宮城に白羽の矢が立った。1932年秋のことである。敏子の記憶によれば、宮城は最初Moscowからの要請を「私はspyの経験がなく、もっと適当な人を探してくれ」と断った。強い要請を受けて引き受けた時も、「誰か適当な人物が見つかるまでの一時的なもの」としてであったが、当然誰も見つからなかった。
宮城は1933年10月帰国、東京でひっそりと暮らし、Los Angelesで指示を受けた通りJapan Advertiser紙を丁寧に読む日を送った。その夏のある日、同紙広告欄に、指示されていた広告が掲載された。「巨匠たちの浮世絵、及び浮世絵に関する英文図書至急求めたし」(Ukiyoe prints by old masters. Also English books on same subject. Urgently needed.)というもので、宮城はこれに応答してBranko Vukelicと会い、Sorgeに引き合わされた。場所は上野国立博物館で、Sorgeは黒ネクタイ、宮城は青ネクタイで現れ、確認のために二人には続きナンバーの一ドル札が与えられていた。
未経験ではあったが、宮城はspyとして直ちに能力を発揮した。1937年沖縄から東京に戻って最初に取り組んだのは盧溝橋事件の分析で、事件は日本陸軍が国内問題から目をそらす為に仕組んだもので、満州を超えて中国本土に進撃しようとするものだ、当面ソ連領への進撃はないだろうとSorgeに報告し、それはMoscowに伝えられた。著名人たちを患者にもつ医師安田徳太郎、元共産党員で軍事施設の観察を担当した山名正実、宇垣一成の秘書矢部周などを情報源とし、陸軍の軍服の注文に関する情報も収集した。北向きなら厚着が注文されるはずだとか。彼はまた日本文献の翻訳を通じてSorgeに協力した。
1939年のNomonhan事件に関しては、spyたちも予知することはできなかったが、小代好信伍長などから情報収集して、日本側は大軍を動員する状態でなく、援護軍も派遣されていないことを報告した。もっともMoscowはこの報告を受け入れず、必要以上の軍隊を投入したが、結局1939年9月にはSorgeらが正しかったと結論された。その後宮城・尾崎は、Nomonhan事件は日本を対ソ対決を避けさせる方向に作用するだろうとSorgeに報告した。この報告がソ連の軍事力を対独戦に集中することを可能とし、結局ソ連の勝利をもたらしたのだから、第二次大戦における諜報活動の中で最も重要なものであったと評価する歴史家もいる。
Sorgeは尾崎や宮城とは独立の情報も収集した。最も重要なのは、1941年6月22日ドイツ軍がソ連に攻撃をかけること(Barbarossa作戦)の情報を、その日時までほぼ正確に、東京ドイツ大使館から得てMoscowに報告したことである。ところがこの功績は報いられず、無視された。彼の諜報部の上司Ian BerzinがStalinによって1938年に処刑されたからである。余波はBerzin配下のspyたちに及び、Stalinは「Sorgeは二重spy」だと断定したという。
1941年になると、Moscowより東京の方に火がついてきた。特高はある者[伊藤律]の密告から他の者[北林とも]を逮捕し、北林の自白によって宮城・尾崎が逮捕された。10月末には全員が逮捕され、全員が自白した。1943年[8月2日]宮城は持病の肺結核で獄中死した(40歳)。尾崎とSorgeは死刑判決を受け、1944年処刑された。
宮城の死と踵を接して宮城評価をめぐる対立が生じた。彼の獄中死の報道は、『朝日新聞』の小記事という形で名護に1943年末届き、町当局は彼の名を戸籍から抹消した。敏子の祖母も迫害された。しかし敏子の叔父に対する信頼は変らず、戦後も不愉快な体験が続いた。1958年5月1日、彼女は日本を離れ、父のいるMexicoに向った。
ところがちょうどその直前、France人映画監督Yves Ciampiが日本人女優岸恵子と結婚した。彼はQui êtes-vous Monsieur Sorge?という映画を製作し1960年にEuropeで封切られた。1964年中葉、Khrushchev首相がこれを見て、「なぜ我々は彼のことを知らないのだ。彼は我々のspyではないか。なぜこの映画を我が国が作らなかったのか」と言った、とVyacheslav Bunin将軍の回想にある(この回想は『一瞬』という題で部分訳されている(2003年刊))[Webcatには見当たらない]。Khrushchevは報告書を提出させ、ソ連最高会議は1964年末Sorgeを「国民英雄」とし、SorgeとVukelicに150万円の賞金を与えた。尾崎と宮城にも「愛国戦争勲章」が授与されることになったが、宮城の近親はこのことを知らないままだった。
ところが大峰林一氏(72)が宮城の名誉回復に立ちあがり、宮城の絵の展覧会を1990年名護と那覇で開催した。最初は「バケツの水をかけられたりした」が、その頃から研究文献も現れ始め、2003年に宮城生誕100周年記念の講演会を名護で開催した。それには徳山敏子氏も米国から参加した。2006年には名護博物館の近くの公園に記念碑が建てられ、地元の新聞は日ソ戦を避けさせるために働いた「平和の芸術家」であると讃美した。徳山氏は「この碑をもって我々の宮城名誉回復の努力が報いられたと感ずる」と言った。
大峰氏と徳山氏は、続いてロシアの賞勲局総裁Vyacheslav Sivkoに手紙を出し、Bunin の回想録を引用しつつ、1964年の勲章は今どうなっているのか尋ねた。昨年一月に届いた返信は「調査した結果、受賞者が死後であったので、勲章や賞状は作成されないままだった」というものであった。大峰氏はそれにへこたれず、Medvedev大統領とPutin首相に直接手紙を出した。徳山氏の娘Noriko Chungと友人Vera Varshavskyの協力によってその手紙が送られたのは昨2009年の中頃であったが、12月に大峰氏のところに東京ロシア大使館から返事が届いた。宮城への勲章と賞状がMoscowの政府庁舎で「発見された」というのである。それで今年1月13日、徳山氏がロシア大使館でBely大使からそれを受け取った。勲章は赤いエナメル製の星に「槌と鎌」が彫られ、キリル文字で「愛国戦争」と書かれている。駐在武官の見守る前で、大使は「宮城氏はfascism打破に貢献した」と語った。その後徳山氏は20人ばかりの日本人記者団に、「叔父はただ平和に貢献しようとしたのよ」と語った。(Edan Corkill氏の写真は:
http://www.arts.usyd.edu.au/japanese/undergrad/our_graduates.shtml)