オランダ法学ことはじめ
日本初の西洋法学研究留学生として、西周、津田真道の二人がオランダに出発したのが文久2(1862)年秋、到着したのが翌年初夏で、まず語学学習から始め、秋からシモン・フィセリング教授の私宅に週二度通って、約二年間で「自然法」「国際法」「憲法」「経済学」「統計学」の五科目を学んだ。
幕府の役人たちは文系の学問などは軽視しており、二人の留学希望もずっと握りつぶされてきた。だが、やがて理解者も出て、軍艦の発注に伴って渡米する使節団に随行することが認められたのが文久元(1861)年秋のことである。ところが南北戦争の勃発により軍艦発注の話はつぶれ、俄かにオランダに発注することになった。そこで使節団「附録」としての二人の行き先もオランダに変った。
江戸期日本における西洋への唯一の窓口として、大いに自負心をもっていたオランダであったが、日本の洋学者たちが「オランダ語は役に立たない」として続々英学に転向していくのが面白くなかったに相違なく、こうして日本人がオランダに「戻って来た」ことを大いに喜んだ。
使節団の到来は新聞に書き立てられ、和服帯刀ちょん髷という彼らは、行く先々で群衆に取り囲まれた。オランダ政府も大いに張り切って、フィセリングという(後に大蔵大臣にもなった)大学者・大物を彼らの教師に委嘱した。
フィセリングは後に、「たいていものにならないだろうが、対日友好のためにやむを得ず引き受けた」という趣旨のことを言っており、実際到着当時の彼らの知識の程度は、volkenregt(「諸国民の法」即ち国際法)を「民人ノ本分」と訳したことからも窺われる。
二年後の彼らの研究の成果について、西訳国際法講義ノート『万国公法』を丁寧に検討された田岡良一先生は、訳語が「ほとんど総て現在のものと違っている」ため読みにくいが、「よく玩味してみると、この本は、ヨーロッパの国際法学を誤りなく理解咀嚼して、それを日本語で正確に表現したものであることが分かる」「重い学習上のハンディキャップを念頭に留めながらこの『万国公法』を読む者は、わずか二年間の修業でこれだけの成果をあげ得たことに対して、驚異の念を抱かざるを得ない」と絶讃しておられる(「西周助の『万国公法』」(『国際法外交雑誌』71巻1号(1972年))。
講義も充実しており、広汎な領域に亘って正確・公平かつ周到な内容で、随分熱心に講義準備をしたことが窺われる。フィセリングは別れに際して、「君たち知識欲も理解力もすばらしく、判断も公平で、精神も高潔だ。夜の授業時間が楽しかった。別れなければならないのは悲しい。この授業が新日本建設に役立つことを信ずる」という趣旨のことを言っている。
ところが二人の勉強が、その後の日本法学にどれくらい役立ったかということになると、多少疑問もある。彼らは帰国後徳川慶喜将軍の顧問となって幕末の政局収拾に協力したが、幕府崩壊によって実を結ばなかった。法学界に対する影響も、田岡先生が「西氏が折角苦心して造り上げた国際法術語の大半は、明治以降に伝わっていない」と仰っておられるように、大きいとはいえない。
彼らの受講した自然法講義(その実質は民法原論である)の神田孝平訳訳『性法略』が公刊された明治3(1870)年の翌年、箕作麟祥によるフランス民法典の訳が現われ、「身属」「地属」という西の苦心の訳も、「動産」「不動産」と置き換えられた。これは、箕作の言語感覚がすぐれていたことによるのも事実であろうが、日本知識人のオランダ離れ、立法における圧倒的な仏法の影響によることはいうまでもない。
ところで、民法原論である自然法講義を訳したのが神田であるのに、なぜ「身属」「地属」が西の「苦心の訳」なのか、不思議に思う読者もおられるであろう。実は私にも不思議なのだ。西は慶応年間、将軍の命令で自然法講義ノートを『性法説約』という題で訳出したのだが、幕末の混乱の中、京都で将軍と一緒に逃げたりしている間に紛失した。原文は残っていたので、改めて神田が訳したのである。その後『性法説約』の写しを持っている人物が現れたが、それもまた紛失した、と西は言っている。実際大久保利謙編『西周全集』第二巻(1962年)にも『性法略』だけが載っている。
ところが不思議なことに、『性法説約』が現在国会図書館に存在するのである。どうやら、明治12年になくなったはずのその訳が滋賀県で出版され、当時の官立図書館「東京図書館」がそれを購入したらしく、それが上野の図書館に引き継がれ、併合とともに国会図書館に移管されたらしい。国会図書館当局の推測では、「段ボールか何かに入っていて、長く気づかれなかったのではないか」という。
それにしても、宝石は「身属」、家は「地属」とは、実感のこもった名訳だと思うが。
(2005年)