総理大臣の決闘

 

 

 

   時は1897年9月23日、所はオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンの下院本会議場である。グレゴーリッヒ議員が、「バデーニ首相は秘密警察を手下として使っているのではないか」と質問。ドイツ国民党(Deutsch-Nationale Partei)のヴォルフ議員が「答えろ。もしこれが本当だとしたら、見下げ果てた破廉恥行為(erbaermliche Schufterei)だぞ」と発言した。それに対しポーランド・クラブに属する議員が、「罵言(Schimpferei)を吐くのはやめたまえ。規律違反だぞ」と叫んだが、ヴォルフは「何が罵言だ。俺は取り消さないぞ」と居直った。

 

 会議終了後、首相は直ちに大学通り(Universitaetstrasse)に赴き、参謀本部でユクスキュル司令官(伯爵)に面会、ユクスキルとレッシュ大佐(参謀本部勤務)に、ヴォルフへの決闘申し入れの使者となることを依頼した。翌24日朝、二人はヴォルフ議員宅を訪問、「昨日の貴殿の発言は重大な人格的誹謗であり、武器によって決着をつけたい」という首相の意志を伝える。 

 

 ヴォルフは直ちにその挑戦に応じた。双方は「翌25日朝9時、ハンガリー街(Ungarngasse)にある軍馬学校(まだ夏休み)で、ピストルによって行なう」ことで合意し、ヴォルフは二人の立会人(シルヴェスター博士(ザルツブルク選出議員)とレミッシュ博士(ケルントナー選出議員))を指名した。また「射撃は三度行ない、三度何れも命中しないか、何れかが負傷した時決闘を中止する」、「両者は25歩離れて対面する」、「狙いは3秒間とする」ことが協定された。

 

 24日午後、バデーニはブダペスト滞在中のフランツ=ヨゼフ皇帝に電報を送り、明日の決闘について報告するとともに、辞表を申し出た。後で判明したことだが、皇帝は決闘の結果が判明するまで判断を留保し、結果を知ると直ちに長老閣僚ヴェルザースハイムをブダペストに呼んで、「辞表は無かったことにせよ」と伝えさせた。ヴェルザースハイムは26日ヴィーンに帰京して、その旨をバデーニに伝えた。

 

 当日の朝、バデーニは立会人ユクスキュルとレッシュを伴って、馬車で9時前に決闘場に到着した。バデーニは黒ジャケツに黒ズボン、黒いフェルト帽という出で立ちで、ユクスキュルとレッシュは軍服である。バデーニの態度は堂々としていて、大事を前にした緊張という様子は表わさなかった。彼は立会人と二言三言言葉を交わし、準備を終った医師に謝意を述べた。

 

 そこで再び門が開き、徒歩でやって来たヴォルフと二人の立会人が姿を現わした。ヴォルフは黒い上着に黒ズボン、山高帽という出で立ちであった。ヴォルフ側の両立会人は脱帽し、バデーニ側の立会人は軍人風の敬礼をした。「冷たく鄭重な挨拶」であった。

 

   ユクスキュルは中央に進み出て、「ここでピストル装填を確認して下さい」と述べた。レッシュ大佐が、特別な細工を施していない一対のピストルを持参しており、ヴォルフ側の両立会人は装填を確認した。装填が終ると、ハンカチを取り出して結び目を作り、両決闘者に籤を引かせた。ヴォルフに籤が当って先に武器を選び、もう一つをバデーニが受け取った。続いてシルヴェスター議員に「距離を測って下さい」と頼み、議員は25歩歩いて止まった。レッシュが場所を確定し、ユクスキュルがそこに印をつけて、両決闘者に「定位置におつき下さい」と求める。その間、軍馬学校に出入りする人影はあったが、誰も決闘に気づかなかった。

 

   両決闘者は向い合って立ち、会釈もしなかった。ユクスキルは「私の号令に従って下さい。三を数え終わったところで発砲です。先撃ちはしないように」と注意し、クロノメーター(測時器)を見ながら「アインス」と叫ぶと、両者は狙いをつけた。

 

   「ツヴァイ、ドライ」。

 

   殆ど同時に二つの銃声が聞こえた。実はヴォルフの方が一瞬早かったが、規則違反の早撃ちではない。ヴォルフは平然としていたが、バデーニの顔に苦痛の表情が走った。「撃たれた後も、バデーニは銃を手放さなかったが、立会人が駆けつけてそれを取り上げた」という説と、「銃を落とし、左手で右腕を押えた」という説がある。苦痛の声は発しなかったが、「負傷した」(ich bin verwundet.)という声が聞こえた。ツィンマーマン軍医は直ちに駆けつけて服を切り裂き、血止めの応急手当を施すとともに、「もう決闘のできる状態ではない」と鑑定した。ユクスキュル伯爵はそこで、「名誉の闘いは完遂されました」と宣言した。

 

   「ヴォルフは立会人とちょっと言葉を交わした後、バデーニに歩み寄り、手を差し伸べた。バデーニはその手を取り、左手でそれを押さえた」ともいうが、何れが先に手を差し出したかについて説が分かれている。その時ヴォルフが何と言ったかについても諸説あるが、「和解」(Aussoehnung)という言葉が聞こえたのは確からしい。後の医師の診断では、銃弾は下搏部(肘から2センチほど下)から上搏部へと貫通して肩下で留まっており、骨に異常はない。バデーニ側の人々は馬車で去り、ヴォルフ等は、関係者に鄭重な挨拶をした後、徒歩で立ち去った。

 

   バデーニは応急手当を受け、コートを肩からぶら下げて、待たせてあった馬車に乗った。車中でも苦痛を示さず、立会人たちに礼を述べたという。この馬車で「ユダヤ広場(Judenplatz)にある内務省宮殿[現在の最高裁判所]に戻った」という記事と、「自宅に戻った」という記事とがあるが、両者が矛盾する訳ではなく、どうも内務省の中に閣僚アパート(Minisiterhotel)があったようである。家族は何も知らされていず、この段階で驚いた。

 

   医師はそこで弾丸を摘出した。手術は苦痛を伴うものであったが、バデーニは平然と堪えた。発熱も見られなかった。彼はベッドに就かず、腕を三角巾で吊って室内を歩き回り、煙草を吸いながら周りの人々と雑談した。夫人の強い希望で見舞いは全部断った。「宮殿にはゴルホフスキー外相(伯爵)など、要人たちがつめかけた」という記事もあるが、夫人が頑張り通せたのかどうか分からない。午後には新聞を取り寄せて、自分の記事を熱心に読んだ。経過は順調だが、夕方少し苦痛があった。26日には夫人の禁令も解除されたらしく、「客に会い過ぎて微熱が出た」という記事がある。

 

   双方の立会人が協力して「正式記録」(Protokoll)を作成し、署名した。バデーニ側も「ヴォルフは騎士道に則って決闘を行なった」ことを認めたという。

 

   25日午前、議会の議事は予定されていなかったが、議員たちが集まり、あれこれ論じ合った。一つの論点は、皇帝がこの決闘を事前に知って容認したのかどうかで、有力意見によれば、参謀本部高官で現役の将軍であるユクスキュル伯爵が立会人となったのは、皇帝の諒解なしにはあり得ないという。「バデーニは辞表を提出したが、皇帝はそれを受理しなかった」という推測もある。回復にどの位時間がかかるか、その間の代理をどうするかも話題となった。

 

   バデーニが皇帝に遺言を送ったとか、いや前に書いた遺言があるとかいう取沙汰もあった。民衆の間では、「首相が暗殺された」「首相の息子が決闘した」「ヴォルフはポーランド人議員と二度目の決闘をした」「ヴォルフが午後5時頃ヴェーリング街で暴徒に襲撃された」などの噂も流れたというが、全部根も葉もないことである。

 

   バデーニの知人の間では、最近彼が相当いらいらしていたと囁かれている。「問題の23日、議会に現われた時、外見上は颯爽としていたが、紙切れを引き裂いて捨てる様子は少し変だった」とか、「発言を終ってドサッと椅子に坐った様子は憔悴しきっていた」とかという者もある。

 

   皇帝は心配し、バデーニに繰り返し見舞いの電報を送り、また周囲の者に情報収集や指示の電報を送った。ポーランド人クラブ、カトリック国民党、イタリア人クラブ、青年チェコ党などの諸政党や、有力政治家たち、イタリア大使、ドイツ大使等々からも見舞いの手紙や電報が来た。決闘の相手方ヴォルフ、レミッシュ、シルヴェスターの三議員も25日午前に見舞いに行ったというが、会えたかどうか分からない。ガリチアのレンベルク[現ウクライナ領リヴォフ市]から兄弟のスタニスラウス・バデーニ将軍(伯爵)も26日に見舞いに来た。

 

   25日午後には閣僚中の最長老ガウチュ文相の司会で臨時閣議が開かれ、回復までこの体制で政局を運営したが、何しろ自宅が内務省内の一室だから、閣僚たちは事あるごとに意見を訊きに訪れた。

 

   立法の任に当る議員、まして法執行機関の頂点にある内閣総理大臣には、率先して遵法の実を示す義務がある。その総理大臣が、こともあろうに決闘という犯罪行為を行うことに自分から乗り出したのだから、輿論の批判を受けたのも当然である。

 

 実際当時のオーストリア刑法には決闘罪の規定がある。

 

 158条「いかなる理由であれ、可死的武器をもって人に闘争を挑んだ者、そのような挑戦を受けて闘争した者は、決闘罪を犯した者である」

 

 159条「決闘したが何の負傷も負わせなかった者は、6ヶ月以上1年以下の禁錮に処する」

 

 160条「決闘において人を負傷させた者は1年以上5年以下の禁錮に処する」

 

それが視力・聴力・肢体の喪失、長期の疾病、長期の労働不可能をもたらした場合は、5年以上10年以下の懲役に処する」

 

 162条「いかなる場合にも、決闘の挑発は被挑発より重い刑を科するものとする」

 

 

 164条「決闘において立会人を務めた者は、6ヶ月以上1年以下の禁錮に処する」

 

 

但し立会人が決闘において特に重大な役割を果たした場合には、5年以下の禁錮を科することができる」

 

 司法当局も放置できない。ヴォルフは国会議員で、不逮捕特権があるが、バデーニの方は刑法違反となれば、捜査対象とならざるを得ない。グライスパッハ司法相は、検察当局に対し捜査の指示を発したという。もっともバデーニに対して皇帝の特赦が発せられることは目に見えているというのが一般の観測である。またカトリック教会の中でも、バデーニの行為を罪として糾弾するか否かをめぐって、対立がある、と26日の新聞は伝えている。

 

 ところが実は、先に触れた皇帝のヴェルザースハイムへの指令の中で、決闘罪の件は恩赦にする旨が伝えられていた。また恐らく皇帝の希望によるものではないかと思われるが、ウィーン司教も赦免を教皇庁に申請することを決定していたらしい。

 

 グスタフ・ヘルクセル著『決闘事典』(1891年)という本によると、決闘の動機となる侮辱には、「単純侮辱」「誹謗による侮辱」「暴力による侮辱」の三段階があり、この事件は第二段階に相当する。この場合被誹謗者側に武器と射撃回数の選択権がある。四度以上繰り返すという先例はない。

 

「一、二、三」の合図による決闘(かけ声プラス拍手の例が多いが)は最も危険なもので、早撃ちの危険が極めて大きい。早撃ちの射撃者は不名誉の烙印を捺され、相手は(もちろん生存した場合であるが)何時でも何処でも彼を射撃することができる、という。

 

 政治家の決闘の例としては、ドイツのロホフ対ヒンケルダイ事件(ベルリン警視総監ヒンケルダイ(Carl Ludwig Friedrich von Hinckeldey, 1805-1856)死亡[1856年3月10日])、マントイフェル対トゥヴェステン事件(マントイフェル参謀総長((Edwin Manteuffel, 1809-1885[1861年5月27日])、後の元帥・アルザス=ロレーヌ総督)がトゥヴェステン下院議員(自由精神党)(Karl Twesten, 1820-1870)に重傷を負わせる)などがある。ビスマルクがフィルヒョウ(Rudolf Virchow, 1821-1902)に決闘を挑み、後者が拒否したこともある[1865年6月8日]。フランスでは現職の総理大臣フロケ(Charles Thomas Floquet, 1828-1896)がブーランジェ将軍(Georges Boulanger, 1837-1891)と決闘し[1888年7月13日]、ハンガリーではフェイエールヴァリ陸軍大臣(Geza Fejervary, 1833-1914)が議場で決闘を演じたことがある。

 

  ヴォルフは以前にも決闘罪を犯したことがある。7年前、ジャック・フィッシャー博士とハンガリーで決闘し、ともに一ヶ月の禁錮刑を宣告されて服役した。もっとも皇帝の恩赦によって、前科は抹消されたが。

 

 ともあれ、バデーニは順調に回復し、決闘から10日経った10月5日に議会に再登場した。その後に何が待っていたかは、トウェインのエッセイ[長尾『ケルゼン研究II』に翻訳掲載]に示されている。