[研究ノート]
ケルゼンにおける法と道徳
――批判的考察――
長尾龍一
[ケルゼンにおける法と道徳の分離] ハンス・ケルゼン(Hans Kelsen, 1881-1973)は、法と道徳は全く異なった規範体系に属し、一方を前提とすれば、他方は規範的な無であると主張している。例えば『法と国家の一般理論』(一九四五年)において、彼は言う。
実定法は兵役義務、即ち戦場での殺人の可能性を定めるが、ある道徳は殺人を無条件に禁止している。この場合法律家は「道徳上は殺人が禁止されているかも知れないが、法的にはそれは無関係(irrelevant)なことである」と言うであろう。有効な規範としての実定法の見地からすれば、道徳なるものは存在しないのである。・・・他方道徳家は「法的には兵役に服して戦場で人を殺すことが許されるかも知れないが、道徳上はそれは無関係だ」と言うであろう。即ち我々が道徳を規範的考察の基礎に置くならば、有効な規範体系としての実定法など出る幕はないのである。・・・法律家も道徳家も、両規範体系がともに有効だとは主張しない。・・・そして第三の立場は存在しない。(1)。
本稿は、この主張に疑問を提出し、ケルゼン自身の規範の一般理論から見ても、それが必然的結論でないことを示そうとするものである。
法と道徳に関するケルゼンのまとまった論述は、『純粋法学(第二版)』第二章(2)、及びレガス・イ・ラカムブラ(Luis Legaz y Lacambra, 1906-1980)の祝賀論集に寄稿した論文「法と道徳」(3)に見られる。それによれば、法規範も道徳規範も「社会規範」(soziale Normen)の一種であり、両者を、社会的・個人的、外面・内面等々の基準で区別することは不可能で、結局前者が強制規範、後者が非強制規範という点にその相違を求めるべきである、として大略次のように言う、
法と道徳という二つの社会秩序(soziale
Ordnungen)の相違は、両者が何(was)を命令し、禁止するかではなく、いかに(wie)特定の行為を命令し禁止するかにある。法は、社会の成員に一定の行為をとらせるために、それに反する行為に組織的強制行為(organisierte Zwangsakt)・物理力(physische Gewalt)を結びつける(knüpfen)規範的秩序(normative Ordnung)であるのに対して、道徳は行為に対する成員の是認(Billigung)・否認(Mißbilligung)のみを制裁(Sanktion)とする秩序である。
そこで両者の関係が問題となる。これについては、両者の関係はいかにあるか(sein)という問題と、いかにあるべきか(sollen)という問題が区別さるべきである。・・・そして結論としては、当為の問題としては、法は道徳的であるべきだといえるかも知れないが、事実としては、法は道徳的でもあり得るが、そうでないこともあり、道徳的でなくとも法であり得る、ということになる。・・・
絶対的な一つの道徳価値(ein
absoluter Moral-Wert)が存在し、法はその一部であるとして、法と正義を同一視しようとする立場もあるが、こういう思想は、宗教的信仰の上にしか成立し得ない。科学的認識の立場からすれば、時代により、民族により道徳は異なり、一時代の一国民の中でも階級や職業によって道徳は異なる。こういう事態の中で、「法は道徳的であるべきだ」と唱えることは、ある相対的な道徳(relative Moral)の一つとその内容が適合すべきだと唱えることである。
実証主義的法理論は、法の効力をこのような諸道徳への適合性から独立させる。科学的な実定法認識は、その対象を、絶対的道徳によっても、また何らかの相対的道徳によっても、是認(billigen)も否認(mißbilligen)もせず、ただ認識(erkennen)し記述(beschreiben)する。法学の任務は対象の没価値的記述(wertfreie Beschreibung)である。
「法は本質上道徳的である」というテーゼを純粋法学が拒否するのは、その背後に絶対的道徳の存在が前提されているからというだけでなく、そういう前提で実定法を解釈することは、その唯一とされる道徳による無批判的(unkritisch)な実定法の正当化に連なるからである。
[社会規範の統一性、非強制規範の非完結性] しかし、法的判断が道徳的判断から独立している、不道徳な法も有効である、という主張から、直ちに両者が共に有効ではあり得ない不倶戴天の規範体系であると断定するのは、論理の飛躍であるように思われる。
ケルゼンも、社会は有益な行為を賞し、有害な行為を罰する規範によって、秩序を形成するが、有害な行為に対する制裁には「単に心理的な制裁」と物理的な制裁がある、と言っている(4) 。そうであるとすれば、一つの社会は、心理的強制規範と物理的強制規範があいまって成立する、即ち有害な行為を抑制し得るのではあるまいか。道徳が、要件としての人間行動(例えば虚言)と世人の是認(Billigung)・否認(Mißbilligung)という社会心理的強制を結合する規範で、法が要件としての犯罪(例えば殺人)と物理的強制を結合する規範であるならば(5) 、両者は切断し難い連続関係にあるのではないか。そうであるとすれば、両者は一規範体系の両分肢と解する方が自然であろう。
ケルゼンは、法は社会規範(soziale Normen)の一種で、法以外にも社会規範は存在する。この、法以外の社会規範を「道徳」(Moral)と総称することにするとして(6)、「社会規範」の全体から、強制規範体系としての法を除いた残りが道徳であると言う。このような消去法的・消極的な道徳定義は可能であろうか。道徳は、人間行動を評価する規範の体系であって、法が規定する犯罪や不法行為はもとより、立法・行政・裁判やその執行をはじめ、契約や不法行為などすべてを対象とするのではないか。その中から、法に関わる部分のみを排除するのは不自然ではあるまいか。実際古来道徳家とよばれる人々、例えば東洋の儒者たちは、立法も行政も司法も、権力者のあらゆる行為を道徳的評価の対象としてきたではないか。
法学者であるケルゼンは法の側からしか論議しないが、道徳の側から見るならば、「恥」などの心理的強制によって規範を遵守する者は統制できるが、恥も外聞もなく規範を破る者は強制規範の補完がなければ「やり得」ということになる。これは規範体系として完結性を欠くものではないか。即ち非強制規範としての道徳規範の体系は未完結の体系で、強制規範との結合を要求するのではないか。道徳規範体系は、法規範体系の存在を前提として、初めて完結するのではないか。
道徳の非完結性を理論的に示したのは、社会契約説である。ホッブズ的自然状態は道徳のみあって法のない状態であり、そこでは双務契約を先に履行する者は、裏切られて馬鹿を見る危険を冒すことになる。従って、Pacta sunt servanda.という道徳上の一規範を根拠として、彼のいう自然法の体系(それは違反に対する強制のない体系であるから、ケルゼンのいう道徳体系に相当する)の中に、国家法という相対的に独立した強制規範の体系を成立させる。しかし国家法は自然法(=道徳)に完全に代置するものではなく、相対的には独立しつつも、自然法の体系に属する。
ということは、ケルゼンが法を道徳から独立させようとしても、道徳の方が法から独立できないことを意味する。即ち道徳は、何らかの仕方で、法をその体系の一部に取り込まなければならないのである。
[実定法と実定道徳] ケルゼンも、昔々は法と道徳は一致していたと認識している。『国法学の主要問題』(一九一一年)において彼は、前近代社会においては、法も道徳も慣習から生じたから、両者の内容が共通で、裁判官は慣習に従って裁判した。法の内容と道徳の内容が乖離したのは、立法というものが法の原則的形態となってからであると言っている(7) 。後の著書『応報律と因果律』(一九四一年)においても、「相対的に同質的な未開社会においては、法と道徳は一致(zusammenfallen)している」と言っている(8)。ここでの道徳は、ある社会において行なわれている実定道徳(positive morality)を意味するであろう。
そこで伝統的社会における実定法と実定道徳の関係について見ると、そこでは両者はあいまって一つの社会秩序を形成していた。(「伝統的社会」とはいえ、随分複雑化した社会であるが)例えば王朝時代の中国においては、「礼」と「法」は補完関係に立つ秩序原理と考えられていた。「礼不下庶人、法不上大夫」(『礼記』)とは、「礼」と「刑」が一つの規範体系に属し、適用対象を分かって分業関係に立つという原則を定式化したものである。「礼」が道徳か否かは一つの問題であるが、「君子」の「恥」によってその遵守が担保されているという点で、ケルゼンの道徳定義に該当する。例えば「不孝」の程度が軽ければ「礼」の領域、重ければ「法」の領域の制裁を受ける。更に「仁」や「孝」などの規範も、「法」や「礼」とともに、一つの社会規範体系の分肢をなすものであった。
確かにケルゼンの言うように、慣習法時代から成文法時代に移ると、実定法と実定道徳は内容的に分離し、成文法体系は実定道徳を無視して一人歩きを始めるように見える。しかし、このようにして二つの規範体系の内容が対立的になったということが、直ちに両者が別々の規範体系になったということを意味するとはいえない。例えば国際法と国内法のように、内容的に矛盾する規範を含みながら、複数の規範体系が一つの法体系を形成している場合もある。これは一規範体系内における「規範衝突」(Normenkonflikt)としてケルゼンが論じている問題である。
ケルゼンは、実定法上の規範衝突の場合、同等の規範相互の衝突は、「後法優位の原則」(Lex posterior derogat legi
priori.)が妥当し、上位規範と下位規範が衝突した場合には、上位規範違反の下位規範を失効せしめる手続が定められている場合には、その手続が実際に発動され得る限りでは上位規範が優越するが、そうでない場合には、上位規範違反の法律の効力が容認されているという(9)。これはゲオルク・イエリネック(Georg
Jellinek, 1851-1911)が「憲法変遷」(Verfassungswandlung)などとして論じた問題の、ケルゼン的論述である。実定法と道徳の関係についても、道徳違反の実定法がなお効力を有するという現象は、規範衝突の事例とも解し得るのではないか。
更に考えると、実定法違反に対する制裁が物理的強制で、実定道徳違反に対する制裁が世間の非難であるとすると、その間に「矛盾」が存在し得るかという問題もある。例えばある行為が民法上不法行為にはなるが、刑法上の犯罪にならない場合、あるいはその逆に民法上不法行為にならないが、刑法上犯罪になる場合に、民法と刑法は「矛盾」しているのであろうか。これへの答えが「否」であり得るとすれば、実定法上の犯罪が世論の喝采を浴びたり、合法行為が世の非難を浴びたりしても、法規範と道徳規範が各々実現しているだけで、別に「矛盾」している訳ではない。
実定法と実定道徳が一つの規範体系に属するとした場合、それはどのような規範体系であろうか。これについては、ケルゼンの国際法の理論が参考になる。彼は、国際法と国内法の関係について、何れを上位とする構成も可能であると説いた(10)。それに類比して考えれば、(例えば民法九十二条が法の実定道徳への授権であるとする)「実定法上位」の構成と、(例えば「権力に従うべし」という道徳規範は実定法への授権であるという)「実定道徳上位」の構成が考えられる。
後者に関しては、国際慣習法上の規範Pacta sunt servanda.が成文国際法に授権する上位規範であるが、しかし慣習国際法と成文国際法とが矛盾すれば後者が優越するという国際法の原則に準じて、実定道徳が実定法に授権しているが、両者が矛盾すれば、実定法が優先するという構成も考えられる。これは授権規範という上位規範が必ずしも優位規範ではないことの一例である。
「ケルゼンの『国際法優位説』は、条約違反の国内法の無効を主張する説で、日本国憲法九十八条に関する『条約優位説』のような主張を、あらゆる国内法に妥当するものとして唱えるものだ。『純粋』だが全然現実に適合しない」というケルゼン批判は、多くの国際法専門家が信じているものである。ケルゼン自身は、「国際法に『違反』して制定された国内法規範は有効である。しかも国際法の観点から見て有効である。なぜなら、『国際法違反』の国内法を無効にする手続きを国際法は定めていないからである」と言っている(11)。
[絶対的道徳と相対的道徳] 『純粋法学』第一版(一九三四年)においては、実定道徳とは異なった道徳規範が議論される。それは「嘘をつくな」「約束を守れ」などの規範で( 12)、絶対的価値をもち(13)、その内容は「直接的に明証的」である(14)。これは「絶対的道徳」(absolute
morality)とよぶことができよう。宗教が自己絶対化を本質とするならば、宗教的道徳は絶対的道徳の典型である。
各宗教は、法と道徳の双方に体系内の位置づけを与えている。ユダヤ教の規範体系の下で、道徳的戒律と並んで、一方で「ユダヤ法」(halacha)、他方で異教徒の法の位置づけが与えられており、イスラム教の規範体系の下に、道徳的戒律と並んでイスラム法(sharia)の体系が属している(もとより、これらの「法」の定義はケルゼンの定義と同一ではない)。恐らくはキリスト教諸派においても、倫理体系と実定法体系に位置づけを与える授権規範が想定されていうるのであろう(「上なる権威」に従えというロマ書十三章の言葉は、実定法への授権規範と解されることがある(15) )。
相対主義者のケルゼンから見れば、「絶対的道徳」の絶対性は信奉者の主観の中にしか存在せず、外から見れば「相対的道徳」(relative morality)の一つということになる。道徳的価値は相対的で、一社会内に複数の道徳があり、一つの行動についても異なった道徳が異なった判断をすると彼は言う(16)。多元的な現代社会においては、数多くの「相対的道徳」が、平和的ないし非平和的に共存ないし角逐しており、そのあるものは絶対性を標榜し、他のものは相対性を自認している。それらが各々倫理的世界観を標榜するものであるならば、原理的には、戦争や犯罪や財産や取引など、社会のあらゆる事象についての評価基準を示すはずである。
その規範体系は、下位規範として実定法体系を取り込む場合と、実定法の規範性を全面的に否定する場合とがあり得る。後者についてケルゼンは、「法律家たちが法とよんでいるものを、裸の暴力(nackte Gewalt)に過ぎないとする理論的アナキストのような立場を、決定的議論によって反論することはできない」と言っている(17)。すべての強制秩序の規範性を否定する「理論的アナキスト」でなくても、特定の強制秩序の規範性を否定する立場も存在する。亡命政権は、実効的支配回復の努力をしている限り国際法上の存在である(18)。この政権の側から見ると、現在国土を実効的に支配している政権の「法」は規範性をもたず、そこでの権力者たちは犯罪者集団である。更に、もはや実効的支配回復の見込みがなくなった亡命者が、なお母国の状態を「裸の暴力」の支配と看做し続けていることがある。実証主義者ケルゼンは、そのような態度は「法的に無意味だ」(juristisch sinnlos)だという(19) 。しかし道徳的には無意味ではないであろう。周の粟を食わなかった伯夷叔斉は道徳家孔子に讃美された。
[集団道徳と実効性] ここに道徳規範の実効性=実定性の問題が生ずる。ケルゼンは実定法を「大体において(im Großen und Ganzen)」実効的な秩序と定義しているが(20)、道徳規範についてはいかに考えるべきか。
ケルゼンが「身分、階級、職業」によって道徳体系(Moralsysteme)が異なると言っているように(21)、多元的社会における実定道徳は部分集団ごとに異なり、その実定性の基礎をなす実効性も分裂している。このような部分集団において一定の実効性を有する道徳を「集団道徳」(group morality)とよぶことにする。
一つの実定法と複数の集団道徳が存在するこの状況は、先に触れたような、国際法と国内法の関係についてケルゼンが描き出した状況に似ている。先には、ある社会に一つの実定法と一つの実定道徳が支配している伝統的共同体をモデルとしたから、考慮すべき規範体系としては、実定法と実定道徳しか存在しなかったが、ここでは実定法の他に数多くの道徳体系が並存しており、一つの国際法と数多くの国内法が並存している国際社会と一層似ている。
この「実定法プラス多数の道徳秩序」という状態については、「実定法上位」の構成と「一道徳上位」の構成とが考えられる。前者からすると、前述したところと同様に、規範体系の頂点に実定法があり、憲法の「良心の自由」等による授権の下で、諸道徳体系がその下位規範体系となる。他方、特定の道徳体系を頂点として、実定法や他の規範体系を下位規範の体系とする構成も考えられる。戦前の日本における「國體論」のような天動説的世界像である。更には、諸道徳体系を並存せしめる上位のメタ道徳体系の下に、実定法の位置づけをも与える「メタ道徳上位」の構成も考えられるかも知れない。
[個人道徳と根本規範] 近代的な自律の倫理の理念においては、各人が道徳的立法者であり、個人の数だけ道徳体系がある。この道徳体系も、原理的には、彼ないし彼女を取り巻く社会的世界の評価基準であるから、実定法との積極的ないし消極的な関わりをもたざるを得ない。この世界における規範体系の構成は、構造において部分集団モデルと同様であろう。即ち、部分集団ごとの道徳体系が原子論的に分解して、個人ごとの道徳体系となるのであるが、「実定法上位」の構成、特定の個人道徳上位の構成(シュティルナー(Max Stirner,
1806-1856)流の唯我論?)、そして諸個人道徳を並存せしめ、実定法にも位置づけを与える「メタ道徳体系の優位」という構成という類型が考えられる。
「各人が道徳的立法者となる」という場合の「立法」にも、広義と狭義とが区別される。狭義の立法は、制定法の制定に類比されるもので、(「禁酒禁煙」とか「無遅刻無欠席」という決意を壁に貼る場合のように)命題の形で定立される規範である。それに対し広義の立法は、それに加えて慣習法的・判例法的規範定立に相当するものを含む概念である。前者においては、立法者は「自分は○○主義者である」というような自己規定を伴うが、後者においては、個々の決断・実践を通じて自らの倫理体系を築いていくもので、「棺を蓋うて」初めてその人物の倫理的生涯の性格づけが可能となる。
この「個人道徳」の体系の実効性は、その立法者であり同時に遵法者であるその人物のみの遵守の確率ということになる。「三日坊主」は実効性が低いが、厳しい自律の生活をしても、実効性はその個人限りである。即ち社会的実効性は考えられず、個人的実効性のみがありうるのである。
更に進んで、紙に書かれてはあるが、誰も信奉もせず、遵守もしないような規範命題があったとして、これは実効性が皆無であるから、規範とは呼び得ないであろう。その意味では、規範概念は最低限の実効性を願意するもので、その最低限の実効性が即ち個人道徳の実効性である。
ケルゼンの根本規範論は、国内法秩序の規範的前提の選択の問題として出発し(22)、国際法と国内法を統合した全法秩序の前提問題へと進み(23)、更には(例えばキリスト教倫理における「キリストの命令に従うべし」のような)非法的規範体系の規範的前提へと到達した(24)。様々な倫理的世界の構成の頂点にたつものが根本規範であり、個人道徳の体系においては、各人が各々の根本規範を選択する権利と責任がある。その選択を支配する上位の権威(「本質」)は存在せず、各人の「実存」のみが存在する。根本規範は「受け容れることも受け容れないこともできる」(may or may not be accepted)(25)のである。
これ即ちケルゼンの根本規範論の倫理的帰結ということになる(26)。
(1)
Hans Kelsen, General Theory of Law and State, 1945, p.374.
(2)
Kelsen, Reine Rechtslehre II, 1960, pp.60-71.
(3)
Kelsen, “Recht und Moral,” Estudios Juridico-sociales, 1960 (英訳“Law and Morality,“ Essays in
Legal and Moral Philosophy (ed. by Ota Weinberger), 1973).
(4)
“Law
as a Specific Social Technique,” (1941), What
Is Justice? 1960, p.231-235.
(5)
Reine
Rechtslehre II, p.65.
(6)
Ibid., p.60.
(7)
Hauptprobleme der Staatsrechtslehre, 1911, pp.33ff.
(8)
Vergeltung und Kausalität, 1941, p.57; Society and Nature, 1943, p.54.
(9)
Reine Rechtslehre, pp.84-89.
(10)
Das Problem der Souveränität und die Theorie
des Völkerrechts, 1920, pp.151ff.
(11)
Reine Rechtslehre II, p.331.
(12)
Reine Rechtslehre, 1934, p.63.
(13)
Ibid., p.13.
(14)
Ibid., pp.62.
(15)
“Why Should the Law Be Obeyed?”
What Is Justice? p.260; Reine
Rechtslehre II, pp.69-70.
(16)
Ibid., p.66.
(17)
Reine
Rechtslehre, p.36.
(18)
Principles of
International Law, 1952, pp.288-291.
(19)
Das Problem der
Souveränität. p.96.
(20)
Reine
Rechtslehre II, p.219.
(21)
Ibid., p.66.
(22)
“Reichsgesetz
und Landesgesetz nach der österreichischen Verfassung, ” Archiv des öffentlichen Rechts, 32.Bd., 1914, p.413.(長尾「ケルゼンの『実定法学』」『日本法学』七一巻三号、二〇〇六年、二五四頁参照)
(23)
Das Problem der
Souveränität. pp.94-101.
(24)
Allgemeine Theorie der Normen, 1979, p.205.
(25)
“Why Should the Law Be Obeyed?”
What Is Justice? p.263.
(26)
Cf. Nagao, “Kelsen on Law and
Morals,”