トロヤ戦争研究の現状
『イリアス』に描かれた世界を基本的にフィクションと考える立場を「神話派」、相当程度歴史的事実を反映していると考える立場を「歴史派」とよぶとして、両派の対立は現在なお続いている。以下、まず「歴史派」の観方を、Michael Siebler, Troia: Mythos und Wirklichkeit, 2001(著者は考古学者、Frankfurter Allgemeine記者)、及びJoachim Latacz, Troia und Homer:
der Weg zur Lösung eines alten Rätsels, 2002(著者はBasel大学教授)などの記述を基礎として紹介したい。
「歴史派」によれば、両派の長い対立は、近年、即ち過去10年ばかりの間に、決定的に「歴史派」の正しさが証明されることによって終った。その契機となったのはトロヤ発掘、ヒッタイト文献解読の進行、そしてテーベにおける土板発見である。
トロヤ遺跡の本格的発掘は、Heinrich Schliemannによる第一期(1870-1890)、それを承継したWilhelm Dörpfeldによる第二期(1893-1894)、そして米国人Carl Blegenによる第三期(1932-1938)と、三度に亘って行なわれた後、半世紀を経た1988年より、Manfred Korfmannによる第四期の発掘が行なわれた。
「第一期」はSchliemannがトロヤの町を、西北トルコの丘の上の都市遺跡Hisarlikであると確定してそれを発掘した。遺跡は時代を異にする九層から成っていて、彼はPriamos王の支配した都市は第二層であると信じた。
「第二期」においてDörpfeldは、ギリシャ連合軍によって焼き払われたトロヤの町は、第二層でなく第六層であるとした。
「第三期」にBlegenは、第六層が焼けたのは地震によるもので、Priamos王の首都は第七層、より正確には七aであるとし、また町の南方500メートルほどのところから第六層に属する墓地を発掘した。
Korfmannは、トルコ政府の後援の下、Daimler-Chrysler社などの財政援助を受け、1988年より2000年までの毎年夏三箇月、数十人のスタッフを引率して、発掘を行なった。彼は、丘の上の20000平方メートルほどの城塞の南に、その十倍もある民衆の住宅地(Unterstadt)が存在したと想定し、それも城壁と堀に囲まれていたとして、その一部を発掘した。それによってBlegenが発掘した墓地は、Unterstadtに隣接する南側にあることが明らかになり、市民たちがわざわざ片道半キロの野原を往復して埋葬を行なったとする不自然さが解消された。
この発見により、トロヤは従来考えられていたよりずっと大きく、人口も一万近い、当時としては大都市であることが判明した。また都市の中に城塞が存在する形態は、ギリシャには見られず、アナトリア(小アジア)の都市の特色で、城塞の中からルヴィア語(ヒッタイト帝国公用語の一つ)象形文字で書かれた印章が発見されたこともあって、トロヤはヒッタイト文化圏・言語圏に属したことが明らかになった。
こうなれば、トロヤはエーゲ海と黒海を結ぶ海の要衝で、ギリシャ側が領土的・軍事的関心をもち、そこを制圧するために連合軍を派遣しても不思議でないということになる。
そのことは、解読されているヒッタイト文書からも裏づけられる。紀元前16世紀以降ヒッタイトの首都であったHattusaの土板文書館の中に、ヒッタイト皇帝のWilusa宛の書簡がある。このWilusaは『イリアス』におけるトロヤの名称であるIliosないしIlionではないか。このことは線文字Bにおいて、後世のIがWIと表記されており、Iliosは古くはWiliosと発音されたと推測されること、皇帝がWilusa王に「兄弟」と呼びかけるほど重要な国家として扱われており、前述したトロヤの重要な地位にふさわしいこと、などによって裏づけられる。
それらの書簡の中に、Alaksanduというトロヤ王が出てくるが、これはヘレネを誘拐したParis王子の別名Alexandrosと結びつく。Alexandrosはギリシャ語で、「人の守護者」を意味するが(androsはaner(人)の変化形、alexはalexein(守る)の名詞形)、トロヤ王子の中にギリシャ人の側室の子などがいたのではないか。またAlaksanduがヒッタイト王と誓いを立てる際にその名を呼ぶ神Apaliunasは、トロヤ戦争で終始トロヤを支持したApollon神ではないか。
書簡の中で、Ahhijawa人が海のかなたから小アジアにやって来て、Milawatasを拠点に有害な行動をとっていることが述べられているが、Ahhijawaは『イリアス』においてギリシャ側の総称とされているアカイア人、Milawatasは早くよりギリシャ植民地となったミレトスではないか。
紀元前1175年ヒッタイト帝国は滅亡するが、こうなればトロヤも後ろ楯を失って孤立し、ギリシャ連合軍の総攻撃を受けることになったのではないか。
トロヤ戦争の時代が紀元前12世紀で、ホメロスを紀元前8世紀の人だとすると、その間には4世紀の歳月が経過している。「神話派」は『イリアス』の内容は、基本的に後世の詩人たちの空想の産物だと考えるのに対し、「歴史派」はかなり忠実に四世紀前の事実を伝えた伝承だと考える。
この点で議論の焦点となっているのは、『イリアス』第二章の「船のカタログ」である。そこでは29の国からトロヤに遠征して来た艦隊と指揮官の名が列挙されており、その中に178の地名が挙げられている。地名のうち、他の文献から所在を確認し得るものについてチェックしたところ、驚くなかれ一つとして間違いが見つからない。仮に我々が、日本の江戸時代の百もの都市について、地図も年鑑も見ずに、その属する藩名を一つも間違えずに列挙できたとすれば、一つの奇蹟であろう。地図も年鑑もない時代に、なぜそんなことができたのか。
あらゆる文献によっても確認できない地名も4分の1ほど存在する。これはでたらめに捏造されたものかどうか。ボイオティアよりの軍勢の出身地が列挙されている中に、「Eleon, Hyle, Peteon, ・・・Eutresis」とあるが(II-500~2、岩波文庫(上)p.66)、これらは何れも他の文献による確証がまったく不可能なものとされてきた。ところが1993年11月2日、ボイオティアの首都テーベの町(4500年前から現在まで人が住み続けてきた。オイディプス物語などの舞台)の水道工事中に、線文字Bが刻まれた大量の土板が発見され、その中にEutereuという地名が記されていた。こうして『イリアス』の地理の記述が、田舎の小都市に至るまで極めて正確なことが確認されたのである。
『イリアス』はhexameterという韻律に従っているが、ところどころ韻律が乱れている箇所がある。ところがその箇所を、ホメロスより数世紀前のギリシャ語の単語に置き換えてみると、きちんとした韻律になる。ということは、『イリアス』の内容が、数世紀前に成立したことを意味する。
こうしたことによって、『イリアス』の記述は四百年前の事実をかなり忠実に伝えており、ヒッタイト帝国の有力な構成分子であったトロヤは、帝国の動揺ないし滅亡によって孤立し、ギリシャ連合軍によって征服されたという筋書きが、状況証拠によって基礎づけられている。あとは更なる資料の発見を待つのみだ、というのである。
このような「歴史派」の主張に対し、猛然と噛みついたのが、Tübingen大学でKorfmannと同僚の古代史学者Franz Kolbなどで、ミュンヘン大学考古学教授Dieter
Hertelの著書 Troia: Archäologie, Geschichte, Mythos, 2001は、WilusaをIliosと断定する根拠はなく、ほんの僅かな木片や溝が見つかっただけで城壁と溝に囲まれたUnterstadtが存在したと断定するのは飛躍であり、第六層からも第七層からも敗戦や劫掠を示す資料は何にも発見されていないなど、全面的に反論している。それに対しLataczは、「そんなことを言っても現在人が住んでいる地域を城壁跡に沿って全面的に発掘するなど、費用の上からもできるものではない」などと反論している。
対立は、「パトロンにいい顔をするためのはったり」「お呼びのかからない者の嫉妬」など、大学者らしからぬ罵言の飛び交う感情的対立になり、アキレウスとアガメムノンの喧嘩を思わせる。 [2003年1月脱稿]
補遺 その後
その後起ったことの第一はManfred Korfmann (1942-2005)の死である。灼熱の太陽の下での発掘作業は健康を蝕んだのであろう。
第二は、Korfmannの事業の承継者Ernst Pernicka(1950-)の登場である。ウィーン生れ、元来化学を専攻した彼は、陶器の科学的分析から考古学に入ったらしい。Max Planck研究所研究員などを務めた後、KorfmannのいるTübingen大学に招聘された。彼はトルコ政府の要請によりKorfmannの発掘事業を承継し、特にKorfmannのUnterstadt仮説を発展させようとした。そして今年(2008年)8月、TroyVI層に相当する時期のUnterstadtの塀の門や門の外の舗装道路などを発掘し、トロヤはKorfmannが想定したよりも更に大きな、市域35ヘクタールもある都市であったと主張した。塀と堀で厳重に警固された大都市というイメージである。
第三には、古典学者Marcelo Magnascoと天文学者Constantino Baukouzisの協力により、2008年6月に雑誌に発表され、たちまち話題の中心となった仮説、オデュッセウスが漂流の後妻ペネロペイアの待つイタケーに帰還し、求婚者たちを退治したのが、紀元前1178年4月16日(その正午前)だという説である。論拠は二つあり、一つはその日「女神アテナが曙の女神を足止めして空に出さなかった」という記事(『オデュッセイア』23,243-6)が日蝕を意味し、その日は前述の日付に相当するというにある。彼自身が帰還の日を「先の月が過ぎ、新しい月が始まる」頃だと予言している(14,162)こととも符節が合っている。第二はその6日前に金星が早朝に現れ(13,93-4)、29日前にすばる・牛飼座・オリオン・大熊座が見え(5-272)、33日前には水星(Hermes、ローマ神話のMercurius)が山の端から海に沈んだ(5,43ff.)という記事からコンピューターで調べたところ、やはり1178年4月16日がX-dayになるという。
これが正しいとすれば、こんな天体の配置を後世の詩人が捏造できるはずはなく、「最初の詩人」はこのような天体現象の目撃者であったかも知れない。「歴史派」を喜ばせる仮説である。