カムカム英語
1.狸囃し
ショ ショ 証城寺証城寺の庭は
ツ ツ 月夜だ
みんな出て 来い来い来い
おいらのともだちゃ
ポンポコポンノポン
負けるな 負けるな
和尚さんに 負けるな
来い 来い 来い
来い 来い 来い
みんな出て 来い来い来い
ショ ショ 証城寺
証城寺の萩は
ツ ツ 月夜に 花盛り
おいらは浮かれて
ポンポコポンノポン
(野口雨情作詞・中山晋平作曲(1924年))
「おいら」はもちろん狸で、日頃の観察から和尚さんは面白そうな人だと見てここを舞踏会の会場に選んだのであろう(「歌が広まると、当時の住職から『不謹慎である』との抗議」を受けたというから(『金の星』6巻12号(1924/12)復刻)、「当時の住職」は随分人物が矮小化していた)。
この歌詞を考察するには、三種類の狸を区別する必要がある。
狸A: イヌ科の動物
狸B: 後足で立ち、目が大きく、太鼓腹の空想動物
狸C: 化けた狸(落語「狸の恩返し」で化けたお札、利根川岸で河童の娘と結婚し、一日おきに相互に化けあって夫婦生活を送る、河童に化けた時の婿狸など(佐藤垢石「変化祝言」『垢石瓢談』(1951年))
証城寺の狸は手(前足)で腹を打つのだから後足で立つに相違なく、狸Aではない。また「狸囃し」という以上は他のものに化けた訳ではないからCでもなく、まずはBであろう。問題は和尚さんに「負けるな」とはどういう意味かである。和尚さんが何をし、狸が何を競争するのか、歌詞からでは分からない。和尚さんが腹を叩いてみたところで狸Bには勝てそうもない(もっとも若い友人のご教示によれば、「アニメの日本昔話では、豪快な和尚さんが自分のむきだしの腹を叩いて狸と競っている」という。和尚さんも「人間B」か?)。和尚さんに踊りで負けるなという解釈もあって、大正13年これが発表された時、和尚ともあろうものが狸と一緒に踊るとは品位を汚すとかいう批判もあったとか。
今日(Nov.5, 2008)たまたまお会いした元裁判官の弁護士さんにご相談してみたところ、もちろん「こんなことは考えたこともなかった」と仰ったが(司法試験には出ないからだろう)、和尚さんは木魚を叩くのではないか、と推測された。
まさしくそれ以外ではあり得ない!さすがは事実認定で研ぎ澄まされた勘である。狸たちは、和尚さんの木魚の音より大きくいい音で腹を叩こうと互いに励まし合っているのである。(と思ったが、平川洌『カムカムエヴリバディ:平川唯一と「カムカム英語」の時代』(1995)p.16に「秋の夜、にぎやかな外の気配に目を覚ました和尚さんが、雨戸の節穴からそっとのぞくと、何と、たくさんの大ダヌキ・小ダヌキが月明かりの下で腹づつみママを打って踊っている。しばらく楽しげな様子を盗み見していた和尚さんだが、とうとう我慢できなくなり、踊りの輪に入っていった。そうして明け方近くまで楽しく踊っていると、タヌキたちはいつの間にか消えていった。こんなことが三晩続き、四日目の夜も楽しみに待っていたが、タヌキたちは一向に姿を現す気配がない。心配になった和尚さんが寺を見回ってみると、一匹の大ダヌキが太鼓腹を破って息絶えていた」とある。根本史料に当たってみる必要がある)
2.カムカム英語
「証城寺の狸囃し」のメロディーは、私たちの世代には、最も親しみのあるものである。毎晩6時のNHK第一放送で、平川唯一先生の英会話の時間に、このメロディーにのせた替え歌が流れた。
Come, come, everybody,
How do you do and how are you?
Won’t you have some candy,
One and two and three, four, five?
Let’s all sing a happy song,
Singing tra la
la…
当時はテレビもラジオの民間放送もなく、ラジオといえばNHK第一放送と、庶民には面白くない第二放送、それに進駐軍FEN、あとは夜になると聞こえてくるモスクワ放送などしかなかったから、全国民の殆どが第一放送のかけっぱなしで、英語に興味があろうとなかろうと、毎晩これを聞いた。あとの意味は分からなくても「カムカム」だけは分ったし、少し分かる人はWon’t youを「ワンツー」と聞き違えて、「どうしてすぐまたone and two andと続くのに『ワンツー』というんだろう」などと不思議がった。
随分過ぎてから私もこの英語の歌詞を知って、「日本人の子供で進駐軍関係者の家に招かれてキャンディーを貰う機会のあった者はほんの例外的な少数者だが、アメリカ人の側からいうと、こういうことは日常的体験で、この歌詞は、甘いものに餓え、眼を輝かした日本人の子供たちに、キャンディーに『お頂戴』させることを慈善と感じていた軍属かなんかの作詞だろう」と思っていた。ところがこれは平川唯一氏自身の作詞だそうである。米人と附き合いの多かった彼自身が、英会話学習にやってくる子供たちにキャンディーをばらまいたりしていたのだろうか?進駐軍と縁があって、色々物が貰えるというようなことは、当時の子供のみならず、おとなたちにも垂涎の的であった。精神病院の誇大妄想者たちの間で、戦争中には「俺は陸軍中将誰それのいとこだ」とか言う者が多かったが、戦後は「進駐軍に特別のコネがあって、俺を通じて放出物資が手に入る」とか言う者が増えたと、大学時代重田定正先生の講義で聞いた。
平川唯一(1902-1993)は、岡山県の農村に生れ、小学校高等科卒業後、家業の農業に従事していた。出稼ぎに渡米した父に「帰ってきて欲しい」と手紙を書いたところ、「旅費を出すから来い」という返事が来て、思い切って出発したのが16歳の1918年。Oregon州Portlandで線路工夫をして後、Seattleで古屋商店に勤めた(古屋政次郎については長尾「植原悦二郎伝点描」『植原悦二郎集』参照)。小学校・高等学校を経て、1926年University
of Washingtonに入学、最初物理学科に入るが、二年目に演劇学科に方向転換する。1929年には一時帰国して坪内逍遥に会ったりした。1931年大学卒、Los
Angelesに移ってLittle Tokyo劇団の専任監督になったりし、他方で(Episcopalian)教会でも活動する。教会を通じて滝田いね(府立女子師範学校[現御茶ノ水女子大]卒、小学校教師を勤めた後、University
of Southern California留学中]と知り合い1935年結婚。1937年帰国、日本放送協会(NHK)国際課の試験を受けて合格。戦争中は海外放送英語課のチーフ・アナウンサーで、終戦詔勅の英文を世界に放送した。米軍との接触の過程でNHK首脳陣の反感を招き辞任、ところが三カ月後そのNHKから英会話放送の申し入れを受け、「カムカム英語」が始まったのである(平川、前掲書)。
当時のラジオ放送は、占領軍の政策もあって、多くのアメリカ紹介的な番組がゴールデン・アワーの中心を占めていた。私の住んでいた九州大分県の集落は、21年7月に満洲から引き揚げてきた時はまだ電気がなくて、ランプやカンテラで明かりをとっており、ラジオも当然なかったから、20-21年冬に放送された「真相はこうだ」などは全然知らなかった。福井大地震は九州でもかなり揺れ、そのとき家に宿泊していた電柱工事の「電工さん」が私をからかって「眠っている間に地震があって、お前は下の道まで転げ落ちたぞ」と騙したのだが、この地震は23年6月28日のことだから、ラジオを聞くようになったのもそれ以後のことである。
記憶しているのは、日曜7時のニュースの後、7時15分から、カーペンター作曲「乳母車の冒険」ののどかなメロディーとともに始まる坂井米夫「アメリカ便り」で、今からみればどうということのない番組であるが、青年たちに米国への憧れを掻き立てたことと思われる。調べてみると坂井米夫(1900-1978)は、佐賀市生れ、関西学院文科・明治学院文科に「暫く学んだ」後1926年渡米、諸都市の邦字新聞で働き、1932-1941年朝日新聞に特派員として記事を送る。1937-8年スペイン内戦を取材。北アフリカ、近東、仏印などを経て帰国、日中戦争中中国各地を旅行、軍の忌諱に触れて従軍許可を取り消され、護送付きで追い返された。以後も「北支、蒙彊、満洲各地をみて廻る」。1938年再渡米、『羅府新報』などに寄稿。日本人迫害に対する抗議文を米国政府に送ったりするが、42年より収容所に抑留され、同年末Colorado海軍日本語学校教師となる。1946年海軍情報学校助教授。1948年NHK特別通信員となり、日本に「アメリカ便り」を送った(坂井『ヴァガボンド襄』(1948年)pp.391-2.『私の遺書』(1967)p.304))。(放送はロマンチックな声で、幼い私が坂井氏の声だと思って聞いていたのはアナウンサーの声だったのである)。
夜の7時半とか8時とかの番組の切れ目に、「アブラハム・リンカーンは言った、『私は奴隷にはなりたくない。奴隷を使う身にもなりたくない』」「福沢諭吉は言った、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』」というアナウンサーの厳粛な声が、代わりばんこに流れた。後者についてずっと後に、慶応大学の先生から、「『学問のすすめ』のあの後には『と云へり』」という言葉がついているのですけどね」というコメントを聞いたが、それでは誰が言ったのか、この言葉は誰からの引用かは、同大学の碩学たちの研究にも拘らず、分らないそうである。1981年私が最初にウィーンに行ったとき、ラジオ番組の合間に「Österreich Eins」という声が流れるので、「多民族国家オーストリアでは繰り返し、『オーストリアは一つ』と国民に団結を呼びかけているのだ」思っていたら、ただ「オーストリア第一放送」というアナウンスで、Österreich Zwei(「オーストリアは二つ」?)もあることが分った。終戦直後のNHK放送と同じような、国民へのお説教と勘違いしたのである。
世界の万象を「動物」「植物」「鉱物」に分類して、質問を通じて当てさせる「二十の扉」という番組も人気があったが、これも世界の三分類を含めて、米国の人気番組Twenty Questionsをそのまま移植したもののようである。柴田早苗さんという若い女性が恐ろしく勘がよく、大変な人気であった。国会議員数人が回答者の時もあり、「動物」の問題で正解は「国民諸君」だったのだが、女性代議士が「私国民諸君なんて言わないわ」と仰った。
灰田勝彦という歌手がヨーデルの声で「れいほー」と叫ぶ歌が大変な人気であったが、彼もハワイからの帰国者であった。
3.替え歌の替え歌
ところで私はこの頃九州の山村の小学生であったが、同級生の中に、大人から教わったらしい次のような替え歌を歌っている者がいた。
噛む、噛む、めしは噛む
お粥ならすする
一杯、二杯喰って
三杯目には叱られる
二合五勺配給飯は
なかなか辛い、スットントン。
調べてみると、米麦の二合五勺配給が実施されたのは昭和21年11月1日から23年10月末までで、私が小学校3年生になって分校から本校に通い始めたのが23年4月のこと、この歌を聞いたのが確かに本校でだから、3年生の頃である。東京で誰に訊いてもこの替え歌は聞いたことがないというから、九州の田舎のローカルな替え歌であろう。「一杯、二杯」というところは、ひょっとしてWon’t youをone, twoと誤解したことと関係があるかもしれない。
[補遺] 『金の星』(1924.12)に掲載された野口雨情の詩は「証城寺の庭は、月夜だ月夜だ、友達こい。己等の友達ァ、どんどこどん」というものであった。中山晋平が旋律に合わせて詩に手を加えたという。「どんどこどん」を「ぽんぽこぽん」にしたのは大改善だと思うが。