ケルゼンと憲法裁判所

長尾龍一

はじめに

ハンス・ケルゼン(Hans Kelsen, 1881-1973)は、「一九二〇年、オーストリア政府は私に憲法起草を委ねた。採択された憲法は、先行する諸憲法の何れにも見られないすぐれた憲法裁判制度を定めている」と、フランス語圏の読者に、誇らしげに語っている(1)。カール・シュミット(Carl Schmitt, 1888-1985)がウィーン学派の「抽象的規範主義・形式主義流」(abstrakte Normativismen und Formalismen)を嘲笑した(2)のに対し、ケルゼンは「しかしその学派は、彼の言うところの『抽象性』にも拘らず、まさしく具体的 (recht konkret) な立法活動を行ない、オーストリア憲法裁判所を創造したのだ」と反論した(3)。理論家としてのケルゼンとは区別された実践者としてのケルゼンの最大の業績は、一九二〇年のオーストリア憲法の起草であろうが、その中でも憲法裁判所の設立には「自分自身の業績」(persönliches Werk)として誇りとしていた(4)

本稿はこの業績について、歴史的・伝記的にその足跡を辿るとともに、それに対する彼の法理論的・政治思想的意味づけを考察し、その歴史的意義に一考を加えようとするものである。

(1)       Kelsen, “La garantie jurisdictionnelle de la Constitution,” (tr. by Charles Eisenmann), Revue du droit public et de la science politique en France et à étranger, vol.45, 1928, pp.1-2.

(2)       Carl Schmitt, Der Hüter der Verfassung, 1931, p.6.

(3)       Hans Kelsen, “Wer soll der Hüter der Verfassung sein ? ” 1931, quoted from Wiener rechtstheoretische Schule, 1968, p.1891.

(4)       Rudolf Aladár Métall, Hans Kelsen : Leben und Werk, 1969, p.36.

 

一 憲法と憲法裁判所

(1)憲法起草

ケルゼンの共和制憲法(一九二〇年)との関わりについて、メタル『ケルゼン伝』は次のように描き出している(1)

  一九一八年十月末、ケルゼンは軍務を終え、学問的活動を再開した。そのすぐ後に、ドイツ=オーストリア共和国暫定政府首相カール・レナー (Karl Renner, 1870-1950) 博士より官邸に呼ばれ、共和国憲法の起草に協力して欲しいとの依嘱を受けた。この依嘱には、彼が社会民主党系知識人サークルと交際していたことが、関わっていただろう。ケルゼンは既に一九一八年十一月・十二月に、社会民主党機関紙『労働者新聞』 (2)と市民派の『新自由新聞』 (3)に、比例代表制の問題について短い論説を発表しており、それは当時の政界関係者には大いに注目されていた。彼はかつて一九〇六・七年に、選挙法に関して著作を発表していて(4)、そのことを思い出しながら書いたのかも知れない。更に彼は、一九一八年十二月に、『新自由新聞』に憲法改正に関して立場を表明している(5)。翌一九一九年には、レナー首相の「序文」の下、『ドイツ=オーストリア共和国憲法』[いわゆる「暫定憲法」](6)の正文に、ケルゼンの註釈を加えた書物(7)が刊行された。彼はこの註釈において暫定憲法に仮借ない立法技術的批判を加えているが、この批判は後の本憲法(definitive Verfassung)の起草に当って大いに参照された。彼は、暫定憲法における執行権の組織とラント(Land)の地位についての、比較的長い論説を、改名したばかりの『公法雑誌』(8)に寄稿した(9)。暫定憲法はカール・レナー自身が起草したもので、直ちに色々ボロが出ていた。・・・

  レナー首相は、サンジェルマンの講和交渉や「帝国の廃墟の上に住む一千万の民衆を支配する」と彼自身が(前述した「序文」の中で)形容したような経済的難局の渦中で、憲法問題に精力を費やす余裕はなく、ケルゼンにはただ「議会制民主主義」と「分権的自治連邦制」という二つの政治的基本線を指示したのみであった(後者については「但し中央政府の権限を過度に制約することのないように」という注文がついていた)。起草に当っては、準備中であった隣国ドイツのワイマール憲法が、(実際上可能な限りで)模範となると考えられたが、実際には大して参考にならなかった。それというのも、レナーの大統領制に関する構想は、ワイマール憲法よりずっと民主的なものであったし、ワイマール憲法において最も特徴的な人権に関する部分は、後に述べる理由で[旧憲法の規定をそのまま踏襲することになったから(10)]参考にする訳にいかなかったからである。

  ケルゼン自身は、自分に課された政治的原則を、法典を可能な限り法技術的に完璧なものにすることと、国家活動の合憲性を実効的に保障することを主眼とした。彼は憲法の法的核心は憲法保障と行政[の合法性の]保障の章にあると考え、そのためには君主制時代の旧憲法の制度、即ち帝国裁判所(Reichsgericht)制度と行政裁判所制度が利用できると考えた。後者は殆んどそのまま新憲法に採り入れ得るが、前者は本格的な憲法裁判所に衣替えした。新憲法の憲法裁判所制度は、憲法史上の新機軸である(11)

 

(2) 憲法裁判所

 帝制時代に「帝国裁判所」があり、通常裁判所と行政裁判所の間の権限争議、ライヒとラントないしラント相互間の争訟、それに憲法の保障する政治的権利の侵害に対する不服申立などを管轄していた(12)。この制度は、レナー起草の暫定憲法にも承継されており、一九一九年四月三日国民会議によって採択された「憲法裁判所法」において、それに大臣弾劾制度や国民会議制定の法律に対する内閣による違憲の訴えなどの管轄権を加えた憲法裁判所(Verfassungsgericht)が設立された(13)

それに先立つ二月十四日、裁判官の人選について諸政党間で協議があり、長官・副長官、及び二名は超党派で、それにキリスト教社会党・ドイツ国民党・社会民主党が各々二名を推薦することで合意が成立した。長官は司法官出身のヴィトレリ(Paul Vitorelli, 1851-1932)、副長官はケルゼンの師メンツェル(Adolf Menzel, 1857-1938)、それにもう一人のケルゼンの師ベルナチック(Edmund Bernatzik, 1854-1919)も超党派で選ばれた裁判官であった(他に補欠(Ersatzmitglieder)として、各党一人ずつ、四月には超党派の一人も加えられた)。ところが三月三十日ベルナチックが急死し、その補充として政府推薦でケルゼンが任命された(五月三日)。ヴィトレリ長官が「格別に有能な専門家」として推薦し、レナー首相がこれを受けたのだという(14)

これに並行してケルゼンによる憲法起草作業が進行しており、その中でも憲法裁判所の設立は彼のブレインチャイルドともいうべきもので、彼の原案のこの箇所は、無修正で議会を通過した(15)。それは帝国裁判所の権限を承継するとともに、「憲法の保障する政治的権利」への侵害に対する不服申し立てを規定していた旧法に対し、「政治的」という言葉を削除して保護範囲を拡大し、また単に宣言的であった違憲判決の効力を、侵害行為の効力否定(Kassation)にまで強化した。また中央及び地方政府の命令についての合法性審査権、更に一定の場合の職権的命令審査権を定めた(16)。違法と判断されると、官庁は直ちにそれを公示せねばならず、その命令は公示とともに「未来に向って」(pro futuro)失効する(17)

それ以上に重要なのは法律の合憲性審査権である。その出訴権は、ラント法に関しては連邦政府、連邦法に関してはラント政府にあり、更に一定の場合には裁判所が職権的に審査することができる。違憲判決によって、法律は判決公布の日より失効する。但し法律の失効に関しては、憲法裁が猶予期間(Frist)を定めることができる。これは議会に改めて合憲的法律を立法する期間を与え、空白を作らないように配慮したものである。法律の違憲判決においては、失効が一法律の全体か一部かを明示しなければならない。憲法裁はその他に選挙争訟、大臣弾劾(Ministeranklage)なども管轄する(18)。判決執行の責任は大統領にあるが、一九二一年七月の法律によって、大統領が執行を適当な機関に委任することができることになった(19)

  ケルゼンは、司法権による法律の合憲性審査制を欠くところでは、法律として公布されたものはすべて有効で、憲法は最も肝心なところで憲法としての属性を喪失(denaturieren)すると指摘している(20)。帝制下の一八六七年に制定された一連の憲法的立法の一つ「司法権に関する国家基本法」(Staatsgrundgesetz über die richterliche Gewalt)第七条は、「適式(gehörig)に公布された法律の効力は裁判所の審査を受けない」と定めていた。通説によれば、裁判所は公布が適式かの審査をなし得るのみで、それが合憲的に成立したか否か(verfassungsmäßiges Zustandekommen)は審査できないとしていた(21)

裁判所はウィーンに置かれ、長官・副長官、十二名の裁判官、六名の補欠裁判官から成る。長官・副長官及び裁判官の半数、補欠裁判官の半数は下院(Nationalrat)より、残りは上院(Bundesrat)[地方議会代表により構成]より選出される。任期は終身である。中央政府・ラント政府の閣僚は憲法裁の裁判官(補欠を含む)を兼任することができない。長官・副長官、裁判官のうちの八名、補充裁判官のうちの四名は上下両院議員、地方議会議員と兼任してはならない。判決の定足数は、重要事件については裁判長の他八名、そうでないものについては四名である。常任委員ständiger Referent、普通三名、任期三年)が裁判長の指名に基づいて事件を調査し、合議の際に報告する(22)

 

(3) 憲法裁判所裁判官として

共和制憲法が一九二〇年十月一日に公布され、十一月十日に施行されると、彼はその新憲法裁の判事に任命された(23)。旧憲法裁以来の、一九一九年より一九二九年に亘る彼の裁判官としての活動については、合議の様子を記した文書が公開され、それを研究したヴァルター(Robert Walter, 1931-)の著書『憲法裁判所裁判官としてハンス・ケルゼン』(二〇〇五年、註(14)参照)が刊行された。同書によれば、この期間に公刊された同裁判所の判決は千三百にのぼり、その内ケルゼンの(専門委員(Referant)として、そうでなくても論議に参加する形で)関与したものは百二十五であるという(24)

筆者には当時のオーストリア実定法上の諸問題を充分に理解する能力はないが、ざっと眼を通してみて得た二三の感想を述べたい。

第一には、ケルゼンは裁判官として常識的に行動しており、法解釈の態度は形式主義的でなく、目的論的であることである(25)。例えば、ラントの土地に電線を引く権利を連邦政府が有するか否かが争われた事件で、ケルゼンは「明文の規定はないが、拡張解釈すべきだ。現行憲法の精神は、旧憲法より中央集権的である」と主張して、合議を導いた(26)

第二に、政党が推薦した裁判官を多く含む憲法裁において、ぎりぎりの表決で決定されるケースが多く、ケルゼンも多数派になったり少数派になったりしているが、概してリベラル左派の線に沿っている。彼が権威をもって憲法裁を指導したということはない(27)

第三に、最初の頃は、余り背後の政治勢力に従って裁判官の意見が分かれるという傾向は目立たないが、一九二六年頃よりキリスト教社会党系の裁判官たちがまとまって行動する傾向が出てきて、左右の対立が明確化してくる (28)

 

 (4) 特免婚姻問題

ケルゼンが「石もて追わるる如く」オーストリアを去らざるを得なくなった契機は「特免婚姻」(Dispensehe)問題である(29)

一八一一年オーストリア民法典(ABGBDas Allgemeine Bürgerliche Gesetzbuch)が制定された時期のオーストリアは、メッテルニッヒ(Klemens Wenzel Nepomuk Lothar Fürst von Metternich-Winneberg-Beilstein, 1773-1859)支配下の絶対主義国家で、この法典には、カトリック国としての婚姻非解消主義と、皇帝の「恩恵」(Gnade)による離婚・再婚許可制度とが並存していた。前者の原則によれば、カトリック教徒は夫婦一方の死亡のみが婚姻解消事由であり(六二条)、不仲の夫婦も「テーブルとベッドの分離」(Scheidung von Tisch und Bett)によって同居義務から解放されるのが限度であった(一〇三条)。しかし後者(絶対君主制原理)によって、地方長官Landesstelleには、無条件に婚姻欠格事由を猶免(Nachsicht)する権利が与えられた(八三条)

帝制期には、この制度の恩恵を受けたのは少数の有力者のみであったが、第一次大戦後事情が変った。まず離婚に寛容な世界的潮流があり、ドイツでも非宗教婚と宗派に関わらない離婚の許容が定められた。オーストリアにおいても、三大政党のうち、社会民主党とドイツ国民党がドイツ民法の原則に追随することを主張し、カトリック教会を政治的に代表するキリスト教社会党と激しく対立した。そこで妥協が行なわれ、二政党はその主張の全面的立法化を取り下げる代りに、行政庁が特免婚姻制度を一層活用することを認めるということで合意を見た。一九二一年、民法六二条が改正され、別居中のカトリック夫婦についても、婚姻欠格事由についての免除が認められることとなった。こうして結婚したカプルは五万組に及ぶといわれる(30)

その後もキリスト教社会党系地方長官が特免の承認を渋るなどいざこざが絶えず、そのうちに通常裁判所が特免婚姻について無効判決を下し始めた。ケルゼンによれば(31)、この種の民事訴訟はたいてい筋の悪いものである。というのは、地方行政当局は、初婚の相手方が同意したものについてのみ特免を認める方針であったため(32)、その同意が一種の出訴権放棄の意思表示となっており、従って特免取消を求める行政訴訟などは起っていない。訴訟は、初婚の妻が、再婚後死んだ夫の年金を新婦から奪おうとするとか、新婦とまた不仲になった夫が、慰謝料を支払わずに二度目の離婚を目論むとか、行政訴訟の出訴期限を過ごしため、民事訴訟に迂回するというようなものが大部分である。

恐喝も起る。特免婚姻の夫婦に「無効確認訴訟を起すぞ」と脅してカネを巻き上げるのである。夫婦間でさえも、気が変ればいつでも一方的に別れ話を持ち出すことができる。「私自身憲法裁判事としてこんな事件を担当したことがある。ある建築家が、最初の妻と別居中、オランダ人の富裕な若い女性と再婚したくなり、役所に特免婚姻の申請をして認められた。そして結婚後一年経ち、持参財産も揃ったところで、通常裁判所に葉書を送り、我々の関係は特免婚姻だと告げた。裁判所は職権介入し、この婚姻を無効とした。彼女が唖然としたのは当然である」とケルゼンは言っている(33)

この問題が一九二七年憲法裁に持ち込まれたのは、次のような経緯からである(34)。ケルゼンのかつての弟子である弁護士が、特免婚姻を理由とする婚姻無効訴訟の弁護を担当しており、彼のところに相談に来た。そこで彼は、「特免は行政行為で、通常裁判所がその効力を否定するのは、行政裁判所の権限の侵犯である。憲法裁は通常裁判所と行政裁判所の権限争議の決定権を有するから、憲法裁に訴訟を起したらどうか。確かにこの事件は婚姻の効力を決定する通常の民事裁判事件のように見えるが(従って特免婚姻の効力は『前提問題』(Vorfrage)に過ぎないように見えるが)、その判断はもっぱら特免という行政行為の効力(前提問題への判断)にかかっているのであるから、その合法性の審査は行政裁判所の管轄事項である。これには憲法裁の判例がある。自分の所有地を行政庁に公道と認定された地主が、通常裁判所に所有権確認訴訟(35)を起した事件で、通常裁判所はこの行政処分の無効を認定した。これに対し主管閣僚が、通常裁判所の越権行為であるとして憲法裁に訴訟を起し、勝訴した(一九二六年十月十一日判決)。これと全く同じ法的論点だからこれで行き給え」と助言した(即ち公道認定処分が所有権確認訴訟の前提問題に当たるのである)

彼は助言に従って憲法裁に訴訟を持ち込み、憲法裁は、ケルゼンの主張に従い、多数でそのように判決した(一九二七年一一月五日判決)。表決八対五で、反対の五票は何れもキリスト教社会党系の裁判官であった(大ドイツ党系のシルヴェスター(Julius Sylvester, 1854-1944)や中立的なメンツェル、ライヤー(Max Layer, 1866-1941)もケルゼンに賛成した)(36)。ヴァルターは、「ケルゼンも他のメンバーも、この時、この判決がどれほどの雪崩を惹き起すか、充分意識していなかったようである」と言っている(37)

  ヴァルターは、この問題が通常裁判所と行政庁の権限争議の問題であるとするケルゼンの理論は誤りであると言っている。なぜなら、多くの場合特免の決定が初婚の相手方に通知されておらず、その決定は彼または彼女を拘束していないし、従って通常裁判所がそれを無効と判断したのは当然のことである、と言う(38)

法理論としての正当性はともかく、これは憲法裁のカトリック教会及びキリスト教社会党政府に対する挑戦であった。政界の力関係は、憲法制定当時よりずっと右寄りとなっており、憲法裁は社会民主党残存勢力の拠点と見られていた(社会民主党は一九二〇年に下野して以来ずっと野党であった)。特免婚姻裁判においてケルゼンがリーダーシップを振るったことは公知の事実で(彼自身が多くの公刊された論文で自説を展開していた)、憲法裁攻撃はケルゼンへの個人攻撃として展開された。彼は一夫両妻・ハーレムの推進者として大衆紙より攻撃され、反ユダヤ主義的煽動も行なわれた。十代前半の二人の娘たちの登下校には、猥褻なプラカードをもったおとなたちが近づいて嫌がらせをした(39)

一九二九年、キリスト教社会党は、憲法で裁判官が終身任期と定められた憲法裁の粛清を決意し、憲法改正に乗り出した。しかしそのために必要な議会の三分の二の多数をもたないため、社会民主党の最後の牙城ともいうべきウィーン市の自治権制限という威嚇をもって同党に圧力をかけ、社民党も屈服して遂に改憲案を成立させた(十二月九日)。ケルゼンは一九三〇年二月十五日付けで罷免され、圧倒的多数が政府任命の裁判官から成る新憲法裁は、直ちに特免婚姻に関する判例を変更した。ケルゼンはケルン大学の招聘を受け、同年十一月二日付けで同大学国際法教授として赴任した(40)

ケルゼン等の任期終了直前の一九三〇年一月二十一日、憲法裁では、自動車会社の認可に治安警察上の条件を附した政令の効力に関する審理が、メンツェルの司会で行なわれた。ところがヴァンシューラ判事(Adolf Wanschura, 1873-1938)(41)が、「もはやこの法廷は権威をもたないので閉廷し、新法廷に審議を委ねるべきだ」と主張した。ケルゼンもこれに賛成したという。それに対し(一九二四−二六年首相を務めた)ラメク判事(Rudolf Ramek, 1881-1941)は、「裁判所は任期中は職務を果たすべきだ」と反論し、メンツェル議長は、ヴァンシューラの動議には法的根拠がないとして却下した。ヴァンシューラは更に補欠裁判官の資格などをめぐって喰い下がったが、メンツェルはそれを無視した(42)

 

(1)  Rudolf Aladár Métall, Hans Kelsen : Leben und Werk, pp.34-35.

(2)  “Ein einfaches Proportionalwahlsystem, ” Arbeiter-Zeitung, 24. Nov., 1918.

(3)  “Der Proporz im Wahlordnungsentwurf, ” Neue Freie Presse, 1, Dez., 1918.

(4)  “Wählerlisten und Reklamationsrecht: Unter Berücksichtigung der jüngsten Regierungsvorlage, betreffend die Wahlreform,” Juristische Blätter, 1906; Kommentar zur österreichischen Reichsratswahlordnung, 1907.

(5)  “Die Verfassungsnovelle, ” Neue Freie Presse, 20, Dez., 1918.

(6)  一九一八年十月十日、敗戦と帝国の急激な解体過程の中で、各党のドイツ人地域選出上院議員が結束して、ドイツ人地域に「ドイツ=オーストリア国家」(Deutsch-Österreichischer Staat)を建国すべきことを決議した。二十一日にはドイツ人地域選出下院議員たちが結集し、その会議を(暫定)国民会議と名づけて、新国家建設のための委員会を選出、三十日に新国家建設が宣言され、(暫定)憲法が採択された(Kelsen, Österreichisches Staatsrecht, 1923, pp.75-79)。三十一日レナー首相下の新政府が発足した。

(7)  Die Verfassungsgesetze der Republik Deutschösterreich: mit einer historischen Übersicht und kritischen Erläuterungen, herausg. von Hans Kelsen; unter fördernder Mitwirkung des Mitgliedes des Staatsrats Stefan von Licht; mit einem Geleitwort des Staatskanzlers Dr. Karl Renner, 1919.(第四部は1920年)

(8)  一九一四年よりÖsterreichische Zeitschrift für öffentliches Rechtの名で刊行されたが、一九一八年よりZeitschrift für öffentliches Rechtと改称(一九四四年元に戻る)

(9)  “Die Organisation der vollziehenden Gewalt Deutschösterreichs nach der Gesetzgebung der konstituierenden Nationalversammlung,” Zeitschrift für öffentliches Recht, 1. Bd., 1919/1920.

(10)   「マイア(Michael Mayr, 1864-1922)[キリスト教社会党の国会議員。憲法起草委員]の主張で、一八六七年憲法の人権規定をそのまま新憲法に取り入れることになり、ケルゼンの起草した原案が反故になってしまった。もっともケルゼンもこのことを大いに残念がったという訳ではない。旧憲法は十九世紀政治的自由主義の良き遺産でもあったし、ケルゼン自身その影響下にあったからである」(Métall, op.cit., 35-36)

(11)ケルゼンが考えた憲法起草の基本方針は「現行憲法で利用可能な部分はすべて活用し、諸制度の継続性は極力維持し、現に行なわれており、確立している連邦主義原則ともいうべきものを成文化すること、―― そしてスイス憲法と、それより何よりドイツ憲法を参照すること」というものであったという(Charles Eisenmann, “Dix ans d’histoire constitutionnelle autrichienne (1918-1928),”Revue du droit public et de la science politique en France et à étranger, vol.45, 1928, p.70.)

(12)   Kelsen, Österreichisches Staatsrecht, 1923, p.65.

(13)   Kelsen, op.cit., p.107.

(14)   Robert Walter, Hans Kelsen als Verfassungsrichter, 2005,  pp.6-9.

(15)   Métall, op.cit., p.36.

(16)   Kelsen, Österreichisches Staatsrecht, p.212.

(17)   Kelsen, op.cit., p.213.

(18)   Kelsen, op.cit., pp.214-215.

(19)   Kelsen, op.cit., pp.218-219.

(20)   Kelsen, Allgemeine Staatslehre, p.254.

(21)   Kelsen, “Reichsgesetz und Landesgesetz nach österreichischer Verfassung,” Archiv des öffenlichen Rechts, Vol.32, 1914, pp.420-421. 『国法学の主要問題』においては、「立法手続の要件が充たされていない法律制定なるものによっては、国家意思としての法律は生じない。しかし司法審査制の欠けているところでは、法律として公布されたものは、法律として適用されざるを得ない」と言い、これは法的に構成不可能な憲法破壊(Verfassungsbruch)である、と言っている(Hauptprobleme der staatsrechtslehre, 1911, p.247)。これが法段階説の導入によって、「隠れた第二の授権」という構成に変じたのである

(22)   Kelsen, Österreichisches Staatsrecht, p.219.

(23)   Walter, op.cit., p.21

(24)   Walter, op.cit., p.2.なお同裁判所は、国際司法裁判所などと異なり、裁判官の少数意見等は公表しなかった(p.1)

(25)   Walter, op.cit., p.91.

(26)   Walter, op.cit., p.27.

(27)   ヴァルターが取り上げている意見の分岐した諸事件をざっと見た感じでも、メンツェルなど中間派と判断を共有している事件が多いのは当然として、公然たる社会民主主義者アウステルリッツ(Friedrich Austerlitz, 1862-1931)と共通の判断をしているものも半数に近く、判事出身であるが社会民主党推薦で憲法裁入りしたエンゲル(Friedrich Engel, 1867-1941)と判断を共有している事例は後になるほど多くなっている。一九二六年、「国家に対する危険」(Staatsgefährlichkeit)という理由での結社の禁止について六対五に判断が分れた時、五人の反対者はケルゼンと上掲の二人の他、アイスラー(Arnold Eisler, 1879-1947)とハルトル(Karl Hartl, 1878-1941)で、両者も社会民主党の推薦による。

(28)   Cf. Walter, op.cit., pp.30,33,51,55,61.

(29)   以下の論述は主としてMétall, pp.49-57.による。

(30)   Walter, op.cit., p.58.

(31)   ドイツ国法学者大会二日目(一九二八年四月二十四日)の主題「行政行為の通常裁判所による審査」(Überprüfung von Verwaltungsakten durch die ordentliche Gerichte)に関する主報告後の討論における発言(“Aussprache über die Berichte zum zweiten Beratungsgegenstand,” Veröffentlichungen der Vereinigung der Deutschen Staatsrechtslehrer, Heft 5, 1929, pp.222-227.)

(32)    「男が別れた妻のところに行って、『僕もう一度結婚したくなったんだけど、許してくれない?』とかなんとか言ってこの合意を取りつけ」(p.223)など、ケルゼンもここでは、著書の中の謹厳な調子とは様子が違う。

(33)   ケルゼンの「自伝」よりの引用(Métall, p.52)。通常裁判所の態度も、特免婚姻の夫婦間の子は非嫡出子でないとするなど、一貫しないところがあった(p.51)

(34)   実はそれ以前の一九二六年に、婚姻の効力の認定権はもっぱら通常裁判所にあるとの憲法裁判決が出ている。ケルゼンはその審理においても、それは確定した行政行為の効力を通常裁判所が越権的に否定したものだとの反対意見を述べている(Walter, op.cit., pp.59-60)

(35)   厳密には多少違うようだが、日本法では恐らくそれに相当するであろう。

(36)   ライヤーは、後述するドイツ国法学者大会二日目の報告者で、報告の中でもこの憲法裁の態度を擁護している(“Überprüfung von Verwaltungsakten durch die ordentliche Gerichte,” Veröffentlichungen der Vereinigung der Deutschen Staatsrechtslehrer, Heft 5, p.172)

(37)   Walter, op.cit., p.61, cf. Métall, op.cit., pp.52-53.

(38)   Walter, op.cit., pp.65-66.

(39)   Métall, op.cit., p.54.

(40)   Métall, op.cit., pp.54-57.

(41)   ヴァンシューラは、死亡したノイマン=エッテンライヒ判事(Robert Neumann-Ettenreich, 1857-1926)の後任として、キリスト教社会党の推薦で任命された。その過程で反対者があって紛糾したという(Walter, op.cit., p.24)

(42)   Walter, op.cit., pp.40-41.

 

二 一九二八年ドイツ国法学者大会

 「特免婚姻」問題がまだ最終段階に到達していない一九二八年四月二十三・二十四の両日、第五回ドイツ国法学者大会がウィーンで開催された。初日のテーマは『国事裁判の本質と展開』(Wesen und Entwicklung der Staatsgerichtsbarkeit)(1)、「憲法裁判」でなく「国事裁判」という表題としたのは、ワイマール憲法上の制度を主たる念頭においたものであろう。主報告者は学界の長老トリーペル(Heinrich Triepel, 1868-1946)、副報告者はケルゼンであった。ケルゼンは『主権の問題と国際法の理論』(一九二〇年)においてトリーペルの国際法・国内法二元論を厳しく批判している (2)。国法学者大会の「生みの親」であったトリーペルが、ウィーンでの開催、憲法裁判という主題選択、ケルゼンという報告者選択を推進し、そして自ら報告者を買って出たことなどの態度は、「大家としての度量」と評価すべきものかも知れない。

 司会者はトーマ(Richard Thoma, 1874-1954)で、午前九時五十分開会、過去一年に死去した会員ロジン(Heinrich Rosin, 1855-1927)リーカー(Rieker, 1857-1927)ツォルン(Philipp Zorn, 1850-1928)追悼の意を表し、新入会員を紹介した(3)

 トリーペルの報告は、憲法問題は政治問題であるから裁判に適さないという見解と、政治問題を司法手続に服せしめるのが法治国原理であるとする見解の中間的立場を、曖昧模糊ないし支離滅裂な仕方で表明したものである。それによれば、憲法紛争は当然に政治的紛争であり、司法手続に親しまないようでもあるが、しかしシュミットのように法と政治を背反的に捉えることは適当でなく、法的な憲法裁判もあり得る。しかし議会による大臣弾劾の歴史に見られるように、法的追及は政治的追及へと変遷していかざるを得ない。「憲法の本質は憲法裁判の本質と大いに(weithin)矛盾し、憲法争議を司法形式によって決着させることの可能な限界線を引くことは困難であるが、しかし現存する不調和を可能な限り調和的に解決する努力は放棄すべきではない」という結語が示すように、「中途半端」の感を免れない(4)。 

  ケルゼンの報告は、国家機能の合法性を確保するための法技術としての憲法の司法的保障を主題とする(5)。だが、従来は国家機能が立法と執行に分類され、執行の合法性に関心が集中していた。立法の合法性確保という問題設定は、立法と執行の対立を相対化し、議会の法律制定は同時に憲法の執行であり、行政権の規則制定は法律の執行であると同時に立法であるとする法段階説の認識によって可能となった。即ちそれによって議会の立法も憲法執行として合憲性審査の対象となるのである(6)

  しかし法律の越権から憲法を保障するという思想が最近まで殆んど登場しなかったことには、もう一つ政治的な理由がある。絶対君主制下では、仮に憲法と法律が概念的に区別され得るとしても、両者とも君主の命令であるから、一方から他方を保障しようなどという発想が出てくることは考えられない。それに対し、立憲君主制の下では、法律よりも改正が困難な憲法が君主と議会を拘束しているから、法律の合憲性という問題が大いに議論されると考えられよう。

ところが実際はそうでならなかった。立憲君主制の「理論」(Doktrin)は、法律制定には議会の同意が必要であるという法的現実(Rechtswirklichkeit)に反して、議会はそれにただ協賛(zustimmen)するのみで、立法の実体(eigentlicher Faktor)は君主の裁可であると唱える。議会は「法律内容」(Gesetzes-Inhalt)の形成に参与するのみで、法律を法律たらしむるものは君主による「法律命令」(Gesetzes-Befehl)であるという議論もその一種で、その議論によれば、法律の合憲性などそもそも問題にならない。否、君主の法律案裁可は、その合憲性の保障であるという主張さえある。しかし、それは統制の対象であるはずのものが、統制権を僭称するイデオロギーに他ならない。こういうイデオロギーが、議会制民主主義の下でも、影響力を持ち続けているのである(7)

 ケルゼンは続いて、保障の対象としての憲法の概念を考察する。彼はまず狭義の憲法、国家の基礎を定める本来的・根源的意味での憲法として、「立法機関と立法手続を定める規範」を挙げ(これは、必ずしも適当な名称ではないが、「実質的意味の憲法」とよばれるという)、それと、普通の法律より改正が困難な規範形式である「形式的意味の憲法」を対比する。基本的人権のカタログなどが、後者の例である。ここに憲法は、前者、即ち狭義の手続法的規定に加えて、実体法的規定を含むことになる(8)

 法律のみならず政令等の行政命令や個々の執行行為も合憲性審査の対象となり得るが、問題になるのは条約である。国際法上位説に立脚する場合、例えば「外国人の財産は完全な補償なしには収用することができない」という条約に違反した憲法・法律・命令の効力如何?それは確かに国際法違反である。しかし国際法は、一国の国際法違反行為を無効にする制度を有していない。従って国内法手続上それが無効にされない限り、有効である。それを是正させるための国際法的制裁としては戦争しかない(9)

 続いて憲法保障技術の問題に移る。国家行為の合法性を確保する技術的手段としては、予防的・事後的、人的・事項的の区別があるが、実際上議会のような合議体の立法行為に対しては、事後的・事項的に違憲規範を無効ないし取消とする以外の方法は考えられない。そうなると事後的に立法の合憲性を審査する機関が必要となるが、違憲行為をした当の機関にその審査を委ねる訳にはいかない。従ってその審査機関は、独立の憲法裁判所ということにならざるを得ない。それに対しては、それは議会主権、更には国民主権に反するという反論がある。しかし憲法による立法手続の規制は、単に(司法や行政に対する合法律性の要請と同様の意味で)立法の合憲性を保障するものに過ぎない(10)

反論として第二に考えられるのは、憲法裁判所制度が権力分立原理に反するという議論である。確かに立法を無効にする権利は消極的立法権であり、憲法裁にそれを認めることは、立法権を議会と憲法裁に分有させることを意味する。しかし一機関に権力が集中し過ぎることは、民主主義にとって危険であり、複数機関による相互統制はむしろ権力分立の精神に適うものである。それに議会による積極的立法は極めて自由な行為であるのに対し、憲法裁判所による消極的立法は法に拘束された行為であって、裁判所に委ねるにふさわしい事項である(11)

憲法裁判所の仕事は、憲法解釈という純粋に法律的なもの(rein juristische Arbeit)であるから、裁判官の人数は少なくならざるを得ない。裁判官の人選に関しては、議会による選挙のみによることも、国家元首による任命のみによることも、推奨できない。両者の結合、例えば大統領が複数候補のリストを議会に提出して選挙させるか、議会が複数候補のリストを議決して大統領に選ばせるか、ということも考えられる。一部の裁判官は全国大学法学部合同の委員会に選出を委ねるとか、裁判官会議に欠員の補充をさせるということも考慮すべきであろう(12)

裁判官の人選への政治的影響、特に政党の影響は好ましくないが、しかし法律専門家とて政治的傾向を帯びることは避けがたい。非政治的なふりをして実際には政治的人事が行なわれるよりも、むしろ裁判官の一部については、公然と議会における政党の議席数に比例した推薦権を認めることも考えられる(13)

ケルゼンは、以下違憲審査の対象、判断基準、手続について述べ、最後に憲法裁判所制度の法的及び政治的意義について次のように述べる。

違憲行為を無効にする保障制度を欠いた憲法は、一般の法律より改正が困難な外見を呈していても、実際には法律によって改正できるのであるから、憲法典は法的拘束力を欠いている(14)。憲法裁判所は、憲法典に拘束力を与えるという任務をもつが、どの憲法にも妥当するこの一般的な存在理由の他に、民主的共和国においては特別な存在理由がある。それは多数の侵害に対する少数派の有効な保護に役立つことである。憲法改正に特別多数を要求することは、基本的に重要な問題には少数者の協力を求めることを意味する。民主主義の本質が無制約の多数決でなく、議会に代表された諸集団の永続的妥協にあるとすれば、憲法裁判所はそれを実現する最善の方法である。多数者の独裁は、少数者の独裁に劣らず社会平和にとって危険であり、少数者が憲法裁判を通じて多数の独裁に抵抗し得ることは、それを防ぐための重要な手段である(15)。連邦国家において連邦と州の権限を裁定することも憲法裁判所の重要な機能である(16)。国内法におけるこの憲法裁判所の果たす役割は、国際平和のために国際裁判所の果たす役割と対応している(17)

この後討論に入り、最後にトリーペル、ケルゼンの両報告者が総括演説を行なった。

ラウン(Rudolf Laun, 1882-1975)は、憲法裁判所の審査対象となり得るのは、憲法典、即ち「形式的な意味での憲法」で、国家最高の意思決定という「実質的な意味の憲法」は、当然には合憲性審査の対象とはならない、と指摘した。ただ立法論としてはそれを憲法裁判所の審査対象とすることも考えられると附加して、それを原理上否定するシュミットらの議論と一線を画した(18)タターリン=タルンハイデン(Edgar Tatarin-Tarnheyden, 1882-1966)も、ケルゼンの合憲性審査論は「形式的意味の憲法」にのみ妥当するとし、国家を完全に法化し得るとするケルゼンの思想は「幻想」(Illusion)であると決めつけた(19)イェリネック(Walter Jellinek, 1885-1955)も、シュミットの近著『憲法論』に言及しつつ、シュミットのいうVerfassungと区別されたVerfassungsgesetzeに関してならば、ドイツにおいても憲法裁判所制度導入が考えられるとした(20)

これに対しメルクル(Adolf Julius Merkl, 1890-1970)は、「トリーペル教授のような大家、わざわざベルリンからお出まし戴いた賓客を批判するようなことは誠に申し訳ない」と一言してから、次のように言う。トリーペルは、憲法裁判所制度について、一見中間的立場に立っているように見えるが、本当はそれが「憲法の本質」に反すると考えていることが知られる。それは彼が憲法の本質を「いわゆる実質的意味の憲法」であると前提しているからで、実は憲法裁判制度はもっぱら「形式的意味の憲法」を保障する制度である。この制度によって憲法は任意法規から強行法規となる。

メルクルは更に言う。オーストリア憲法の憲法裁判制度は、相対的には進歩した制度であるが、出訴資格を連邦政府と邦政府に限定しているのは狭すぎる。また裁判官の三分の二は国会議員と兼任してはならないと定められているが、兼職禁止規定は全員とすべきである。もっともこれは政治的に実現困難であるが。ともあれ私は、憲法裁判所制度に全面賛成で、その理由は合法性の要請を支持するからというだけではなく、民主的・共和制的政治体制を支持するからである。それはいわゆる議会制の危機に対処し、その危機の一要因である多数の専制を防止するために有効である、と(21)

トーマは、憲法裁判における法と政治という主題について多くを述べ、「非政治的裁判官を見出すことが可能か」というようなややナイーヴな問題をあれこれ論じたが、結論としては、合憲性の司法審査制度をドイツに導入することに肯定的な意見を表明した(22)ヘアファールト(Heinrich Herrfahrdt, 1890-1969)は、ケルゼンの憲法裁判所論に、「論理的要請としての方法論的純粋性」というような見地からではなく、法的安定性の見地から賛成すると発言した(23)

ヘラー(Hermann Heller, 1891-1933)は、憲法裁判所の管轄権を、あらゆる憲法問題に、即ち「純粋な政治的行為」にまで拡大することは、同裁判所自身のためによくない、現にアメリカ合衆国の最高裁は、政治問題を合憲性審査の対象とすることによって、自らの政治化を招いている、と指摘した。またケルゼンが「違憲立法を無効にし得る憲法裁判所がなければ、憲法は拘束力をもたない」と言っているが、純粋法学なるものを突き詰めるとどんな馬鹿げた(ungeheuerlich)ことになるのかを示している。英国憲法はそもそも憲法典もないのに、ちゃんと拘束力をもっているではないか。ケルゼンは法と国家の同一性説を唱えているが、彼はレジュメの中で、憲法裁判は「国家機能の合法性を確保すること」を目的とすると言っているが、図らずもここで彼は法と国家を区別している。彼の説からすれば、ここでは「法機能の合法性」と言うべきではないか。そうすれば彼の主張が馬鹿げていることが一目瞭然となるのに。ケルゼンは他人の主張についてはその政治性を批判するのに、レジュメを見ると、憲法裁判所に条約について違憲無効と判断する権利を与えることは「国際政治的理由」(außenpolitische Gründe)から好ましくないと言っている。これが「純粋」法学なのか。ケルゼンは他人には政治の導入を禁止しながら、自分の好む政治ならいいという訳か。因みに、ケルゼンやメルケルが金科玉条とする「民主的共和国」は、手放しに正当化せれるものとは思われない。アメリカ風金権共和国がそれほど推奨できるとは思われないではないか、と(24)。シェーンボルン(Walther Schoenborn, 1883-1956)も、憲法裁判所の管轄権を無制限に拡張すると、窮極的な政治的決定を裁判官に委ねることになるという趣旨のことを述べた(25)

最後に両報告者の総括:

トリーペルの発言は短く、とりとめがなく、政治概念についてもじゃもじゃと何かを言い、私は政治を云々するからといって法学者を廃業する訳ではないとも言い、ケルゼンと私は別の眼で見て別の舌で語っているので、すれ違いに終らざるを得ないのだと言った(26)

ケルゼンは、憲法問題は政治問題であり、政治問題は憲法裁判所の判断に適さないという主張に対して、政治闘争(politische Kämpfe)もまた利害対立(Interessenkonflikte)に過ぎず、相続争いと同様に裁判の対象となり得る、それを否定することは「強者の力」(Mächte der Stärkeren)に決着を委ねることだ、現にオーストリアでは憲法裁判所が憲法問題を法的に判断して円滑に運用されていると述べた。

ヘラーのケルゼン批判に対しては、批判するならもう少し私の理論を理解してからにせよ、と前置きして、「法機能の合法性」という観念は、下位の法規範の上位法規範に対する適合性を意味するもので、少しも馬鹿げていない、私が「国際政治的理由」から条憲法裁判所に条約を無効にする権利を与えるべきでないと言ったのは、立法という実践活動の中での発言であって、理論と実践を峻別する私の立場と少しも矛盾しない、と指摘した。

また憲法裁判の扱いうる問題には限界がある、とヘラーは主張するが、それは当たり前のことだ。しかし「政治」という曖昧な概念をその限界としようとするのは、裁判所より機関銃を好む議論である。私は「合理的安定性理念」(das rationalistische Sekuritätsideal)の信奉者で、憲法裁判所の管轄を拡大することが、より危険の少ない(wenig gefährlich)な社会を実現する道、人類の法的発展(Rechtsentwicklung der Menschheit)に向う道だと信じている、と強調した。

 

(1)      Veröffentlichungen der Vereinigung der Deutschen Staatsrechtslehrer, Heft. 5, 1929. なおケルゼンはこの報告とほぼ共通の内容の論文「憲法の司法的保障」(“La garantie jurisdictionnelle de la Constitution, ” (tr. by Charles Eisenmann), Revue du droit public et de la science politique en France et à étranger, vol.45, 1928)を同年発表している。その「まえがき」で「本稿は、憲法の司法的保障という主題を、理論的及び実際的見地から考察する。理論的には、この制度の法的性格を、著者が『一般国家学』(一九二五年)で展開した理論を基礎として論ずる。実践的には、著者が過去数年、オーストリア憲法裁の常任委員として得た経験を基礎として論述する。一九二〇年オーストリア政府は著者に憲法起草を委ねた。この憲法は他の諸憲法よりすぐれた憲法裁判所制度を定めている」と言っている。

(2)      Kelsen, Das Problem der Souveränität und die Theorie des Völkerrechts, 1920, pp.120ff.

(3)      Veröffentlichungen, p.1. 新入会員中にはアダモヴィッチ(Ludwig Adamovich, 1890-1955)、フライナー(Fritz Fleiner, 1867-1937)、リーアマン(Hans Liermann, 1893-1976)の名が見られる。

(4)      Veröffentlichungen, pp.2-29. もっとも戦後日本での判例となっている統治行為論も、「高度の政治性」をもった事件は司法審査に適しないが、「高度」でなければ適するとしており、中途半端といえば中途半端であるから、トリーペルを責めるのは酷かも知れない。

(5)      Veröffentlichungen, p.30.

(6)      Veröffentlichungen, pp.30-33.

(7)      Veröffentlichungen, pp.33-35.

(8)      Veröffentlichungen, pp.36-37.

(9)      Veröffentlichungen, pp.41-43. 仏語論文でも「国際法自体は、それに反する国家行為の無効を宣言しておらず、国際裁判所によってそれを無効にする手続も定めていない。それ故、国際法違反の国家行為も、国内法手続によって無効とされない限りは有効である」と言っている(“Garantie, ” p.16)。筆者(=長尾)が「国際法上位説」と「国際法優位説」を区別する理由は、前者は国内法の根拠を国際法の授権に求める理論構成であるのに対し、後者は(特に国内法上の効力において)国際法が国内法に優越するとする主張で、ケルゼンは、仮に前者を前提しても後者が帰結されるものではないと説いている。

(10)    Veröffentlichungen, pp.51-53.これは議会を何の法的拘束も受けない超憲法的政治権力とする主張であるという(p.54)

(11)    Veröffentlichungen, pp.54-56.

(12)    Veröffentlichungen, p.56.

(13)    Veröffentlichungen, p.57.前述のオーストリアの制度参照。

(14)    Veröffentlichungen, pp.78-79.

(15)    Veröffentlichungen, p.81.

(16)    Veröffentlichungen, pp.82-84.

(17)    Veröffentlichungen, p.84.

(18)    Veröffentlichungen, pp.88-90.ラウンはかつてウィーン大学教授で、ケルゼンとは色々個人的関係があった(長尾「軍官僚ケルゼン」『ケルゼン研究II』(二〇〇五年)三六頁、「愛国者ケルゼン」同、七二−七四頁参照)

(19)    Veröffentlichungen, pp.90-93.タターリンは、一九三三年大晦日に執筆した『生成しつつある国法』(Werdendes Staatsrecht, 1934)「序文」において、「全ドイツの視線が集中しているところの人物」(=ヒトラー(Adolf Hitler, 1889-1945)に敬意を捧げ、「我が言葉によって新生ナチス国家に対する貢献を示したい」と述べている。

(20)    Veröffentlichungen, p.97.

(21)    Veröffentlichungen, pp.97-104.

(22)    Veröffentlichungen, pp.104-110.

(23)    Veröffentlichungen, pp.110-111.

(24)    Veröffentlichungen, pp.111-114.

(25)    Veröffentlichungen, pp.114-115.

(26)    Veröffentlichungen, pp.115-117.

(27)    Veröffentlichungen, pp.117-123.

 

三 ケルゼン=シュミット論争

(1) シュミット『憲法の護り手』(一九三一年)

カール・シュミットは、小都市ボンの大学での学究的生活から、一九二八年首都ベルリンの商科大学に移るが、それからほどなくウォール街の暴落の余波でドイツにも政治危機が訪れ、議会が多数派を形成できなくなる。こうしてワイマール憲法四十八条の非常事態権限に基づく「大統領独裁」の体制が開始し、シュミットはこの体制最大の実力者であるシュライヒャー (Kurt von Schleicher, 1882-1934) 将軍の側近となって、この体制を法理論的に正当化した。『憲法の護り手』と題する一九三一年の著書での、「裁判所でなく大統領が憲法の護り手である」とするシュミットの議論はまさしくこの状況の産物であるように見えるが(1)、必ずしもそうでないところが、歴史の面白いところであろう。

アイディアの泉のようなシュミットの頭脳からは様々な着想が流出し、その相互間の関係が理論的に詰められていないことにシュミット解釈が対立する一つの原因があるが、ワイマール期のシュミットの政治的立場には、憲法の「立憲的要素」を副次的原理として包摂しようとする彼としては比較的穏健な立場(シュミット−A)と、非常事態を理由としてそれを切り捨てようとする過激な立場(シュミット−B)とが混在している。インフレが収束し、一応の安定が回復した一九二〇年代後半には、この「シュミット−A」が表に出ており、実は「憲法の護り手」論はこの時期の産物なのである。

彼の主著『憲法論』(一九二八年)の「まえがき」は「一九二七年十二月執筆」と記されているから(2)、これが脱稿の時期であろう。この中で彼は、憲法保障という場合の憲法とは個々の条文ではない(3)、裁判所には高度に政治的な問題を委ねるべきでないと主張している(4)。また君主は中立的権力(pouvoir neutre)であるとするバンジャマン・コンスタン(Benjamin Constant, 1767-1830)の議論に言及し(5)、ワイマール憲法下の大統領がこれに当る、としている(6)。後に『憲法の護り手』(一九三一年)で展開される議論の骨格は、既にこの段階で出来上っている。

トリーペルとケルゼンが報告した国法学者大会が行なわれたのは翌一九二八年四月で、シュミットが論文「憲法の護り手としての国事裁判所」の草稿を出版社に渡したのが同年八月である(7)。同論文は、同大会に欠席したシュミットが、その討論内容に間接的に接して刺激を受け、執筆したとも推測し得る (8)。彼は続いて『公法雑誌』に七十七ページからなる論文「憲法の護り手」を掲載し(註(6)参照)、それを拡充して単著『憲法の護り手』を公刊した(9)。同書は「序章」(歴史的概観)「第一章」(司法的憲法保障の批判)、第二章(現代ドイツの憲法状況)、第三章(憲法の護り手としての大統領)から成っている。

「序章」は、西洋史上「憲法の護り手」として多様な機関が考えられ、また導入されてきたことを論じている。古代スパルタのエフォロス(ephoros)は、秩序(nomos)擁護を任務とし、奴隷階級(helotes)に対し、毎年厳粛な儀式によって宣戦を布告し、叛乱の疑いのある者を直ちに殺害した (10)。ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)は、このエフォロス制度を讃美するフィヒテ(Johann Gottlieb Fichte, 1762-1814)に対し、王と(王の監督者としての)エフォロスに権力を分裂させることは、最高権力を解体させるものだと批判する。シュミットは、このヘーゲルの議論を、肯定的に引用している(11)。両論点を総合すると、憲法擁護とは「内部の敵」(innerer Feind)との武力闘争で、その任務を最高権力者以外の者に担わせるべきではない(そうすれば「憲法の護り手(Hüter)」は「憲法の主人(Herr)」に転化するであろう(12)というのが彼の結論で、大統領の非常事態権限によって、「内部の敵」を物理的に殲滅するという、後の彼(「シュミット−B」)の構想を予示している。

「第一章」においてシュミットは、「授権の枠内における選択」として立法と執行、立法と司法の相違を相対化するケルゼンの法段階説を批判する(13)。シュミットによれば、司法は「法律への内容的拘束」(inhaltliche Bindung an das Gesetz)とその法律の事案への「要件的包摂」(tatbestandmäßige Subsumtion)を本質とし(14)、違憲立法審査の本質は司法でなく立法である(15)。立法は政治であり、それを司法機関に委ねることは「司法の自然的限界」(natürliche Grenzen der Justiz)を逸脱し(16)、「政治の司法化」ではなく、「司法の政治化」を帰結するのみである、と言う(17)

この点に関連して、シュミットはアンシュッツ(Gerhard Anschütz, 1867-1948)の予算論争論を戯画化しつつ批判している。アンシュッツは、あらゆる憲法問題を国事裁判所に裁かせることの主張者であるが(18)、国事裁判所の管轄事項が法律問題に限定されるのは「喋々するまでもなく」「自明」であるとした(19)。ところがその彼が、(プロイセン議会が予算法を否決した)一八六二年の憲法紛争に関連して、(マイヤー(Georg Meyer, 1841-1900)の教科書の改訂版の中で)「ここで国法は終る。予算法が存在しない場合にどう対応すべきかは、法的問題ではない」と言っている(20)。それではこれが裁判になった場合、裁判官はどうすればいいのか?(21)

シュミットは、「憲法制定権力の担い手による統一的決断」という憲法観と「契約的憲法観」を対比する。後者は「議会と政府の契約」として憲法を捉えた十九世紀的観念、前者がワイマール憲法の原則である(22)。この対置は、ドイツを地方分権的連邦として捉えようとする立場の反国家性の指摘の根拠づけともなるが、それ以上にケルゼンの、民主制を「多元的諸勢力間の妥協の秩序」として特色づける政治論を攻撃する根拠とされる(23)

「第二章」は一種の政治社会学的考察である。シュミットによれば、国家対社会、政府対議会という二元的構造をもった十九世紀から、議院内閣制によって議会が行政権をも支配する二十世紀国家となると、国家は「社会の自己組織化」(Selbstorganisation der Gesellschaft)という一元的構造へと変化する(24)。こうなれば、非国家的領域であった経済も文化も国家化され、「全体国家」(totaler Staat)となる(25)

多元性を嫌い、「統一」(Einheit)を好むシュミットからすれば、これはめでたいことのはずである。ところが彼によると、議会が勝利し、その敵である「君主制的軍事・官僚国家」が倒れた途端、議会も「いわば自分から」(sozusagen in sich)解体した(26)。それというのも、幾つかに分かれた議会の諸政党の各々が「全体化」したからである。例えば、A党員の子に生まれると、A党系の幼稚園・小学校・中学校に行き、家庭ではA党系の新聞を購読し、A党系の「合唱団やスポーツクラブや党軍」に加入し、最後にはA党系の葬儀屋で葬られる、B等はB党で・・・、というようなことであろう(27)。議会の多数は、これらの諸政党の「脆い連立」(labile Koalition)としてしか成立せず (28)、議会はこのような多元的システムの劇場(Schauplatz)と化している(29)

議会がこのような状態で、内閣もまた諸政党の「脆い連立」としてしか成立し得ないとすれば、憲法危機を救う者としては大統領以外に考えられない、というのが最後の「第三章」の趣旨である。彼は言う:

政治的決断権の担い手の間での意見の対立は、司法的形式によっては解決できず、高次の権威による「上から」の決断か、中立的第三者による「横から」の調整かによらざるを得ない。権力分立制の下では後者のみが可能である。

「中立的・仲介的・調整的権力」(pouvoir neutre intermédiaire et régulateur)という観念は、ボナパルティズムと王政復古に抵抗したフランス・ブルジョワジーの闘争の中から生れた。具体的には、コンスタンの「権力分立制を基礎とする君主制の、穏健で自由主義的な理論」である。この議論は国家元首を「調整的権力」(pouvoir modérateur)と定義する一八二四年ブラジル憲法や一八二六年のポルトガル憲法、更には君主を「憲法の護り手」(guarda de la constitucion)とする一九二九年のスペイン憲法にも受け容れられた(30)。その背後には、「君主は君臨(règner)するが統治(gouverner)しない」という場合の「君臨」に含まれる(「権力」(potestas)と区別された)「権威」(auctoritas)の政治的重要性についての「政治的直感」(politische Intuition)がある(31)

立憲君主は、通常は眼立たず控えめで、国家統一継続性を示しているのみであるが、非常事態(Notfall)において活動する(32)。ワイマール憲法における大統領もそれと同様で、通常は内閣閣僚の副署に拘束されつつ、高官の任命とか、恩赦とかを行なうのみであるが、必要なときには、その「権威」によって、憲法上列挙された権限に限られない調整的役割を果たす。実際エーベルトもヒンデンブルクもそのように行動してきた(33)

シュミットはドイツの「職業的官僚制」(Berufsbeamtentum)の中に、多党制の多元主義を抑制する可能性を見て、哲学者ライゼガング(Hans Leisegang, 1890-1951)の「従来人々を結びつけてきたもののすべて(特に世界観や宗教)が私事となってしまった現在、国家を統合するものは職業的官僚制の倫理である」という言葉を肯定的に引用する。この官僚の任命権をもつのは、国民投票を基礎として議会から独立した大統領である(34)

ワイマール憲法は、この大統領を「憲法の護り手」と定めている。七年という比較的長期の任期によって恒常性が保障され、国際法上の国家代表権その他の権限が認められ、国政が困難に陥れば議会を解散し、国論が分岐する事態には国民投票を命ずることもできる。それはまさしく民主国家の元首としての「国民への訴え」(Appell an das Volk)ではないか。そして真の危機に立ち至れば、四十八条の非常事態権限によってそれに対処する。四十二条が就任に際し「憲法と法律を護る(wahren)」と宣誓することを定めているのは、まさしく大統領が憲法の護り手であることを示している。「憲法は、ドイツ国民の政治的全体意思と大統領の権威とを直接結びつけ、その権威をドイツ国民の憲法的統一性と全体性の護り手としようとしている。現代ドイツ国家の存立と存続は、この成功に懸かっている」という言葉で本書は閉じられる(35)

 

(1)      ケルゼンも「民主主義的=議会主義的ドイツ憲法」が危機に立ち、その四十八条のみが活力を持っているような時期に、こんな本が現れたのは驚くべきことだ、と、明らかに同書が超然内閣期の時局を反映しているものという前提で論じている(“Wer soll der Hüter der Verfassung sein? ” p.1876)。シュミットは、同書の序文を「苛酷な事態と統治の新奇さの故に、私はこのように行動せざるを得なかったのだ」(Res dura et regni novitas me talia cogunt moliri.)というヴェルギリウス(Publius Vergilius Maro, 70-19 B.C.)という言葉 (Aeneid, I,563)の言葉で閉じている(Der Hüter der Verfassung, 1931, p.III)。これが二十年代の現実が苛酷であったことを述べているのか、同書の執筆時期である三十年代に言及しているのかは分らない(なおこの言葉はマキャヴェリ(Niccolò Macchiavelli, 1469-1527)の『君主論』第十七章に引用されている)

(2)      Schmitt, Verfassungslehre, 1928, p.XIII.

(3)      Schmitt, op.cit., p.18.

(4)      Schmitt, op.cit., p.276.

(5)      Schmitt, op.cit., p.287.

(6)      Schmitt, op.cit., p.351.

(7)      Schmitt, “Der Hüter der Verfassung,” Archiv des öffentlichen Recht, Vol.16, 1929, p.166; Verfassungsrechtliche Aufsätze aus dem Jahren 1924-1954, 1958, p.100.

(8)      シュミットは、ケルゼンが学会当日配ったレジュメが『公法雑誌』附録(Archiv des öffentlichen Rechts, Neue Folge, p.449)に掲載されたものに言及している(“Das Reichsgericht als Hüter der Verfassung,”Verfassungsrechtliche Aufsätze, p.64)

(9)      同書は権威ある出版社(J.C.B.Mohr)のシリーズ「現代公法論集」(Beiträge zum öffentlichen Recht der Gegenwart)の第一巻として刊行された。

(10)    Schmitt, Der Hüter, p.7.

(11)    Schmitt, op.cit., p.8.

(12)    Schmitt, op.cit., p.7.

(13)    Schmitt, op.cit., pp.38-40.

(14)    Schmitt, op.cit., pp.36,38.

(15)    Schmitt, op.cit., p.45.

(16)    Schmitt, op.cit., p.35.

(17)    Schmitt, op.cit., p.22.フランス第三共和制憲法(一八七五年)が叛逆罪の裁判を議会の第二院(元老院)の管轄としたのは、政治問題が司法に適合的でないことを示している(p.26)、政治問題を司法手続の対象とすると、政治的に常に手遅れになり、政治責任がとれない(pp.32-33)、実際には立法活動を行なっている憲法裁判所の裁判官に過大の身分保障を与えることは、司法の隠れ蓑の下での党派活動を助長するものだ(p.154)、それはまた「法服貴族の支配」(Aristokratie der Robe)であって、反民主的であるなどとも言う(pp.155-156)

(18)    一九二六年第三四回ドイツ法学者大会での報告(Schmitt, op.cit., p.5)

(19)    Verhandlungen des Deutschen Juristentages 1926, 1927, p.13.

(20)    Meyer & Anschütz, Lehrbuch des deutschen Staatsrechts, 7th ed., 1919, p.906.

(21)    Schmitt, Hüter, pp.28-29.シュミットは、実際ドイツの国事裁判所は、法律の合憲性審査に関する政治がらみの事件について、立法者に委ねるべき問題であるとして判断を回避しており、裁判所自体が自らの不適格性を告白している、と指摘している(pp.51-52)

(22)    Schmitt, op.cit., pp.54-55.

(23)    Schmitt, op.cit., p.63.シュミットはケルゼンのこの主張を「自由主義の特徴である民主主義と自由主義の混同」であると言う。民主主義と自由主義を区別し、「自由なき民主主義」の「ブルジョワ民主主義」に対する優位を説くのは、共産主義とファシズムが共通して好んだ議論である(長尾「民主制の哲学」(一九八三年)(『大道廃れて』(一九八五年)四六頁)参照)

(24)    Schmitt, op.cit., p.78.

(25)    Schmitt, op.cit., p.79.

(26)    Schmitt, op.cit., p.82.

(27)    Schmitt, op.cit., p.84. Cf. Schmitt, “Weiterentwicklung des totalen Staats in Deutschland,” 1933, in Verfassungsrechtliche Aufsätze, p.362.(「揺り籠から棺桶まで」 (von der Wiege bis zur Bahre)という言葉がそこにある)

(28)    Schmitt, Hüter, p.88.

(29)    Schmitt, op.cit., p.105.

(30)    Schmitt, op.cit., pp.132-133.

(31)    Schmitt, op.cit., pp.134-135.

(32)    Schmitt, op.cit., pp.136-137.

(33)    Schmitt, op.cit., pp.137-139.

(34)    Schmitt, op.cit., p.150.ライゼガングは、ナチ時代「ナチ誹謗」の罪で投獄され、イエナ大学教授を罷免され、戦後東独となったイエナ大学に復職するが、抑圧的体制に堪えきれず、西独に亡命した。

(35)    Schmitt, op.cit., pp.158-159.

 

 (2) ケルゼンの反論(一九三一年)

ケルゼンのこれに対する反論『憲法の護り手は誰であるべきか?』は、雑誌『司法』に掲載され(1)、ほどなく単行本としても刊行された。一面においては危機に立つワイマール体制に対する憂慮に満ち、他方では「シュミットほどの桁はずれの頭脳の持ち主」(so außerordentlicher Geist wie C.S.)(2)、なぜこんな呆れた(erstaunlich)ものを書くのか(3)という苦々しさに満ちて、仮借なく厳しい反批判となっている。

まず憲法保障(Verfassungsgarantie)の概念について、憲法は「規範の体系(Komplex)」であり、「憲法違反行為(Verletzung)」とはその規範に反する作為ないし不作為であって、「違反行為」には直接のものと、憲法を根拠として制定された法律に反する間接的なものがあるが、「憲法保障」は「憲法を直接適用する義務を負う諸機関による直接的違反行為よりの憲法の保護(Schutz)」、と定義される。憲法を直接適用する機関といえば、まず議会と政府で、従って憲法保障といえば、この両者の違反行為がその対象となる(4)

もちろん、憲法は何が何でも保障されなければならないかどうかは問題で、その点については色々な考えもあり得るであろう。しかし、仮に憲法保障制度を設けるとすれば、議会や政府にその保障をさせるのは、猫に鰹節の番をさせるようなもので、「何人も自分の事件の裁判官となってはならない」(Niemand soll Richter in eigener Sache sein.)という基本原則に反する。十九世紀には一部の論者が、憲法の護り手は君主だという説を唱えたが、それは絶対君主制から立憲君主制に移行した際失った権力を取り返そうとする見え透いたイデオロギーで、最も憲法に違反する可能性の強い君主(政府)が、自らを拘束する実効的憲法保障制度の導入を妨げようとして唱えたものに他ならない。政府と一体である君主を、議会と政府の上に立つ「中立的権力」などとする主張も、同様のごまかしである(5)

現在ドイツは深刻な憲法危機の中にあり、憲法保障の問題が改めて論じられるのは不思議でないが、呆れるのは、「現代公法論集」の第一巻として刊行されたこの書物が、こともあろうに、昔のがらくた小屋から「国家元首が憲法の護り手である」などというごまかしの仕掛けを取り出してきたことである。しかもシュミットは、十九世紀立憲君主制の状況は現代に当てはまらないと力説しながら(6)、まさしく当時の議論の典型であるコンスタンの古びた議論を共和制の現代に適用しようとしているのである(7)

そもそもこのコンスタンなる人物は何者か?彼は、革命当初は穏健な共和派であったが、やがて君主主義者になり、ナポレオン没落後は正統主義を唱え、ベルナドット(Jean Baptiste Jules Bernadotte, 1763-1844)を王位に就ける策謀に加わり、それに失敗するとブルボン支持者に戻った。エルバから戻ったナポレオン(Napoleon Bonaparte, 1769-1821)に対しては、最初「アッチラ、成吉思汗」と罵りながら、すぐその後ナポレオンの委嘱で憲法草案を書いたりした。ブルボン王朝が復権すると、その役職に就いた。七月革命後は、ルイ・フィリップ(Louis Philippe, 1773-1850)の正統性を支持した・・・、というような(いかがわしい)人物である(8)

シュミットは一方で、大統領の権力が諸権力の「上」でなく「横」にあるかのように控えめに描いているが(9)、まさに現在大統領は内閣と一体になって、憲法四十八条の非常事態権限によって、憲法を破壊しつつあるではないか(10)

シュミットは、憲法裁判所の違憲立法審査が司法ではなく立法だということを強調する(11)。国家機能のどれをどこに分類するかという問題も、理論上は意味あることかも知れないが、違憲行為を審査する憲法裁判所のようなものを設けるか否かという立法政策上の問題には関係のないことである(12)

シュミットの議論の前提には、司法はまったく非政治的だという誤った前提がある。実際には司法も立法や行政と同様に、上位規範の枠内での決断行為であり、利害対立に対する決断を「政治」とよぶならば、政治を含んでいて、立法との相違は程度問題に過ぎない。確かに国際法学において、法律問題と政治問題を分ち、後者を本質上国際裁判の対象にならないものとする議論は存在する。しかしそのような「本質的」な区別などは存在せず、当事者が司法的解決を避けようとするものを「政治問題」とよんでいるに過ぎない(13)

シュミットは、司法とは「内容的に疑いのない規範」による事実の「要件的包摂」(tatbestandmäßge Subsumtion)と定義している。しかし民事裁判でも刑事裁判でも、たいていは法解釈をめぐって対立するものであり、「内容的に疑いのない規範」などめったにない。また司法の任務が「要件的包摂」であるというのは必ずしも誤りではないが、違憲立法審査がそれに当らないというのは誤りである。民事裁判において遺言や契約の合法性を判断するに当り、その成立と内容を審査するのと同様に、憲法裁判所も立法の手続と内容を審査するのであるから(14)

シュミットは、改正困難な上位法規範と改正容易な下位法規範の間にヒエラルヒーの関係などないと「法段階説」を批判しているが(15)、全くの誤解に基づく議論である。法段階説における上位・下位は、改正の難易とは何の関係もなく、上位規範が下位規範の制定手続を定める関係(授権関係)があるのみである(16)

シュミットは、政治問題であるところの憲法問題を司法的手続で審査することは不可能であると言うが、現にオーストリアではもう十年もそれを行なっている。確かに司法にふさわしい事項とそうでない事項はあり得るし、司法の「限界」(Grenzen)は政策論議の対象となり得るが、概念上政治問題は司法の対象になり得ないというような議論は成り立たない。法律を違憲無効とすることは、消極的立法である。それが権力分立原則に反するという議論もあり得るが、民主制にとって権力の集中は危険であり、積極的立法機関と消極的立法機関による相互抑制は、むしろ権力分立の精神に合致する(17)

シュミットは、「裁判形式」(Justizförmigkeit)は、その本質が立法である憲法保障に適さないと言う。しかし原告と被告が分れて討論する形式は、賛否分れて討論する議会の立法手続と類似している。実際古代アテネでは、立法が訴訟形式で行なわれたこともある。民事裁判においても、法は広い裁量権を許容しており、利益衡量(Interessenabwägung)による判断が行なわれる(18)

シュミットはドイツの現状分析に当って「全体国家」(totaler Staat)対「多元主義」(Pluralismus)という対立概念を用いる。前者においては、国家が「社会の自己組織」となることによって十九世紀的な国家と社会の二元性が終焉したと言いながら(19)、後者の定義は「社会的権力複合体」(soziale Machtkomplexe)の並存である(20)。明確な概念上の矛盾ではないか。現実に眼を向ければ、国家外の社会は現に存在する。プロレタリアの立場からすれば、シュミットのいう「全体国家」なるものは「ブルジョワ国家」に過ぎず、階級闘争の場である「社会」が国家の外に存在する(21)

シュミットのいう多元主義の担い手は実際には政党で、多元主義国家は多党制国家(Parteienstaat)であり、「全体国家」対「多元主義」という図式の意図する価値判断は政党悪者論である。彼は、多元主義は「国家概念を解体し」(22)、「国家を分割し」(23)、「国家と行政の統一を断片化(aufsplittern)する」もので(24)、「憲法違反」であるから(25)、一種の病気として「治療」(Abhilfe)が必要であると言う(26)。こうなれば、「ソ連やイタリアのような一党支配国家」が眼中に登場してくる(27)のは当然であろう(28)

シュミットは、憲法裁判制度が多元主義に奉仕するもので、特にそれが国家権力に対して「権利」を主張することを非難する(29)。しかし憲法裁において主張されるのは反国家的自然権ではなく、国法秩序の逸脱を防ぐための実定法的主張である(30)

シュミットは、立法権拡大傾向を阻止し得るものは、司法権でなく行政権だと言う(31)。とんでもない発言である。現にシュミットは、憲法四十八条二項の拡大解釈によって、行政権による立法領域の拡大を推進しているではないか(32)。現実政治においては議会と政府が対立しているのに、シュミットの全体国家論によれば、両者の対立は消失したことになっている。それ故両者に対し中立的な憲法裁の存在理由も消失したことになるのであるが、現在ドイツにおいては、議会の多数に根拠をもたない政府が支配しているではないか(33)

シュミットは、ワイマール憲法が「全ドイツ国民の同質的で不可分の統一性」(homogene, unteilbare Einheit)を前提し(34)、憲法は、憲法制定権力としての「統一体」としてのドイツ国民の政治的決断で (35)、大統領はこの「統一体」に選ばれた憲法の護り手だと言う(36)。社会には激烈な利害対立があり、このような議論はイデオロギー的擬制である。憲法も国民の代表が議会で表決したもので、憲法の背後にある「統一」とは、代表の擬制によって観念的に作られたものに過ぎない (37)

シュミットは大統領が「中立的権力」だと言う。しかし憲法裁判事より大統領が中立的だなどとどうして言えるのか。裁判官には中立という職業倫理があることも無視してはならない(38)

憲法保障の機関は唯一か?シュミットも、それが十九世紀に関して、それが複数あり得るような発言をしている(39)。憲法擁護(Schutz)の方法は多様で、憲法保障(Garantie)はその一つの方法に過ぎないことは明らかで、シュミットが大統領について憲法擁護機関の多元性を認めるならば、そのような言い方をすべきであろう(40)

シュミットは、大統領の憲法上の権限を列挙して、「憲法の護り手」であることの論拠としているが、それは憲法の執行者(Vollzieher)であることを示しているに過ぎない。彼は四十二条の「憲法を護る(wahren)」という宣誓の規定を、大統領が憲法の護り手であることの論拠としているが、同条は「憲法と法律を護る」と規定しているのであって、憲法と法律を執行することを誓うものに過ぎない(41)

シュミットは憲法裁判所制度を「法服貴族の支配」で「反民主主義的」であると言う(42)。その論拠の一つは、裁判官たちが民主的に選ばれていないところにあるのかもしれないが、民選裁判官による憲法裁とて不可能ではなく、オーストリアのそれはメンバーの相当部分を議会で選んでいる。それが憲法保障という目的にとって合理的かどうかは別問題である。しかしシュミットが憲法裁を反民主主義的とする理由には、法律の合憲性審査が反議会的だということがあるようである。だが憲法裁は議会のみを統制対象にするものではない。現にオーストリア憲法裁は政府との間でその存立を賭けた対立に陥っている(43)

シュミットが護ろうとする憲法は、「ドイツ国民の統一の状態(der Zustand der Einheit des deutschen Volkes)であるという。この「統一」とは、特定の政治的立場から望まれた状態で、実定法に根拠のない「自然法的願望理念」(naturrechtliches Wunschideal)に他ならない。この「統一」なるものを基準として敵と味方、善神(Ormuzd)と悪神(Ahriman)が区別される。「統一」に有害だとして憲法上の制度である議会が否定され、「統一」を護るためと称して、大統領の非常事態権限が讃美される。だが議会制度はオーストリアでも、フランスや英国でも、北欧諸国でも、立派に機能しているではないか(44)

,

(1)  Die Justiz, 6. Band, 1931.同論文はWiener rechtstheoretische Schule, 1968に再録されており、本稿はそれを引用する(頁数は同書のもの)

(2)  Kelsen, “Wer soll der Hüter der Verfassung sein? ” p.1889.

(3)  Kelsen, op.cit., p.1876.かつてケルゼンはシュミットの議会制批判を「気が利いている」(geistreich)と評したことがあった(Allgemeine Staatslehre, p.417

(4)  Kelsen, op.cit., p.1873.

(5)  Kelsen, op.cit., pp.1873-1875.

(6)  Schmitt, Hüter, p.128.

(7)  Kelsen, op.cit., pp.1876-1877.

(8)  Kelsen, op.cit., p.1878.

(9)  Schmitt, Hüter, p.132.

(10)   Kelsen, op.cit., pp.1879-1880.

(11)   Schmitt, Hüter, p.45.

(12)   Kelsen, op.cit., pp.1880-1881.

(13)   Kelsen, op.cit., pp.1882-1884.

(14)   Kelsen, op.cit., pp.1884-1888.

(15)   Schmitt, Hüter, p.40.

(16)   Kelsen, op.cit., p.1890.長尾「ケルゼンにおける法と道徳」(『日本法学』七二巻一号、二〇〇六年)一一〇頁、本稿二註(9) 参照。

(17)   Kelsen, op.cit., pp.1892-1895.

(18)   Kelsen, op.cit., pp.1895-1897.

(19)   Schmitt, Hüter, pp.78-79.

(20)   Schmitt, op.cit., p.71.

(21)   Kelsen, op.cit., pp.1897-1901.

(22)   Schmitt, Hüter, p.69.

(23)   Schmitt, op.cit., p.63.

(24)   Schmitt, op.cit., p.64.

(25)   Schmitt, op.cit., p.131.

(26)   Schmitt, op.cit., p.96.

(27)   Schmitt, op.cit., p.84; Kelsen, op.cit., p.1902.

(28)   Kelsen, op.cit., p.1899.

(29)   Schmitt, Hüter, p.67.

(30)   Kelsen, op.cit., p.1903.

(31)   Schmitt, Hüter, p.82.

(32)   Kelsen, op.cit., p.1904.

(33)   Kelsen, op.cit., pp.1904-1907.

(34)   Schmitt, Hüter, p.62.

(35)   Schmitt, op.cit., p.70.

(36)   Schmitt, op.cit., p.59.

(37)   Kelsen, op.cit., pp.1907-1911.

(38)   Kelsen, op.cit., pp.1910-1912.

(39)   Schmitt, op.cit., p.11.

(40)   Kelsen, op.cit., p.1914.

(41)   Kelsen, op.cit., p.1915.日本語的に言えば、同じく「まもる」と言っても、「遵守するだけで、防衛するのではない」ということになるのであろう。

(42)   Schmitt, Hüter, pp.155-156.

(43)   Kelsen, op.cit., pp.1916-1918.

(44)   Kelsen, op.cit., pp.1918-1921.

 

四 歴史的回顧

 

 ケルゼンとシュミットの「何れが正しいか」というようなことは、簡単に論断できるものではないが、以下拙い私感を述べて本稿を閉じたい。

 (1) 一九四〇年代前半のヨーロッパ大陸に生きて、未来を知らない者の視野からすれば、シュミットの方が圧倒的に正しく、否、『憲法の護り手』の中のシュミットはまだ生ぬるい、ということになるであろう。そこでのシュミットは、大統領を立憲主義的諸権力の「横」に置く、前述した「シュミット−A」であり、その「憲法の護り手」も、歴史の勝者であるヒトラーやスターリン(Iosif Vissarionovich Stalin, 1879-1953)に比べれば、老衰したヒンデンブルク(Paul von Hindenburg, 1847-1934)のような影の薄い存在である。

 ケルゼンの批判は、「シュミット−A」の立憲主義的法衣の下の「シュミット−B」の鎧を発きだそうとしたものともいえる。従って、「中立的権力」論など、「シュミット−A」の虚妄性を明らかにしても、シュミットが、「本当はそうなのだ。俺の本心は、十七世紀の絶対君主のような主権的決断、ヒトラーのようなGleichschaltungを求めていたので、立憲主義的偽装の部分など批判されても痛くも痒くもないのだ」と開き直れば、的外れとなるはずのものである。

「穏健期」のシュミットの構想の中にも、群集心理の興奮によって、少数意見を蹂躙し、多元的社会を一元化しようとする志向が窺われる。秘密投票に反対し、「喝采」(Akklamation)によって、「敵味方」の決断を行なおうとする主張(1)は、提案する指導者(2)と、それに喝采(Ja oder Nein)をもって応ずる大衆(3)との二元構造をもっており、指導者によって操作された集団、ナチ期の集会の雰囲気を先取りするものである。

シュミットは、「政治的Gesellschaftとか、政治的Assoziationとかというものは存在しない。存在するのは政治的Einheitであり、政治的Gemeinschaftである。Gesellschaft的なもの、Assoziation的なものは、敵味方の現実的対置に直面する時、強力な一体性に転化する」と言い、「動員の日に、GesellschaftGemeinschaftに変身する」というレーデラー(Emil Lederer, 1882-1939)の言葉を引用する(4)。これは、戦時の興奮の中に、多元性克服の方途を見出そうとするものである(5)

 (2) 視野を英米自由民主主義体制が勝利した第二次大戦後に移すならば、シュミットは歴史の敗者であり、ケルゼンが構想した憲法裁判所制度はオーストリアで再建されたのみか、ドイツのボン基本法でもそれを導入した。日本でも米国流の最高裁による違憲立法審査制度が導入され、司法積極主義と司法消極主義の対立はあるものの、一応は裁判形式による憲法の保障という制度は確立している。

「高度に政治的な問題は司法審査に親しまない」という「統治行為論」は、高度でなければ政治問題も司法審査に親しむということで、程度問題である。ケルゼンが、ヘラーとの論争の中で、憲法裁判の扱いうる問題には限界があることは当然で、ただ「政治」という概念をその限界としようとするのは誤りだと述べたのは(6)、「政治」と「非政治」でなく、政治の中の「高度」と「非高度」で線を引こうとする「統治行為論」から見ても常識的見解と言いうる。

(3) 憲法はなぜ「保障」さるべきか。憲法も実定法であるから、人間的偶然の産物であり、「一国の基本法」であるという理由のみで当然に擁護さるべきものだといえないことは、ソ連憲法や東独憲法などの例を挙げるまでもなく明らかであろう。ある歴史的時点で憲法制定者となった社会勢力が、それを後世人の抵抗、特に後世の多数者に対して自己の産物を護ろうとするのは、エゴイズムである。ただケルゼンが多数の専制に対する少数意見の保護という価値に言及しているのは(7)、少数派となった社会民主党の擁護という政治的動機も否定できないとはいえ、顧慮に値する論点と考える(8)

(4) シュミットの、大統領を「憲法の護り手」とする議論は、ケルゼンが考えるほど愚論ではない。

ケルゼンも実定法であるための条件として実効性(Effektivität)を挙げているのであるから(9)、憲法を護るとは、その実効性を護るという要素を含まざるをえない。中欧諸国の憲法も、ヒトラーやスターリンの軍隊に蹂躙されて実効性を失い、従って規範的効力も失った。憲法を護るために政治的・外交的・軍事的手段をもって戦わざるを得ないし、国内の内応者とも戦う必要がある。

Verfassungという言葉を単なる紙に書いた憲法典ではなく、政治体制として用いようというシュミットの提案も、歴史的にも理論的にも、可能なものである。「擁護」(Wahrung)と「保障(Garantie)の区別などというアカデミックな主題はともかく、「ワイマール体制を護る」ことは当時として最も緊急の課題であった。

シュミットが真摯なワイマール体制の擁護者であったか、大統領の非常事態権限によってナチスと共産党を鎮圧するという政策(10)が正当性や有効性をもち得たか、については大いに議論の余地がある。しかし「ワイマール体制」を護るべき者を「憲法の護り手」とよび、そのための現実的戦術・戦略を考えるということは、裁判所の違憲立法審査権の範囲を拡大することより緊急度の高いことであったということはあり得る。シュミットのその後の行動が悪過ぎたということとこのこととは区別して考えるべきことであろう。

 

(1)  Schmitt, Verfassungslehre, pp.244-245.

(2)  Schmitt, op.cit., p.243.

(3)  Schmitt, op.cit., p.83.

(4)  Schmitt, “Der Begriff des Politischen,”Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik, 58. Band, 1. Heft, 1927, quoted from Positionen und Begriffe im Kampf mit Weimar-Genf-Versailles, 1940, p.69; also in Der Begriff des Politischen, 

1932, p.32.

(5)  レオ・シュトラウス(Leo Strauss, 1899-1973)は、彼の先輩たち、「宗教的に中立的な国家ドイツで、キリスト教徒たちと対等なユダヤ教徒として生きていこう」とした自由主義的ユダヤ人たちが、歴史の中で挫折したという基本認識の下で、渡米後も自由主義批判を展開し、異文化に寛容な米国自由主義の中にワイマールの病理を再発見して、「ネオコン」たちを育てた。いわば一九四〇年に歴史認識の真偽が決定された、という信念である(“Preface” to Spinoza’s Critique of Religion, 1965.)この著書は、シュトラウスの処女作Die Religionskritik Spinozas, 1930の英訳で、かつてこのドイツ語の原著がシュミットの高い評価を受け、シュミットにロックフェラー奨学金の推薦状を書いてもらってパリに留学した。シュトラウスの反自由主義は、シュミットの反自由主義の強い影響下にある。私はシュトラウスが、戦後の欧米世界の自由の中で、ユダヤ人たちが才能を発揮しているのを見ながら、自由主義の挫折という図式を固守し続けている動機に疑いをもっている。

(6)  Veröffentlichungen, p.122.

(7)  Veröffentlichungen, pp.80-81.

(8)  硬性憲法主義が少数者保護の問題と関わっていることについては、長尾「民主制の哲学」『大道廃れて』五〇頁参照。

(9)  Kelsen, Reine Rechtslehre, 1934, p.71.

(10)       Schmitt, Legalität und Legitimität, 1931, p.51. (二〇〇六年七月三十日)

 

 

長尾龍一(Ryuichi Nagao)

ケルゼンと憲法裁判所

Hans Kelsen and the Constitutional Court