信女団と狂女団

 

エウリピデス『バッカイ』には、信女団と狂女団という二つの女性集団が登場する。

前者は、小アジア半島のリュディアから、行者、実は人間の姿に変身したディオニュソス神に従ってギリシャ本土のテーバイにやって来た集団である。王宮のあたりで鼓を高くかざし、にぎやかに打ち鳴らして、市民たちに新宗教を宣伝している(54)。コロス(合唱隊)である彼女らは、繰り返しディオニュソスの神威の偉大さとそれを信ずる法悦を歌う。

後者はディオニュソスを誹謗した罰として狂気にされたテーバイの女性集団で、家をあとに山中にさまよい出で、牛に襲いかかり、素手で引き裂いて牛肉を喰らい、更に人間をも襲う。そして最後は、ペンテウス王の母アガウェが息子を牡牛と信じて殺し、首を杖に突き刺して掲げ、町に戻る。彼女はやがて正気に戻り、自分のしたことの恐ろしさに愕然とし、穢れた者として町を去る。

一見すると、両集団は、一方は神の側の善き者、他方は神に背く罪人として、全く相反するもののように見える。そうだとすると、かつての拙文「バッカスの信女は実在したか」(1999)は、両者を混同し、信女団を論ずると称して、狂女団を論じていたことになる。

しかし実際には両者の相違は紙一重である。信女団は、「機(はた)を捨て梭(おさ)をも捨てて」(118)(松平千秋訳)遥か海を越えて集団で渡来して来た。ディオニュソスの「霊気に酔いて」(119)と訳されている原文はoistros(凶暴性)の変化形で、David Kovaczの英訳(Loeb)driven in madnessである。生肉食も両者共通で、信女たちは「生きながら裂きたる羊の血をすすり、生身を食らう楽しさよ」と歌う(138-9)。他方狂女団もディオニュソスの名を唱えつつ踊る(723-7)。誹謗者たちが信女団について誹謗する淫猥な行動を、狂女団もまったくとらなかった(686-8)

 

ところで『バッカイ』は、現代のフェミニストたちの関心を集めているという。

筆者の乏しい知識からすると、フェミニズムにも、両性同質説に基づくものと、両性異質説に基づくものとがある。前者は「政治や企業経営や学問などは女には向かないのだ」として、これらの領域から女性を排除してきた体制を攻撃対象とするのに対し、後者は「従来思想とか哲学とか歴史とかよばれてきたものは、男の視野から見た男の思想・哲学・歴史に過ぎなかった」として、それと異なった「女の視野」をそれに対置させようとする。

前者からは『バッカイ』はそれほど面白くない。せいぜい「家父長制の下で潜在的能力が抑圧されてきた女性たちが、家事や育児を棄てるストライキに出て、非合理に爆発したのだ」というような解釈となるであろう。そして「こんなことをしても、局面の打開には全然役立たない。こんな無茶苦茶以外に抵抗できなかった古代の女が可哀そうだ」と片付けられる。

それに対し、後者からすると、『バッカイ』は家父長的秩序に対して「女性的なるもの」が抵抗した事件を、男であるエウリピデスの眼で見たもの、として捉えられる。確かに女性の叛乱がこういう形態をとったことには、時代的制約もあるであろうが、しかしこの叛乱の中に、「男性的なるもの」に対する直観的な反撥を見ようとするのである。

そうなると、教団を敵視するペンテウスの思考様式や行動様式の中に、女性的なるものとは異質の、男性的思考様式や男性的秩序感覚を見ることになる。彼は強制力と合法性を信ずる世俗的な権力者で、宗教集団をそのような世俗的秩序の撹乱者として敵視した。その背後には古代アテナイにおける啓蒙的知性、そしてその後裔であるところの近代合理主義がある、ということになると、フェミニズムの近代合理主義批判とも結びつく。

もっとも、エウリピデスの描いたペンテウスの性格には、多様な要素が混在していて、どの点に重点を置くかによって解釈も異なってくる。彼はデイオニュソス教の猥雑さを攻撃しながら、その猥雑な場面を覗き見たいという劣情によって身を滅ぼした。この点に重点を置くと、「性」に対する両性の関心のもちかたの違いという問題になってくる。

何れにせよ、女性でない筆者には憶測以上のことはできない。しかし彼女らも、男神ディオニュソスに追随してやってきたという点では、フェミニスト魂に徹していない。男性マルクスに追随する「マルクス主義フェミニズム」のようなものである。