ワルシャワにて
2008年9月2-3日、ベルリンで権利に関するシンポジウムがあり、それに出席するついでにワルシャワを見物・見学することにした。4年前南部のクラクフやアウシュヴィッツ=ビルケナウを訪れて、些かポーランド史に「開眼」させられるところがあったので、今度は中部の首都を訪れようと志したのである(その時の旅行記は「2004年夏――ヨーロッパ」(『ケルゼン研究II』所収)参照)。ついでにオランダを訪れて、レンブラントやグロティウス、スピノザの旧跡を訪ね、幕末に西周や津田真道の学んだライデンを一見しようなどと思ったのだが、例の軽率・不注意、それに老人ぼけも加わって、失敗に終わった。東京−アムステルダム−ワルシャワ往復のE-ticketを購入し、ワルシャワから列車でベルリン、そしてベルリンからバスでアムステルダムに向ってアムステルダムから帰国しようとしたのだが、こういう切符内容の変更は契約上不可能であることが(成田空港で)判明し(よく契約書を読んでいれば最初から分っていたことだが)、ベルリンかワルシャワに再び戻ることになったのである。おかげでワルシャワに8月26-28日、ポズナンに28-31日、そしてワルシャワにまた9月5-7日滞在することとなり、ポーランドについて多少見聞を広めた。
ワルシャワは第二次大戦において完全に破壊され、建物に関していえば、殆どすべてがその後に建てられた新しい町である。しかも共産政権時代の「社会主義リアリズム」によったものが多く、風情に乏しい。「行ってもしょうがないよ」という友人もいたが、しかし「第二次大戦において完全に破壊された」というところが歴史的には重要で、現地を一見しようという訳である。8月27日「ワルシャワ蜂起博物館」を訪れ、(ポーランド語と英語の説明が併記されている)展示の英語の説明をずっと読んで、結局ほとんど一日を潰してしまった。ポズナンはワルシャワとベルリンの中間にある町で、1956年東欧における最初の反ソ暴動であるポズナン蜂起の地であるから、一見しようと立ち寄ったのだが、記念塔が建っている以外には同事件についての史跡的なものは見当たらなかった。しかし「広場」のあたりの雰囲気は歴史を感じさせた。9月6日にはバス・トゥアーでワルシャワの旧跡を見学した。その他に両市の諸博物館を歴訪したり、町を彷徨したりした。
以下は専門家には周知のことばかりであろうが、知り得たことの概略と幾つかの感想を述べたい。
1795年、ロシア・プロイセン・オーストリア=ハンガリー帝国に分割されて、主権国家・単一国家としてのポーランドは滅び、第一次大戦期におけるロシア革命・独墺敗戦を機に統一・独立を実現したが、1939年8月23日、ソ連とナチ・ドイツの間で締結された「モロトフ=リッベントロップ協定」の結果として、両国に再分割された。この時ソ連が占領した地域はソ連邦に編入され、現在もそのままロシア領となっている。ワルシャワはドイツ占領地域となり、政府はパリ、続いてロンドンに亡命、連合諸国によって「亡命政権」として承認された。軍隊の相当部分もそれに従い、この亡命ポーランド軍は連合軍の一部として、その後対独戦で活躍する。本国でもロンドン亡命政府の下での地下政府が抵抗運動を指揮し、その下に軍隊も活動した。
ワルシャワでは、ナチ・ドイツの苛酷な統治が布かれ、特に人口の30%を占めた約40万人のユダヤ人は、1940年10月塀に囲まれた地域(ワルソー・ゲットー)に集結させられる(現在もユダヤ人墓地には当時の煉瓦の塀が残っている)。食糧不足と伝染病(特にチフス)などで死者が続出し、最初のうちは葬儀なども行なわれたが、やがて道の行き倒れにも誰も構わなくなる。1942年夏までに10万人の死者が出たという。そしてナチ当局は、1942年7月よりユダヤ人たちをトレブリンカ収容所に送り始める。この収容所はワルシャワの東北100キロの地にあり、ガス室を備えて、大量殺戮を組織的に実行していた。ここでワルシャワ・ユダヤ人30万人が殺された(ゲットーでの死者と合わせて40万、生存者は本当にわずかなのである)。
ゲットーで死ぬかトレブリンカで死ぬか、絶望的状況の中で、一部のユダヤ人たちは、抵抗運動を組織し、外部のポーランド抵抗運動組織の協力を得て、武装蜂起に立ち上る。1943年4月19日、移送のための逮捕にやって来たドイツ軍に対し市街戦を演じ、一度は撃退する。そこでドイツ側は街の焼き払いに作戦を転じ、結局6月までに抵抗は終り、ゲットーは無人の廃墟と化した。これが「ワルソー・ゲットー蜂起」である。
1942・3年冬のスターリングラード戦においてドイツ軍に勝利を博したソ連軍は、1944年5月にはルーマニア、7月にはバルト三国、8月にはブルガリア、12月にはスロヴァキア、1945年1月にはハンガリーを制圧した。西部戦線においては、連合国軍によるノルマンディ上陸が1944年6月6日に敢行された。ポーランドにおいては、ソ連軍は1月4日に国境を越え、7月29日には、首都ワルシャワを流れるウィストゥラ河東岸にまで達していた。この地域で既に、ポーランドにおける軍事的抵抗の核をなすArmia Krajowa(英語Home Army、亡命軍に対比して「本国軍」と訳すか?)を武装解除し、指導者を逮捕している。
本国軍が1944年8月1日午後5時を期して武装蜂起に立ち上ったのは、ドイツ軍ももう逃げ腰ではないか、連合国の支援も期待できる、ソ連軍がやって来る前に統治の実態を実現しておこう、というような思惑があったと思われるが、実際にはドイツ軍は体制を立て直し、余力をふりしぼって徹底的に叛乱者を壊滅させ、ワルシャワの町を破壊し尽くした。
連合国は、東欧はソ連に委せるつもりからか、蜂起に大した関心を示さなかった。英米にとってソ連は味方であるから、ソ連に対する観方が甘く、英国などにもスターリンを崇拝し、それに盲従する左翼知識人も少なくなかった。従ってジャーナリズムでも、スターリンの宣伝に反して、敢えて本国軍を庇おうとする論調は少なかった。英国のモントゴメリー将軍が、ノルマンディー上陸に際して、友軍であるポーランド軍高官に対し、「ワルシャワではロシア語が話されるのですか、ドイツ語ですか」と尋ねたというように、東欧は関心の外で、漠然たるイメージしかもたなかった。それにそもそも英国陸軍は小さく、戦費も国力の限界に達していて、「三大国」の一つとして大きな顔をしていても、口先の支援の約束は実践できなかった。
ソ連軍はウィストゥラ河の対岸で、日向ぼっこをしながら破壊と殺戮の様子を見物していた。ソ連はまた、連合国の「本国軍を支援するため、ソ連支配下のポーランドで空軍基地を利用させて欲しい」という申し出を拒否した。当時の戦闘機は航続距離が短く、イタリアの基地からの飛行は困難で、連合国の有効な支援が殆どできなくなった。ソ連は、当初はロンドンの亡命政府を承認していたが、1942年1月「ポーランド労働者党」をモスクワで組織させ、これを正統的亡命政府であると主張して、ロンドン政府の承認を撤回した。ポーランドを共産化し、傀儡政権を通じて支配することを決断したスターリンにとって、西側に属し、愛国のヒロイズムに燃え、国民の強い支持を得ている本国軍は、自らの野心にとって邪魔でしかなく、自分が手を汚さず、ナチスを利用して殲滅するのが得策だと考えたのである。亡命政府側は東部国境をモロトフ=リッベントロップ協定以前に戻せとか、カティン虐殺(ソ連はカティンの森で2万人以上のポーランド人を虐殺しながら、ナチの仕業だと宣伝していた)の真相調査なども主張していたから、邪魔ものなのである。
それでも本国軍は三日間でワルシャワの街を制圧し、地下政府が表に現れて統治権を行使し始めた。市民は非常な喜びをもってこれに協力し、ボーイスカウトの少年たちを配達人として郵便制度も復活した。当時の政府が発行した切手は蒐集家たちの垂涎の的となっている。しかしドイツ軍は空陸両面からの徹底的な破壊をもってこれに応じ、歴史的建造物なども次々に爆破した。彼らが爆破しようと彫った火薬を詰め込む丸い穴が、トゥアーで見学した宮殿に残っている。本国軍の武器は貧弱で弾薬は乏しく、刀折れ矢尽きて10月2日休戦協定が結ばれる。ポーランド側の死者は、軍人が1万8千人、民間人が12~20万人、ドイツ側の戦死者は1万7千人といわれる。ドイツ軍は降伏後も建造物の破壊を続け、1939年以来の建造物の破壊は85%に及ぶという。
ソ連やその傀儡たちは、本国軍の蜂起を「一握りの反動派」が「人民ポーランド」の実現を阻止するために、ゲシュタポと結託して起した茶番劇だ、などと述べ、戦後その代表者の多くを処刑し、また獄中死させた。有期禁錮刑を宣告して、獄中で殺したのだと思われる。その後もワルシャワ蜂起はタブーとされ続けた。本国軍の将兵の多くは、仮に生き残っても誠に報われない後半生を強いられた。
西側の世論もソ連に対して遠慮がち、更には迎合的である中で、ソ連の裏切り、西側ジャーナリズムの本国軍見殺しを激しく非難したのがジョージ・オーウェルである。歴史学教授ジェフリー・バラクローなどがワルシャワ蜂起を「ソ連軍の来るまでに既成事実を作ろうとした」と非難がましく論じているのに対し、その態度をスターリニズムに迎合する「卑劣、臆病、奴隷的」(mean, cowardly
and slavish)であると非難し、once whore,
always whoreと随分激しい言葉で論難している。
1989年ソ連の軛から解放されると、歴史の書き直しが始まった。ちょうど日本から独立した朝鮮において安重根が民族的英雄となったようことが起っており、町の至る所に立っている記念碑や銅像は皆新しい。蜂起記念館には大勢の人々が詰めかけ、解説員たちの説明にも熱が入っている。展示には民族のために命を棄てた多くの殉難者が顕彰されており、恐らくは教科書などでも取り上げられて、新たな民族的英雄群が登場していることと思われる。
バス・トゥアーのガイドを務めてくれた女性は30歳くらいだと思われるが、若く美しく、祖父がソ連軍に殺されたといい、相当の愛国者であった。ナチとソ連を並列して、両者は同じくらい犯罪的だという論調で、2003年に七百ページ以上の大著Rising ‘44−The Battle for Warsawを書いて、ポーランドに極めて好意的な立場から「蜂起」を叙述した英国の歴史家ノーマン・デイヴィスの名に二度も言及した。
デーヴィスは1939年生れ、個人としてポーランドには縁がある訳ではないが、歴史研究の過程で見過ごされてきたテーマ「ワルシャワ蜂起」を徹底的に研究した。エピソードを通じて歴史を叙述するスタイルで、厚いということを除けば読みやすい著作者である。ポーランドでは「民族の友」として崇拝され、1300ページを超える別の大著Europeも同博物館の書店で売られていた(デーヴィスについては「欧米新聞拾い読み」『ケルゼン研究II』pp.250-2)。
バス・ガイドの女性は、ある教会を説明して、「この教会は奇跡的に爆撃を免れ、また共産主義時代に地下に水道を通すから撤去しようという話になった時も、○○教授という人が地下に土管を通す工法で教会を存置することを提案し、こうして保存されています。ここで結婚式を挙げるとこの教会のようにその結婚も壊れないのです」と言った上で、「実は私もここで式を挙げたのです」と付け加えた。独身でないことが判明したばかりか、のろけまで聞かされて、がっかりした人もあったのではないかと思われる。
私たちの世代、及びそれに先行する世代には、それこそ「卑劣、臆病、奴隷的」なスターリン崇拝者が掃いて棄てるほどいて、彼の大量殺戮や歴史の歪曲を「歴史の弁証法」とか称して正当化していた。資本主義―社会主義―共産主義と進行するはずの歴史の発展法則の中で、こうしたことはすべて「アンチテーゼ」に位置づけられるのである。ポズナン暴動やハンガリー事件が起ったとき私は高校三年で、熱烈なスターリン主義者であった同級生のT君はショックから精神に異常を来たし、天才的頭脳の持ち主が以後鳴かず飛ばずの生涯を送ったように思われる。これは彼がまじめで良心的だからで、多くの左翼知識人たちは「困ったことになった」としばらく苦い顔をして沈黙し、ほとぼりが冷めるとまた冷戦を共産圏の側から闘うデマゴギーを再開するのであった。「オーウェルは反動だから読まない方がいい」とか言った教師がいたが誰だか忘れた。老後の閑つぶしにこういう日本スターリニストたちの言動の発掘でもやろうか、などと思わないでもないが、当面は余裕がない。
▽Marek Edelmanの死:Warsaw Ghettoには50万のユダヤ人が閉じ込められ、7月22日から毎日5-6000人がLublin収容所に送られた。ドイツ人は「工場労働のため」と称していたが、Edelman等は秘密の情報網によって、ガス室に送られていることを知っていた。9月8日には、ドイツ側資料では、既に31万人が護送され、6000人が中で死んで、60000人がなお残っていた。待っていても殺されるだけなので、武装抵抗を計画し、1943年4月19日午前4時を期して武装蜂起、午後にはドイツ人・ウクライナ人・ラトヴィア人・ポーランド人などから成る管理者たちに、撤退を余儀なくさせた。僅かで貧弱な武器弾薬で抵抗は3週間続き、ドイツ側は一日平均36人の将校、2054人の兵士、82丁の機関銃、135丁のsub- machine gun、1358丁のrifleを動員した。抵抗者の大部分は死に、Edelmanは最後の50人を率いて秘密の脱出口から脱出した。戦後彼は医学を学び、開業しながら記憶を保持し続けた。1976年、彼はユダヤ系Poland人女流作家Hanna Krallにその記憶を語った。Krallがそれを発表すると、世界中から面会人が押し掛けた(Michael T.Kaufman)(Herald Tribune, Oct.5, 2009)。