私の血となり肉となった三冊(『諸君』2007年10月号)

 

心の底から震撼させられた本というと、何といっても中学二年の時にふと読んだ太宰治『人間失格』である。引揚者でかつ虚弱な弱虫であった私は、終戦直後の山村で叔父たちに育てられる荒々しくとげとげしい人間関係の中で、内面を泥靴で踏みにじられるような思いをした。小学校六年の時東京に移っていたが、心の中には幼時体験の深い傷を抱えていた私は、「ひらめ」や「堀木」に象徴される、弱者の内面に全く無理解な「世間」の中で、それに適合できず自滅する主人公の運命に、自分の可能的未来を重ね合わせて慄然とした。それとともに、「ひらめや堀木」が「人間」で、大庭葉蔵が「失格人間」なのか、本当は後者の方が「真の人間」ではないか、という問題を私の心に植え付け、その後の思想的生涯の一つの主題となった。

 

 両親はある程度真面目な仏教徒であったが、何れにせよキリスト教には無縁の環境で育った私が、いわば「教養」のために福音書を読んだのも同じ頃であった。「柔和なるもの地を嗣がん」の英語The meek-hearted shall inherit the earth.は、「弱虫の天下となるぞ」と訳すべきではないか、などと考え、こんなとんでもない可能性に賭けて自滅したイエスに共感した。法学教師などになって、外見上「ひらめや堀木」と同一次元で生きてきた私は、太宰やイエスのように自滅しなかったことに、今でも罪の意識を感じている。

 

 高校二年の時にデカルト『方法叙説』を読んだ。外界の存在は疑わしく、確実なのは「我」の存在だけだ、というその議論は、私に哲学の根源性を印象づけるとともに、内面の主観のみが真実だという当時の私の心情に訴えるところもあった。しかしデカルトが、「神の善意」なるものを持ち出して外界の実在を再構成したのは非哲学的で、それをもっと哲学的にやってみよう、と考えた。それと並行して、主観から社会的世界を再構成しようとする私の社会哲学の営みも発足し、ホッブズ研究などへと連なっていくことになる。