異色のケルゼン門下生
ケルゼン『国法学の主要問題』第二版(1923)序文に、「ケルゼン学派」ともいうべきものが成立したとして、主な弟子たちとその業績を列挙している中に、Emanuel Winternitz(1898-1983)の、KelsenとSanderとの論争を主題とした二論文への言及がある(p.XXII)。以下Winternitzの生涯を簡単に回顧したい。
Wienに生れ、母にピアノを学ぶなど、子供の頃から音楽教育を受けた。叔父Oscar Kappからは音楽史、Franz Schmidtからは作曲の教育を受け、ピアノ、オルガン、チェロの演奏者として出発した。1916年WienのHumanistisches Museumを卒業、第一次大戦中は兵役に服した。戦後Wien大学で法学・政治学を学び、1922年博士号取得。卒業後成人学校Volkshochschule(彼はその創設にも参加した)で美学と哲学を講じた。1923年Hamburgに留学、法哲学を講義しつつ、Ernst Cassirerのゼミにも参加した。1924-1936年、毎年イタリアに赴いてRenaissanceとBaroque美術を研究した。1929年Wien弁護士会に加入、会社法弁護士として成功した。しかし音楽への関心をもち続け、「バッハ協会」「Madrigal協会」「Mozart協会」などでも活動した。
1936年Wien大学構内で暗殺された哲学者Moritz Schlick(1882-1936)の犯人訴追に従事、ナチによるAustria合邦(1938年)後米国に亡命、Carnegie Foundationの芸術企画に参加した。その過程でFrancis Henry Taylor(1903-1957)と親炙し、TaylorがMetropolitan Musem of Artsの館長になると、1941年同館に招聘され、42年に楽器の担当、1949年にはCuratorとなる。Barock期以後の楽器の蒐集・保存に尽力、Hindemith, Landowska, Szell, Serkinなどによる多くの音楽会を主催した。Leonardo da Vinci as a Musicianなど多くの音楽史的著書を発表。米国音楽学会会長・国際楽器蒐集協会会長・Metropolitan Museum名誉館長・Austria音楽研究学会名誉会員など。