トルーマン政権の極東政策

 [p.]は長尾『オーウェン・ラティモア伝』の関連ページ数。

I.      トルーマンの登場

  後期ルーズヴェルト政権は「連合国対枢軸国」という枠組の下で世界戦争を戦うことを任務としたが、第四期目のルーズヴェルト大統領は、就任(一九四五年一月二十日)から三箇月経たない四月十二日死去し、トルーマン政権が発足した。それからほどなくナチ・ドイツが降伏し、四箇月余り後には日本が降伏して、トルーマン政権は対枢軸世界戦争から対ソ冷戦へのパラダイム転換という課題に直面した。パラダイム転換は、古いパラダイムに深入りし過ぎた者には向かない。後智慧でいえば、一九四四年の大統領選挙、ルーズヴェルト四選の選挙において、民主党副大統領候補をヘンリー・ウォレスからハリー・トルーマンに差し替えたことは、結果的に適切であったといわれている。

四四年夏には、既にルーズヴェルトの健康が悪化し、いつまでもつかと危惧される状況にあったから、副大統領候補の選択は即ち次期政権の選択を意味した。現職のウォレス副大統領は、「リベラルに過ぎる」として党内右派の反発を招いており、七月の民主党大会は、無難と見られたトルーマンに差し換えたのである。二十世紀米大統領のうち唯一大学卒でないトルーマンは、それまで内政問題に関心を集中してきた一上院議員であった。英国の政治学者で米国政治の観察者であるジェームズ・ブライスは、米国大統領は「頭がいい必要はない」「常識をもち毅然とした正直者であればいいのだ」と言っているが、まさしくトルーマンのことを言い当てている、と(1)

現職副大統領を更迭するのは、本人の居る前ではバツが悪いが、ルーズヴェルトはウォレスを、中国における国民党と共産党の間の調停を図るという重大な任務を託して重慶へと送り出した(2)[p.56]。彼はその前年の双十節(一九四三年十月十日)において中国向けラジオ放送をし、孟子の「天の視るところは民の視るところ、天の聴くところは民の聴くところ」(萬章上)という言葉を引用して国民党支配の中国を民主主義国として讃美したが(3)[p.33]、こうしたところにも現実感覚の欠如を感じさせるものがある。

四選されたルーズヴェルトの健康はいよいよ悪く、機嫌も悪く、口数も少なくなっていた。外交問題についても余り周囲に相談せず、ヤルタ会談(四五年二月)に同行したステティニアス国務長官でさえ、帰国後なお三巨頭が何を合意したか知らなかったという(4)。味方であったソ連が冷戦の敵となる萌芽は既に戦争末期に顕在化しており、ルーズヴェルトの健康が良ければ、それへの新たな構想に基づく対応も可能であったかも知れないが、スターリンに押し切られ、ソ連の対日宣戦に同意し、鉄のカーテンの彼方に抑圧体制を築くことに同意した。トルーマンに対しても、外交関係に関するきちんとした引き継ぎなどはなかったようである。 

II.     ポツダム宣言

  一九四五年四月一二日、ルーズヴェルトが死去した時期は、対独戦争の終末期で、東欧はソ連の占領下で傀儡政権が続々樹立され、西側亡命から帰国した人々や西側ジャーナリストが迫害されるなど、スターリン体制の現実に、西側は危惧の念を深めつつあった。帰国したロンドン・ポーランド亡命政府の指導者たちは、帰国して犯罪者扱いされた。

五月八日にドイツが無条件降伏すると、ソ連軍は東方に向って大移動を始め、これへの対応が問題となる。当時国務省における極東問題の実質上の最高責任者ジョセフ・グルー国務次官は、敗戦必至の日本に対しソ連の支配力が及ぶことを憂慮し、日本政府を早期に講和に導く必要があると考えていた。十年近く駐日大使を務めたグルーは、日本権力を軍国主義的狂信派と合理的で親西洋的な穏健派とから構成されていると見、旧知の人物である鈴木貫太郎や米内光政が首相・海相である鈴木内閣を穏健派の終戦内閣と見て、彼らに狂信派を抑えさせて終戦を実現させるルートを作ろうとした。

彼は五月下旬、東京山の手大空襲の直後、後に多少の修正を経て「ポツダム宣言」に結実する対日文書を起稿したが、それは日本国内主戦派の反対を抑えて終戦を実現させようとする慎重な考慮の産物である[pp.148-151]。非難対象を「無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者」に限定し(§4)、「民主主義的傾向ノ復活強化」に対する障碍を除去する責任は日本政府にある(§10)として日本政府の存続を前提し、占領は包括的な国家全体の支配でなく、 「日本国領域内ノ諸地点」(points in Japanese territory)[§7]のみであるとしている。無条件降伏も日本国そのものでなく「日本国軍隊」のもので(§13)、「前記諸目的ガ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ」(§12)として、占領が無期限でないことを示している。「平和的傾向ヲ有シ責任アル政府」というイメージは、戦前幣原外交を担った民政党内閣を連想させる(5)。全体として、連合国が横須賀や佐世保などを占領して、日本政府の改革を見守り、「平和的傾向ヲ有シ責任アル政府」が樹立されたら撤退するというイメージである。

そしてこの十二項のあとに「コノ政府ニハ現皇統下ノ立憲君主制ヲ含ム」という一文が付け加えられていた。日本側におけるポツダム宣言受諾論議の最終段階で「国体の護持」、即ち天皇制の維持が最後の条件となったが、連合国側でもこの点こそ最も激しく論争された対象であった。グルーを中心とする「日本派」(Japan Hands)は、昭和天皇は穏健派で、本心においては親英米派であり、目標を大正期から昭和初期の立憲制に日本を回帰させることに定め、天皇制の保障によってできるだけ早く日本に終戦を受諾させようとしていた。それに対し、「中国派」(China Hands)を中心とする反対派は、天皇制こそ日本軍国主義のイデオロギー的・制度的根幹であり、またグルーのいう「穏健派」も日本帝国主義の担い手であることに相違はない、としていた。

グルーはこの対日講和案をトルーマン大統領に具申したが、トルーマンは「原則としては賛成だが、軍部の意見を聴くように」と回答した。軍部は「もう少し待て」と言い、結局七月のポツダム宣言まで発表が延期されることとなった[p.149]。延期の理由は、沖縄戦の決着ないし原爆実験の成功を待てという趣旨であろうという。その間に国務長官の更迭があり、グルーの影響力は大きく低下した。ステティニアス国務長官は、極東問題の処理をグルー次官に委ねていたが、七月三日国務長官に就任したバーンズは、グルーの対日政策に不信感を抱いていた。彼は、米国政治の脈絡では保守派であったが、ルーズヴェルト、トルーマン両大統領の強い信任を受けた対日強硬論者で、元国務長官コーデル・ハルの助言を受けて、グルーの対日講和案十二項末尾の天皇制容認の一節を削らせた[p.151](ハルはもちろん、日本に対米戦争の引き金を引かせた「ハル・ノート」のハルである)。もっともグルー案全体を没にはしなかったから、グルーの構想の大枠は生き延び、『ポツダム宣言』に結実した(トマス・ビッソンなど、『ポツダム宣言』案の全面廃棄を主張する者も存在したのであるが[pp.157-161])。

八月九日ソ連参戦と長崎原爆によって切羽詰まった日本は、深夜の御前会議で「宣言」受諾を決定したが、具体的には「国体護持」のみを条件とする外務省案と戦犯の自主処罰など四条件を掲げる陸軍省案のうち、天皇の裁可で前者が採択されたのである。そこへ観念右翼の平沼枢密院議長が口を出し、「宣言」の文面では「国体護持」が保障されていないので、確認する必要があると言い出した。そこで日本政府の「申入」がなされたが、バーンズによるそれへの回答の原案作成は、最終段階までグルーを排除して行なわれた。その回答は、降伏時より天皇及び日本政府の統治権は連合国最高司令官に従属し、「最終的ノ日本国ノ政府ノ形態ハ『ポツダム』宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルヘキモノトス」というもので、これによって、「日本国領域内ノ諸地点」の占領から、連合国最高司令官への天皇及び日本国政府の従属、即ち全土の包括的占領という形になった(平沼の藪蛇発言がなくともそうなったかも知れないが)。

III.   マッカーサー

  ルーズヴェルト民主党政権が、共和党右派の退役軍人ダクラス・マッカーサーを現役に復帰させ、極東陸軍の総司令官に任命したことも、不思議でないとはいえない。スティムソン国防長官とマーシャル参謀総長が相談して、「卓越した能力とフィリピンにおける多大な経験の故に」「論理の必然」として彼を極東軍司令官としてルーズヴェルト大統領に推薦した、というのが実情のようだが(6)、マッカーサーがルーズヴェルトに直接自己推薦していたという話もある(もっともそれはマーシャル=スティムソン合意より後のことらしい)(7)

そして文字通り海の戦争である「太平洋戦争」で戦勝の主要な功績者である海軍首脳を差し置いて、陸軍のマッカーサーに戦後の極東軍、日本占領軍の最高司令官の地位を委ねたことにも同様の印象がある。実際その後もトルーマンとマッカーサーの人間関係は悪く、最後には罷免にまで至るのであるから。ともあれ、マッカーサーの日本統治は、結論として言えば非常な成功で、旧敵国日本人を心服させ、長く日本を米国の、属国とまでは言えないにせよ、友好国に留めたのであるから。これはイラクやアフガニスタンの実績と比較すれば明らかである。マッカーサーは長く米本国を離れており、国務省内の中国派・日本派の対立と無縁で、自己流を押し通した。結果としてはそれもプラスに働いたといえよう。

  ジョセフ・グルーが国務次官辞任後、(憶測されていた)日本関係の要職への就任を辞退したのには、老齢で耳が遠くなった、というような理由の他に、マッカーサーが苛酷な報復主義的政策をとって、かつての友人たちとの間で板挟みになることを避けた、という理由があるらしい[p.166]。実際には、マッカーサーの占領政策には、戦犯処罰・追放など報復主義的ないし懲罰主義的なところもあったが、全体としては「昨日の敵は今日の友」という態度で、日本人の心服を得た(しかしその反面「中国派」の米国人や中国人たちの反撥を買った。当時米軍紙Stars & Stripesに東京版と上海版とがあったが、両者を読み比べてみると、日本版が奈良の大仏や相撲部屋の探訪記など和気に充ちているのに、上海版の方は「マッカーサーは何をしているのか、こんなことでは我々が何のために戦ったのか分らないではないか」というような論調に充ちている(もっとも十二月に突如としてマッカーサー批判の論説が姿を消す。極東軍司令官マッカーサーの介入であろう))。

  終戦時のマッカーサーは、一種の終末論的な宗教的感慨に捉えられていたように見える。人類未曾有の第二次大戦の終末に登場した原爆(彼はそれを事前には知らされなかった)は、これが本格的に発動されれば人類の終末を意味するもので、過去の延長線上には人類の未来はない。聖書の予言する人間性の根本的改造、「狼と子羊が添い寝をする」社会が到来せざるを得ないし、実際摂理によってそれが実現しようとしているのだ、というのであろう。一九四五年ミズーリ艦上での降伏文書調印式における彼の演説は、このような宗教的信仰告白である(艦上での調印式は、陸軍の彼が戦勝者の象徴となったことへの海軍の不満に対する慰撫である)。この宗教的感慨が憲法第九条の絶対的非武装主義を彼に思いつかせた。しかしやがて彼はこの感慨から冷め、朝鮮戦争時に中国本土への核攻撃を主張したときには、核戦争も「人類最終戦」ではないと感じているように見える[pp.166-170]

  日本人は、殆ど信じられないような仕方でこのマッカーサーを崇拝した。彼の戦犯裁判などの報復主義的行動でさえ、相当数の日本国民には正義の発動として受け容れられた。自らの性向に合わない軍国主義国家主権者の地位に置かれ、長く孤独に苦しんでいた昭和天皇も、一世代年上のマッカーサーを父の如くに慕った。マッカーサーに届けられた信仰告白のようなファンレターの山は、日本国民の集団的回心を物語っている(8) 

IV.      国共内戦と米国

  ドイツ降伏後極東に移動したソ連軍は、日本から南樺太・千島を奪い、北朝鮮に共産主義政権を樹立し、中国東北部(旧満州)を占領して工業施設等を略奪し、数十万の日本人をシベリアで奴隷として使役した。だがこのソ連も含めて、殆どすべての外部者は、中国に関する情勢判断を誤り、蒋介石を過大評価し、毛沢東を過小評価した。一九三六年にエドガー・スノウが訪れてより、共産軍の立て籠もった延安の状況が徐々に外部に伝わっており、それとともに「実話とは思われないほどすばらしいもの」(almost too good to be true)だという風聞が拡大していったが(9)[p.66]、米国政府首脳陣の中でそれに耳を貸す者は少なく、延安政権をソ連の傀儡と見る者も少なくなかった。実際には対日戦終了時までのソ連の援助はノミナルなもので、スターリンも毛沢東を過小評価し、国民党による中国統一を予期していた(彼はソ連に立ち寄ったウォレスに対し「今のところ蒋介石以外に中国をまとめ得る人物もいないから、彼を支持し続ける他なかろう」と言った(10))。 

米国政府の観方からすると、蒋介石国民党政権は、中国ナショナリズムの祖である孫文の民族的・民主的正統性を承継し、近代的な武器で武装した強大な軍事力をもっており、蒋介石の妻宋美齢の実家のなど米国と深い関係をもつ要人を擁していて、キリスト教徒でもある(11)。本拠地浙江省を追われて重慶に移り、非民主的で腐敗した伝統的権力の弊風を示してはいるものの、その相当部分は戦時の特殊事情であり、やがては中国を穏健な民主主義へと導くものと期待していた。 一九四三年二月、蒋介石夫人宋美齢が米国を訪問、ルーズヴェルト大統領は彼女に「中国の大義」を訴えるあらゆる機会を与えた。議会両院合同会議での得意の英語の演説は嵐のような興奮を巻き起こし、ニューヨーク・マディソン・スクェア・ガーデンでの演説には一万七千人もの聴衆が集まった。米国政府は、四三年前半までは、蒋介石の率いる重慶の国民党政府が、中国における米国流民主主義の担い手だという信念に疑問をもたなかった[pp.52-3] 

ところが破れ目は中国の現地で起った。蒋介石周辺で、米国人を巻き込んだ激しい対立が生じ、米国の対中国政策の一世代に亘る失敗へと連なるのである。一九四二年、日本がビルマを制圧し、重慶が孤立すると、国民政府への軍事支援をめぐって、陸路支援のための「ビルマ・ルート」開拓と対日戦における歩兵の重視を主張するスティルウェル陸軍中将と、空輸と対日戦における空軍重視を主張するシェンノート空軍大佐の間に対立が生じ、蒋介石が後者を支持してスティルウェルと激しく感情的に対立した[pp.53-6]。両派は各々ワシントンに工作し、この亀裂がワシントンの首脳陣に及んできた。前述のウォレス重慶派遣(一九四四年六・七月)は両者の調停が目的であった。

一九四四年六月末から五度に亘って蒋介石と会見したウォレスは、蒋介石に強い悪感情をもち、帰国後この政権の命運は長いことはないと報告した[p.58]。スティルウェルも、対日抗戦意欲に乏しいと見た蒋介石に愛想をつかして、歩兵が日本と果敢に戦っている中共に接近した。外国人記者団の要求やウォレスの説得によって、蒋介石も延安視察団の派遣を承認せざるを得なくなっており、延安訪問者を中心に重慶の米国大使館の周辺に「延安ファン」ともいうべき人々が激増した。党指導者も護衛なしに街を歩き、毛主席が週末舞踊大会にふらりと現われたりし、上は毛主席から下は若手の党員まで対等に話し合えるように見えたその世界は、共産主義というより民主主義の世界、米国独立当時の村落民主主義に似たものに見えた(12[pp.64-5]) 記者団に会った毛沢東は、権力基盤を小地主や小ブルジョワにまで拡大し、米国との協力や国民党と権力を分有する可能性をも示唆した[pp.66-8]

他方同年四月から日本軍が敢行した「大陸打通作戦」(「一号作戦」)により、六月末衡陽の空軍基地が占領され、シェンノートの空軍作戦が事実上不可能となった。苦境を訴える蒋介石に対し、ルーズヴェルトはパトリック・ハーリー中将を使節として派遣した。ハーリーは、ウォレスとは逆に蒋介石に親近感をもち、十月、彼の説得によってスティルウェル罷免をルーズヴェルトに勧告した。それが実現するとゴース大使がそれに抗議して辞任し、その後任(大使)にハーリーが任命された。ハーリーは十一月、自己固有の構想(批判者から見れば恣意的思いつき)に基づいて唐突に延安を訪問、国共調停を試みたが、行き違いから毛沢東の激怒を買った。ハーリーは、その反動として超親蒋介石的立場に戻り、大使館周辺の親延安派の粛清に乗り出した。ここに「共産主義者と米国親共派の陰謀」という図式が生ずるのである[pp.74-7]

V. トルーマン政権と中国―アチソン外交

グルー国務次官は「反共主義者」で、ハーリーの親延安派粛清を追認したが[pp.77,147]、対日戦終結とともに辞任した。ディーン・アチソンがその後任に就任すると、ユージン・ドゥーマンなど国務省のグルー人脈の殆どを追放した。彼が連合国最高司令官の政治顧問(実質上の駐日大使)に任命したジョージ・アチソンは中国専門家で(国務長官はAcheson、顧問はAtchesonで親類ではない)、延安へのLend Lease(武器貸与)を実施すべきだと主張してハーリー大使に罷免された人物、グルー人脈に無縁だというとことが評価された(13)

アチソン次官はやがて国務長官に昇進、トルーマン政権の最後まで外交を指導する。最初はソ連寄り、中共寄りの政策が遂行されるのではないか、と見られ、実際初期にはそのように思わせる政策がとられることもあったが、やがて冷戦の闘士に転向して「共産圏封じ込め(containment)」政策を実施する。「グルーは、ヒロヒト天皇を維持することが日本を安定させる要因であると主張し、私は、彼は軍部の戦争要求に屈服した弱い人物で、依拠すべからざるものだから、除去すべきだと主張した。幸いなことにグルーの見解が勝ちを占め、ほどなく私は自分が全く間違っていたことを悟った」とは後のアチソンの言葉で(14)、彼のあっさりとした転向ぶりを物語っている。彼はやがてジョージ・マーシャル国防長官と協力して、一九四七年ギリシャとトルコの共産化を防ぐための軍事的・財政的措置を実施し(トルーマン・ドクトリン)、ヨーロッパ諸国の復興を助けて共産主義介入の隙を作らないための「マーシャル・プラン」を企画・実行した。

アチソンが次官に就任した時期の中国は、日本という共通の敵が消失して、いよいよ国共関係に決着をつけざるを得なくなっていた。アチソンは中国専門家たちの発言に留意しており、中国共産党の重要性について一定の認識を有していた。そこで当面は「国共合作」という主題をめぐって交渉が行なわれ、一九四五年末マーシャル前参謀総長を国共調停に派遣した。国民党の側が陳誠などの革新派が主導権を握り、共産党側が貧農・下層中農から小地主階級まで、プロレタリアからプチブルまで、支持基盤を拡大することによって、両者の結合が可能となるのではないか、というのが調停を導いた思想であった(15)

しかしそれは完全な失敗であった。失敗の理由としては、ヨーロッパにおける冷戦の進行が米国の対中国政策にも影響して、調停といいながら中立性を喪失していたという背景も考えられるが、恐らくは共産党側が武力的統一への自信を深めつつあったことの方が主理由であろう。「革命後」の状態で安定していた延安だけを見た人々には分からなかったが、共産党は農村において、政治的・文化的伝統の担い手であった地主層・郷紳層を「土豪劣紳」とよび、労働せず搾取する犯罪者として、高い帽子をかぶせて引きまわした上で、懺悔を強い、更には殺すという革命を行なってきた(16)。土地を没収した後には、「土地権平均論」に基づいて分配するが、公共地の「合作」も併用された。延安より帰国して程ない時期に、野坂参三は、八路軍が来て農民に土地を与え、農民はこうして与えられた利益を守るために自発的に(槍などで)国民党軍と戦った、と言っている(17)。「国共合作」の困難の根源には、頂点における権力闘争の非妥協性のみならず、このような底辺における妥協不可能性があった(18)[pp.230-7]

四六年六月に国共は全面内戦に突入し、三年後には中国共産党による本土統一が実現する。共産党政権は激しい反米政策をとり、日中戦争以来の米国の中国支援は報いられるところなく終る。米国は台湾に立て籠もった国民党政府を中国代表・国連常任理事国とする擬制を一九七三年まで取り続けた。

VI. マッカーシズム

  「広義のマッカーシズム」、即ち一九四〇年代末より一九五〇年代に亘る「赤狩り」の全貌について、固有名詞つきで論じ始めたならば、厚い単行本が必要となるであろう。ここではやや抽象的な次元で、その時攻撃対象になった人々の人間学・類型学という観点から考察してみたい。

  マッカーシズムの攻撃対象となった第一はソ連スパイである。当時の世界にはマルクス主義の福音を本気で信ずる真面目な人々が少なくなく、その中の格別に愚かな人々はスターリンに盲目的に忠誠を尽くすことが、未来の地上の楽園への道だと信じた。このような人々が多少事実に目覚めると、強硬な右翼的反共主義者が生れる。マッカーシー旋風の中で、旧同志の糾弾に活躍したのはこの種の人々であった(彼ら、特にエリザベス・ベントリーの証言が正確であったことは、VENONAの暗号解読によって証明されている)。もう少し現実的な人々の中でも、ナチ・ドイツのヨーロッパ支配を阻止せねばならぬ、そのためにはソ連を壊滅させてはならない、と考えた者も少なくなかった。ルーズヴェルト自身も、「ロシア革命直後のソ連には、隷従状態の人々に教育・健康・機会を与えるものとして共鳴していたが、その後の専制支配、無実の人々の殺害、宗教迫害をみて、評価を改めた。しかし何れは問題を解決して平和的・民主的国家になるだろうと期待したが、現在のソ連は、最も極端な独裁国家で、何の危険もない隣国の民主国フィンランドを従属させようとしている」という趣旨のことを言っており(19)、国際政治については、「ロシアがナチに倒されることと、ロシアが勝ち過ぎてヨーロッパを従属させることの両恐怖に心が引き裂かれていた」と言われている(20)ヘンリー・モーゲンソ―やハリー・デクスター・ホワイトのようなユダヤ系指導者たちにとっては、ユダヤ人の絶滅を呼号しているヒトラーより、部分的にしか殺さないスターリンの方がましであるから、特にソ連壊滅の危機感をもった時期には、それを支援しようとしたとしても不思議でない。

  ドイツとの戦いに全力を傾注する必要のあったソ連にとって、日本との戦争の可能性は重要な関心事であり、その情報蒐集に努力したのは当然で、ゾルゲ事件はそのような脈絡の中にある。米国にとっても、日中戦争は、「善良な老百姓(ラオパイシン)」対「傲慢な日本人」の戦争であり、多くの人々の日本懲罰への情熱を掻き立てた。日米交渉の最終段階で、暫定協定(modus vivendi)案に代えて俄かに日本軍の中国からの全面撤退要求(ハル・ノート)を持ち出して、真珠湾攻撃の引き金を引いた過程において、スパイ団(シルヴァーマスター・グループ)に名の出てくるロウクリン・カリーが役割を果たしていることについて、日米を戦わせることによってソ連を救おうとした、という陰謀が語られている[p.254]

  日本に関連しては更に、戦争末期に天皇制廃止を唱え、グルーが「穏健派」とよんだ長老政治家たちを根こそぎ懲罰することを唱えたグループが、ソ連の利益のために日米離間を図った者として攻撃された。彼らの一部は、(恐らくは経済を政治の上部構造とする唯物史観の影響もあって)戦争の主導勢力は軍閥であり、政友会は三井、民政党は三菱と結びつくなど、日本支配層全体が戦争に関与していると主張し、「獄中にいた日本人のみが良き日本人だ」という極論となって、左翼政権樹立論(大山=野坂=鹿地政権論)に発展した[pp.85-97]。これが「日本赤化陰謀」ということになるのであるが、私は大山政権運動の中心人物エマソンのその後の言動などを見ても、日本の侵略に対する義憤と日本民主化への情熱以上のものを見る必要はないと考えている(21)

  中国に関しては、蒋介石国民党政権の腐敗を誇張し、延安の共産党共同体を美化して、中国の共産化を助けたとして多くの中国専門家たちが攻撃された。しかし米国民主主義の中国版である三民主義を唱える国民党政府を侵略者日本から守ろうとして重慶に来た純真な青年たちが、拠点を追われて機能不全に陥っていた国民党政府の実情を見て幻滅したことに陰謀じみたところはない。他方中国共産党について彼らが有していた情報は、極めて断片的なもので、彼らが国民党への幻滅の反動としてそれを過度に理想化したのである。

  私は全体として、マッカーシズムにおいて攻撃された人々は、侵略を憎み、戦時心理に従ってややそれを誇張した善良な米国人たちと考えるのであるが。

  もっとも善良であるから有害でないとは言えない。原爆の秘密をソ連に伝えたクラウス・フックスも、主観においては善良であったかも知れない。

VII 結語

  その後の歴史を見れば、外国人のみならず、中国人の殆どすべても目測を誤った。敗北した国民党はもとより、劉少奇・彭徳懐以下、毛沢東の「乱心」によって粛清された旧同志たち、「毛沢東思想の学習」を旗印にその後継者になろうとした林彪や「四人組」、それに追随した「紅衛兵」たち、土地の分配を受けるものと信じたのに集団化によってそれを奪い去られ、戸籍制度によって被差別身分の地位におかれた農民たちも、裏切られたと感じた。そして自己過信から幾億の人民に煮え湯を飲ませ、有害無益な混乱を惹起した毛沢東本人も、自分の神通力が二度目も通用すると誤解した。

  なぜあらゆる当事者・観察者を誤たせるような事態が生じたのか。「奇跡信仰は奇跡を作り出す」。中国革命は奇跡信仰が作り出した奇跡であり、奇跡は誰にも予見できないのである。来世の応報などは本気で信じない現世主義者である中国人にとって、奇跡信仰とは「地上の楽園」到来の信仰であり、「鳳鳥至らず河を出ださず、吾已(や)んぬるかな」(待ち望んでいた、聖王の登場を告げる神秘な鳥や、神秘な文様を負った亀は出てこない。ああもうだめだ)と嘆いた孔子も、(これが本当に彼の言葉であるならば)その信仰者であった。以後二・三世紀に「天下大吉」という福音をもって叛乱を起こした「黄巾の賊」、「弥勒下生」を信じて元朝を覆した白蓮教の叛乱から太平天国など、時代の交替期には、「千年王国信仰」が繰り返し登場する。耐えがたい苦難の中で、人々は奇跡による苦難よりの解放を夢見るのである(22)   

自由と平等が完全に実現し、国家権力が死滅しながら、「富の泉が湧き出づる」というマルクス主義の地上楽園信仰は、二十世紀の人類史に多大の擾乱を巻き起こしたが、当時の中国においては、更に「帝国主義からの解放」という福音と結びついた。それから半世紀を経た現代の中国は、共産党という政治的特権階級の支配下で、貧富の差が甚だしく、農民は戸籍制度という苛酷な身分差別を受けている。この現代中国に、共産党の地上楽園信仰がもたらしたものといえば、帝国主義からの解放と軍閥割拠に代る強大な中央権力の創造であろう。現代中国支配者たちの間では毛沢東の功罪は「七対三」だと言われているというが、「七」のうち「五」は帝国主義からの解放、「二」は共産党の貴族化で、支配層にとってのみのメリットである。従って特権を貪る党貴族と無縁な庶民にとっての毛沢東の功徳は「五」ということであろう。

トルーマン政権の極東外交は、成功が対日政策、失敗は中国政策、朝鮮は半分成功、半分失敗というところか。この結果は共和党政権でも余り異ならなかったであろう(トルーマン政権も国民党に相応の軍事援助をした。糾弾者たちは、もっと援助をすれば蒋介石は大陸を支配できたと言ったが、「奇跡信仰の奇跡」を覆せたとは思えない)。日本の成功は共和党右派のマッカーサーに由来するところが大きい。民主党も共和党も、共産主義の抑圧体制やイスラムの教権支配に賛成するはずはなく、過去も現在も、両党の国際政治上の対立は、戦略戦術次元のものである。

 

 

(1) Frank McNaughton & Walter Hehmeyer, This Man Truman, 1945, p.160.

(2) Michael Schaller, The U.S. Crusade in China, 1979, p.160.

(3) The OWI Documents, Federal Record Center, Suitland, Md.

(4) McNaughton & Hehmeyer, p.205.

(5) 国防長官ヘンリー・スティムソンは、戦後日本の政権について「幣原、若槻、浜口のような進歩的な人々ならよい」と述べたという (Hearings on the Institute of Pacific Relations, pp.740-1)[p.259]

(6)  “The Letter from George Marshall to Douglas MacArthur, May 29, 1941,” Douglas MacArthur, Reminiscences, 1964, p.119.

(7)  袖井林二郎『マッカーサーの二千日』、一九七四年、四四頁。

(8)  袖井『拝啓マッカーサー元帥様』一九八五年。

(9)    Kenneth E.Shewmaker, Americans and Chinese Communists: 1927-1945, 1971, p.169.

(10)    Herbert Feis, The China Tangle, 1965, p.140.

 (11)ダレスにとって蒋一家がキリスト教徒であることは極めて重要なことであった(Townsend Hoopes, The Devil and John Foster Dulles, 1973, p.78)。台湾の彼を庇い続ける決定においても。

 (12)    Schaller, op.cit., pp.183-4.

(13)    John K. Emmerson, The Japanese Thread, 1978, pp.251-2.

(14) Dean Acheson, Present at the Creation, 1969, pp.112-3.

(15)    Cf. Owen Lattimore, Solution in Asia, 1945, pp.107-9.重慶から帰国したばかりの鹿地亘も、「陳誠、張治中などの将軍が出る時は希望のもてる形勢で、何応欽等が出る時はその反対だ」と言っている(「野坂参三・鹿地亘対談」『改造』一九四七年六月号)。

(16)   毛沢東「湖南農民運動考察報告」(一九二七年)(『毛沢東選集』第一巻、一九五一年)、福地いま『私は中国の地主だった』(一九五四年)など参照。

(17)    改造』一九四七年六月号六三頁。

(18)    英語圏の読者にも、農村革命のこのような実態について、既にスノーが一九三七年に紹介している(Edgar Snow, Red Star over China, 1938, Revised ed., 1968, pp.227-231)

(19)   Robert Sherwood, Roosevelt and Hopkins, 1948, p.138.

(20) John Gunther, Roosevelt in Retrospect, 1947, p.334.

(21) 長尾『されど、アメリカ』一九九九年、一四六〜八頁。

(22) 鈴木中正『中国史における革命と宗教』一九七四年。

人名索引

Acheson, Dean (1893-1971)

Atcheson, George (1896-1947)

Bentley, Elizabeth (1908-1963)

Bisson, Thomas Arthur (1900-1979)

Bryce, James (1838-1922)

Byrnes, James Francis (1882-1972)

Chennault, Claire (1893-1958)

Currie, Lauchlin (1902-1993)

Dooman, Eugene (1890-1969)

Emmerson, John K. (1908-1984)

Feis, Herbert (1893-1972)

Fuchs, Klaus (1911-1988)

Gauss, Clarence E. (1887-1960)

Grew, Joseph (1880-1965)

Gunther, John (1901-1970)

Hehmeyer, Walter

Hiss, Alger (1904-1996)

Hoopes, Townsend (1922-2004)

Hull, Cordell (1871-1975)

Hurley, Patrick (1883-1963)

Lattimore, Owen (1900-1989)

MacArthur, Douglas (1880-1964)

Marshall, George (1880-1959)

Marx, Karl Heinrich (1818-1973)

McCarthy, Joseph (1908-157)

McNaughton, Frank (1906-1978)

Morgenthau, Henry (1891-1967)

Schaller, Michael (1947-)

Sherwood, Robert Emmet (1896-1955)

Silvermaster, Nathan Gregory (1898-1964)

Snow, Edgar (1905-1972)

Stalin, Iosif Vissarionovich (1879-1953)

Stettinius, Edward (1900-1949)

Stilwell, Joseph (1883-1946)

Stimson, Henry L. (1867-1950)

Truman, Harry S. (1896-1980)

Wallace, Henry A. (1888-1965)

White, Harry Dexter (1892-1948)

大山郁夫 (1880-1955)

鹿地亘 (1903-1982)

孔子 (552?-479 BCE)

幣原喜重郎 (1872-1951)

蒋介石 (1887-1975)

鈴木貫太郎 (1867-1948)

鈴木中正 (1913-)

宋美齢 (1997?-2003)

袖井林二郎 (1932-)

張治中 (1890-1969)

陳誠 (1898-1965)

野坂参三 (1892-1993)

浜口雄幸 (1870-1931)

平沼騏一郎(1867-1952)

福地いま(1910-)

彭徳懐 (1898-1974)

毛沢東 (1893-1976)

米内光政 (1880-1948)

劉少奇 (1998-1969)

林彪 (1909-1971)