Zurechnungの訳語
Kelsenによれば、規範的思惟は社会的存在としての人間にとって最も根源的な思惟であり、Zurechnungはその思惟の中心概念である。それにしては、それに適当な訳語が見つからない、という問題がある。手元の独和辞典は「責・功に帰すること」とあって、Kelsen的にも適訳のようである。初期KelsenのHauptprobleme (1911)では、主題が国家論ということもあって、人格(Person)へのZurechnungが主として論じられた。警官の不法行為は、まず警察庁にzurechnenされ、更に国家にzurechnenされる。警察庁はZurechnungの「経過点」(Durchgangspunkt)であり、国家はその「終結点」(Endpunkt)である。しかしKelsenはやがて自然法則と当為法則の並行性という問題を中心的に論じ始めた。「さぼったから落第した」という場合、これは「さぼった」が原因、「落ちた」が結果という因果的命題とも、「落ちたのはさぼったせいだ」という規範命題とも考えられる。Kelsenはこれを、「『落ちた』という効果は『さぼった』という要件にzurechnenされる」と表現した。そうすると、Zurechnungには「人格へのZurechnung」と「要件へのZurechnung」の二種類があることになる。Kelsenはこれを、「求心的」(zentrale) Zurechnungと「周辺的」(periphäre) Zurechnungとして区別した。邦訳の世界では、「人格への帰報」が主要主題であったKelsen初期には、「帰属」という訳語が行なわれた。「部下や所属成員の責任を引き受ける」というイメージであろう。しかし「要件へのZurechnung」にはこの訳語は適当でない。そこで「帰責」という訳語が試みられた。Zurechnungsfähigkeitが「責任能力」と訳されるから、これは適訳のように見えたが、1930-40年代、Kelsenの人類学的関心が深化するにつれて、未開社会の応報律が主要主題となった。応報は「功には賞、責には罰」という原則で、「賞」を「功」に帰することを「帰責」とよぶのは適当でない。そこで「功」と「責」を統合した概念が求められるが、冒頭に掲げた辞典項目も、それが見つからなかったから両語を並列したのだろう。しかし「報」という字は、「報恩」「報復」と、「功」の場合と「責」の場合を包摂している。そこで私は、初期の「法理論における真理と価値」において「帰報」(報を帰する)という訳語を提案した。しかしこれは評判がよくない。「帰国通知」のようだからからかも知れない。中国人留学生には「いい訳語だ」と言ってくれる人もいるのだが。民法学者永田誠教授の古稀記念論集に、KelsenのWillensdogma論について書いたが、祝賀会で同教授は、「帰報ねえ」と首を傾げられた。そうしている内に突然、Zurechnungという言葉が何十度も出てくるReine Rechtslehre第二版(1960)の翻訳の仕事が突然舞い込み、代替案もなくて「帰報」で通している。この「第二版」では、かつて「求心的」ZurechnungとよんでいたものをZuschreibungと呼ぶことにし、Zurechnungをもっぱら要件と効果の規範的結合(かつて「周辺的Zurechnungと読んだもの)の意味に限定した。従ってZuschreibungの方は「帰属」訳すことに一応したが、必ずしもそれに満足している訳ではない。「帰属」という言葉は、確固たる集団があり、そこにmembersが所属させてもらうというnuanceだが、KelsenはZurechnungspunktはあくまで擬制的存在で、虚焦点だから。もう少し訳語を工夫してみたい(無理なような気もするが)。