胡桃沢耕史『黒パン俘虜記』
最高裁第一小法廷は、1958年5月24日、いわゆる「暁に祈る事件」(吉村隊事件)に判決を下した。
ソ連は終戦に際し、旧満州にいた日本人数十万人を奴隷としてシベリア開発に利用することを企て、実行したが、当時衛星国であった外モンゴルにも、奴隷のおすそ分けをし、1万2000人の日本人がウランバートルを中心として、都市建設などに使役された。大量的な異民族奴隷の使用に際しては、奴隷の中から隊長を任命し、それを通じて支配することが、ピラミッド建設以来のやり方である。
当時「吉村」と名乗った池田重善は、こうして任命された奴隷隊長で、彼は厳格な規律を保ち、ノルマを達成して、モンゴル側を満足させることこそ、早期釈放への道と信じ、それと生来の権威主義的人格とが競合して、食物を盗んだ者はもとより、些細な規律違反やノルマ不達成を咎めて、苛酷な懲罰を行なった。特に恐れられたのが、零下三十数度の野天に縛りつけて一夜を過ごさせる刑罰で、夜明けの凍死ないし仮死状態が、祈るような姿だったことから、この刑罰は(映画の題名をとって)「暁に祈る」と呼ばれた。
帰国途上池田は、ナホトカで追及されて土下座の謝罪をさせられ、帰国後は国会喚問後起訴、逮捕監禁・遺棄致死罪で、第一審懲役五年、第二審三年、上告は棄却されて服役した。しかし1988年73歳で死亡するまで、私記『活字の死刑台』を公刊するなど、無罪を主張し続けた(この事件については、『朝日新聞』(1991年3-5月)に、佐藤悠記者による、52回に亘る詳細な追試の試みがある)。
法律上、日本裁判所の裁判権、モンゴル当局の「吉村」への合法的刑罰権授権の有無、他の行動をとる期待可能性などの理論的論点、それに事実認定にも多数の争点があって、法廷内外で激しく論争された。しかし実情は当事者以外にはなかなか分からない。
20歳過ぎの青年として抑留生活を送った作家胡桃沢耕史(本名清水正二郎、1925-94)が、30数年後に体験を書きつづったのが本書で、1983年直木賞受賞。著者は吉村隊員ではなく、その部分は伝聞であるが(『朝日新聞』1991年5月18日参照)、死が日常的な極限状態の人間の在り方を描き出し、麻酔なし手術の場面など、貴重なドキュメントである。
しかし私には、著者を許せないと思う個人的理由がある。彼はかつて、元吉村隊員X氏を、不正に入手した宝石を「吉村」に貢ぎ、それで楽をしたという趣旨の、恐らくは事実無根の噂を週刊誌に書いた。X氏とその一家が、これによってどれほど傷ついたかは明らかである(もっとも、「数十年前から恨みをもっていた」として、晩年の胡桃沢を包丁で刺した女性(『読売新聞』1992年5月5日)とX家とは、もとより無関係である)。
私が子供のころ、このX家にしばしば遊びに行ったことについては、『法律時報』(1984年4月p.111)[『アメリカ知的冒険旅行』p.69; 『されど、アメリカ』p.55に再録]に言及がある。(『法学セミナー』1996年2月号)
☆ X氏は東大哲学科卒、フッサールで卒論を書き、タゴールなどを尊敬した。「満州国」協和会の要人となったが、終戦時熱河でソ連軍の捕虜となり、モンゴルに送られた。帰国後も随分苦労もしたが、やがて縁故あってA大学のドイツ語教授を務めた。満州時代以来の父の友人で、我が家が目黒(のおんぼろアパート)、X宅が世田谷(の旧練兵場跡引揚者住宅)にあったため、家族ぐるみの付き合いとなっていた。[日本大学法学部ドイツ語教授K氏がかつてA大学に勤務し、晩年のX氏に親炙したとK氏からお聞きした。何だか右翼っぽい本ばかり勧められたという話で、観念右翼だった私の父の友人だから。X氏が満州の青年団を率いて汪精衛政権の南京を訪問した次第については、何れ紹介したい。同政権の末期的症状が随所に窺われる探訪記を書いている]。