衆議院憲法調査会最終報告
「敵対的買収」の問題が話題になっているが、人間は他人の行動の背後に善意があるか悪意があるかに敏感である。
「衆議院憲法調査会最終報告書」の、日本国憲法制定経過の要旨(本紙四月十六日)に「主権在民、基本的人権の尊重、平和主義等の諸点を定めた点を高く評価する意見が述べられた。GHQの関与を『押しつけ』ととらえて問題視する意見もあったが、その点ばかりを強調すべきでないとする意見が多く述べられた」とある。
これを見て私は、半世紀以上を経た現在なお、日本国民は占領改革の基本線を受け容れている、それは占領改革の背後に、(「軍国支配者」と区別された)日本国民への善意があり、それを国民が感じ取ったのではないかと感じた。米国に住んでみると、(もちろん良くない人もいるが)気さくで善意で実際的な市民にしばしば出会う。多少占領軍の研究をして見た私は、当時のGHQの中に、そういう市民の雰囲気を感ずる。彼らの多くは、戦時に一時軍服を着たものの、普通の市民であった。
確かに憲法制定経過には、勝者の傲慢、知識不足、彼ら自身が寄せ集めの混成部隊であったことからくる不統一、それに日本側翻訳者の能力不足など、色々問題はあったが、国民に権利と自由を与え、また平和主義に徹する意思を対外的に示すことが、将来の日本国民にとって最善であるという彼らに認識の骨格は健全であった。
戦前に国民主権を主張したのは、ほとんど植原悦二郎ただひとりであったが、現在改憲論者にもそれに反対する者はいない。またナショナリズム復活の潮流を背景としている小泉首相が、先日のバンドン会議で、平和主義に徹する国是を改めて強調しているのも、彼らの洞察の永続的意義を裏書きしている。
一世代前までの憲法論争には、絶対非武装主義への固執とか、「敗戦の謝り証文の破棄」とか、情緒的議論が多かったが、日本国憲法は、あのような制定経過の産物にも拘らず、全体としては健全な常識の産物である。伝統を尊重して、米国にはない象徴天皇制や議院内閣制を定め、人権濫用には「公共の福祉」という歯止めをかけ、何よりも独立した暁には、日本国民が自由に将来の政治を決定できる制度的枠組を定めて、占領軍は去っていった。
このような認識において問題となるのは、イラクとの対比であろう。何しろ、米国が軍事力で先行政権を倒し、民主的体制の樹立を宣言している点で、両者は基本的に共通だからである。相違があるとすれば、それは米国の態度の相違か、日本側とイラク側の状況の相違か、両方か、俄かには判断できない。
「報告書」の基本線は、特殊占領的要素の修正、半世紀の運用を踏まえての手直し、及び「加憲」とよばれる新たな権利の採用である。最後の点に関しては、権利宣言のカタログを増やすことは、いかにも賑やかそうで、良さそうであるが、権利は義務の対応物で、権利を増やすことは義務や負担を増やすことであることを忘れてはならない。
「名簿とプライバシー」という現代的問題もその一例である。確かに名簿にはプライバシー侵害の危険が伴うが、それを理由として集合住宅居住者名簿の配布を控えると、現実に必要な連絡がとりにくくなり、場合によっては人命の危険を伴うこともあるだろう。
ふつうの法的権利は、大学法学部でしか教えられないが、憲法上の権利は、中学・高校教育で教えられ、国民の常識に支えられた不可侵性を獲得するから、それによって義務を課される人々は立法過程を注視する必要がある。 (読売新聞5/2/2005)