法の解釈(Hans Kelsen,
Reine Rechtslehre, 2.Aufl.)
I 解釈の性質:公権的解釈と非公権的解釈
ある法的機関が法を適用するに当っては、適用さるべき規範の意味を確定する、即ち解釈する必要がある。それ故、解釈とは、上位段階から下位段階へと進行する法の適用過程に随伴する精神活動である。法の解釈が論じられるとき、普通念頭に上ってくるのは、法律(Gesetz)の解釈であるが、その場合には、「法律の一般的規範から、判決や行政決定という個別規範を導き出すに当って、その個別規範にいかなる内容を与えるべきか」という問題への解答が要求される。しかし法律ばかりでなく、憲法や国際法の解釈も問題となる。憲法解釈は、立法や緊急命令の制定、その他憲法規範を直接適用する行為に際して、即ち憲法をそれ以下の段階に具体化する場合に問題となるし、国際法解釈は、政府や国際裁判所・国内裁判所・行政機関などが、条約や国際慣習法規範を適用すべき場合に問題となる。そればかりではなく、判決・行政命令・法律行為などの個別規範も、即ちあらゆる法規範は適用に当って解釈を必要とするのである。
そればかりではない。法を適用する権限はないが、法を遵守する義務をもつ個人も、法の制裁を避けるためには、当該法規範の内容を理解し、その意味を認識になければならない。そして法学もまた、実定法を記述するに当って、その意味を解釈する必要がある。
法の解釈には、明確に区別さるべき二種類のものがある。その一つは法適用機関による解釈、もう一つはそうでない私人による解釈、法学の解釈である。以下まず法適用機関による解釈から検討しよう。
(a)
規範の不明確性
憲法と法律、あるいは法律と判決のような、法秩序の上位段階と下位段階の関係は、規定(Bestimmung)ないし拘束(Bindung)の関係である。上位規範は下位規範の制定行為を規定し、また純然たる執行行為に関わる場合はその執行行為を規定する。その規定とは、下位規範制定や執行行為を行なう手続、及び場合によってはその内容を定めることである。
この規定は決して完璧なものではありえず、上位規範はそれを適用する行為をあらゆる点で拘束し尽すことはできない。そこには常に、時には大きな、時には小さな自由裁量の範囲が存在し、上位規範は下位規範制定行為や執行行為に対し、その行為によって内容を与えらるべき「枠(Rahmen)」の性質をもつ。随分細部に亘って細かく規定したように見える命令でも、その執行者に様々な具体的決定を委ねているものである。機関Aが「機関Bは国民Cを逮捕せよ」と命じた場合、機関Bは何時どこで、どのようにして逮捕するかを決定しなければならない。この決定は機関Aが予見しなかった、また予見できない様々な外的条件に依存している。
(b)
意図的不明確性
以上の論述から明らかなように、法制定であれ、純粋な法執行であれ、法はそれについて一部だけを定め、他の部分は未決定のままにしている。要件を未決定にする場合も、効果を未決定にする場合もある。またこの未決定は、その法を制定する機関が敢てそうした、意図的なものでもあり得る。まず一般規範の場合、その性質上規範の各段階ごとに具体的内容が決定されていくことが当然の前提となっている。例えば、ある都市で伝染病が勃発した場合、その都市の住民には特別な刑罰を伴う伝染防止措置への服従が命ぜられる。行政機関は病気の種類や態様に応じてこの措置を定める権限を与えられる。その特別な刑罰についても、具体的事例の違反の態様によって、罰金にするか禁錮にするか、どのくらいの額や期間にするかは裁判官の裁量に委ねられている。法律はただその罰金や禁錮の上限下限を定めるのみとしている、というようなことである。
(c)
非意図的不明確性
しかし法的行為の不明確性は、適用さるべき法規範の性質によって、意図せずして生ずる場合もある。その最も顕著な事例は、規範に用いられている言葉ないし文章の多義性である。規範の言語的意味が明確でなく、それを適用する機関は可能な複数の意味に直面する。規範の言語表現と、規範制定機関の真意とに齟齬がある場合にも同様なことが起る(真意がどういう仕方で分るか、それは色々法文以外の資料から分る場合もある)。いわゆる立法者意思や法律行為の当事者意思が、法律や法律行為の文章と合致しない場合があり得ることは、伝統的法学が熟知している。意思と表示の不一致は、全面的な場合と部分的な場合とがある。後者の例としては、立法者意思・当事者意思が複数の可能な意味の一つではある場合などがある。更に有効だと標榜する二つの規範(例えば同一の法典に含まれている二つの条文)が全面的に、あるいは部分的に齟齬している場合にも不明確性が生ずる。
(d)
枠としての法
これまで見てきたように、下位段階における意図的・非意図的不明確性の場合の何れにおいても、法適用は複数の可能性をもっている。そういう場合に下位機関は、法規の言語表現のもつ多様な意味の中のどれかを選ぶこともでき、矛盾する(何らかの仕方で認識できた)立法者意思と条文そのものの表現の何れかを採ることもでき、矛盾する内容をもつある条文、ないし他の条文を採用することもでき、相矛盾する条文同士で相互に効力を否定し合っているものとして扱うこともできる。何れの場合においても、適用さるべき法は複数の適用可能性をもった「枠」に過ぎず、その枠内にあり、何らかの可能な意味でその枠を埋める限りは合法的である。
「解釈」とは認識対象の認識であるとするならば、法解釈のんあすことは枠の認識に他ならない。即ち枠の内部で可能な諸解釈を認識するという仕方で、解釈対象たる法を記述することである。そうであるとすれば、法の解釈によって唯一の正しい結論に必然的に到達するものではなく、多様な可能性に導かれるのである。少なくとも適用さるべき法の見地からすれば、その多様な可能性は等価的であり、その内の一つが適用権限をもった機関、特に裁判所によって選ばれて、実定法となるのである。「法律による裁判」とは、法律の枠内に留まった裁判という意味に他ならず、一般規範の枠内で創造され得る複数の規範の中の一つの個別規範に他ならない。決して判決は可能な唯一のものではない。
ところが伝統的法学は、枠の認識では満足せず、それ以上の任務をはたすことが許されているかのように考えている。否、「それ以上の任務」こそその本来の任務であると自負している。そこで、法解釈において、認識された枠を正しく埋めることを可能とする方法が開発されなければならない。世に行なわれている「法解釈理論」なるものは、法を具体的事例に適用すると、「一つの」正しい結論に到達するはずで、この実定法的「正しさ」は法律自身において基礎づけられていると、人を信じさせようとしている。そこで法解釈の過程は、全くの理性的解明・理性的理解のみのもので、意思を発動させることのない知性の活動であるとして描き出される。あたかも、複数の可能性の中から、純粋の知性のみの働きによって、実定法に適った、実定法的正当性をもった選択がなされ得るかのように。
(e)
いわゆる「解釈方法」
実定法のみに眼を向ける立場からすれば、法の枠内の諸可能性の内、あるものを他のものに優先さえる判断基準は存在しない。規範において可能な言語的意味が複数存在する場合において、そのどれか一つを「正しい」と決定させる実定法的方法は存在しない。この場合、複数存在するというのは、他の諸法規範や法秩序全体との関連において複数の意味が可能となるということも、当然含意されている。伝統的法学は、随分努力を重ねてきたが、立法者意思と表示された条文の文言との矛盾について、何れを優先させるべきかについての結論に達していない。従来説かれたあらゆる「解釈方法」なるものは、可能な諸解釈の一つに到達したのみで、唯一の可能な結論には到達していない。推量された立法者意思に従って明文を無視するか、(たいていの場合怪しい)立法者意思なるものを無視して条文を固守するかは、実定法の見地からすれば、全く等価的である。同一法典内に矛盾する二つの条文が存在するならば、実定法上は、同様に何れを選ぶことも可能で、何れかを「法的に」基礎づけることは不可能である。反対解釈も類推解釈も「解釈方法」として並記されているが、それが全く無価値であることは、両者は正反対の結論に導くに拘らず、何れを優先させるかの基準は何もないことである。いわゆる「利益衡量の原則」なるものは、問題を定式化したのみで、何の問題解決にもならない。それは対立する利害を比較して決断を下す客観的基準を何ら示し得ない。いわゆる利益衡量論は、法規内在的に、ないし法典内在的に、ないし法秩序内在的にその基準を見出そうとしているが、そのようなことは全く不可能である。そもそも「解釈」が必要となったのは、法規や法体系が複数の可能性をもっているからではないか。即ち、争っている諸利害の何れを優先するかについて、法自らが決断せず、価値序列の決定を、今後なされるであろう決断(例えば裁判官の判決)に委ねているからではないか。
II 解釈は認識作用か意思作用か?
伝統的解釈理論に基礎には、これから適用すべき法規範が示していない解決を、その法規の認識によって得ることが可能だという観念がある。それは解釈が可能だという前提に反する、矛盾に充ちた自己欺瞞である。適用さるべき法の枠内に存在する複数の可能性の内、どれが「正しい」かという問題は、前提上当然に、実定法に向けられた認識の問題、法理論的問題ではなく、法政策的問題である。法律から唯一の正しい判決、正しい行政行為を導き出そうとする試みは、憲法から唯一の正しい法律を作ろうとする試みに等しい。憲法から解釈によって正しい一つの法律を導き出すことができないのと同様に、法律から解釈によって正しい一つの判決を導き出すことはできないのだ。確かに両者の間に相違があるが、それは量的相違であって、質的相違ではない。内容的見地から見て、立法者に対する拘束は裁判官に対する拘束よりずっと緩やかで、法創造の自由度は立法者の方がずっと高い。しかし裁判官も法創造者であり、相対的には法創造の自由をもっている。裁判官は法適用の過程で一般規範の枠内で個別規範を導き出すが、それは意思行為である。法律適用にあたって、まず枠を認識し、その枠内で一定の行為をとるが、その行為をも敢て認識であると称するとすれば、その認識は実定法の認識ではなく、法創造過程において合流する他の諸規範(道徳規範、正義の規範、国民の福祉とか国益とか進歩とかと称される社会的価値判断等)の認識である。実定法の見地からは、これらの諸規範の拘束力や認識可能性について何も言えず、この種の規範についてはただ、「実定法に発するものではない」という消極的性格づけをなすのみである。適用すべき法規範の枠内の法行為については、実定法との関係においては、自由の領域で、権限を有する機関の自由裁量に委ねられていると言う他ない。但し、実定法自体が道徳・正義等の非実定法規範に授権している場合はその限りでないが、その場合は非実定法規範が実定法規範に変化しているのである。
要するに、裁判所や行政官庁の法律解釈のみならず、一般的に法適用機関の法解釈について言い得ることは、法機関による法適用においては、適用さるべき規範の認識と、その認識によって諸解釈可能性の一つを選び取る意思行為が結合されているということである。こういう仕方で、下位規範が創造され、あるいは当該法規の定める強制行為が発動されるのである。
法適用機関の法解釈と他の法解釈、特に法学の法解釈の相違は、この意思行為にある。
法適用機関の解釈は公定解釈(authentische Interpretation)であり、法創造である。一般には、公定解釈とは、法律や条約の形式をとった一般的な性格をもったもの、即ち特定の具体的事例についてばかりでなく、同様の事例についての法創造を意味する。公定解釈とは、一般的規範を創造する行為と思われている。しかし法適用機関が特定事例のみに適用される法を創造したとしても、即ち個別規範を制定したり、制裁を実施したとしても、それは法創造であって公権的行為である。この場合注意すべきことは、法適用機関による法解釈、即ち公権的解釈は、当該規範の認識が示す諸可能性の一つとは限らず、枠を逸脱した規範を制定することもあり得ることである。
通常の用語によれば、公権的解釈は一般的法規範の創造であるが、法適用機関が個別法規範を創造し、それが取り消されずに既判力をもつ場合も公権的解釈である。このような公権的解釈によって、特に最終審裁判所の解釈によって新たな法が創造されることは、よく知られた事実である。
私人が法規範を遵守する行為、即ち法規範の定める制裁を避ける行為ととる場合、その規範が一義的でなければ、複数の解釈可能性の中から選択することになる。しかしこの選択は公権的解釈ではない。それは法適用機関を拘束せず、その解釈がその機関によって誤謬だと判断され、その行為が不法行為とされる危険は常にある。
II 法学の法解釈
法学の法解釈は公権的でない。それと法機関による解釈とは厳格に区別しなければならない。法学は法規範の意味を純粋に認識的に認識するものであり、法機関の解釈と異なって、法創造ではない。実定法の純粋に認識的な解釈によって新たな法が得られるという考えは、いわゆる概念法学の基礎をなすものであるが、純粋法学はそれを否定する。法学の純粋に認識的な法解釈は、いわゆる法の欠缺を埋めることはできない。それは法創造活動であり、法適用機関のみがなし得るところで、しかも実定法の解釈という方法いによっては不可能である。法学の解釈とは、ある法規範のもつ可能な諸解釈を引き出すこと以外にはない。法学は認識であって、自らが認識した諸可能性の何れかを決断によって選び取ることはできず、それは法秩序からその権限を授権された法機関に委ねる他ない。弁護士が依頼者のために、適用法条の可能な諸意味のうちのただ一つを法廷で主張したり、著作者が註釈書の中で、可能な諸解釈の中の一つを唯一の「正しい」解釈であると唱えても、それは法学的活動ではなく、法創造に影響を与えようとする法政策的活動である。もとより法学者がそれをしてはならないという訳ではないが、法学の名においてそれをなすべきではない。もっともそういうことは頻繁に行なわれているが・・・。法学的解釈は、細心の注意をもって、「法規範は常に一つの『正しい』解釈のみを許している」という擬制を避けなければならない。それは伝統的法学が、法的安定性の理念を維持するために用いてきた擬制である。しかし大部分の法規範は多義的であるから、法的安定性は近似的にしか実現され得ない。法規範の一義性というこの擬制は、ある種の政策的観点からは、大いに有益であるかも知れない。しかし、ある主観的・政治的観点からは、他の同様に論理的に可能な諸解釈より望ましい解釈を、「客観的・学問的見地から唯一の正当な解釈である」と唱えることは、いかなる政策的利点によっても正当化されない。それは政治的価値判断を学問的真理と詐称することである。
因みに、法学が、国法や条約を厳密に学問的に解釈し、批判的に分析して、政治的に望ましくない解釈の可能性や、立法者や条約当事者が全く意図しなかった解釈が文言上可能であることを示したとして、何の意味があるかという疑問はあり得るであろう。しかしそれも一義性の擬制を維持するよりずっと実際上有益なのである。そのような学問的解釈は、法制定者たちに、「法規範を一義的に定式化せよ、それが不可能でも、不可避の多義性を最低限にとどめることことによって可能な限りの法的安定性をめざせ」という法技術的要請に照らして、自分たちが不充分であることを自覚させるという貢献をするのである。